【三】
一部性的表現及び残酷な表現を伴います。ご注意ください。
【三】
目が覚めると祐介は異常な倦怠感に襲われていた。
手足に力が入らない。力を精一杯振り絞っても手がピクリと動くだけだ。
それを自覚すると祐介は強い焦燥感に襲われて息が荒くなっていく。
『なんなんだ、これは。』
強い焦りと恐怖感、そして全身を包む倦怠感が混じり合って、黒い渦のようにグルグルと、自分の体が深淵に引きずり込まれる。その深淵に引きずり込まれるような感覚と共に、祐介は意識を手放した。
どの位暗闇に飲み込まれていたのだろうか。祐介はスマホの着信音で目を覚ました。
今度はちゃんと力も入るし、手足を動かすことも出来る。慌てて飛び起きると、スマホを見る。同僚からの電話着信だった。緑色の大きな表示を指でトンと叩いてスマホを耳に当てる。
「おーい。どうした名倉?風邪でも引いたか~?」
呑気な声の間延びした同僚の声が聞こえてくる。
「ああ、すみません。ちょっと熱が高くて体が重いので今日は休暇を頂きたいと武田係長に伝えて頂けませんか。」
「おお、そうだったんだな。了解、伝えとくわ。お大事にな。お前来ねえとあの人、こっちにまで当たり散らしてくるから早く元気になって俺たちを守ってくれよ。」
「明日は出られると思います。」
通話を切って、パソコンを起動する。
インターネットの小さな画面に素早くキーワードを入れる。
全身の倦怠感、憂鬱な気分、そして味覚の変化。
認めたくはなかったが、自覚症状がありすぎた。
祐介は検索結果の表示をクリックして目を通していく。
【うつ病】 【自律神経失調症】 【脳疾患】
どれにしても、自分一人でどうこうできる病気でないことだけは分かっている。
祐介はココロのどこかでそれを認めたくないと思う自分がいる事も理解していた。
社内研修でメンタルヘルスに関する教育は勿論受けていたし、社内でもうつ病に罹った人の話は聞いたことがあった。まさか自分が...そんなに弱く、情けない人間だとは思ってもいなかった。二年目になって確かに仕事量は倍増したし、上司からの叱責は日常茶飯事だ。祐介にもわかっていた。このストレスは異常なものだと。
それでも弱音を吐く事を良しとせず、叱られるのは自分が悪く、仕事がこなせないのは自分が不器用だからだと我慢して仕事をし続けて来た。
結局の所、祐介は日々少しずつ壊れていく自分を認めたくなかっただけだった。
メンタルヘルス不全と診断されれば今の席で仕事が出来なくなるかもしれない。同僚の、同じフロアのみんなにも迷惑が掛かる。そう考えただけで、あの感覚が呼び起こされて、引きずり込まれるように目の前が真っ暗になる。
責任感が強く、人に本音を話すことが出来ない祐介は、日々のストレスを少しずつ、砂時計の砂がゆっくりと落ちていくように溜め込んでしまっていた。複数の自覚症状が現れるほどに溜め込み、不規則で乱れた生活がそれに輪をかけていた。
眩暈を覚え、ベッドに倒れ込む。マットが、ベッドがきしむ音が聞こえた。
天井を見上げる祐介の目に輝きも光もない。ココロがひしゃげてしまっている。
絶望のどん底で、祐介はその日食事も摂らず、ただ天井を眺め続けた。
☆
翌日、何とか出社した祐介は社内診療所で産業医と面談していた。
昨日起こった事、そして以前から薄々感じていた症状について相談する。
最終的に都内の提携先の大学病院へ行くように勧められ、産業医のサインが入った紹介状を受け取る。産業医は開発部長と思しき人物に内線電話を掛けて、祐介にメンタルヘルス不全の兆候がある為、今日は病院に行くため職場には戻らない旨を伝えた。
三十代前半くらいに見える、若い産業医はやさしい顔で祐介を諭すように語り掛ける。
「名倉さん。メンタルヘルス不全は、ココロの風邪です。誰でも罹り得るし、それは恥ずかしい事でも何でもないんですよ。名倉さんのココロが、カラダが、ストレスに耐えきれないとSOSを出しているんです。もっとご自身を労わってあげてくださいね。とにかく苦しいと思ったら、私でも良いし、他の誰かでもいいから、話をしてください。我慢して溜め込むのが一番体に悪いんですからね。」
祐介のココロに、この一言が突き刺さった。
自分のココロとカラダがSOSを出すほど一人我慢し続けて、ストレスを抱え込んでいた事に衝撃をうけた。
大学病院で医師の問診を受け、一日中検査を受けた。
医師は所謂メンタルヘルス不全、自律神経失調症若しくは躁うつ病の疑いが高いと祐介に告げた。更に乱れた食生活によって重度の貧血になっており、その事が味覚障害を引き起こしていたことが明らかになった。祐介は大量の冊子と薬を貰い、産業医に渡す様にと診断書の入った大きな茶封筒を鞄にしまって会社に戻った。
産業医に封筒を渡して礼を述べて診療所を退出すると、そのまま事務所に戻る。
珍しく課長が応接用のソファに腰を掛けて武田係長と何やら話をしていた。その後、課長から応接室に呼ばれ、謝罪と請願を受けた。
既に産業医から部長に話がいっており、課長がフロア内の同僚たちから聞き取りをした結果、武田係長の行為がパワーハラスメントに該当する可能性があると判断された。残業時間は当然超過で、会社としては過労が原因でメンタルヘルス不全者を出したことが公になり、労働基準監督署の立ち入りと社名公表が行われる事態だけは何としても避けたいので了承して欲しいというのが課長の話の主旨だった。
要するに業務負担の軽減と近いうちに係長交代の人事を行って、本人のメンタルヘルスのケアを最優先させる体制にするから、口をつぐんでダンマリを貫き通せということだ。
最後に配置転換を希望するかと聞かれた祐介は即答でそれを拒否した。
が、業務命令として医師の指示があるまで残業は禁止となり、定期的に大学病院に通院するようにと指示を受けた。
事務所に戻ると、皆が心配そうな顔をしているのがありありと分かった。
そんな顔で見られる事が祐介のココロを小さく抉るのだが、メンタルヘルスと診断された同僚にどう接して良いのかわからないようで、祐介はそれを気にしない様に努めた。
メンタルヘルス不全と診断されて数日が経った、いよいよ師走も中旬になろうかというある日の事、定時に事務所を出ると後ろから名前を呼ぶ声と共に肩を叩かれた。
「よっ!名倉君。」
「秋沢さん。どうしたんですか?」
「名倉君と一緒に食事したいなーって。」
「すみません。俺、今食事療法中ですので。」
「うん。知ってる...。 ...メンタル不全...なんだよね?」
「ええ。食事療法は貧血の方なんですけどね。」
「私、こう見えても結構料理上手なんだぞ!だから名倉君の家で作ってあげるから!どうせ美味しくもない弁当とか買って帰るつもりだったんでしょう?」
キラキラとした目をしながら、麗奈は祐介を見ている。
「確かに自炊していないので買って帰ろうとは思ってましたけど...」
「貧血なんでしょ?鉄分摂らないとダメじゃない。」
「鉄分補給の錠剤を貰っています。」
「ダメダメ!自分自身の体が治ろうとする力を強くするにはちゃんとした食事が一番なんだから!」
「自己免疫の話ですか?秋沢さん、ケミカルの会社に勤めてるのに文系なんですか?」
「うぐっ!理系だけど...もうそんな小難しい単語、忘れたわよ!...ってそうじゃなくて、一人暮らしの寂しい名倉君が可哀そうだから食事位作ってあげようかと...」
「同情で食事を作って貰うのも何ですから、結構です。お気遣いありがとうございます。」
「ああ!もう!!何言ってるの私っ! そうじゃなくて!!名倉君には恩があるから恩返しだって!」
「恩返しも結構です。お仕事お疲れ様でした。」
祐介はそのままロビーに向かって歩き出す。唯でさえ色々と我慢し続けてメンタル不全になったのだ。
これ以上我慢をするわけにはいかない。それもただの同僚の女性ではなく、色気たっぷりの可愛らしい女性と二人っきりでは、何が起こるか分からない。
「ちょっと待ってよ!!ごめん!私の言い方が悪かった!!名倉君と一緒にご飯食べたいの!!この通り!!」
パチンと両手を鳴らして目の前でその両手を合わせる。
小動物のような可愛らしさと天使なのか悪魔なのかわからない可愛らしい笑顔を浮かべながら目を瞑ってお願いする様はどこか昔の香織を思い出すようでふとこみ上げてくるものがあった。
食事くらいなら香織も許してくれるだろうか。免罪符を求める様にそんなことを考える事自体が、祐介にとっては異常な事だった。正常な時の彼の貞操観念からすれば、香織に黙って自室に女性を招待することはあり得なかった。
祐介は自分自身の弱さに傷付き、人と話をする事に本心では餓えていたのかもしれない。
口をついて出た言葉は、そんな祐介のココロが求めていた人間との温かい触れ合いを求める最初のあやまちだった。
「良いんですか?可愛いらしい女性が独り暮らしの男性の家で料理なんて作って。勘違いされますよ。」
「勘違いされたいから大丈夫!そうと決まったら早速行きましょ!!」
弾ける様な笑顔を見せた麗奈は、祐介の左腕に絡まると、そのまま二人で冬の歩道を歩いていく。
祐介は久しぶりに感じた柔らかく、甘い感覚に痺れる様な強烈な衝動を受けた。
その温もりが、匂いが、余りにも甘美で、真っ黒なココロが白くなっていくような、ぶ厚い雲が少しずつ薄くなっていくようなそんな感覚に包まれていた。
近所のスーパーで食材を買い出しして、祐介のワンルームのアパートに二人で戻る。
祐介からスーパーの白いビニール袋を受け取った麗奈は小さな冷蔵庫に食材をしまい、慣れた手つきで台所で料理を始める。
冷蔵庫に食材をしまっている麗奈の後ろ姿は、お尻を突き出したような格好になっており、パンツスーツから下着のラインが浮き出していて、扇情的な格好に映った。
麗奈の後ろ姿をじっと見ていた祐介は、頭の中が熱くなり、そして自身の下半身が熱を帯びていくのを感じていた。
モヤモヤとした、ドロドロとしたどす黒い感情が湧き出してくる。こんな気持ちになってはいけないと理性がブレーキを掛けようとする一方、また我慢して、溜め込んでメンタル不全を更に悪化させるつもりか。と悪魔のささやきが聞こえてくる。普段の祐介であれば、一瞬頭に不埒なことを考えたと言うだけですぐに理性が働き、何事もなかったかのように振舞えたはずだったのに、今日に限って目の前にある甘い果実を欲する欲望が頭を支配してしまっていた。
欲望に身を任せ、祐介はゆっくりと麗奈に近付いていく。
「秋沢さん」
そして調理中の麗奈に背後から覆いかぶさった。
「ちょ、ちょっと名倉君!先にご飯...んっ」
祐介が麗奈の唇を乱暴に塞ぐ。
包丁を持っていた麗奈は、それをまな板の上にそっと置き、向き合い直して両腕を祐介の首筋に回す。
「名倉君...ベッドに行こ。」
二人はベッドに倒れ込んだ。祐介は自分のシャツを乱暴に脱ぎ捨て、麗奈のスーツも剥ぎ取るようにして脱がせていく。
祐介は下着姿になった麗奈の肢体に自身の体を密着させ、その温もりを感じ、甘く、赤く滾る感情に身を任せるように溺れていった。下半身は燃え滾っており、麗奈の太ももにそれを擦ると自分で触るのとは全く違う、痺れるような快感が脳に伝わる。
『生きている。生きているんだ。』
自分の肌を通じて、相手の肌の温もりが伝わる。たったそれだけなのに、それがこんなにも温かく、甘い感覚だという事を祐介は知らなかった。肌の温もりがこんなにも甘いものだと、初めて知った。
祐介は夏以来会っていない恋人の事を忘れ、一心不乱に『生の証』を求めた。
自分が生きているという証、生き続けたいという証を、麗奈と体を交える事で自身の心に刻み付けたかった。
『甘い。なんて甘くて、気持ちが良いものなんだろう。』
麗奈がその昂った祐介自身を右手で優しく包み、その手を上下に数往復させた瞬間、祐介の中で燃え上がっていた赤く、熱い感情が爆発し、それは白い迸りとなって祐介の躰から放たれ、麗奈の体にまで降り注いだ。
「あっ...ご、ごめん。」
祐介は白く美しい肌に自らが放った白いシャワーが降りかかった麗奈を、そして周りに散乱する衣服と乱れたベッドを見て、取り返しのつかないことをした事を悟った。
「ううん。大丈夫だよ。続き...する?」
「ごめん...秋沢さん...俺、彼女居るんです...」
正気を取り戻した祐介はベッドの端に腰を下ろす。
「そりゃあ居るよね。名倉君、カッコいいし、優しいし。」
「...俺は秋沢さんも、彼女も傷付ける様な事を...」
「彼女さんとはしてないの?って言うか、この部屋に女性を感じさせるものが何もないけど。」
「彼女と言っても...織姫と彦星みたいなものですから...」
「そっか。遠距離恋愛なんだ。」
「まあ...そんなようなものです。」
麗奈は下着姿のまま祐介の隣に座る。つい先ほどまで先程までくんずほぐれずで絡まり合っていたベッドの上で二人は並んで座っている。
「秋沢さん...俺、これから先、彼女と続けていける気がしないんです。だから、ちゃんとケジメ付けますから...」
「うん。ありがとう。名倉君になら遊ばれても良いって思ってたから、そう言ってくれるだけで凄く嬉しいな...」
麗奈が目をこすりながら、頬を赤く染めている。
「じゃあ、毎日名倉君の為にご飯作りに来てもいいよね?」
「いや...だから先にケジメを。」
「もう私の中では付いてるから。名倉君がそう言ってくれた。それだけで私は満足。だから、気兼ねなく襲ってくれていいわよ。」
麗奈は小悪魔的な微笑みを祐介に向ける。
祐介は香織に別れを告げる決意をした。メンタルヘルスを患った事も知られたくなかったし、弱い自分を知られたくなかった。そして勢いだったとはいえ、香織の事を忘れ、溜め込んだ快楽への欲求を満たすために麗奈の体を、他人の体を求めた自分を許すことは出来なかった。
麗奈は祐介の部屋に置いてあった何枚もある冊子に目を通し、祐介の病気を正しく理解するように努めた。
よくよく本人に話を聞くと、やはり躁うつ病の症状があり、躁状態は殆ど見られないものの、鬱状態は深刻な様に思えた。
麗奈は翌日の朝、祐介と共に産業医の元に行くと、祐介の私生活を支える為に気を付けるべきところや注意点を聞き、熱心にメモを取っていた。祐介が業務に戻ってからも産業医とカウンセラーの話を聞き続けていた。
夕方になると祐介と一緒に定時で会社をあがり、一緒に帰宅し、夕食を共にして朝食の下ごしらえをして帰宅した。
更に翌々日からは昼食を自分の分と合わせて二人分の弁当を持参し、一緒に三食を摂るようになった。
麗奈と同居を始めて数日で二人の心は急速に近づいていき、祐介と麗奈はお互いを名前で呼び合うようになった。
同棲を始めて十日が過ぎたころから麗奈の献身的な私生活の支えが功を奏したのか、祐介は少しずつではあるが味覚が戻り、睡眠不足感、起床時の倦怠感が和らいでいくのを文字通り体感出来るようになった。
『麗奈のおかげで俺のココロは治りかけている。』
躁状態の時はそんな風に考えらえるようになっていた。
ただ、夜になるとうつ状態になる事が多く、薄々だが祐介は自身の体に新しい異変が起きている様な気がし始めていた。強い酒の量は増える一方だった。
いよいよ世間にも年末の足音が聞こえ始めたころ、駅の売店に仰々しい大きさの見出しで、草津香織の熱愛報道が掲載された。相手は十歳年上の俳優で、都内のお洒落なレストランで密会デートと書かれていた。
清純派の香織が初めてスキャンダルのネタになった。普段であれば、一切気にも留めずに、普通に『大丈夫?』とメッセージを送っていたが、この時期の祐介にはそんな心の余裕はなかった。精神的に受けたダメージは大きく、一気にうつ状態へと引きずり込まれた。
回復途中の躁状態からうつ状態は、ある意味どん底よりも辛いものだった。
治りかけているはずなのに、うつ状態になると、治っていないという現実を直視してしまう事になり、さらに落ち込み具合の落差がどん底の状態に比べて酷く感じられた。ふと夜中に目を覚ますと、物凄い絶望感に苛まされて、胸が苦しく、見悶える。
いつもと変わらず麗奈と過ごした後、一人ぼっちでベッドに潜っていると、目の前にグルグルと渦のようにどす黒い感情が湧き出してきて、祐介の精神状態は急激に悪化した。
自分はどうしようもない男だ。恋人がいながら、もう一人の女性、麗奈と一緒に住み、まるで恋人同士のように名前を呼び合っている。こんな自分に愛想を尽かしたから、香織に新しい恋人が出来たのだ。こんな弱い自分に、離れて連絡も取っていない自分に香織がいつまでも愛情を抱き続けるわけがない。美しい香織を自分よりカッコ良くてお金持ちの同業者たちが放っておくはずがない。
こんな情けない自分に。こんなダメな自分に。別れを告げる前に香織の方から愛想を尽かされてしまった。
香織の知らない間に、自分は別の女性の体を求めた。
香織を裏切り、麗奈の心すら弄んでいる。
自分の心は高尚な愛ではなく、目先の甘ったるい快楽と温もりを求めてしまう。己を律する事も出来ず、ただ本能に従って行動する下等で卑劣な人間に、自分はそこまで堕ちてしまったのだ。
負の感情に、ネガティブな考え方に、そしてそこから生まれる自己嫌悪にもがき苦しむ。
それを紛らわせるために祐介は瓶に入っている強い酒をコップ一杯並々に注ぐと、一気にそれを呷って流し込んだ。
体の芯がポカポカと温かくなっていく。頭が軽くなっていく。更にもう一杯注ぎ、それを水のように一気に呷る。
カラダが熱くなり、頭がクラクラとしてくる。
それでも尚、グルグルと黒い感情が、留まる事なく膨らみ続ける風船のように大きくなっていく。
祐介はボトルに残ったウイスキーを一気に飲み干す。寝る前には半分以上残っていたウイスキーが、一気に空瓶になった。
頭がグルグルする。そんなに酒が強い訳でもない祐介が、ここまで酒を飲んでもいつものように潰れる事がない。
だが、不安と恐怖に足掻こうとする、強くあろうとする心を溶かして弱い自分の、悪魔のささやきに身を任せるには十分なアルコール摂取量だった。
醜い自分を全てを投げ出したくなる衝動に身を任せられる程度に祐介は酔ってしまった。
『俺みたいな奴はこの世で生きてちゃいけない人間なんだ。最低の男のクズだ。死んでしまえばいい。』
祐介は、勢いのまま、酔いの回るままにスポーツタオルを取り出し、手に持っていた。
タオルの両端を結び、玄関のドアノブに吊るす。
無表情のまま、腰を下ろし玄関のドアにもたれかかる。
祐介には白いタオルしか見えていない。この輪の中に首を突っ込み、腰を再び下ろせば楽になる。
もう、辛い思いも、悲しい思いも、寂しい思いも、空しい思いも、何も感じたくなかった。
両手を添え、タオルを首に掛けた。
後は腰を落とすだけだ。
みんな、ごめん。
友達の笑顔が浮かんだ。
父さん、母さん、ごめんなさい。
厳しい両親だった。でもいつも優しく見守ってくれていた。
麗奈。ごめん。
可愛くて、何より温かった。そしてココロの奥底で惹かれていた。
香織、本当にごめん。
長い間愛し続けていた美しい顔の彼女の輪郭がぼやけて映った。
目頭が熱くなって、ただでさえ何も見えない視界が更にぼやける。
もう、楽になろう。楽になってしまいたい。
一瞬の苦しみなら大したことはない。ずっと苦しいのは、どん底が続くのはもう嫌だ。
逃げたっていいじゃないか。弱い心に支配されたっていいじゃないか。これで俺はやっと楽になれるんだ...
どうして俺が、俺だけがこんなに辛い目にあわなきゃならないんだ。
これで終われる。やっと全ての苦しみから、悲しみから、寂しさから、辛さから解放される。
- これで楽になれる -
ドンドンドン!!
『祐介っ!!居るんでしょ!! 開けてっ!!』
玄関のドア越しに、こもった女性の声が聞こえた。
体を支えていた力を抜きかけたその瞬間、ドアが叩かれ、名前を呼ばれた。
祐介は聞き覚えのある声に我に返り、首に掛ったタオルを外して立ち上がる。
ドアスコープを覗くとドアの向こうには、茶色の頭の女性が玄関に縋りつくようにしながらドアを必死に叩いている。
『お願いだから!!開けて!! 祐介!! 祐介ッ!!!』
ガチャリ、と音を立てて鍵が解錠される。チェーンロックを外してドアを開ける。
「ゆ、祐介!ご、ごめん。こんな夜中に!なんか...凄く...嫌な予感がして...」
そう言って麗奈は視線を落とした。その瞬間、祐介から異常なアルコール臭がする。ボトルを一気飲みした際に、
シャツに掛ったウイスキーの匂いだった。
祐介の目は虚ろで、目元は涙の跡が乾き切っておらず濡れていた。
麗奈は更に周囲の状況を見渡すために視線を左右に必死に泳がせる。ピタリと止まった視線の先にはドアノブに掛けられた、不自然に掛けられているタオルの輪が目に入る。
麗奈はその一瞬で全てを悟った。間に合ったのだ。鍵を、ドアを開ける早さから考えて祐介は間違いなくドアを叩く直前まで玄関でその行為に及ぼうとしていた。
安心と同時に恐怖が襲ってきた。ワナワナと震えながら、まるで何かに怯える様な顔で麗奈は祐介を見て、
「祐介っ!!しっかりしてっ!!!こんなこと...こんな事絶対にしちゃダメだよっ!!!」
麗奈は泣きながら祐介の胸に飛び込んだ。
麗奈はベッドの横で祐介の頭を撫でながら、一晩を祐介の隣で明かした。翌日も一緒に出社し、一緒に帰社した。
アパートに戻るとなぜか布団が運び込まれており、着替えは勿論の事、調理器具や調味料の類まで小さな引っ越しの規模で麗奈は住居を祐介の自宅に移した。
次の日も祐介が夜中に目が覚ました。祐介がベッドから起き上がるとすぐ隣の布団で寝ていた麗奈も起き上がる。
悲し気な表情の二人の目線が暗い六畳間で重なり合う。
麗奈は布団から体を起こすと、祐介の元にゆっくりと歩み寄る。
「祐介...寂しい? あなたは一人じゃないんだよ...」
麗奈が祐介の両頬に手を当てる。優しく微笑みながら顔をゆっくりと近付けて唇を合わせる。
両頬と唇に伝わる温もりが祐介の心に沁み込んでいく。
「麗奈...俺は...俺は...寂しいんだ...温もりが欲しいんだ...」
麗奈は立ち上がり、祐介のベットの中に潜り込む。祐介の頭を自身の胸にギュッと押し付けて抱える。
祐介の鼻孔に、甘い香りが広がっていく。
「祐介、我慢しちゃダメだよ。」
祐介の頬を、髪を撫でながら、麗奈はパジャマのボタンを外していく。
豊かな二つの膨らみが作り出す深い谷間が、はだけたパジャマの奥に見える。
「祐介の...好きにしていいんだよ。」
祐介は両手を麗奈の細い背中に回し、胸に顔をうずめる。
麗奈の温もりと心臓の鼓動が心を落ち着かせていく。
大きく、柔らかい二つの大きな風船の間に顔をうずめながら、祐介が感じていた自身の異変に違和感の正体に気が付いた。
女性の柔らかい、大きな風船に顔をうずめれば、当然のように熱く滾り始めるはずの自身が、勃たなかった。
心の中にそう言う感情が無い訳ではない。軽い興奮と胸の高まりの残骸のような気持ちがわずかにあるだけで体の芯が熱くなり、滾るはずの自身は鳴りを潜めていた。躁の状態なら普通に機能する男性の性が、うつの状態の時には役に立たない。祐介は心と体がどんどんと離れていくようで、怖くて仕方がなかった。
しかし、それ以上に自分を苦しめた黒く渦巻く感情が、麗奈の胸の中に収まっている間になりを潜めて消えてしまったことに安心を覚え、まるで子供のように泣きじゃくり涙を流した。