淵の畔にて
***補足***
一尺≒30センチ
一間≒180センチ
一町=110メートル
霧は晴れ渡り、馬之助によれば「潮が退くように」小平衆は下がって行ったらしい。
今回は強行偵察という感じだろう。
「早く、移動しましょう」
馬之助の報告を受けて神人頭の要がそう提案した。
しかし、星子がきっぱりと首を振る。
整った要の顔に、ピリッと苛立ちが走ったが、すぐに柔和な笑みで隠れた。
「またいつ敵が襲ってくるかわかりません。怖かったのは理解しますが、我々が御守りしますよ。ささ、移動を」
それでも、星子は首を振った。
チッと舌打ちしたのは、うらなりの瓢箪みたいな鹿之進だった。右の人差し指を密かに星子に向けようとしていた。異界の毒で星子を侵すつもりだろうか。
それを遮ったのが、権六だ。
小鼻に皺をよせ、低い声でぐるると唸っている。主を護ろうとする忠犬のように。
さりげなく間合いをとったのは、うすら禿の光三郎。
馬之助が、蝶に変化する紙片を握り込む。
茶畑三十郎は、困惑したように頭を搔いていたが、権六の隣に並んだ。
そして、右手をだらりと下げたまま、左手で呪刀『似たり神』の鯉口を切る。
秀麗な要の顔が緊張に強張る。そして、眼の奥には憤怒の炎が揺らめいた。
要の後方についたのは、音彦。古弓を掲げ『弓鳴り』の構えをとる。
『似たり神』と『弓鳴り』……激突すれば、勝るのはいずれか?
緊迫した空気を破ったのは、星子だった。
「七ツ沢の死者を弔うのは、七ツ沢神社のお役目。ナナツオクリの途中でも、それは変わりません」
凛としてそう言い放つと、手にした樒を一振りし、神楽を舞い始める。
ゆるり、ゆらりと、星子が舞う。笙の音もない。五十鈴も鳴らない。さらさらと樒の葉が擦れるばかり。
それでもなお、胸に響くは、真摯にして慈愛の表情を浮かべる星子ゆえか。
「おお……鎮魂ノ舞……」
殺気立っていた音彦が、古弓脇に抱えて下げる。
トンと、地面を星子が踏みしめる。
その音に、地面から光る珠が浮かび上がった。あたかも蛍の様に。
赤い珠はゆらめきながら、星子にまとわりつく。
「く……」
目の前の怪異に身じろぎした、『幻蝶』使いの馬之助と『八ツ手』使いの鹿之進が、ぎくりと固まった。
視線の先には、斜め下を向いて途方に暮れた様子の三十郎の姿。
呆けたように見えるのは、偽装。糸の様に細い殺気が三十郎から流れているのに気が付いたのだ。
これぞ、深甚流の奥義『虚』と、彼らは知っていた。
彼我の距離はおよそ四間である。
だが、三十郎は深甚流の他に、軽身功も遣う。一瞬で五間を跳ぶのを目撃したばかり。
術を放つ前に、首が飛ぶ。
「動くな。巫女さんの好きにやらせろ」
寝言みたいな声でボソリと三十郎が呟く。
これで、要も馬之助も鹿之進もだまって怪異を見るしかなくなった。
あやかしを討滅する特別な訓練を受けた神人としては、屈辱だろうが『似たり神』みたいな半妖半神に斬られるのは、御免こうむりたいところだろう。
「あんたも、余計な動き、しないでくださいよ」
狐堂がすっと背後を取ったのは、うすら禿の光三郎だ。
音もなく、気配もなく、手練れの神人の死角を衝くなど、この男もまた凄腕。その気になれば、光三郎を殺せた。
「この裏切り者め。貴様らは、我らの補助であろう」
「いやいや、あたしはいつでも、強い者の味方です」
魔人どもが二派に分かれて睨みあいをしている間にも、蛍火を思わせる赤い珠は、青白く変化して『鎮魂ノ舞』を舞う美しい少女の周囲をたゆたう。
トン……とまた地面を踏みしめると、青白い珠たちが天へと昇り始めた。
両手を広げ、空を仰ぎ、星子がこれらを送り出しているかのよう。
男たちも、もはや毒気を抜かれて、その神秘的な光景を見るばかり。
「なんと、七ツ沢に囚われていた魂が、成仏するとは……」
うっすらと涙さえ浮かべて、音彦が呟く。
ふうと息をついて、三十郎がカチリと鯉口を戻した。
遅延したが、再び一行は七ツ沢に向って、細道を往く。
星子の足に合わせると、本日の目的地である七ツ沢の淵の畔には、日暮れになろう。
「おかしくないですか?」
最後尾を歩きながら、狐堂が三十郎に言う。
「何がだ?」
面倒くさそうに、三十郎が答える。失敬な態度だが、狐堂は気にしていない様だ。
「いやね、こうした生贄……いや、まぁ儀式は、『行きはよいよい』が基本じゃないんですかね」
たしかにそうだ。『黒羽の矢』は生贄を求める儀式。ナナツオクリを、七ツ沢を護る小平衆が妨害する……といのは、おかしい。
「そもそも、戸隠の旦那や、俺やお前などを雇う事も異例だからな。それに、九十九通の依頼状で、三人しか七ツ沢村にたどり着けなかったのも何やら儀式めいておるし、魔戦はすでに始まっていたとも言える」
背負った薬箱をゆすり上げて、狐堂がため息をついた。
「聞いた事があります。熊野十万流呪法『九十九招き』とやら。危険な場所に九十九人を呼び寄せ、運よく生き残った者は、特別な存在となるとか」
蠱毒の呪法と似ている。疑似的に壺を作り出すということか。
腰の『似たり神』に左肘を預け、溶岩の後や木の根でごつごつした足場を滑る様に歩く三十郎が、ふふふと笑う。この男は、笑い顔が一番怖い。思わず、狐堂がたじろぐほど。
「良く知っておるな、とぼけた顔して、狐めが。『九十九招き』にはまだ補足があるぞ、『より執念が強い者が生き残る』……だ。貴様の執念は何かな?」
瀬音が高くなり、目的地の淵に着いた。
薪を積み上げ、そこで要が祝詞を捧げ、柏手を打つ。
すると、薪がぼっと燃え上がり、迫り来る夕闇を退ける。
熊野十万流 軻遇突智九十九番『大日』。陽光を呪力に変換し、あらゆる『魔』を浄化する空間を作り上げる軻遇突智の奥義だ。
焚火を中心に、東西南北に四角を描きつつ、音彦が歩く。
歩きながら、不可視の弦を張った弓を鳴らしていた。
『大日』によって浄化された空間の外に、戸隠流の結界を張っているらしい。
枯れ枝を集めて、その上に獣皮の敷物を敷いた寝床を権六が造り、星子は食事もとらずにそこで眠っている。慣れない山歩き、それに戦闘と、鎮魂の舞。疲れ切っていたのだろう。無防備な寝顔は、まるで童女のようで、あどけなさが目立った。
権六が白檀で作った扇を広げ、蚊遣りを兼ねてそよそよと風を送っている。
淵の畔に立って、その中央にある小島と、その小島にポツンと立つ屋代を、三十郎は睨んでいた。
四つの沢が小さい滝となって、外周六町ほどの淵に注いでいる。
淵というより、まるで大きな池の様である。粗末な桟橋が作ってあり、そこに、筏が浮かんでいた。
ご神木が野分で倒れた際につくった筏だそうだが、十数年経ても腐りもせず、未だ使われているらしい。
三十郎の顔に浮かぶのは、普段の飄々とした表情ではなかった。
憎悪の表情。憤怒の表情。ああ……呪刀『似たり神』が微かに鳴動したのは、空耳か。
「今度こそ……」
一言呟いて、三十郎は淵に背を向けた。
そんな三十郎を横目で見ながら、薬箱から道具を取り出して、狐堂が作業していた。
使い込んだ薬研と、小さな天秤計だ。
ゴリゴリと薬研車を動かす。
陳皮、丁子、白檀などの香りがした。小さな薬缶には、湯煎した松脂。これで砕いた薬種を固めて丸薬にするのだろう。
「憑かれ者の気配がありませんね」
作業を続けながら、独り言のように狐堂が言う。
「色々と、探るなぁ。めんどくさいよ、君」
持参の握り飯を頬張りながら、三十郎が答える。
「こっちは、命を預けるんですから、なるべく知りたいんですよ」
「勝手に預けられても、迷惑だぜ」
狐堂が大ぶりの碗で一口飲んで見せ、三十郎に差し出す。毒じゃないことを示したらしい。
「どうぞ」
全く躊躇せず、三十郎が握り飯を嚥下しながら、それをぞぶりと飲んだ。
そして一言。
「まずい」
狐じみた細眼を更に細め、くっくと笑った。
「五黄、大蒜、高麗人参、反鼻、碇草などを煎じ、蜂蜜を混ぜたものです。肉体疲労時の栄養補給にいいんですよ。お代は二十文ってところですね」
「銭など払わんぞ」
「頂く気はありませんよ、今回は」
突き返そうとしていた碗を、三十郎がその言葉を聞いてひっこめ、一気に飲み干す。そして、もう一度
「まずい」
と言ってげっぷを一つ。
「憑く刀は、呪われているわけだ。そこに、持ち手の意思は存在しない。だが、これを祀事にしたらどうだ? 呪刀を神に見立て、敵の血を捧げるのよ。ま、そういうこった」
無料で提供された強壮剤のお礼のつもりか、『似たり神』の秘密の一端を三十郎が開示した。
無言のまま、ぺこりと狐堂が頭を下げる。
三十郎が、刀を抱くようにして、ごろりと地面に寝そべる。
たちまち高いびきをかきはじめた。
狐堂は、煮え立った松脂に薬研で砕いた材料を混ぜ、それを手に取って丸めはじめた。
不思議な事に、熱そうなそぶりもせず、火傷もしない。
ふうふうと丸薬を吹いて、窪みの付いた板に並べてゆく。
道具を清拭し、薬箱の所定の位置に収納する。
そして、霧の中に見え隠れする屋代を見る。
淵の中州にポツンと建つ庄屋風の屋代『迷い家』。
「ついに、来ましたよ……」
人を騙すのに成功した狐が浮かべるような、いやらしい笑みが、狐堂の顔をさっと刷いて消えた。
二重の結界に守られた野営地。
焚火だけが赤く、後は圧倒されるほどの静かな闇。
静寂は、虫の音がしないから。
薄くたなびく霧に、瀬音や滝音さえ、吸い込まれて消えてゆく。
神人たちが呪言を唱えながら、焚火に祓語が書かれた経木を時折くべている。
普通は杉で作られる薄い木片だが、これは白檀で作られているらしい。
白檀の香気は魔を払うとか。
その行は、夜明けまで続いた。