【六】
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祐介は課長の人事異動に正式に承諾の回答をし、四月十五日付で東北研究部仙台研究センターへの辞令を受けた。
引っ越しに関しては会社が全て手配をしてくれた。住居もいくつかあるアパートの中で、2DKで会社まで自転車で移動できる所を選んだ。今住んでいるアパートの半分程度の家賃で、築年数も半分くらいという良物件だった。自社のグループ会社にある不動産会社が管理しているらしく、社宅と変わらない安価な価格での提供に、祐介と麗奈は目を丸くして驚いた。
麗奈は最後まで名残惜しそうにしていたが、女優業を引退した香織が祐介と同居すること、そして祐介の躁うつ状態がほぼ回復している事、何より自分の恋人がこの大きな組織の中で人類の医学の発展に直結する偉大な研究成果に成り得ることを考え、祐介を送り出した。
『本当は会社を辞めて祐介についていきたいの。』
最後の二人きりの夜、ベットで祐介の腕の中に包まれていた麗奈は涙を浮かべて本心を語った。
二人の熱い情事が終わった後、祐介はしばらく味わう事が出来ないであろう、麗奈の豊かな胸のふくらみに顔をうずめ、深い眠りに落ちていった。
そして別れの朝、下で既に準備を済ませていた香織と三人でタクシーに乗って駅まで移動する。
バイクは引っ越し荷物と一緒に仙台に送ったし、会社の規定で転勤赴任時は私的な移動手段を禁じられていた。
交通事故のリスクを勘案しての決まりだった。
東京駅に着き、新幹線の指定席車両のドアの前に立つ。
麗奈は気丈に振舞っていたが、昨夜の涙の跡は、祐介のココロの中にまだ残っていた。
「香織、祐介の事、お願いね。夜中に勝手に襲ったら許さないから。」
「麗奈さん、ありがとう。こんな私にも機会をくれて。大丈夫。私から祐君を誘惑するような事は絶対しないから。」
「祐介、たまにはこっち戻ってきてね。 まあ、祐介の事だからまた会社で寝泊まりする位働きそうだけど。 でも、絶対に、二度とココロを壊さないで。何かあったらいつでも、何でも言ってね。私がいつでも駆けつけるから。」
「麗奈、ありがとう。大丈夫。自分がやりたい事、人の役に立ちたいという夢を叶えるんだから。ちょっとばかりの事で折れる様な事はないよ。」
「落ち着いたら、きっと帰ってくる。だから、待っていてくれ。」
「うん...祐介。元気でね。」
「ああ、麗奈こそ。元気で。また会おう。」
プルルルル...とホームに発車を促すベルが鳴る。係員が見送りの人はホームから離れろとアナウンスをする。
先に香織が車内に乗り込み、祐介はドアの奥で立ったまま、麗奈をずっと見ている。
麗奈は目に涙を浮かべ、ヒラヒラと手を振っている。
プシュ と短い音がして、折り畳まれたドアが閉まる。
新幹線は音もなく、ゆっくりと、ゆっくりと動き始める。
祐介はドアのガラスにへばりつくように麗奈を姿を目に焼き付ける。
祐介をを救ってくれた命の恩人で、同じフロアの同僚で、一つ上の先輩で、魅力的な女性で、母のように優しく、大きく、そして温かい女性。秋沢麗奈。
祐介はこの激動の半年を振り返り、彼女に貰った恩を胸に留め、いつか彼女の元に、錦を持って帰って見せると誓った。
いつの間にか、ドアの向こう側の景色は時速二百キロメートルを超える速さに達していて、殆ど音もたてず流れる様に景色が移ろっていく。
祐介は座席番号が書かれた乗車券を取り出し、座席番号表示を頼りに移動していった。
くいっとスーツの裾を引っ張られる。
そこには、優しい笑顔で香織が佇んでいた。
☆
仙台に越してきて三か月が経った。少し遅めの梅雨明けになると朝のニュースが流れている。
テレビの芸能コーナーでは、期待の新人、草津香織を超える大型新人とのうたい文句で、可愛らしい女性が主演の新作ドラマの紹介が流れていた。
「祐君、今日は何時位になりそうなの?」
「今日と明日は連続性能試験だから泊まり込みかな。昨日言わなかったっけ?」
「聞いたよ。寂しいから、キャンセルになってないかなって。」
「はは、そんな簡単に工程変えられないよ。」
「所で、この子、香織の事務所の後輩じゃなかったっけ?」
「ああ、莉子ちゃんね。あの子スッゴイ猫かぶりだから、プロデューサーもコロッとやられちゃったのかもね。」
香織がさり気なく後輩をディスる。女優の権力争いを垣間見たような気がした。
「怖いね。芸能界って。」
「ん?なんで?」
「なんか、企業の人間関係よりはるかにドロドロしてそう...」
「そうかな?私は普通に演技のお仕事出来てたけど。」
朝のさり気の無い会話をしながら、着替えとお泊りセットを支度し、香織に声を掛けて玄関に向かう。玄関に移動した所でボフっと背中から音が聞こえ、柔らかい感触に包まれ、身動きが取れなくなる。
「おい、香織...俺には」
「祐君充電中...もうちょっとだけ...」
「うん。これで明後日まで持つよ。ありがとう。」
お道化た顔で香織が微笑む。ほんの僅かに寂し気な表情をしているのは気のせいではないと思った。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。気を付けてね。」
こうして二人で暮らしていると、まるで新婚生活の様だ。
昔から何十回、何百回と夢に見ていた香織との甘い新婚生活。でもそれは祐介のメンタル不全、麗奈との出会いによって波にさらわれた砂の城のように、脆く崩れ去った。
今こうして香織と暮らしていても、二人の寝室は別々だ。祐介のココロが安らぐために習慣となっていた麗奈の胸に埋もれる行為は、香織には言えない二人だけの秘密だった。
祐介は泊まり込みの時だけ利用するバイクに、小さなスーツケースを括りつけると、ヘルメットをかぶり、バイクのエンジンを掛ける。社会人一年生の初任給を頭金にして買った新車のバイクは早いもので丸二年、祐介の様々な思いと共に走り続けて来た相棒になっていた。
仙台研究センターのスタッフは東京本社の研究棟事務所よりも少ない人数だったが、大学と直接やり取りをするだけあって、少数精鋭と言えた。逆に、量産に関するノウハウはなく、祐介にしてみれば到底現場では叶えられそうにない無理な精度や工程を要求してくる。
祐介は連続性能試験の待ち時間を使って、生産ラインの工程や設備、精度などに関する情報を共有し、何が出来て、何が出来ないのか、そして実現のために何に経営資源を投入すべきかを議論した。
経営資源とは、ヒト、モノ、カネの三つであり、特に現在の設備で量産が出来ないのであれば、研究職から必要な設備の仕様を作成し、生産管理部に提案しなければならない。
生産管理部では、研究所からの要求に応じられる設備が作れるのか、レイアウトはどうするのか、そしてラインの配置をどのようにするのかを検討し、最終的には研究所が投資稟議を申請することになる。
まだ量産については全くの白紙の状態で、課長の前では量産化の課題だけと強がっては見たものの、それが一番ハードルが高く、労力が必要になる大切な仕事であることは、若干三年目の祐介にも痛いほど理解出来た。
しかし、二年目の辛い経験と記憶が、逆に今の祐介の気持ちを奮い立たせていた。
夢の指示薬を大量生産する事が出来れば誰かの幸せに一役買う事が出来る。ガンの早期発見は人類の希望だ。
連続性能試験の結果は及第点だったが、量産にこぎつける為にはまだまだ課題が山積みであることが明らかになった。
祐介は寝食を忘れてこのテーマに没頭していった。やらされていた残業ではなく、自ら進んで仕事をし、自宅に帰ってからも試験データをまとめ、頭の中を整理し、明日やるべきことをまとめた。
季節は流れ、十月になろうとしていた。いつからか祐介は人の温もりが無くても、熟睡出来るようになっていた。
そして昔のように、朝起きると下半身が膨らんでおり、それは夜に麗奈の事を想い、彼女の一糸まとわぬ姿を想像しながら一人慰める時にも男らしく反応するようになった。
一年掛りで祐介は完全に自分を取り戻した。
更に時は流れ年末になった。祐介は香織と二人で仙台駅のホームに立っていた。
課題研究はまだまだ先が見えないが、年末年始を麗奈と過ごすために帰省することにした。
盆休みも研究センターと自室でひたすら課題に取り組んでいて、麗奈もまた多忙を理由に仙台に来ることはなかった。
メッセージはいつもやり取りしていたし、帰省を約束した十一月までビデオ通話もたまにしていた。
先月、麗奈はスマホの画面の向こうで、笑いながら私も早く会いたいと言い、祐介に愛の言葉を伝えてくれた。
久しぶりに麗奈の元に向かう祐介は、懐かしく、彼女に早く会いたい一心で嬉しそうな顔をしていた。
「祐君、ちょっとニヤニヤしすぎじゃない?」
「だって八か月振りだよ?嬉しいに決まってるじゃないか。」
「むーー!私と会う時はそんな顔してなかったよね?」
「どうだったかな?」
「いいなー。麗奈さんは。」
「香織も中々しぶといな。もうそろそろ新しい男見つけた方が良いって。」
「ヤダ!絶対ヤダ!!裕君のお墓まで一緒に行くって決めてるもん。永遠の独身でいいもん。」
「それ、辛うじて麗奈だから許されてるけど...他から見たら絶対ストーカーだぞ。」
「ずっと祐君のストーカーだったんだから今更でしょ?片想い一年、告白三回。付き合って七年で別れて、 今別れて丁度一年だから、まだまだこれからだよ。」
「何がまだまだこれからなのか、全くわからないのだけど...」
「さあさあ、新幹線に乗る前に駅弁買っていこうよ。牛タン弁当。」
「元女優が駅弁とか食べていいのか?」
「何それ?全然関係ないよ。」
久しぶりの車内での食事のためにビールを数本買い、香織が勧めるままに牛タン弁当を買う。
香織も同じようにお茶と弁当を手に持ち、それぞれお金を払う。
香織は女優業でお金を貯めたらしく、毎月の生活費はちゃんと負担しているし、アパート代の半分はちゃんと折半で、毎月祐介の口座にお金が振り込まれいる。女優をしていた時から贅沢はしておらず、女優業で得た収入は殆ど使っていなかったらしい。ブランド物にも興味がなく、ストイックに女優業に必要だと思われる事だけを愚直に取り組んでいた。
ジムやレッスンは事務所の負担だと言っていたし、ロケも多かったから外食や事務所経費で食事をする機会も多かったのだろう。そんな香織の唯一の趣味は、学生時代に祐介からダメ出しを喰らった料理だった。
今では誰が食べても美味しい、上手だと言われる腕前になっているが、それはあくまで料理作成の手順を頭に叩き込んだ所謂馴染みの料理に限っての事だ。香織は何故か新しい料理に妙な拘りがあり、初めて祐介が香織の手料理を口にした時も、香織は難しいカタカナの料理を祐介に振舞ったのだ。
そして普段人を傷つけない様に慮る心優しい祐介をもってして、『これはひどい』 と言わしめた凄腕の持ち主だった。
指定席に二人で並んで座り、前の座席のテーブルを引いて弁当を置く。ビールのプルタブを起こすとプシュッと音が鳴り、冷えた金色の液体を一気に流し込む。
寒かったホームと違い、新幹線の中は温かくて心地がよい。雪景色が流れていく中、わざわざ冬に冷えたビールを飲むところが乙なのだと、少し年を取ったような台詞を吐き、香織がそれをクスクスと笑っている。
新幹線は祐介と香織を乗せ、時速三百キロメートルで風を切って走っていく。
やがて雪景色が薄まり、曇天模様の灰色の雲が少しずつ晴れて来て、見なれたビルたちが二人を迎える。
東京駅には麗奈が迎えに来てくれているはずだった。
祐介は駅で買った仙台の土産を持ち、香織と二人でホームに立って麗奈の携帯電話を鳴らす。
数回の呼び出し音が祐介の耳に届く。呼び出し音が途切れた所で祐介が嬉しそうに声を発する。
「麗奈、俺だよ。今東京駅に着いたけど、どこ?」
「もしもし、君が名倉君ですか? 麗奈の父親の、秋沢隆二といいます。すぐに都立第二病院に来てください。」
聞いたことがない男性の低い声が祐介の耳に飛び込んできた。
「えっ?麗奈、麗奈さんのお父さん...? なんで?び、病院...?」
声色が恐ろしく低くなった祐介の異変に気が付き、香織が顔をしかめて祐介を見上げる。祐介の手が、スマホを持つ手が震えている。
「都立第二病院...」
「祐君!早くいこうっ!!」
香織が祐介の両腕を強くつかむ。
祐介は我に返ると一目散にタクシー乗り場に向かって走り出した。香織も全力で祐介についていき、二人はタクシーに乗り込むと、運転手に行先を告げ、早く行けと急かし続けた。