鈴木星子
ほんのりBL要素あり。
苦手な方はご注意ください。
『黒羽の矢』が突き立ち娘を差し出すことが決まると、選ばれた娘は鈴木道元の七ツ沢神社に、七日間隔離される。
その間、俗世と縁を切り、木の実や白米や果物など決められたものだけを食べ、水垢離などを行い、身を清めるのだ。
鈴木星子も、食事をこうしたものに切り替えていた。
鼎権六だけを従え、神域の中を歩く。
『黒羽の矢』に選ばれたからは、七日間は神域の外に出る事は出来ない。
「森に行けなくて、淋しいね」
ポツリと星子が呟く。
彼女の言う『森』とは、無縁仏が埋葬される墓地のことで、夜になると星子はそこを訪れるのだ。
骸野と呼ばれるまばらに楢が生えるその空地は、適当に掘られた穴に無造作に死体が放り込まれ、申し訳程度に土が被されるだけ。
夜になると、死体から出た燐が発光するのか、人魂が揺らめく。忌地の住民である七ツ沢村の者ですら、忌避して『骸野』という地名を口にせず、ただ単に『森』と呼称する。
不思議な事に、星子がこの森に入ると、まるで縋るかのように人魂が漂い集まり、餌に惹かれた猫の様に、彼女についてまわる。
「さみしいね、つらいね、いいよ、おいで、おいで」
その時、星子の顔に浮かぶのは、慈母の微笑。
人魂は、慕う様に、甘える様に、星子を取り巻き、乱舞し、やがてふわりと天に消えてゆく。
そして、祈る。
「善き人に、生まれ変われますように」
それが、星子の日課だったのだ。
護衛に鼎権六が同行するのが常だが、そもそも『森』には誰もいない。死者以外は。
ふわふわ漂う人魂が星子に促され、意を決したように天に昇る様は、感動的な光景だった。
月光に白く浮かぶ星子が両手を広げ、まるで光の柱の中心にいるように見える時、権六は自分の頬が濡れているのに気づく。いつの間にか、泣いていた。理由はわからない。いつもそうなのだ。
――あの時、俺は、星子様に救われた。
その想いがある。
この七ツ沢に逃げ込むまで、罪を重ねてきた。
殺し喰らおうとした幼い星子様が、「あなたを許します」と言ってくれた時、自分は生まれ変わったのだと、権六は思っていた。
――道元は、俺を利用しようとしている。
権六にはなんとなく意図は読める。彼は、星子を使って何かをしようとしているのだ。
――それでもいい……
物憂げに神域を歩く美しい巫女の後を、忠犬よろしく歩きながら、権六は考えていた。
――考えるのは苦手だ。だから、思考は単純がいい。俺は、星子様を護る。それだけだ。
ぞわりと、権六の右手が総毛立つ。
ああ……今、権六の右腕が剛毛に覆われなかったか?
その右腕が、ふっと消失する。
いや、消えたのではない。眼で追えないほどの速度で動いたのだ。
「?」
微かな物音で、星子が権六を肩越しに振り返ったが、日傘を差しかけながら、いつものように権六がついて来ているだけだ。
散歩を再開した星子に追いて、権六が動く。
ポトリと地面に落ちたのは、権六の右手からこぼれた小さな玉。
権六が一瞬で空中から掴み取った鼠に似た妖物を、握力だけで極限まで圧縮した物だと、誰が知れよう。
「だいぶ『穢』が浸食してきているな」
社務所代わりの屋敷の一室。そこに茶室が作られていて、さっぱりした白装束に着替えた、高い鷲鼻の異相の男が庭に眼を転じて呟く。戸隠流修験道の戸隠音彦だった。
主の席で、茶筅を使って抹茶を立てているのは、鈴木道元である。
「どうぞ」
置かれた天目茶碗を無造作に掴んで、音彦がぞぶりと茶を喫する。
作法も何もなく、それを気にする素振りもない。
「にがい」
と一言。そして、道元の鼻先に茶碗を突き返す。
「が、うまい。もう一杯」
苦笑して道元が茶碗を受け取り、懐紙で茶碗を清め、また茶をたてはじめた。
窯が微かに鳴る音だけが聞える。
「アレは、厄介だぞ」
音彦がぽつんと呟く。
「星子を使う。予定より計画が早まったが、仕方あるまい」
もう一度、抹茶を立てた茶碗を置いて、道元が答えた。
「実験はしたのか?」
「いや……だが、星子は『森』で霊に触れている。素質はあるぞ」
フンと鼻を鳴らして、道元がまたもや作法を無視して茶碗を煽った。
「なら、今回が最後の機だ。ワシは引退する」
「隠居の歳でもなろうに」
げっぷを一つして、音彦がごろりと横になる。
開け放たれた窓から、手入れの行き届いた庭が見え、その先に遠く、緋袴姿の星子と権六の巨体が見えた。
「溜まるんだよ、決して溶けない氷みたいな疲れが……な。そして、年々、力の衰えを感じる」
膝を崩し、胡坐をかいて道元がため息をついた。
客が寝そべっては、茶室もくそもない。
道元が星子の素質に気が付いたのは、彼女がまだ頑是ない赤子の頃。
ようやく目が見えるようになると、虚空を視線で追うことがあり、何を見たのか上機嫌に笑う事が多かったのだ。
以来、注意深く観察を続けてきた。
――間違いない。星子はあやかしが見えるのだ……
そして、それを浄化し天に帰す素質があった。怨念渦巻く『森』で、何の訓練も受けていない星子が、調伏するしないほどの悪霊を、あっさりと昇天させるのを、道元は目撃していた。
その時から、七ツ沢の怪異の源を我が物にする計画を練ってきた。
結界の綻びから侵入した妖物が道元の夢から盗んだのか、それとも天耳通の術か分からないが、七ツ沢を護るモノは、星子がその『要』であることを知ってしまった。
「まだ、洗脳が足りぬ」
忌々しげに、道元が呟く。そして、舌を筒状に丸め、ふっと鋭く息を吐く。
含み針がトンと壁に突き立ち、その針に縫い止められて、苦しげに白い蝶が羽を壁に打ち付けていた。
「敵は総懸かりかよ」
ふふふと笑って、音彦が仰向けになって、うんと背を伸ばす。ぽきぽきと骨が鳴る音が道元にも聞こえた。
「綻びが小さくて小物しか入れんが、神域の外は虐殺が行われた古戦場より酷かろう。おかげで招聘した退魔師の半分も集まらん」
苦しみのたうっていた蝶がどろりと溶けて黒い染みになった。それも、微風にさらわれてゆく。
「この囲みを突破出来ない様じゃ、この先役に立たんがな。そういえば、ワシにひっついて囲みを越えた、小賢しい者がおったな。風間とか言ったか」
ついに道元もごろりと横になる。
「風間と名乗っているが、実は風魔の裔よ。燐を使うはぐれ忍だ」
「風魔の火術、軻遇突智使い、なるほど、相手は木魂か」
「色んな属性の術師を送り込んだ。一番長生きしたのは『火』だった」
星子が赤子の頃から、作戦に十五年をかけた。あと一年、いや、半年あれば、星子を手籠めにして、言いなりになる女にすることが出来たのだが、そこまで手が回らなかった。ぴたりと寄り添って彼女を護衛する権六が邪魔だったので、後回しにしてしまった。星子を刺客に仕立てる事が出来ないのは、痛い。
「引き延ばせばいいではないか」
大の字で横たわったまま、眠そうな声で音彦が言う。
「いや、『黒羽の矢』は神代に遡る古い古い呪だ。逆らえば祟るぞ」
そう言いながら、道元が畳の上を這いずって、音彦の腕を枕にする。
「奥方をとったのではないのか? ん?」
音彦がすり寄ってきた道元を抱き寄せる。
「拗ねるな。どうしても霊能者の血が欲しかったのだ。子を産んだら、もう用済み。護衛の神人に下げ渡した」
道元の舌が、音彦の首筋をそろりと舐め上げる。低く音彦が唸った。
「無残な……星子はこの事を?」
「知らん。乳母に育てられたからな。それに、アレの母親には、カケラも理性は残っておらぬ。私が休まず十日間責めつづけたのだ。この道元の陽の気が、女性の陰の気と触れると、女がどうなるか知っておろう」
奇妙な体質だった。道元の放つ子種には、強力な媚薬みたいな効果があるのだった。
星子の母は流れ巫女をしていて、貧しい民の民間治療を行っていた女性だった。
旅塵に汚れていても、化粧をしていなくても、笑うと底抜けに明るい、美しい人だった。それが……道元に見初められたばかりに……
「どんな貞淑な女も『陰』の気転じて『淫』に変わる。武家娘だろうが、公家だろうが、百姓だろうが、淫売だろうが、霊能者だろうが全部同じよ、普通は三日で狂う」
昏い眼をして道元が笑う。音彦は昔、その壊れた昏さに惹かれた。だが、今は、気味が悪いだけだ。
薪割場所に、茶畑三十郎の姿があった。
手には鉈。錆がひどかったので、きれいに研ぎをいれていた。
薪を立て、無造作にその鉈を振り下ろす。
豆腐でも切るかのように、音も立てずに縦に両断されてる。
「おやじ、終わったぞ」
ここは社務所の御厨。勤務する神人たちの食事や、特別な器具で調理される、神へのお供え物を拵える場所だ。
配膳の女中が二人。初老にさしかかった男が一人。それできりもりしている。名前を平次という。
「あれだけあった薪、もう割ったのかい?」
江戸の料亭で修業し、小笠原流の『包丁式』まで学んだという男が、御厨から顔をのぞかせ、素っ頓狂な声を上げる。
大量の薪は全部割るのにたっぷり一刻はかかるはずだった。それを、この達磨みたいな顔の大男は、四半刻もかからずこなしてしまっていた。
「見ての通りだ」
めくっていた袖をおろし、鉈を薪割り台の切株にトンと突き立てる。
この重労働でも、汗一つかいていない。
「たすかったぜ。報酬といっちゃ、なんだが、『麦焦がし』と、『おやき』でも、食ってくれ」
古麦を炒って、それを煎じた褐色の汁と、そば粉を練った生地に、菜を胡麻油でいためたものを包み、焼き色を付けたのち蒸かしたものが、三十郎の前に出された。
「遠慮なく頂こう」
竹の節を削った湯呑に注がれた、『麦焦がし』を飲む。
香ばしい苦みに、とろりとした甘みがあり、喉を通り過ぎるとさっぱりと流れ去る飲み物だった。
「これは旨い」
達磨顔を綻ばせて三十郎が笑う。
「だろ? こいつは、黒糖と生姜のしぼり汁が入っているんだ」
平次が自慢げに胸を反らせる。
三十郎が『おやき』を手に取り、くんくんと匂いを嗅いで、やっと口にする。
なんだか、用心深い野良犬みたいな仕草だった。そして、
「おお、これは!」
……と、言ったきり、あっという間に『おやき』を食いつくし、汁が垂れた指までしゃぶっていた。
「気に入ったかい?」
ふふふと笑いながら、平次が自分用に注いだ『麦焦がし』をすする。
「小松菜と刻んだ剥き海老。あとはギョウジャニンニクとミョウガを刻んだもの。香辛料はわからん」
瞑目し、味を吟味しながら三十郎が言う。すると、いったん御厨に引っ込んだ平次が壺を持ってきた。
その蓋をあけると、独特の甘い香り。砂糖を焦がしたような……
「長崎で仕入れた、唐国の酒よ。卵白とカタクリでまとめた餡にかけまわすと、ぐっと良くなる」
「初めての味わいだ。長生きはするものだな」
薪の山に立てかけてある、みすぼらしい朱鞘の刀に、そろりと三十郎の手が伸びる。
調理法を説明している平次はそれに気が付かない。にこやかに笑っていた、三十郎の顔から表情が抜け落ちた事も。
三十郎の右手が霞む。
風を切る鋭い音。
平次が気付いたのは、納刀を終えた三十郎の手の動きだけだった。
「虫が嫌いでな、思わず斬っちまった」
そう言って、達磨顔を綻ばせる。訳がわからず、平次もつられて笑った。
両断されたフナムシに似たなにかが、平次の足元でもがき、地面に溶けたのにも、彼は気づかない。
「なんだか、寒くないか、ここ?」
壺を抱えたまま、平次がを身を竦める。
「風邪かもしれんぞ。自愛せよ」
かっかと笑って、三十郎は左手に朱鞘の刀を下げ、肩をひと揺すりして、宿舎に帰って行った。