【八】
【八】
二月中旬、最も寒さが厳しい時期に祐介と香織は再び上京し、麗奈の四十九日の法要に参列した。
読経が終わり、親族が真新しいお墓に水を掛けている。
二人で並んで麗奈に思いを馳せながら手を合わせる。
「名倉君、研究は進んでいるのかね?」
不意に父親の隆二に声を掛けられた。
「今年の年末には色々と忙しくなりそうです。」
「そうか...麗奈が言っていたことが気になってね。何でも名倉君が私みたいな人間をこれから沢山
助けてくれるんだって。それが彼の夢なんだってね。」
「そうですね。今僕が開発しているものは、確かにそういう類のものです。
機密事項なので何も話せないのですが...」
「いや、構わないよ。私も会社ではそれなりに企業機密に触れる機会がある立場だ。」
「ああ、四十九日もあっと言う間に終わってしまったな。喪が明けると言われても全然
実感も湧かない し、この喪失感は消え失せそうにないな。けど、名倉君はそうじゃない。
まだ若いんだから、一歩ずつ明日に向かって欲しい。」
「ありがとうございます。麗奈さんと過ごした時間は短かったですが、僕にとってはココロとカラダ、
命を救ってくれた恩人ですから僕も中々喪失感は消えそうにありません。」
「まあ、焦らずゆっくりと考えればいい。人間は辛く、悲しい記憶を必ず忘れていくように出来ている。 いつか必ず君の心の傷も癒える。その時まで、隣に居てくれるあの女性を手放さないようにね。
あの子なんだろう?麗奈が日記に書いていた草津香織さん、元彼女というのは?」
「ええ。麗奈さんとお付き合いする直前に別れたのですが...今は親友みたいなものですね。」
「大事にしてやりなさい。人生、いつどうなるのかなんて誰にも分らない。大事な人が、
明日には居なくなってしまうかも知れないんだからね。」
隆二と母に挨拶をして、祐介と香織は再び仙台に戻った。
麗奈が他界してからというもの、祐介は香織との距離を測りかねるようになった。
年末までは『諦めない』とか『充電』とか言いながら会話とスキンシップを求めてきたのに、
年明けに仙台に戻ってきてから会話が少なくなり、スキンシップを求める事も無くなった。
ライバルだったはずの麗奈が居なくなったはずなのに、明らかにショックを受けて、ふさぎ込んでいる
様子が祐介にも少し気になった。
二月末日の夜、祐介は夢を見ていた。
麗奈が笑いながら祐介の前を走っている。祐介は一生懸命に麗奈を追いかけている。
走っても走っても、手を伸ばしてもどうしても麗奈が捕まえられない。
『まって...まってくれよ...麗奈! 麗奈ッ!!』
パッと目を覚ますと、真っ暗な部屋に天井の照明器具がうっすらと見える。
「夢...か...」
冬だというのに、異様に汗をかいている事に気が付き、額に滲んだ汗をパジャマの袖で軽くふき取る。
「祐君、大丈夫?」
小さな声が横から聞こえた。
顔を向けるとベッドに顎を付けるようにして、香織が座っていた。
「ああ...ちょっと夢を見てただけだ。」
「はい。お茶でいい?」
ペットボトルのお茶を差し出されて、祐介は一気にそれを飲み干した。乾いたカラダとココロに
染みわたるようだった。
「凄い汗だよ。着替えないと風邪引くよ。」
「悪い...ありがとう。」
「祐君。眠れそう?」
そう言われて、祐介は急にさっきまで見ていた夢に怯えている自分がいる事に気が付いた。
「怖い夢だった?それとも麗奈さんの夢?」
「怖くはないんだけど...麗奈が...捕まらなかった...」
「そっか。でも大丈夫だよ。」
香織はそう言うと、祐介のベッドに静かに体を沈めた。
祐介の頭を抱えると、自分の胸のふくらみに祐介の頭をゆっくりと抱きかかえた。
「麗奈さんに...お願いされてたの。もし祐君が夜中に起きたら、こうしてあげて欲しいって。
祐君ならきっと私の胸でも大丈夫なはずだからって。」
「香織...」
「麗奈さんの代りにはなれないかもしれないけど...少しでも祐君が休めるなら...
いつでも言ってね。」
麗奈とは違って、肌に直接触れているわけではないのに、何故か香織の温もりが、心臓の鼓動が
頭に入り込んできただけで体の力がふっと抜けていく。
『ああ、俺はまだ、生きていたいんだ...麗奈...ありがとう...』
香織の二つの膨らみに顔をうずめて、祐介はゆっくりと瞼を閉じた。
やさしく髪を撫でられる心地よさが祐介のココロを落ち着かせ、やがて深い眠りに落ちていった。
祐介が眠りについた後、香織はあの日麗奈と交わした約束を思い出していた。
『ねえ、香織。祐介が仙台に行く事、聞いてるでしょ?』
『正直に言うとね。私は祐介を香織から奪った事、少しだけ後悔してるの。』
『だから、仙台には香織が一緒に行って。』
『もし祐介が私ではなく、香織と一緒に居たいと言うならそれでも良い。でもそれでも祐介が
私と一緒に居たいって、私を選んでくれるなら私はもう後悔しない。』
『どちらを祐介が選んでも、恨みっこなしね。言っておくけど!無理やり襲って色香で虜にするなんて
卑怯な真似はよしてよ!』
『私は、祐介が本当に幸せになれる選択をして欲しい。だって、彼の幸せが私の幸せなんだもん。』
香織は祐介を胸に抱えながら、麗奈を失った悲しさがこみ上げて来て、一人静かに嗚咽を漏らしていた。
☆
例年より長く感じられた冬が終わり、東北地方にも少し遅めの春がやってきた。
祐介のココロの傷はいまだ完全に癒えてはいなかったが、香織は祐介の私生活を献身的に支え、
祐介は毎日遅くまで研究センターに居残り、缶詰状態でプロジェクトの進行の指揮をとっていた。
四月中旬の日曜日、遅く起きた祐介に朝食を出しながら香織が祐介に提案をする。
「祐君、久しぶりに、桜を見に行かない?」
「ええ?たまの休み位、ゆっくりさせてよ。」
「むむっ!祐君はもうお年寄りみたいな事を! たまには昼の日光に体を晒さないと、自律神経が」
「わかったよ。行くよ。行きますよ。」
「やったー!!」
こうして二人は久しぶりに揃って出かけた。愛車のバイクに跨り、タンデムシートに香織が座る。
香織は昔からタンデムシートに乗ると祐介のお腹にギュッと両手を回してしがみついていた。
バランスが取りにくくなるから止めろと何度言っても聞かなかった。
危なくない速度で、ゆっくり走ればいいじゃない。と言い、最後には潤んた瞳で上目遣いをしながら
『本当は祐君に密着したいだけなの。ダメ?』と言われて祐介は香織と乗るときはくすぐったいのを
我慢しながらゆっくりと走る癖がついていた。
香織は昔と変わらず、祐介にぴったりと密着し、ヘルメットまで背中に押し付けてくる。
祐介はもうすっかり慣れてしまった香織の感触にヘルメットの中で少しだけ微笑み、エンジンを掛けた。
生き物が呼吸するかのようにエンジンからドドドドと音がして、親しみのある振動が小刻みに、
子気味よく伝わる。
祐介は後ろを振り返り、バイザーを上げる。
「安全運転で行くからな。しっかり捕まってろよ。」
外の空気はまだ少し肌寒い。それでも春の温かく、優しい日差しを浴びて祐介のココロは雪解け
のように、少しずつ溶け出し始めているようだった。
三神峯公園は休日ということで満員御礼だった。とにかくカップルや家族連れの数が半端ではない。
祐介は香織とポカポカした日差しの中、公園の遊歩道を歩いていた。
緑の芝生と桜の桃色のコントラストで良く映えていて、その芝生の上にはブルーシートが敷かれ、
大人たちは昼間から花見という名の宴会を楽しんでいる。
子供たちは芝生の上を大きな、楽しそうな声を上げて走りまわっていて、どこから現れたのかモンシロチョウを追いかける小さな子供たちが目の前を駆け抜けていく。
母親たちはそんな風景を眺めながら、世間話に花を咲かせている。
「麗奈の父さん、母さんもあんな風に麗奈を見守ってきたんだろうな。」
不意に胸を突いて出て来た言葉を口にする。
「幸せに、なって...か。」
祐介は麗奈の最期の言葉を小さく呟く。
ふと横を見ると、香織も微笑ましい顔で目の前を走り回る子供たちを見つめ続けていた。
不意に、心の鼓動がドキリと大きく跳ね上がる。香織の優しく美しい横顔は、画面の向こう側では
絶対に見られない、祐介だけが見る事が出来る横顔だ。そんな風に感じ、香織から目が離せなかった。
『大事に出来る時に、大事にしておきなさい。』
麗奈の父親、隆二の声が聞こえた様な気がした。
祐介は香織の横に並ぶと、首だけ香織の方を向いて、口を開いた。
「香織。手、繋がないか。」
「うん。勿論。」
何年ぶりかに繋いだ香織の手は、小さく、そして温かった。
春の少し暖かい南風が祐介と香織を優しく撫でる様に吹き抜けていった。
早咲きの桜が風に煽られてふあーっと薄桃色の吹雪のように舞い散っていく。
儚げで、どこか切ない桜の花。それは僅かな時間だけど深く深くココロとカラダを重ねあった
名倉祐介と秋沢麗奈という男女の関係に似たようにも思えた。
祐介は香織と手を繋ぎながら、色づいた公園の景色の中を歩き始めた。