霧の中
鬱蒼たる原生林の中にある、獣道よりなお細い道をゆく。
やがてその道は、七ツ沢に注ぐ小川の一つと合流し、さらさらという瀬音と共に歩むようになる。
山道に慣れていない星子に歩調を合わせているので、進行は早くない。
すこし開けたところで、小休止となった。これで二回目だ。
出立して半刻ばかり。太陽はすっかり水平線から姿を現していた。
「霧が出てきましたね」
ポツリと村越要が呟く。
この七ツ沢の名物が、この霧だ。この深い霧に飲み込まれるようにして、毎年何人もの山菜採りが神隠しに遭う。
「来る、霧に紛れて、あいつらが来る!」
切迫した声でわめくのは、津田三蔵だ。追い詰められた獣のように、ぶるぶると震え、楢の巨木にすがりついている。
「うるさい、黙らせろ」
紙で出来た蝶を飛ばしてた町田馬之助が忌々しげに言う。彼は、一定時間毎に蝶を飛ばしていた。
「壊れちまうぞ」
三蔵の縄尻を持っている草加鹿ノ進が、同情の欠片も無い声で応じる。
「所詮コイツは坑道の小鳥よ。今回で使い捨て。構う事はない」
けっけと笑いながら大森光三郎が腰の瓢から水を煽る。
坑道堀りの大敵は、水と毒気。地下を掘り進んでいると、無臭の毒気に当てられてることがあり、場合によっては死ぬ。それを探知するために、小鳥を連れてゆくのだ。
つまり、小鳥が死ねば毒気ありとして、坑道堀りはそこから逃げる。
星子が、黄色い野苺を見つけ、摘む。
口に運ぼうとしたところを、村越要がその手から、素早く叩き落とした。
「何をするのです?」
星子が、抗議のまなざしで、切れ長の眼でキッと要を睨む。
「失礼しました、星子様。霧が出てきたということは、もはやここは異界。異界の食べ物を口にすると、元の世界に還れなくなるのは、神代よりの掟。持参した、水と糧食以外は、口にしませんように」
恐れる様子もなく、要が星子の視線を受け止める。
先にふいっと視線を逸らせたのは、星子であった。
彼女は要が苦手だった。まるで、歌舞伎役者のような美男なのだが、なんだか怖いのだ。
まるで、裸にされて見られているような不安感がある。
毎日、ふとした時に要の視線を感じる事がある。足先からねっとりと舐めまわすような視線。
さぁっと星子の腕に鳥肌が立った。
いきなり、要が星子の傍らの鼎権六をぶん殴る。
音もなく頭上から木の実が落ちてきても、無意識に躱す権六が、避けることが出来ない程の素早い一撃だった。
「星子様も御守りは、うぬの役目であろう。たわけ!」
権六は無言で頭を下げた。
自分の軽はずみな行動で、権六が叱られてしまった事で、星子はうなだれてしまった。
「ごめんね、権六」
懐紙で、権六の鼻血を拭おうとする。殴られても微動だにしなかった権六が、ビクッと身を震わせた。
「あ、あ、星子様、いけません、手が穢れます」
権六があわてて手甲で鼻血を拭う。もう、出血もとまっているらしかった。
そのままごとみたいな様子を、小さく「けっ」と吐き出しながら見ていた三十郎が、むくりと立ち上がった。
示し合わせたかのように、狐堂が薬箱を背負い、箱を体に密着させる腰帯をぎゅっと締める。
神人も、権六も、音彦も、同じ方向を向く。
小さな悲鳴を上げて、木の根元に蹲ったのは、三蔵だ。
「かんべんしてくれ、かんべんしてくれ、かんべんしてくれ、……」
と、念仏のように唱えながら。
「馬之助!」
要が、上目づかいに霧の先を睨みつつ言う。霧は濃さを増し、粘性さえ感じさせてのたりと揺蕩う。
「こう霧が濃くては……な」
新たに蝶を飛ばしながら、馬之助が苦々しげに答えた。
「陽が届かんので『大日』の効果も薄い。鹿之助『八ツ手』の『聴き糸』を放て」
うらなりの瓢箪みたいに不健康に痩せた男、草加鹿之進は、熊野十万流 軻遇突智 四十七番『八ツ手』の使い手だった。
八ツ手とは、八本の脚をもつ蜘蛛の別称である。
鹿之進は各指に一匹づつの蜘蛛を飼っていて、それを自在に操ることが出来た。
ただの蜘蛛ではない。異界より滲み出て、捕獲された蜘蛛の形をした小さな『鬼』であった。
人の心をとろかす猛毒の牙を持ち、糸は人一人ぶら下がれるほど強靭。
そして、空気の振動をとられ、微かな音さえ鹿之進に届ける。
「聴き糸を張れば、三蔵の拘束が外れるぞ」
「樹にふん縛っておけ」
鹿之進が、三蔵の傍らから離れて、要の横に並ぶ。
そうして、微風に両手をかざす。
目に見えない蜘蛛が、風に舞い、木を伝い、霧に濡れる葉に糸をかける。
「ああ、ちくしょう、多いぞ。本当に千人いるかもしれん」
三蔵が告げた怪異に『彷徨える千人同心』がある。
士分という半農半士の集団が、幕府の天領には存在する。いざとなれば、幕府の為に戦うのが旗本の役割だが、それらを正規軍とすると、天領の士分は予備役の軍ということになる。
七ツ沢討伐に使われたのが、小平千人同心という中仙道の治安を守る士分だった。
主に鉄砲足軽で訓練された部隊で、士分ながら練度も十分で精鋭といえる。
だが、霧に呑み込まれるようにして、全員が忽然と消えてしまったのだ。
今でも彼らは霧の中で彷徨い続けている……と、三蔵は語っていた。
「相性が悪い様だな、神人ども。どれ、給金分は働くか」
腰の朱鞘の刀を寛がせ、ずいっと前に出たのは、茶畑三十郎だった。
「どこの馬の骨とも分からん奴に!」
地面に古弓を突いて、戸隠音彦が毒づく。
ふふんと三十郎が笑った。
「今『耳』しかない状態で、『音』を使うわけにもいくまいよ」
音彦の顔色が変わる。なぜこの男は、自分の術を知っているのか?
「まぁ、馬の骨に任せておけ。ただし、俺に近づいてはならん」
三十郎が霧の先に、歩を進める。
根が張り出した不安定な足場。そして、足元さえ霞む霧の中で、三十郎が滑る様に前に出る。
この時、三十郎の顔を見ることが出来る者がいたら、達磨顔から、一切の表情が抜け落ちていることに気が付いただろう。
鯉口が切られ、三十郎が刀を抜く。
すると見よ、怯えた様に霧が歪んだではないか。
「呪刀『似たり神』か……」
思わず半歩後ずさったのにも気づかぬまま、音彦が呻く。
神は祀る者がいて、神たりえる。
では、忘れられた神はどうなるのか?
まつろわぬモノとして、あやかしと化す。ゆえに『似たり神』と。
「火縄の臭い! 者ども伏せよ!」
要が叫ぶ。
権六が星子に覆いかぶさるようにして伏せる。
三十郎だけが、奇妙に揺れながら、霧の中に立っていた。まるで酩酊したかのように。
火薬が弾ける音が響く。
ゆらり、ゆらりと、三十郎が右に左にと揺れる。
どうやったのか、霧を貫いて飛来する弾丸を三十郎が躱した。
その一瞬、三十郎が霧の中に駆け込む。
構えもせず、だらりと下げただけの『似たり神』の紫電が二度閃く。
ゆっくりと、黒い影二体倒れた。
不思議な事に、三十郎の周囲だけ、うっすらと霧が晴れたようになり、具足姿の足軽が地面に横たわっているのが見えた。物見の兵らしい。
「おお……深甚流『虚』か」
背負い子に改造された薬箱をゆすり上げながら、狐堂が呟く。
一種の自己催眠状態を作り出し、意志を経由させずに、殺気にのみ反応し、自動迎撃する。
それが、創設者の草深甚四郎という一種の天才以降、後継者すら出なかった幻の剣流『深甚流』だ。
「面白いな、三十郎さん。神すら斬る『似たり神』と、不可視のあやかしも斬る『深甚流』ね。どれ、助勢つかまつらん」
狐じみた細い眼をさらに細くして、狐堂が笑う。掲げた両手の全ての指の股には、何かを丸めた梅の実ほどの丸薬が挟まれていた。
ぐにゃりと狐堂の姿が歪む。
否、眼で追えないほどの速度で、跳んだのだ。
鬱蒼と並ぶ巨木の幹を蹴り、駆け上がるように上空へ。
空間から投擲されたのは、丸薬。
それが、いかなる化学反応を起こしたのか、パチパチと火花を散らして四方八方に散らばる。
霧が、爆ぜる丸薬に押されるようにして、晴れてゆく。
「見えたぜ!」
追加で蝶を放ちつつ、下がり眉をさらに下げて笑いながら、町田馬之助が叫んだ。
「行って、焼け!」
何かを転がす仕草をしたのは、うすら禿の大森光三郎だ。
その先には、二列に銃陣を折敷いた鉄砲足軽の姿が見えた。
パパパンと発射音と火花。
同時に皆を庇うように前に出たのは音彦だった。
弦を張ってない弓を、引き絞る仕草をする。
すると、キリキリという弦を引く音に続き、古弓が大きく撓ったではないか。
「戸隠流『弓鳴り』! オン・アビラウンケン・ソワカ!」
矢を放つ仕草に、ビィィィンと不可視の弦が鳴る。
火中の栗が弾けるような音とともに、飛来してきたであろう銃弾が火花を散らしてあらぬ方向に軌道を変えた。まるで、音の広がりが物理的な障壁でもあるかのように。
水の上を滑るアメンボを思わせる動きで、滑るようにして三十郎が、銃陣を敷いた方向に走る。
「呪刀『似たり神』、妖剣『深甚流』、それに『軽身功』とはね。あやかしと単身戦い抜くための技術じゃあないか」
けっけと笑ったのは、木の幹に短刀を突き立て、片手で頭上遥か上にぶら下がった狐堂だ。
「戸隠の旦那も、音に『氣』を乗せるか。なかなかじゃないか、これは、面白くなってきた」
無表情のまま、銃陣の後列が前に出る。発射を終えた前列は片膝をついて、㮶(かるか)とボロ布で銃腔内部を清拭し、早合を食い破って火薬と弾を再び㮶を使って銃口から押し込んでいる。
銃を構える足軽十名ばかりと、三十郎の距離、およそ五間ばかり。
立射の姿勢のまま、三十郎に向って一斉射撃が加えられた。
三十郎が跳ぶ。五間の間合いを一瞬で。十人二列を飛越していた。
着地と同時に、縦横に『似たり神』が疾る。
弾込めを行っていた後列の鉄砲足軽の首が、椿の花のようにほろりほろりと落ちた。
不気味なのは、斬られる鉄砲足軽が表情一つ変えていない事。
三十郎が、伏し目がちに地面をながめていて、そっぽを向いていること。
片手斬りの右手だけが、勝手に動いているかのよう。
この二十人の鉄砲足軽の物頭らしき一人が、鉄砲を投げ捨て、脇差を抜く。
ぴたりと構えたのは、何かの剣術の動きだ。おそらく鹿島神道流。
相手に視線すら向けずに、三十郎が無造作に間境を踏み越える。
物頭が脇差を平らに寝かせて、胴突きを放ってきた。
ゆらりと、漂うような奇妙な動きで、三十郎がその切先を躱す。
躱した時にはだらりと提げた『似たり神』が跳ね上がり、物頭の両腕を斬り飛ばしていた。
そして跳ぶ。今度は後方に。
霧の中を彷徨っていた町田馬之助の蝶がひと塊になって戻ってきていて、生き残りの鉄砲足軽にたかったのだ。そして、発火する。三十郎はそれを避けたのだ。
熊野十万流 軻遇突智二十三番『幻蝶』。町田馬之助の術だった。
遠くで、小さな爆発が起こっていた。
神社の一の鳥居と同じ。見えない何かが、遠くの後詰を襲撃したのだろう。熊野十万流 軻遇突智七十五番『車輪』。大森光三郎の術だ。
いつの間にか霧は晴れ、納刀しながら三十郎が帰って来た。
木からするすると、狐堂も降りてきている。
「貴様の丸薬、臭くてたまらん」
パタパタとぶっさき羽織を、三十郎がわざとらしく叩く。
「お香もありますよ。焚き籠め一回十三文です」
「有料かよ。しっかりしてやがる」
魔戦の直後なのに、息一つ乱さず、汗一粒もかかず、三十郎がかっかと笑った。
「くそ! 三蔵の野郎、どこ行った!?」
草加鹿ノ進が、三蔵が蹲っていた木を蹴って毒づく。
怯えて震えていたはずの三蔵の姿が消えていた。