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【四】

【四】


クリスマスも何事もなくただの一日として過ぎ、あっという間に年末になった。

祐介はしばらく連絡を取り合っていなかった香織に、会って話したいことがあるとメッセージを送った。

すぐに返信が返ってきた事に少し驚いたが、香織も年末年始は地元に帰省するようで、すぐに落ち合う場所と時間の約束を取り付けた。


『俺たちは離ればなれになり過ぎたのかもしれない。』

手を伸ばしても絶対に届かない所に行ってしまった最愛の人を思うと胸が痛むが、彼女は何といっても人気女優の草津香織だ。きっと新しい恋を掴んで幸せになれる。

これだけの期間連絡がなかったのだから、この前のスキャンダル報道の通り、既に他に大事な人がいるのかもしれない。

このチクリと痛む胸は祐介自身が他の女性にココロを奪われてしまったことに加えて、自分自身が香織を心の底から信じることが出来ないという、二つの後ろめたさからくる罪悪感なんだろうと思った。


いつものように部屋の細かい所を掃除している麗奈に年末の挨拶を済ませる。

二人で話し合った結果、麗奈のアパートより、祐介のアパートの方が会社に近いらしく、年明け早々に麗奈のアパートを引き払い、祐介のアパートで本格的に同棲することになった。

手狭に感じるようだったら二人でもう少し広いアパートを借りようという話もした。麗奈は嬉しそうに、ふんふんと鼻歌を歌いながら祐介の部屋を掃除を続けている。


「ちょっと祐介!ここ汚れてるよ!綺麗な心は綺麗な生活からなんだからね!」

「ああ、ごめん。麗奈...」

「違う違う。ありがとうでしょ?祐介が全部やらなくたって、ちゃんと私が出来ない所をやっておくから。ちゃんと汚れてるところに気が付いて欲しいだけだよ。ここ掃除しておいてって言って欲しいし、綺麗になってたらありがとうって言って欲しいだけなんだから。 あっ!そうそう、お土産何でもいいから買って来てよ!」

「そっか...ありがとう。麗奈。お土産、どんなものが良い?」

「お土産かあ...うーーん。祐介サブレが欲しいかな?」

「そんなの売ってないよ。」

「いちいち真面目に返さないの!祐介サブレが無かったら祐介だけで良いからね!」

「サブレなら何でも良い?」

「違う!祐介なら何でも良いの!」


「もう、心配だからバイクで帰らないで新幹線で帰ればいいのに!祐介車の免許も持ってるんだよね?戻ってきたら車も買っちゃおっか?」

「いや...そんなに車に乗らないしさ...勿体ないと思うけど。」

「分かってない!全然私のココロが分かってないなー!祐介は。車の中で隠れて祐介とキスをしたい私の気持ちが。」

「もう、何なのそれ?」

祐介と麗奈は笑いながら年末年始のしばしの別れを惜しむ。


最後に明日から一月四日までは実家に戻るからと伝え、ブーツを履き、バイクの鍵を手に取る。

「祐介。バイクの事故だけは本当に気を付けてよ。次からは私が新幹線の切符押えるようにするから。バイクの帰省は今回が最後だからね!」

「分かった。ありがとう。麗奈。じゃあ行ってきます。」

「気を付けてね。待ってるから。」


香織と別れ話をしに帰省することを麗奈には伝えなかった。ケジメを付けてから、全てを打ち明けようと思っていた。


彼女があの人気女優の草津香織だったという事も。


逢いたくても逢えず、手を伸ばしても届かず、テレビの向こう側でしか見られない、まるで別世界で一方的に映像を送られ続けていた日々がとてつもなく寂しかったことも。


仕事に忙殺され、ストレスが溜まっても、誰にも吐き出せなかった弱い心も。


メンタルヘルス不全になり、結果として会社にも迷惑を掛けてしまっていることに責任を感じていることも。


会社の組織の中で与えられた心の病なのに、迷惑を掛けていると考えるだけで、自分は弱く、情けない人間なんだと心が締め付けられる。罪悪感が襲い掛かってくる。

カウンセラーからも自分を深く責め過ぎない様に言われているが、生来真面目過ぎる性格であることは自覚している。


寂しさと弱い心から、身勝手に欲望を吐き出してしまったあの日の夜の事をちゃんと謝罪したい。

彼女を抱き締め、温かく、優しい気持ちで彼女と一つに結ばれたい。

弱い自分を。寂しがり屋の自分を。自分が恥ずかしいとココロの奥底で思っている自分の嫌な所も、その感情も、全てを彼女に吐き出してしまいたい。


麗奈ならきっと笑いながら、『そんな事で悩んでたんだ。』

そう言って祐介の全てを受け入れてくれるような気がしていた。


祐介はバイクの後ろに積んだ荷物がしっかり固定されている事を確認すると、バイクのエンジンを掛けた。

夜の静かな住宅街にエンジンの音が鳴り響く。

いつものように、アクセルを回してバイクを走らせる。実家までは高速道路を使って二時間半。


バイクに前傾姿勢で体を預けた祐介が、夜の帳の中に消えていった。



十二月三十日、明日で今年も終わりとなる。寒さ厳しい中、祐介は半年ぶりにとあるカフェの一室で香織と向かい合わせに座っていた。相変わらず香織は『仕事』の話を一生懸命、楽しそうに話しているが、スキャンダル報道については一切話が無かった。


小さな罪悪感と膨らみ始めた疑惑が、大きなものになり、やがて祐介は耐えられくなる。


「香織、話を切ってごめんね...聞いてほしいことがあるんだ。」

「うん。珍しいね、祐君が話したい事があるなんて?」

香織はいつもと変わらない、キラキラした美しい瞳で祐介を見つめる。


「...俺と、別れて欲しい。」

そのセリフを口にした途端、香織の表情が変わった。


「えっ?...う、うそでしょ? ...な、なんで?」

香織は大きく目を見開き、両手を口に当て、ワナワナと肩を震わせている。


「ごめん...俺、浮気した。」

祐介はテーブルに額を押し付けるように頭を垂れて謝罪する。


「会社の同僚の女性の、秋沢さんっていう人に食事を作って貰ってて...それで今は彼女と一緒に住んでる。」


そこまで言い切って祐介は頭を上げた。平手の二発や三発は貰う覚悟だった。

香織は美しく澄んだ瞳に一杯涙を溜めて、その雫を両頬から流し続けていた。


「だから、もう香織と会う事は出来ない。」

「本当に、ごめんなさい。」

もう一度深く、深く頭を下げる。額にテーブルの冷たさを感じながら、更に額を押し付けるように頭を下げる。


「なんで...?」

香織の震える声が、小部屋の中に小さく、細く響く。


祐介が顔を上げる。彼の切れ長な目からも、涙が流れていた。

「俺が弱かったから。香織の事が嫌いになったとか、そう言うのじゃなくて、ただ、俺が弱かっただけなんだ...」


「そんなんじゃないよ!弱いとか、強いとかじゃなくて!私たち、恋人同士じゃない!! どうして...なんで祐君は一人で何でも勝手に決めちゃうの...?」


「ごめん...本当に...ごめん...俺、本当にダメな奴だよな...」

祐介の涙は止まらない。


「そんなダメな俺の事、秋沢さんは支えてくれてるんだ...ごめん。もう香織とは...あえない。」


「だから、さようなら。」


祐介は一方的に別れを切り出し、レジに二千円を置いてバイクに跨る。

後ろから香織の声が聞こえたように思ったが、アクセルを回して音をかき消した。


バイクを加速させていく。


どこまでも、音の速度よりも早く走れば、頭の中に響き渡る香織の声が聞こえなくなるような気がして、海沿いの道路を飛ばした。


翌日、大量の不在着信とメッセージの中身を見ることなく、祐介はスマホを新しく、電話番号も変更した。


「香織...本当にごめん。俺なんかよりもいい男と出会って、幸せになってほしい。 幸せに出来なくて...ごめん...」


祐介は一人俯き、呟きながら大学時代から使い続けていたスマホの初期化画面の赤いアイコンをタップした。

スマホの真ん中に丸い円がクルクルと回り、ものの数十秒で数年間の思い出が全て消えていく。

笑いあい一緒に写った二人の写真も、楽しかった遊園地の画像も、高台の夜景の写真も、二人を彩った思い出が全て消えていく。

スマホに残されたデータが消えていくのと同時に、祐介の脳裏にはそのシーンが走馬灯のように鮮やかに流れていく。消去されていくデータが、祐介の中にコピーされていくように、スライドショーの様に流れていく。


ポタポタと、スマホに水滴が落ちていく。

深い後悔、斬鬼の念は香織というただ一人、たった一人愛し続けた女性へと向かっている。

誰がいけないという訳ではない。香織が悪い訳でもない。

ただ己の弱さに打ち勝てなかった祐介は、罪悪感と後悔のなか、長く続いた恋に一人ピリオドを打った。


無責任だと罵られても、それが祐介に出来る最後の贖罪であり、香織の未来のために選んだ選択だった。



正月休みを実家で過ごし、都内のアパートに戻ると麗奈の荷物が部屋の一角に重ねられており、いよいよこれは真剣に引っ越しをしなければならないと思った。


このアパートを紹介して貰った不動産屋に行き、2DKのアパートを探す。

二人で住み、家賃も折半にすると決めたので、割とすんなりと決まった。

大学の友人に連絡を取り、引っ越しの手伝いをして貰う。既に香織と別れた事を伝えていて、祐介のココロの病の事もそれとなく伝えてあったので、彼は何も言わずに黙々と車に荷物を運び、新居へと荷物を運び入れてくれた。引っ越しを終えると辺りはすっかりと暗くなっていた。


「名倉、まあ...なんだ。色々とあったんだろうが、あんまり真面目に考えすぎるな。無理して頑張らなくても良いんだからさ。」

旧友の笹田が肩を軽く叩きながら祐介に話しかける。

笹田は今外資系の金融会社に勤めていて、聞いた話では祐介の倍の年収を稼いでいるそうだ。


「またたまには遊ぼうぜ。昔みたいによ。気軽に連絡くれや。」

そう言って笹田は車のエンジンを掛け、アクセルを踏み込んだ。

スポーティタイプのツールドワゴン車のテールランプが小さくなっていく。曲がり角を曲がり、その光が消えると、祐介と麗奈は新居に戻り、荷物を開梱し始めた。


そして、その夜、祐介は麗奈に全てを打ち明けた。

草津香織が恋人だったこと。高校生から付き合い続けたこと。


そして、年末に別れたことを。

彼女があの人気女優の草津香織だったという事を。

逢いたくても逢えず、手を伸ばしても届かず、テレビの向こう側でしか見られない、まるで別世界で一方的に映像を送られ続けていた日々がとてつもなく寂しかったことを。

仕事に忙殺され、ストレスが溜まっても、誰にも吐き出せなかった弱い心を。

メンタルヘルス不全になり、結果として会社にも迷惑を掛けてしまっていることに責任を感じていることを。


全てを打ち明けた。


麗奈は少しだけ暗い顔をして話を聞いていたが、やがていつものように優しい笑顔で祐介に話始めた。

祐介の予想に反して、何もかも笑い飛ばす訳ではなく、優しい言葉で祐介を包み込んだ。


「祐介はずっと苦しんでたんだね。私はいつでも祐介の隣にいるし、祐介が離れたいって言っても離れられないからね。だからどんな小さなことでも、些細な事でも絶対に隠しちゃダメだよ。私は祐介にどんなことを言われても絶対に拒否しないから。私が祐介のココロを支えるから。だから、我慢もしちゃダメだよ?」


麗奈のその言葉に嘘偽りはなかった。朝起きて、一緒に会社に行き、同じフロアで仕事をして、一緒に帰社する。

晩御飯を食べ交互に風呂に入り、下らない話をしたり、会社の話をしたりして、十時丁度に電気を消して一緒のベッドで寝る。

麗奈は規則正しい生活と食生活を祐介と共に自らに課し、そして人との会話や温もりに餓えていた祐介の求める事をし続けた。献身的な愛情を祐介に与え続けた。

祐介はまるで子供返りしたかのように麗奈に甘え、毎晩彼女の胸に頭をうずめてその温もりに酔いしれた。

いつの間にか祐介たちの部屋にはアルコールが無くなり、祐介も酒を飲みたいと思わなくなっていた。


二月の中旬、祐介と麗奈が同棲を始めてから一か月が経った。

祐介は貧血も収まり、メンタルヘルスもあと一歩という所まで回復していた。

夜の暗がりに怯える様に睡眠に入る事が出来なかった祐介だったが、麗奈の胸に顔をうずめると不思議と落ち着き、しっかりと睡眠がとれるようになってきた。


祐介は数年ぶりに、香織以外の女性には初めてのバレンタインのプレゼントを女性に贈った。

命を救ってくれた、自分のココロを救ってくれた女性に、感謝の気持ちを込めて少し高いネックレスを送った。


ネックレスを付けて。とせがむ麗奈の背中に回り込み、ネックレスの代りに自分の両腕を回し、抱きしめた。

華奢な細い体に対して違和感があるほどせり出した豊かな二つの膨らみが両腕で優しく反発する。

祐介の自身が滾るように熱くなり、血が集まっていくのが分かる。祐介は男を取り戻したことを実感した。

ココロが軽くなっていくのに合わせて、カラダもその機能を取り戻してきていた。


「麗奈...いつもありがとう。愛してる」

「私も...祐介...大好きだよ。愛してるよ。」


祐介は背中を向けたまま、首だけをこちらに向けている麗奈に優しくキスをする。

麗奈の両手が祐介の首に回り、枝垂れ掛かるようにして祐介を求める。

長く、深い口づけを交わす。

祐介は麗奈を抱きかかえ、そのままベッドになだれ込んでいく。


無我夢中で体を貪るのではなく、愛情に満ちた優しいタッチで麗奈の体を愛おしみ、慈しんだ。

祐介と麗奈のココロが高まっていく。頬が、耳が、カラダが熱で赤く染まっていく。


「俺、初めてで上手く出来ないから...」

「大丈夫だよ。そんなこと気にしなくても、祐介の好きなようにすればいいんだから...」

祐介は麗奈の温もりを弄るようにして愛撫を続ける。


麗奈はやがて意識を空の彼方まで昇らせ、二人の荒い息だけが部屋に響く。


祐介と麗奈の二人はこの夜、ココロとカラダを一つにした。

祐介の中には麗奈の体温と、愛する人とカラダを重ねる悦びと快楽が強く刻みつけられた。



二月下旬のある日、草津香織が体調不良の為に休業するとの報道が一斉に展開された。テレビでは特番を組んで緊急的に放送をしている。今はもう過去の女性になったとは言え、七年も恋人として付き合っていたのだから、気にならない訳がない。

麗奈も二人の過去の経緯は知っているから、一緒になって心配してくれていた。


祐介は迷っていた。そんな祐介に麗奈は連絡を取るべきだと背中を押した。

年末に解約したスマホに、格安SIMを入れて起動し、辛うじて覚えていたIDから香織にメッセージを送った。


『名倉です。体調が悪いと聞きました。大丈夫ですか?』

長らく連絡を取っていなかったので、すぐに返信が来るとは思ってもみなかった。


『会いたい。祐君に会いたいです。』


『寂しいよ。逢いたいよ。』


『私の事嫌いにならないで。』


『ごめんなさい。ごめんなさい。』


『一度でいい。もう一度、会ってください。』


『お願いします。』


『祐君。私はまだ祐君の事が大好きです。』


『お願いします。会って話をさせてください。』


『祐君に逢いたいよ。』


香織からのメッセージが止まらない。すぐに着信を伝える画面に切り替わり、軽快なサウンドがスマホから鳴り響く。祐介は慌てて拒否ボタンを押し、そのままブロック設定をする。


祐介は麗奈にメッセージを見せると、香織に会うと正直に伝えた。


「ごめん麗奈、一方的に別れを切り出してそのままだから、まだ向こうは受入れられないんだと思う。ちゃんと話をしてくるから。」


麗奈は祐介の胸に顔をうずめて囁くように話す。

「いいよ、祐介がしたいようにすれば。私はいつでも待ってるから。」

「ありがとう、麗奈。」


祐介と麗奈は口づけを交わす。


「彼女の所に戻っちゃイヤ。」

甘えるように麗奈が祐介の手を自身の豊かな膨らみに誘う。

「大丈夫だよ、麗奈...」

「本当に大丈夫? だったら私の事メチャクチャにしてよ...祐介の好きにしていいから...」

魔法の言葉で操られたかのように、祐介は麗奈のカラダをココロの欲するままに求めた。



翌週、まだ人目については不味いだろうという事で、平日に麗奈と二人で休暇を取り、箱根にある会社の保養所近くのレストランで祐介は香織と待ち合わせをした。

麗奈は先に保養所にチェックインを済ませており、レストランには祐介一人で赴いた。


祐介が約束の三十分前にレストランに着くと、他には誰も客がおらず、白いワンピースを着た、やつれた表情の香織が既に席に座って待っていた。


「ごめん、待たせちゃったね。随分...痩せすぎてるみたいだけど、大丈夫?」

声を掛けながら香織の正面に祐介は座った。

元々無駄な肉は殆どついていなかった香織は、それこそ脂肪が全て無くなったのではないかという位に痩せていた。


「祐君...会いたかった...ねえ、どうして私の事捨てるの!?」

香織は虚ろな目で、悲し気な目で祐介を見つめる。


「かお、ごめん。君を...捨てた訳じゃない...俺は...」

祐介が目の前にあるグラスに入った水に口を付ける。

いつものように香織と言いかけて、慌てて言い直す。香織のメッセージや今の話から、祐介の事を諦めきれていないように思え、祐介は名前で呼ぶことを避けた。


「俺は寂しかったんだと思う。いつも当たり前に隣に居た君が遠くに行ってしまってから...ずっと一人っきりだった毎日に...耐えられなかった...」

「この前は唐突に、押しつけがましく終わらせてすまなかった。だから今日はきちんとお別れしたいと思ってここに来た。」


「改めて、俺と別れてほしい。俺には今、愛し合ってる人がいるから。」


「いやっ!!絶対にイヤっ!!...君って...君って誰なの!!祐君にそんな風に呼ばれたくないっ!!!」

香織はヒステリックに取り乱した。


「祐君が浮気したって、その女の人を好きだってかまわない!けど私は絶対に祐君と別れない!!別れられるわけない...今の私があるのは、今の私を作ったのは祐君なのに!」


香織は興奮気味に、まくしたてる様に一気に言葉を並べ続ける。呼吸も荒く、目は大きく見開かれていて、明らかに冷静さを失っている。だが、その瞳から涙の雫が零れ落ちていて、香織の悲しいココロを表しているようで、祐介は居た堪れない、突き刺されるような気持ちを覚えた。


「私が悪かった...私が全部悪かったの!!...自分勝手に夢を追いかけて、いつの間にか一番大事な人を置き去りにしちゃった私が悪いかったの!祐君は何にも悪くないっ!!

「ごめんなさい...祐君に寂しい想いさせたんだよね...寂しかったから、その女の人に慰めて貰ってただけなんだよね。 でも、言ってくれれば、ちゃんと祐君が求めてさえくれれば、馬鹿な私だって間違えたりしないんだよ...」


香織の瞳から、更に沢山の雫が流れ落ちる。その瞳は悲し気で、寂し気なのに輝きがあった。何かを決意、決断している。少しだけ病的にも見えるその瞳に、香織が何かを決意している事が祐介にも伝わってくる。


「もう女優、辞める。」

香織は覚悟を決めたという強い目で祐介の事を睨むように見つめ、口を開く。


この一言だけは、絶対に聞きたくなかったと祐介が思っていた、最悪の結末が、決断が香織の口から発せられた。


「ダメだ! 折角ここまで苦しんで、頑張って掴んだ夢じゃないか!女優は、女優だけは絶対辞めちゃだめだ!」

「イヤだっ!祐君が居なくなっちゃう方がもっと嫌なの! 祐君から別れて欲しいって言われて初めて気が付いたから... 祐君を苦しめて...寂しい思いをさせて...私は自分の事ばっかりで、祐君に何にも返せてなかった... だから...これからちゃんと返すから!何でもするから!!...だから...お願い...私を...捨てないで...」

香織はボロボロと涙をこぼしている。その涙を拭うこともせず、真っすぐに祐介を見ている。


「そんな簡単に掴んだ夢を手放しちゃダメだ。そんな風に返して貰いたくない。君の夢を応援するのが、俺の生きがいだった。でも俺は君を裏切った卑怯者だ。だから、君もこんな俺のことなんてさっさと見限って欲しい。」


「本当にごめん。君ならきっと次の素晴らしい出会いが」


その言葉を耳にした瞬間、香織は怒りを、やるせなさを全てぶつける様に祐介の方に身を乗り出し、必死の形相で祐介を睨みつけ、祐介の言葉が終わる前に自身の口を開く。

「出会いなんて要らないっ!! 祐君の代りなんて要らないのっ!!!!」


香織の悲鳴とも、怒りとも取れるような大きな叫び声が誰も居ないカフェに響く。


香織は悲鳴を上げて少し冷静さを取り戻したのか、俯き、か弱い声で独り言のようにつぶやく。

「私が...何の取り柄もない...ただの冴えない女だったこと...祐君が一番知ってるでしょ?」

「ただ憧れてただけだった...届くなんて思ったことすらなかった...祐君に初めて喋った時だって、馬鹿されて笑われると思ってたし、きっとそれでも悔しくなったり、悲しくなったりすることなんて無いって思っていた...最初から自分で諦めてた。」


「なのに...祐君は...凄いねって...私なら絶対叶えられるよって...だからずっと一緒に頑張ろうって...」


「凄く嬉しかった。真剣に頑張ろうって思えた。祐君がいてくれたから、私は憧れを、夢をつかめた...でも...でもそのせいで祐君を無くしちゃうんだったら、そんなの何の意味もないっ!!」


「私は...草津香織は...祐君が一緒に作ってくれた女なんだよ...私から祐君が消える事なんて絶対にない。色々ゴシップ書かれたけどあれは全部作り話なの。私の祐君への気持ちは絶対に他の女の子になんか負けない。今からだって遅くない...絶対に祐君を奪い返して見せるからっ!!」


「だから...私は絶対に祐君と別れない...祐君の気持ちがどんなに遠くにいっちゃっても、ずっと追いかけるから...」

香織は俯きながら、ポタポタと涙の雫を流している。白いワンピースの太ももの部分に雫が染み込んでいく。


「昔みたいに...香織って呼んで...お願い...一人にしないで...」


祐介は目の前にいる、七年も付き合っていた元恋人と本当の意味で正面から向き合って来なかったことに気が付いた。

こんなに想われていたことに気が付いていなかった。連絡が取れなくて寂しい思いをしていたのは、自分だけではなかった。

香織も同じように寂しく、苦しんでいたのだ。

自分勝手なのは自分の方だった。素直になれず、気持ちを押し込め、そして香織を裏切った。


全て打ち明けようと思った。ありのままの自分を全てを香織にも伝えようと思えた。

その上で、まだ香織が一緒に居たいと言ってくれるなら、自分の気持ちともう一度真剣に向き合おうと思った。

香織を裏切り、今度は麗奈を裏切る事になるかもしれない。それでも真摯に向き合い、自分の気持ちに正直に、素直になろうと決意した。


祐介は覚悟を決めた。


「黙っててごめん。俺...実は今メンタルヘルス不全、躁うつ病ってやつに罹ってる。」

「えっ...」

香織は小さな、聞こえるか聞こえないか位の小さな悲鳴を上げ、祐介の顔を見る。


祐介は努めて明るく話す。別れ話の最中とは言え、長く恋人だった女性へ自分の弱さを、全てをさらけ出す告白は自分でも重すぎると思っていた。だからこそ愛した女性に無用な負担を掛けたくなかった。


「仕事が忙しくて、上手く全部こなせなくてさ。毎日ストレス抱え込んじゃって。夏の終わりくらいから自覚症状っぽいものがあったんだけど、まさか自分がそんな病気に罹るなんて思ってもいなくて...メンタル不全って診断されるのが怖くてさ...検査の結果は当然メンタル不全。それに重度の貧血が重なっての味覚障害があった。今は味覚の方は大分良くなって来てるんだけど、躁うつ病のうつ状態は予断を許さない状況なんだ。」


「会社のストレスも原因の一つだから、同じフロアの全スタッフに俺のメンタル不全のことはオープンになってる。それを聞いた同僚の秋沢さんが俺を心配してくれて、ずっと食事を作って貰ってた。秋沢さん、麗奈とは十二月から同棲してて、香織に別れたいって話をした後、年明けに引っ越して今も二人で住んでる。」


「俺はメンタル不全で色々な物を無くした。出世も、男も...何もかも無くしたような気がしてた。香織のスキャンダル報道を見て、俺は自分が香織を裏切った報いを受けたと思った。絶望した。でも麗奈はそんな俺をずっと支えてくれた... 男すらなくしていた俺は...麗奈に支えられ、救われた俺は、ついこの間、初めて麗奈を抱いたんだ...香織の事を勝手に裏切って、ココロもカラダも彼女に委ねてしまった...そんな弱い、情けない男なんだよ...俺は。」


祐介は少し俯きながら、ぽつり、ぽつりとつぶやき続けた。

香織は両手で口を覆い、真っ赤になった目を大きく見開いていた。


「本当の意味で同棲を始めたきっかけは、彼女に命を救って貰ったからなんだ...香織の報道をみたの夜、俺は自分に対する絶望と香織に対する罪悪感から逃げ出そうとした。酒を呷って、全てを捨てて逃げ出そうとしたんだ。あの夜、もし麗奈が俺の部屋のドアを叩いてくれなかったら...もし麗奈が傍に居てくれなかったら...」


祐介は迷うように間を置いた。香織は目から大粒の涙を流しながら、その美しい瞳を瞬きもせず、祐介の口から放たれる言葉をただ茫然と聞いていた。


「...今、俺はこの世にはいない。あの日、俺は麗奈に首を吊ろうとしていた所を...自殺未遂を止められたんだ...」


それを聞いた瞬間、香織が席を立った。祐介が顔を上げて彼女を見ると、やつれたとはいえ整った顔が涙でグシャグシャになっている。

香織はそのまま祐介に向かう。

香織の長い髪の毛が顔にかかる。花園にいるかのような澄んだ、とてもいい匂いが祐介の鼻を刺激する。


「祐君...ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんっ...ごめっ...ヒック...」

泣きじゃくって声にならない、香織の悲鳴のような謝罪が、耳に届く。


「ごめんなさい...私...祐君がそんな辛い思いしてたなんて...ごめんなさい! もう絶対祐君から離れないから...ずっとそばにいるから...ごめんなさい!!」

泣きじゃくりながら、謝罪の言葉を続ける香織は絶対に離すものかと思っているのだろうか、痩せた細い腕で強く強く、力いっぱい祐介にしがみついていた。


「本当にごめんなさい!そんなにまで祐君を追い込んでたなんて知らなかった!!気付かなくてごめんなさいっ!!!」

泣き叫ぶ香織の頭を抱きかかえる様にして、祐介はそのまましばらく香織が落ち着くのを待った。


「香織のせいじゃないよ。」

「ううん。私がもっと祐君の事を...思って...」

再び涙声になる香織に祐介は優しく語る。


「香織の夢は俺の夢だった。香織が夢を叶えた時、俺、本当に嬉しくてさ。いつも香織が出てる番組ばっかり見てたんだよ。綺麗で、可愛くて、素敵な女の子。草津香織の大ファンだったんだ。」

「仕事では毎日怒鳴られて、恋人に会えなくて、辛かったはずなのに、小さなプライドが邪魔して強がって、自分のココロをごまかして、その挙句にココロもカラダも病んでしまった。そんな俺を救ってくれたのが麗奈なんだ。」

「麗奈を初めて俺の部屋に呼んだ時、確かに最初はカラダが、その温もりが目的だったんだと思う。けど、今は違うってはっきりと言い切れる。」


「俺にとって、掛けがえの無い大切な女性だ。」


「...私よりも?」


「ごめん。正直に言えば、今は香織よりも大切だと思ってる。」


「でも、私は絶対に別れない。私だって気付いたんだもん。」

「この前祐君から別れようって言われて、どれだけ私にとって祐君が大切な存在だったかって、はっきりとわかったんだもん!」

「彼女が居たっていい。私の事をどう思っていたっていい。」


「でも祐君が居なくなるのだけは絶対に嫌っ!そんなのだったら...私も死ん」

「死ぬとか簡単に言うなっっ!!!」

祐介が大声を上げると、香織はビクッと肩を震わせ俯く。

「ご、ごめんなさい。」


「ごめん。こっちこそ急に大声出して...香織。お互いにもう少し距離を置かないか?俺は麗奈の事を愛している。でも香織は別れたくないんだろう?」

「...うん」

「俺の新しい連絡先は教えるよ。」

「ホントに?」

香織の顔に少しだけ生気が、瞳に正気が戻った。


「ああ、でも俺には麗奈が居る。だから昔みたいには会えないと思うし、麗奈の為にも俺たちのやり取りはちゃんと麗奈にも見せる。それでも良いなら」

「それでも良いから!ありがとう!」

パッと花が咲いたように、香織の顔色が良くなっていく。


「分かった。所で香織、ちゃんと食事摂れてるのか?」

返事をせず、香織は力なく首を横に振る。


「ちゃんと言いたい事、伝えたいことがあったら俺に話してくれ。ストレスから来る拒食症っていう報道はあながち間違いじゃないんだろうから。」

「うん。そうだね...祐君から別れるって言われた後からだから...」


祐介は長年付き添ってきた香織がここまで憔悴し、そして強い想いを抱いていることを知り、突き放すことが出来なかった。優柔不断と言われればそれまでだったが、やはりそれが祐介であり、どうしようもなく元彼女の事が心配だったのだ。

しかも香織は祐介に別れを切り出された事から自分と同じようにメンタルヘルスを患ってしまっていた。


祐介は最後に香織に出来れば女優は続けて欲しいと言いかけて、その言葉を呑みこんだ。もしかすると自分と同じく、香織にも仕事から来る強いストレッサーがあるのかもしれないと思ったからだ。

大分落ち着いてきた様子の香織の頭を優しく撫でると、祐介は香織に離席を促した。


二人で並んでカフェのレジの前に立った。祐介が財布から千円札を二枚取り出すと、香織が自分の財布から千円札を一枚祐介に渡す。いつものように、当たり前のように学生時代から続けてきた割り勘の支払い方だ。

入社してから丸一年半、常に過労で残業をこなして来た祐介と、女優としてその地位を不動のものにした香織、恐らくは彼女の収入は祐介の何倍も上を行っているはずだが、こうして二人で並んでいると、高校生の時に二人で決めたルールに縛られたままで、コーヒー代ですら割り勘するのだ。お互いの地位や収入が違っていても、昔からずっとそうし続けて来た二人の当たり前だからだ。


祐介は店員がお釣りを数えているのをぼんやりと見ながら考え事をしていた。


決意を持ってこの場所に来たはずなのに結局結論が出なかった。香織の症状も気になっていたし、本人が別れないと言い張る以上、祐介にはどうする事も出来なかった。

ほだされたと言ってしまえばそれまでだが、祐介は香織にも、麗奈にも申し訳が無い気持ちで一杯になってしまった。


そんなことを考えていると、お釣りが戻ってくる。五百円玉を香織の財布に投げ込むと、余った小銭を自分の財布に投げ込み、折り畳んで革ジャンの奥にしまい込んだ。


改めて別れるつもりで香織と待ち合わせていたから、タンデム用のヘルメットは持ってきていなかった。

香織はタクシーを呼ぶと言い、スマホを耳に当てて電話を掛けている。

電話をしている間も、ずっと祐介の袖を力強く、ギュっと握っていた。祐介はそれを振りほどいて彼女を置き去りにすることは出来なかった。


このままでは香織は女優というやっと掴んだ夢を、いとも簡単に手放してしまう。

女優だけは絶対に辞めて欲しくなかった。

自分がかつて愛した女性が苦労と努力の末にやっと掴んだ夢。

それを一番近くで見続けて来た男として、自分のせいで夢を諦めることだけはして欲しくなかった。


「香織、俺はこの山の麓にある会社の保養所に麗奈と一緒に泊ってる。もし何かあったらこっちの番号に連絡くれ。」

そう言って香織と連絡を取れないようにするために機種も番号も変えたばかりの、僅か一か月しか役に立たなかった新しい連絡先とIDをメモ用紙に書いて渡す。


「祐君。私、今から行っちゃダメ?」

「ダメだろ、普通。」

「ヤダ。押しかける。」

「何でそうなる?今日は彼女と、麗奈と一緒に来てるんだぞ?」

「祐君を助けてくれた麗奈さんって人にちゃんと御礼言いたいから...」

「それに、さっき言ったでしょ。私は祐君を取り返すんだって。」

顔はやつれ気味だったが、その笑顔はさっきと違って、昔の笑顔に大分近付いていた。


祐介はもう色々と諦めて麗奈の携帯に連絡し、事情は後でじっくり話すから、とにかく今から元彼女を連れて戻ると連絡を入れた。

香織に保養所の名前と電話番号を伝え、念のためにタクシーの運転手にも同じことを伝える。さすがにプロだけあって場所は知っている様だ。


バイクに跨って保養所までの道を飛ばす。十分ほどで着くと、麗奈にすぐに電話を掛けて話し合った内容をありのままに伝えた。麗奈は少し笑いながら、『モテる男はつらいね』と言い、香織を会う事を快諾してくれた。


玄関で祐介が待っているとやがてタクシーが保養所の玄関に横づけされ、香織は財布から五千円札を取り出し、お釣りを受け取り、タクシーを降りた。

昔のように眼鏡を掛け、やつれた顔の香織は、やはり誰がどう見ても、あの人気女優草津香織には見えなかった。



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