水際の戦闘
七つ沢の淵の畔で、夜が明ける。
小鳥の囀りも無く、静かに霧が漂うばかりの静かな朝だ。
星子は権六が組み立てた御簾の陰で、持参した若水で裸身を清め、口を漱ぎ、真新しい巫女装束に着替える。
交代で焚火の不寝番をしていた神人たちが、御簾に映る星子の肢体の影を、ニヤニヤと笑いながら見ていた。
「ますます、母親に似て美しうなってきたの」
股間を揉みながら、馬之助が言う。
「早く、詰所に戻って、嬲りたいものよ」
光三郎が、無精髭を剃刀で削りながら、これだけはぬらぬらと赤い唇をなめる。
星子は産褥で母は死んだと聞かされている。
だが、実際は神人どもへの報酬の一環として、道元の体液『三日殺』で狂わされた挙句、下げ与えられているのである。
獣のように座敷牢に繋がれ、引きずり出されては神人どもに嬲られる日々。
狂わされたのは、むしろ慈悲なのかも知れない。
「筏がないぞ!」
要の怒鳴り声が聞えた。
屋代に向う唯一の手段である、ご神木を削って作った筏が、中州に付けられていた。
「たいした距離じゃないし、泳げばいいんじゃないですか?」
狐堂が言う。
「いや、この淵の水は、急激に体温を奪う呪われた水ぞ。数瞬で凍え死ぬ。泳ぐなど無理じゃ」
いまいましげに地面に古弓を突いた音彦が唸る。
「よし、蜘蛛にしがみつかせて、引きよせるか。馬之助、蝶で蜘蛛を運べ……」
そう言った、鹿之進が絶句する。
屋代から、ぞろぞろ出てきたのは、小平の鉄砲足軽衆だった。
周囲一町の中州に、犇めくように百人あまり。
三列に横隊を組み、多段撃ちの構えだ。蝶など接近できない。
また、霧が濃くなる。
ひしひしと三方から小平鉄砲足軽衆が詰めてくる気配がしていた。
退路を断った上で、囲む。戦の常道だ。
霧の中に彷徨う兵士は、未だに戦場の中に居る。
「焚火を絶やすな! 星子様を木の陰へ。ええい、音彦どの、星子様を『弓鳴り』で御守りください」
呪刀『似たり神』を腰に差して、三十郎が大きく伸びをした。
パキポキと背骨が鳴る。
「大変そうだな? え? 色男」
結界内の防備を進めている要が、呑気な三十郎の言葉に、珍しく苛立ちを見せる。
不寝番をしていた。結界は張ってある。あやかしのモノが筏に接近すれば、探知出来たはずなのだ。
だが、何者かが筏を盗んでしまった。
ご神木の霊力で守られているので、そもそもあやかしは触れる事すら出来ないはず。
その心理の隙を衝かれた形だ。
「あれが、原因じゃないか?」
三十郎が指さした先に、中州の鉄砲隊の銃陣の後ろで、小躍りしている津田三蔵が見えた。
口から泡を吹いて、奇声を上げつつ踊っている。
なるほど、三蔵なら筏に触れることが出来る。
七ツ沢の怪異は、三蔵を使って筏を盗ませたということか。
音は霧で消えた。姿もまた。
「あの野郎」
風に乗せて、蜘蛛を鹿之進が放つ。
だが、眼で見えないほど小さいそれを、どうやって察知したのか、中州の銃陣第一列が、一斉に銃弾を放つ。
「痛ぅ!」
放った蜘蛛が撃ち落とされたが、左手の小指を鹿之進が抱える。蜘蛛が負傷すれば、それに相応する指も傷付く仕組みらしい。指がバクリと割れ爆ぜ、血が滴っていた。
「このままだと、結界が綻んだ瞬間に、押しつぶされるぞ」
苦々しげに音彦が言う。
飛来する銃弾は『弓鳴り』で防げる。ただし、いつまでも連続して施術する類のものではない。
「行って、中州の奴らを討って、筏で帰ってくる。俺なら、それが出来るぞ」
寝起きで機嫌が悪いのか、普段よりよりぶっきらぼうに三十郎が要に言う。
「では……」
そうしてくれと言いかけた、要を三十郎が身振りで止める。
「こんな危険なこと、タダでは出来んな」
凄い眼で要が三十郎を睨みつける。当人は、どこ吹く風だ。
「わかった。割り増しする」
要が折れる。今のままでは、打つ手がないのが事実だからだ。
「口約束じゃ、ダメだ。一筆もらおうか」
さすがにカッとなった要が語気も鋭く言う。
「信用できんと言うか!」
三十郎は大概の者なら怯んでしまいそうな要の憤怒を、へらへらと笑って受け止める。
「ん、ん、そういう事じゃねぇんだよ」
そこで、要は三十郎が何を言いたいかを理解した。『あんたが死んだら、だれが約束を証明する?』だ。
「嫌な野郎だ」
何も書いていない経木に、二十両の割り増しを約束する文章を書き、三十郎に渡す。
「まいどあり。銭さえ払ってくれれば、俺は良い奴になるぜ」
三十郎が経木を油紙で何重にも包んで、腰の煙管入れにしまう。
そして、ぶらぶらと水際に立って深呼吸をはじめた。
「行ってはだめ、死んでしまうわ」
三十郎が何をしようとしているのか悟った星子が叫ぶ。
「私が死ねば、七ツ沢の怪異は鎮まります。淵に入ったら、数瞬で心の臓が止まってしまう!」
それを聞いて、肩越しに三十郎が星子を顧みる。
「自分が危険なのに、他人の心配か。まぁ、そういうの、おじさん嫌いじゃないね」
泣きそうな顔に三十郎が微笑かける。三十郎の笑顔に怯えない、数少ない例外が星子だった。
「天竺から来た修行僧に『擁我』という技術を教わった。氷水の中に、半刻は潜っていられるんだぜ、俺は。だから、心配無用」
すううっと大きく息を吸い、馬の様に吐く。
腹部がボコンと凹み、肺からも空気を絞り出す。
そして、長い長い吸気。
「正面に頭を出す。そこのうすら禿は、銃列の左右を崩せ」
そう光三郎に言い残して、魚一匹住まない極寒の淵に三十郎が身を沈めた。
三十郎が動くと音を立てて水が凍る。
腹、胸、首と沈んでいき、トプンと水没する。
気泡が二つ、浮かんで消えた。
「馬鹿が、生きて中州に辿りつけるわけねぇだろうが」
光三郎が、毒づきながらも両手を上向け、術式を練り始めた。
何かが高速で回転するような音が、三十郎の行く先を見ている狐堂の耳に届く。
ますます霧は濃くなり、三方から押し寄せる小平鉄砲足軽衆が火蓋を切る。
迎え撃つは、『弓鳴り』。
無数の弾丸が火花を散らして軌道を変える。
抜刀した足軽が、無表情のまま、鬨の声も上げずに突っ込んでくる。
改めて、要が柏手を打つ。
陽光は足りないが、一晩かけて練り続けた焚火がある。
その庇護を、要の『大日』が増強した。
結界の端に抜刀した斬り込み隊が振れると、弾かれたように仰け反り、強力な酸でも浴びたかのように、皮膚が煙をあげて剥がれ落ちた。
斬り込み隊を巻き込みながら、また銃弾の雨が降る。
連続の施術に顔面が蒼白になった音彦が
「あまり保たんぞ! 三十郎はまだか!」
と喚く。
その時だった。
初夏というのに、薄氷が張る水面を破って、三十郎が跳び出したのは。
「ははっ! 泳ぎ切りやがった! いいぞ! 行って焼け!」
光三郎が、何かを転がす仕草をする。
すると、水面を二条の軌跡が走ったではないか。
水を跳ね上げているから、見えた。それは、炎で出来た車輪だった。
熊野十万流 軻遇突智七十五番『車輪』である。
ある程度の距離がないと回転が足りずに威力を発揮できないが、これだけあれば十分だった。
炎の車輪は、銃陣の左右を吹き飛ばしながら貫通し、ぐるっと方向転換して、もう一度踏みしだく。
悲鳴すら上がらないが、あっという間に数十人が焼け焦げて胎児の形に縮こまる。
どっと前に出たのは、三十郎だ。
ぶるっと体を一振りしただけで、濡れそぼった服は乾き、地面すれすれを滑る様に動く。
小平鉄砲足軽衆は『車輪』に気を取られて、腰が浮いてしまっていた。
これでは、射撃した際に銃口が上に流れてしまう。
事実、三十郎の遥か頭上を銃弾が流れて行った。
三十郎から裂帛の気合いが迸る。
呪刀『似たり神』が、横一文字に振られた。
まとめて、五人の首が飛ぶ。鍔音高く刀が返され、更に踏み込みながら、逆の軌道で横一文字。
もはや深甚流も何もない。
周囲に犇めくのは全て敵だ。当たるを幸いに、斬って斬って斬りまくるのみ。
鉄砲で受けようとする者がいた。
それが、鉄砲ごと胴を両断される。
思い切りぶん廻した『似たり神』に引きずられて、革を編み込んだ三十郎の草履が地面にすれて、土煙を上げる。
喰いしばった葉の間から、三十郎の鋭い吐気が噴出し、三人の足軽が田楽刺しになる。
桶胴をつけていたが、まるで紙の様に貫く。
なんとか撃とうとする者もいたが、それは同士討ちになった。
対岸から見ると、まるで刃で出来た颶風が暴れまわっているかのようだった。
三十郎が駆けると、手が腕が首が飛び、胴は断たれる。
再び光三郎が『車輪』を放った時は、中州に詰めていた小平鉄砲足軽衆の殆どは立っていない。
数少ない生き残りも、炎の車輪に踏みつぶされ、焼かれている。
返り血で赤鬼の様になった三十郎が、筏に飛び乗る。
そして竿を使って、防戦を繰り広げている焚火の方に向かう。
「撤退戦は、得意とするところ」
呟いて、狐堂が丸薬を投げる。
地面につくより前に、それらは次々と爆ぜ、黒煙を上げた。
白い霧と混じって、灰色の壁が出来る。
途端に、銃の集弾率が低下した。
霧を透かしても、ちゃんと要たちを目視していたのに、それが出来なくなったのだ。
岸についた筏に全員が飛び乗る。
「置き土産だ」
光三郎が、霧の奥に向って『車輪』を放つ。
一町ほど先で爆発が起き、銃撃はさらに散発的になった。
今度は、一行の退路を断っていた淵の水が、頼もしい堀となる。
ついに、屋代のある中州に到達したのである。