【五】
【五】
バシっ!!乾いた音が保養所の和室内に響く。
ブラウンの綺麗な髪をした女性、麗奈が、黒い長い髪の女性、香織の頬を思いっきり平手打ちしたからだ。
「あなた名倉君の彼女だったんでしょ!?どうしてあんなになるまで放置してたのよっ!」
「芸能人だから、有名人だから、忙しいとか忙しくないとか関係ない!!恋人だったら恋人らしいことをしなさいよっ!肝心な時に何にもしてなくて、今さらよりを戻したいなんて、都合が良すぎるわよ!!」
怒りを露わにして、肩を震わせて大きな声で麗奈が香織に口撃している。
「麗奈!香織の顔になんてことをっ!」
祐介が二人の間に割って入ろうとする。
「祐君。大丈夫。これは女同士の話だから。」
香織は平手を貰い、赤くなった頬を押さえもせず、真っすぐに麗奈を見据えている。
「秋沢さん...祐君を助けて、いえ、救い出してくれて本当にありがとうございました。」
香織は土下座をして麗奈に謝罪とお礼を言う。
「私は祐君から別れてくれって言われるまで、祐君の異変に気が付きませんでした。いつも彼の優しさに甘えて、自分勝手だった事を反省しています。ううん...もしあなたが居なかったら...祐君は...そうなってたら私は...私は...」
香織は土下座をしたまま震え、嗚咽を漏らしている。
「だから...本当にありがとうございました...ごめんなさい...」
麗奈の今の恋人である名倉祐介。その元彼女は、画面の向こう側でしか見られない別世界の人間だと思っていた。
しかし今日、目の前でその女性を見た瞬間、麗奈は草津香織という女性は意外と小さく、氷の様な冷たい美しさではなく、温かく、豊かな表情を見せる『普通の女性』なのではないかと感じた。
確かに今はストレスで食事が摂れておらず、表情も暗い印象を受けたが、本当はもっと普通に笑ったり泣いたりする一つ年下の女性なんだろうと思った。
世間の羨望を一身に受ける女優ですら、一人の女性として自分と同じ男性、名倉祐介を心から愛しているのがわかり、自分と同じ、普通の恋愛観を持つ女性だとわかり安心を覚えた。
正直な所、麗奈は正月明けに祐介から全てを打ち明けられた時、心底驚き、驚愕の事実に身震いした。
祐介から聞いた織姫と彦星の例えから、彼女とは遠距離恋愛中なのだとばかり思いこんでいた。祐介の彼女がまさかあの飛ぶ鳥を落とす勢いの若手ナンバーワン女優の草津香織だとは思ってもみなかった。
目の前にいる美しい女性とはこれ以上続けられないとこぼしていた祐介の言う事は至極当たり前の事だとおもった。当たり前だ。恋人が今を時めく、誰もが憧れる女優なら、気後れするだろうし、自分が逆の立場だったら精神的に耐えられないと思った。
しかしながら、祐介が自殺未遂を図るに至るまでメンタル不全を悪化させた一因として、間違いなく今、目の前にいる女優の草津香織にもあると思っていた。
「頭を上げなさいよ。なんでこんなになるまで祐介の事を放ったらかしにしたの?」
麗奈は自分に悪意があることを承知の上で質問をした。
香織は言われた通り、頭を上げ、ポツリと口を開いた。
「私が、祐君に甘えていたから...」
「じゃあ何で連絡もしなかったの?しかもあなたは祐介に浮気報道を叩きつけたも同然なのよ?それで祐介がどれだけ深く傷ついたかわかってるの?」
麗奈はあの日の事を思い出し、涙を流しながら、香織への糾弾を止めようとしない。
あの夜、麗奈の祐介への恋心は、確かな愛に変わった。そして祐介はその愛を受け入れた。それは草津香織の功罪とも言えた。
あの報道が無ければ祐介は自殺未遂を図る事はなかった。でも、麗奈の元に『落ちる』事もなかった。
香織にしてみれば、自らには何の落ち度もないゴシップ記事一つで愛する男性が傷つき、そこに居合わせた麗奈がその男性を、祐介を奪っていったと思っているかもしれない。
麗奈はそんな自分の弱みを微塵も見せずに香織へ糾弾する事で自分に向けられている祐介からの愛に必死にしがみつこうとした。
麗奈の恋心、そのきっかけはあのレストランでの食事だ。
祐介は麗奈のミスを誰のせいにもせず、麗奈自身をかばってくれただけでなく、その後、あの憎っくき武田の嫌がらせにもめげずに生産現場に行き、全て自分一人で片を付けた。
その手腕は一年先輩である麗奈には到底真似の出来ない芸当だった。愚直にリカバーに取り組み、会社に寝泊まりして間違いを見つけ、それを現場の責任者に説明して一人で解決した。麗奈の班内でも自主調査が始まっていたが、麗奈のミスが見つかる前に、祐介は間違いを全て正して生産現場の量産を軌道に乗せた。祐介は何も語らず、ただ仕事の結果だけで同僚たちや現場からの信頼を勝ち取った。
お詫びとお礼をしたいと思い食事に誘った。麗奈は今まで男性を食事に誘った事がなかった。ただ、誘った時は本当に御礼がしたいだけで、浮ついた気持ちも、胸が熱くなるような気持ちも感じていなかった。
最初にドキッとしたのはレストランで同じ会社の人間の悪口を言わない様にとスマートな気配りをみせてくれた時だ。自分の唇に指を当てる仕草が、大人びて落ち着き払っている背の高い名倉祐介からすると、やけに子供っぽく、可愛らしく見えた。食事の作法も、テーブルでの気配りも、何もかもが綺麗で整然としている祐介の隠されていた仕草に胸の鼓動が高まった。
その後に行った行きつけのバーのカウンターで二人で並んで酒を酌み交わした時も、自分ばかり仕事の愚痴を延々と話し続けたにも関わらず、批判めいた事を言う事も、ただ意見を合わせてくるような事もせず、祐介はただ相槌を打ったり、肯定するように頷くだけだった。そこに大きな包容力を感じた。
後で知った事だったが、この時既にメンタル不全になっていたと聞き、それが嘘であるかのように穏やかで優しい表情をする祐介に、麗奈の心はグラスに注がれるワインのように透き通った赤い色に染まり、満たされていった。
学生時代から現在に至るまで、男性からも女性からもチヤホヤされ続けた麗奈にとって、祐介という存在は今までに出会ったことが無いタイプの男性だった。しかも見た目も凄くカッコ良く、噂によると東大卒の超エリートだ。
他の男なら、麗奈の色香ばかりに目が行き、すぐに連絡先を教えろだの、自宅まで送って行くだの言い寄ってくるが、祐介はそういうガツガツした所もなかった。今思えば当時は女優の草津香織が彼女だったのだからそれも当然だと思えた。
祐介がうつ病に罹ったと班長から聞いた時は心底悲しかったし、そんな風になるまで仕事や私生活が追い込まれていたことに気が付かなかった自分に腹を立てている事に気が付いた。職場では彼を目で追うようになり、ベッドに入る時も、メイクをする時もいつも祐介の事を考え想っていた。完全に恋に落ちている自分にすぐに気が付いた。
だから勇気を振り絞って声を掛け、彼の家に押しかけた。
最初に祐介に求められたときは遊ばれるだけでも、カラダだけの爛れた関係でも良いと思っていた。ワンナイトラブでもいい。
自分に全く男性経験がない訳ではないし、祐介が自分に溺れてくれるのならそれは純粋に嬉しいことだと思った。
彼の自身を数回しごいただけであんなことになるとは思ってもみなかったが、その後冷静を装いながら恥ずかしそうにゴメンと口にした彼をみて可愛いと思ってしまったのも事実だ。
そしてあの夜、電車から降りた時、前の男性がゴミ箱に投函した新聞の見出しがふと目に入った。何の気なしに自宅アパートの玄関のドアを開けようとした瞬間、言いようのない悪寒、悪い予感がゾクりと背中に走った。
急いで駅に引き返すために全力で駆け出し、タクシーを拾って祐介のアパートへ向かわなければならないと焦っていた。今から電車を使っていては間に合わないかもしれないと思ったからだ。
何の確信もない、ただの直感めいたものだった。
祐介への恋心から、一人でアパートに居るのが寂しくなっただけなのかもしれない。大学時代を含めれば六年近く一人暮らしを続けてきて今更何を。と思う一方で、祐介への慕情は膨らみ続ける日々に、頭の片隅では単に彼に逢いたいだけなんじゃないのか?と囁く声も聞こえていた。それはそれで確かにその通りだったのだが、自分の直感が知らせるそれは明らかに違ったもののように思えて、不安な気持ちで押しつぶされそうだった。
その不安は、産業医と一緒にカウンセラーの先生が麗奈だけに伝えた注意点の一つだった。
躁うつを繰り返す患者に多いと言われる、躁状態からうつ状態への落差による絶望感。精神的に良くなりかけている時だからこそ注意しなければならない、『衝動的な自殺行為』。
最も底にいる患者は、身動きも取れないほどにココロとカラダが疲れ切ってしまうが、少しずつ良くなりかけている段階では、カラダが動かせてしまう。
そして、先日から気になっていた夕方に部屋に上がった時に僅かに匂うアルコール臭と、日に日に減っていく自分が飲めない程強い茶色のアルコールの入った瓶。何かとてつもない嫌なものが、自分の中で勝手に結びついていく。
どうしてもっと早く行動しなかったのだろうか。どうして彼を一人にしてしまったのだろうか。
『お願い。間に合って!!! 祐介!』
タクシーに乗っている間中、自分は祈り続けていた。
虚ろな祐介を見て、それでも生きていてくれて心底ホッとした。でもその直後に見たドアノブに掛けられた不自然なタオルを目にした瞬間、自分の本当の気持ちに気が付いた。
それは、祐介を失いたくないという思いと、祐介とずっと一緒に居たいという自分自身の一番奥底にあるココロだった。
『私は彼を愛している。片時も離れたくない。』
祐介の温もりを感じた瞬間にしっかりと強く自覚した。離れて連絡すらしてこない彼女のことなんて気にもしなかった。色香でもいい、カラダだけでもいい。いつか必ず祐介のココロを溶かして、自分だけに向かせる、彼を虜にして見せると誓った。
朝出社するとすぐに大家と引っ越し業者に連絡を入れた。家財道具を一式今日中に指定住所まで送って欲しいと注文を入れると、社内から外部アクセス可能な一般用コンピュータを利用して入金した。
昼休みに祐介に自分から送った荷物があるから大家に連絡して合鍵で中に荷物を入れておいてほしいと頼んで外堀を埋めた。
次の日の夜、私はいきなり彼にカラダを捧げようとした。今までに味わった事の無い、甘い快楽がまるで麻薬のように脳内を駆け巡った。彼の息が、肌が、触れる髪の毛が、ごく薄っすらと生える髭の刺激が、私のココロに快楽を与え、その快楽はカラダ中を駆け巡った。嬉しくて仕方がなかった。私のココロとカラダは悦びに震えた。
だけど、うつ状態になっている彼の自身は、熱く滾ることなく彼自身を傷付け、彼は声を上げて泣いた。私は彼を自分の胸に抱いたまま眠った。彼の強張った体から力が抜けるのがすぐにわかった。
ゆっくりでいい。焦らなくていい。時間は有限だが、彼と自分にはまだまだ時間がある。
共に暮らしていくなかで、私は更に、どんどん祐介に惹かれていった。誠実で優しく、裏表がない。真面目で、どんな事にも真剣に取り組むその横顔を見る度にドキッとした。彼が仕事場で見せる一つの仕草に胸がときめき、真剣にコンピュータに向かう横顔に心が高鳴り、少しずつ味覚が戻ることを実感した時に見せるはにかんだ笑顔に私は蕩ける様な甘い気持ちとカラダの疼きを覚えた。
二人の在り方も、方向性も、何もかも今のままでいい。年が明けたら彼と一緒に広めのアパートに引っ越そうと話し合い、年末年始は元日と二日だけ帰省して、すぐに自分のアパートに戻って荷造りを始めた。
両親にも、職場の同僚で、真剣に愛している男性がいる事を打ち明けた。今度連れてこいと言われたがやんわりと断った。
そして、待ちに待った一月。祐介と本格的に一緒に暮らす様になり、程なくして二月のバレンタインの夜、私は祐介と初めて結ばれた。
最初に襲い掛かられた時とはうって変わって、彼はゆっくりと、優しく、私の体の隅々まで愛してくれた。
初めてでどうしたら良いのか分からない。上手く出来なかったらごめんと、顔を赤くしながら囁く祐介に、私のココロは最初からメロメロに溶かされていて、彼が敏感な所に少し触れただけで高みに昇りつめた。
彼は私を求めた。私も彼を求めた。今までに感じた事がない、ココロとココロが繋がったカラダの触れ合いによる快楽は、私のココロを完全に虜にした。もう彼以外の男に抱かれたいなんて、絶対に思えないほどに、彼から与えられる快感が私のココロに、脳に深く刻み込まれてしまった。
バレンタインにもらったネックレスは肌身離さず、今もこの体に身に着けている。
もう、彼のココロも、そして私のココロも、お互いに向き合って、絡み合っている。
『離れたくない。奪われたくない。祐介は、誰にも渡さない。例え元彼女の、あの女優だろうと。』
麗奈は目の前の美しい女性に示したかったのだ。あなたの入り込む隙も、彼のココロが離れる事も決してないと。麗奈はどんなことをしてでも、略奪したと言われようとも、一度手にしてしまった宝石を、味わってしまった甘く、狂おしいほどのこの甘美な愛を二度と手放すつもりはないと。
祐介の目の前で、あえて香織を糾弾する事でそう示したかったのだ。
唯一つだけ気がかりがあった。
目の前にいる美しい女性、祐介の彼女は、草津香織は、名倉祐介の為に、女優を引退するとまで言っているらしい。
何が彼女をそうさせるのか。どんな風に二人は出会い、ここまで時を重ねてきたのか。
嫉妬と焦燥、そして一抹の不安が麗奈の心の中に吹き荒れていた。
☆
二人の女性が邂逅してから一か月後。梅の花が咲き終わり、いよいよ春の足音が聞こえ始める三月の中旬、草津香織は精神的ストレスから拒食症を発症し、近々引退すると大々的に報じられた。
第一報は各テレビ局で速報テロップが流れた。
ワイドショーだけでなく、朝のニュースでも特別枠、更には特番も組まれ、インターネット上やソーシャルネットワークでも様々な憶測や邪推も含めた信ぴょう性に乏しいデマが流れ続け、枕営業に疲れただとか、敏腕プロデューサーに体を弄ばれたなど、話はエスカレートする一方で、一部のテレビ局が更にそれらの誤った情報ソースをあたかも実話のように報道した為に、草津香織の引退騒動は更なる大混乱の様相を呈した。
コメンテーターの妙齢の女性が何やらそれらしい解説をしている。拒食症の話、精神障害の原因、そして売れっ子女優やアイドルたちの、過密スケジュール、心ないゴシップニュースによる精神的な攻撃により、デビューしてまだ数年のシンデレラガール、草津香織は蝕まれていったのではないかと、声を大にしてテレビからこちら側に語り掛けている。
実際の香織は祐介と連絡が取れる様になってから程なくして極度のストレスから来ていた拒食症を克服して、昔のような美しい姿を取り戻していた。
ただ引退をめぐっては所属事務所とは相当揉めたらしく、二度と芸能界に復帰する事はないとスポーツ紙が報じていたし、本人からもそう聞いていた。
あの日レストランで会い、麗奈と三人で会ってからというもの、香織からは連日一時間と置かない間隔でメッセージが届いていた。祐介はとにかく熱心に香織に休業を勧めた。一度手放した栄光はすぐには帰ってこない。ましてやデビューからまだ少ししか経っていない香織が、一度引退してしまったら、恐らく二度目は無いと考えたからだ。当然、本人にも何回もそう伝え、説得し続けて来た。
しかしそんな祐介の願いもむなしく、三月の初旬に突然香織からメッセージが入ってきた。
『女優を引退する事が決まりました。』
『これで私はずっと祐君の傍にいつでも居られるよ。引退してよかった。嬉しいな!』
そこにはそう書かれていた。箱根で会ってから、僅か十日が過ぎただけだった。
本当の事を言うと、祐介はその文章を見て涙を流していた。しかし今の自分に、香織の人生についてとやかく言える資格はなく、ただ黙ってその事実を受け入れるしかなかった。
祐介はテレビを流し見しながら、スポーツ紙の特集記事に目を通し、ふと台所に立つ二人の女性に目をやった。
はあ。
ため息をつき、スポーツ紙を置くと、経済新聞を手に取り、読み始める。
『どうしてこうなったんだろ。』
ココロのツブヤキは誰にも届かない。
「祐君、コーヒー出来たよ。」
ニコニコしながら香織が隣に座る。
「ちょっと香織、人の彼氏の隣に勝手に座らないでくれる?」
反対隣りに麗奈が座る。
「麗奈さん、私だって元彼氏なんだよ?」
「何言ってるのよ!祐介と私は恋人同士なんだから!ああっ!もおっ!祐介にくっ付くな!!」
「ふんっ!祐君は絶対に取り戻すんだもん!!」
なんだかんだと言って、同じ年頃の女性で気があったらしく、二人はよく連絡を取り合っているらしい。
麗奈のおかげで、今では体調もメンタル不全になる前、それ以上に良くなっていると感じていた。
大きな声では言えないが、未だに麗奈の胸の谷間に顔をうずめないと何となく不安で眠れない。
これは元彼女の香織にすら言っていない、二人だけの秘密だった。
香織は長かった髪を、高校時代と同じようにバッサリと切り、冴えない眼鏡を掛けているが、どことなく溢れてくる美貌のせいか、昔のように冴えない感じには見えない。それでも流石に黒い長い髪の綺麗な女優としてお茶の間に映り続けていた彼女が、知らぬ間にショートカットと眼鏡という風貌に変わっていれば街を歩いていてもそれが草津香織であると気付く人間は居ないようで、彼女は堂々と、活き活きと街を歩いている。
因みに以前香織が住んでいるマンションは都心の一等地に建てられた、言ってみればセレブが住むような所だったらしく、しかも事務所から与えられている言わば社宅のようなもので、普通に購入すればウンゼン万円もする代物らしい。
祐介も麗奈も目を丸くして、異世界の話のように香織の女優としての生活を聞いたが、そんな香織は今、祐介たちと同じアパートに一人暮らしをしていて、毎晩のように家に押しかけてくる。
晩御飯を自宅で三人分作り、二人が帰宅してシャワーを浴びた頃にドアホンを鳴らして晩御飯を持参する。仕事で疲れた祐介たちは、香織が作ってくれる美味しい晩御飯に胃袋を掴まれてしまい、ズルズルと三人の妙な関係が出来上がってしまった。
☆
そんな三月中旬のある日、祐介は課長から呼び出しを受け、二人で応接室に入っていた。
「名倉さん、最近体調はどうですか?」
「はい。おかげさまで相当良くなってきていると思います。」
「うん。三上産業医からももう少しで完治と言えるようになると聞いているし、君のその顔を見て少し安心したよ。 何せ君は応用開発きってのエースだからね。」
「最近、進んでいるかね?例のプロト指示薬の研究は?」
「ええ、あれは臨床は終わっていますし、後は量産化に向けての課題が中心だと思っています。」
「そうか。それは凄いな。これが量産体制になればわが社初の快挙、社長賞間違いなしだよ。」
「そんな...滅相もありませんよ。」
「いや、研究部は総力を挙げて名倉さんのテーマをバックアップすると決めているからね。それに君は生産ラインからの評価も著しく高い。まだ三年目だと言うのが信じられない位、現場の方々も君を評価してくれているんだよ。」
課長の顔が真剣みを増す。
「名倉さん、アメリカ、もしくは仙台の総合研究センターに出向してみないか?そこで本腰を入れて量産に漕ぎ付けて欲しいんだよ。勿論、無理にとは言わないが、君のテーマに社長も会長も随分とご執心でね。 いつまでここでチマチマやらしてるんだ。とうるさいらしいんだよ。あ、これは部長のボヤキなんだけどね...」
青天の霹靂とはまさにこの事だった。祐介はメンタル不全を患っており、出世や栄華とは無関係の、ドロップ組に落ちたものだとばかり思っていた。
去年から取り組み始めたこのテーマは、夢の液体とその液体を使った指示薬の開発だった。特定の遺伝子にのみ反応する発光物質を混ぜ合わせた夢の溶液と、例えば血液などを混ぜる。
体液に含まれてる特定の遺伝子と溶液中に含まれる発光物質が結合する。
特殊な光を当てながら顕微鏡を覗くと、遺伝子ごとに異なる発光を見せる。
つまり遺伝子に由来する病気やガンのように特定の臓器で増殖するような病気に対し、極めて短時間に、正確にその情報を得る事が出来るようになる夢の検査薬が出来上がる事を意味していた。
基礎理論はアメリカの大学が発祥だが、一つの難題があった。それは溶液中に発光物質を複数入れるとお互いが打ち消し合ったり、反応して別の物質に変化してしまう点だった。
祐介の会社にある、とある部門の研究チームが開発した溶液は、それぞれの物質の特性を残したままで維持できるというまさに夢の液体だった。
そして彼らが選んだ発光物質は、これまた仙台の大学教授が論文を発表した、特定の遺伝子に働きかけることが出来る物質だ。これらを混ぜ合わせ指示薬、一般的には検査薬と呼ばれるものを
世界で初めて開発する事に成功していた。だが、彼らの研究チームでは臨床試験に必要な指示薬を確保、つまり量産することが出来なかった。
一日に精々数回分の量しか製造する事が出来ず、量産開発に完全に行き詰っていた。
祐介が携わっているプロジェクトは臨床試験、そして将来に備えての大量生産に必要な条件の構築やそのデータ収集だった。祐介はメンタル不全に苦しみながらもこのプロジェクトで一般的な理論や方法論を覆す独自の方法論を導き出し、そして臨床試験に必要となる量の指示薬を作り出していた。その指示薬は即座に自社の臨床検査部、そして外部機関に提供され、先日遂に大規模な治験、所謂臨床試験が終わり提携先の企業や病院で更にデータを収集する段階に入っていた。現在の試験データでは的中率は98.75%、反応から認識可能になるまでの時間は僅か三分。
仙台にある国立大学と、アメリカ随一の工学部との産学共同開発プロジェクトはまさに人類にとって夢のプロジェクトで、祐介は世界中にこの指示薬を安価に提供出来る理論を、、製造現場の理論と付き合わせて合理的且つ経済的に量産するテーマに取り組んでいた。
「少し考えさせて貰えますか。まだ完治したわけではありませんので。」
「うんうん。大丈夫だよ。いつでも辞令を出せる準備は出来ているし、いわばこれは社長勅命の人事だ。 君の返事を待っているから、じっくり考えて欲しい。」
事務所に戻ると、自分の班のメンバー、そして年明けに交代したばかりの新係長の渡さん、隣のシマにいる麗奈が祐介に注目していた。
祐介はいつものように隣で昼食を共にする麗奈に、応接室で聞かされた話を包み隠さず話す。
少し寂しそうに、それでも麗奈は笑って祐介の肩を叩きながら言った。
「すごいよ祐介!それ、絶対に断らない方がいい!!」
「でも、アメリカでも仙台でも、単身で行く事になるからさ...」
「うーん。そうだよね...でも、アメリカでも、仙台でも、祐介なら絶対大丈夫だよ。」
そう言いながら、少し顔を赤らめて、耳元で麗奈が囁く。
「私のおっぱい、無くても大丈夫?」
「ごめん...正直、ちょっと自信ない...」
「ふふ。祐介のエッチ。でも嬉しいかな?」
チュッ
不意に頬に麗奈の唇の感触が伝わった。
「帰ったら、香織に祐介の事、頼まないといけないね。」
今度こそ、麗奈は寂しそうな顔をして、そうつぶやいた。