【二】
【二】
北風が吹き始めた十二月のある日の深夜、一人暮らしのワンルームのアパートに戻り、シャワーを浴びる。溜まった洗濯物が山になっているが、音が筒抜けになるので洗濯機を動かせず、溜まる一方だ。
祐介は年度末の部門別発表会のプレゼン資料を武田係長から押し付けられ、十二月に入ってからは日付が変わる頃まで残業をしていた。
冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出して一気に流し込む。
冷たい感触が喉を潤しながら、溜まった汚れを落としていくような爽快感と心地よい痺れる様な感覚に
酔いしれる。
冷蔵庫を開け、パックに入った豆腐を出すと、箸でパックの中を崩し、そこにダバダバと醤油をかける。
溢れんばかりに醤油で満たされたパックは、まるで血の池に浮かんでいる様にも見えた。
その溜まった醤油ごと豆腐を口に入れないと、味がしないのだ。
この頃は眠れない日々が続いている。言いようのない不安に苛まれ、寝付けなかった。寝付けないと思うと増々寝られなくなり、深夜まで強い酒を入れ続けて無理やりに睡眠をとっていた。
ふとテレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れると見慣れているはずの香織の顔が画面いっぱいに映し出された。ここ最近は香織の出演ドラマを追いかけられる余裕がなく、レコーダーに搭載された検索キーワードで自動録画する事しか出来ていなかった。雑誌類のスクラップに至っては部屋の隅に積み上げられたままだ。
画面の向こうには、目の前で祐介に向ける笑顔より遥かに楽しそうな、嬉しそうな弾けるような笑顔の香織がペットボトルに口を付けている。そして聞きなれた声が祐介の耳に入り、そしてそれは残滓のようにいつまでも頭の中に残り続けて、祐介の古い記憶を呼び覚ました。
☆
「名倉君っ! あの...す、好きです!私と付き合ってくださいっ!!」
頭を深々と下げ、ショートカットの女子生徒が突然告白してきた。
目の前には身長百八十センチ近くある背の高い、切れ目で短髪の男子生徒が立っている。
「ええっと...ごめんなさい。」
その言葉を聞いた女子生徒は泣き出しそうな顔をしながら男子生徒を見上げる。
「折角なんだけど...俺、君の名前すら知らないので...だから、まずは友達から始めませんか?」
草津香織と初めて話したのはこれが初めてだった。
ボーイッシュなショートカットに眼鏡を掛けていて、ぱっと見ると冴えない感じの女の子だと第一印象でそう思った。というか、眼鏡のセンスが悪い。もっと可愛くなれるはずなのに、どこかセンスがかみ合っていない。
だから冴えない印象を受ける。祐介は頭の中でそんな風に考えていた。
「あっ!あのっ!!すみません!!私、二組の草津香織といいます!草津温泉の草津に、
香ばしいに織姫の織って書いて香織です!突然告白してごめんなさい!」
「いや...何でそんなに謝るの?別に謝られるようなことは何もされていないけど...」
こうして高校一年の冬に祐介と香織は友人関係からスタートした。
香織が祐介に興味を持ったのはある出来ごとがきっかけだった。
ある初夏の日、小雨が降っている中、中学時代の友人と一緒に自転車で登校していた。
傘を差しながら二人で並んで走っていると、目の前に急に小学生が飛び出してきた。
香織は急ブレーキを掛けながらランドセルを背負った小学生をギリギリ躱すことが出来たが、友人は突然の事に驚き、咄嗟にハンドルを大きく切り過ぎた結果、段差から転落して自転車ごと派手に転倒。
足や腕から血を流して泣き出してしまった。香織がオロオロとしている所に後ろから自転車で通りかかったのが祐介だった。
祐介はその惨状を見て、自転車を近くに止めると、すぐに香織たちに声を掛けながら携帯電話を取り出し学校に電話をした。
学校の養護教諭が駆け付けるまで香織と二人で友人に声を掛け、励まし続けた。
友人が養護教諭の車で病院に向かうと、友人が忘れていったカバンを香織に預け、外れてしまったチェーンと転倒で曲がったハンドルを手早く修理して去って行った。
余りの落ち着きぶりに先輩だとばかり思っていた香織だが、後で事故にあった友人に聞いたところ、同じ学年だと言われ驚いた。カッコよくて、優しい人だと思った。
この時、香織の中に小さな小さな、生えたばかりの双葉の芽のような恋心が生まれたが、本人には自覚がなかった。
辛く、苦しい片想いに気が付いたのは、秋に行われた体育大会のクラス別リレーでアンカーとして三人をごぼう抜きして逆転優勝した一組の走者を目の当たりにした時だった。アンカーは名倉祐介だった。
級友たちに囲まれ、ニコニコ顔の爽やかな笑顔にクラスの男子も、そして女子も彼の周りに集まった。
女子たちは黄色い声を上げながら、祐介の周りを取り囲み、タオルやら冷たいスポーツドリンクを入れた水筒を差し出している。異性に囲まれている彼を見て、香織の胸には何かが突き刺さったかのような痛みと、締め付けられるような苦しさがはっきりとした形で生まれた。
幼稚園の時に一緒に遊んでいた男の子、香織の自宅新築で転園となり離ればなれになった男の子以来の言わば初恋といっても差支えの無い初めての気持ちに香織は熱く脈打ち、高鳴る心臓の鼓動を抑えきれなくなった。
同じ学年の、すぐ隣の一組にいる名倉祐介に恋をしたと自覚した香織は、クラスメイトや友人に彼の事を聞いて回った。クラスメイト達は今更何を当たり前のことを聞いてくるのかと呆れ顔で言われた。
名倉祐介は俗にいう、学校の人気者だった。
容姿に恵まれ、高身長で勉強は常に学年トップ、運動神経は抜群だったが、部活動はしておらず、その雄姿は同じクラスになった者だけが体育の授業で見る事が出来た。他のクラスの者は唯一体育大会でしかその雄姿を拝むことができなかった。当然女子生徒や若い女性教諭からも人気があり、彼の周りの空気はキラキラと輝いているように見えた。
抑えられない恋心に囃し立てられるようにいきなり告白をしたが、名前も知らないと言われてショックを受けた。同時に、本人からまずは友達から。と宣言を受けた事に開き直り、友達だからと理由を付けては、まるでストーカーのように付きまとった。
彼は嫌な顔一つせずに、時々思わず赤面してしまうような優しい笑顔で微笑んでくれた。
香織の心の中は、彼に占有され、彼の事を考えない事はひと時もなかった。
圧倒的な片想い。香織は生まれて初めて恋をしている日々がこんなにも充実して、楽しいものだという事を知った。
何とか名倉祐介の隣に居ても恥ずかしくない女の子になりたいと思っていたが、そのなり方が分からなかった。精々髪の毛を伸ばして、化粧を薄くする位で、友人だと思っていたライバルたちは、何もアドバイスをくれず、むしろ祐介に付きまとう香織の事を良く思っていなかった。
それでも香織は諦めなかった。
「やっぱり私は名倉君が好きです!付き合ってください!!!」
二年の夏休み直前、香織は三度目の正直と言いながら、玉砕覚悟で三度目の告白した。
一年の十二月に初めての告白して友達になった。バレンタインに二回目の告白をした時には、もう少し時間が欲しいと曖昧な表現で断られた。それでも香織は諦めず、一途に祐介の事を想い続けた。
「本当に、俺みたいなので良いの?俺、あんまり面白くない奴だけど...
そんな俺でも良いんだったら、よろしくお願いします。」
高校二年の夏休み直前の告白。祐介の返事はOKだった。
難攻不落の学校の人気者に遂に彼女が出来た。
多くの女子生徒をどん底の淵に陥れ、多くの男子生徒がこれで超強力なライバルが居なくなったと喜んだ。ただ、祐介と香織の関係は相変わらず、香織が一方的に纏わりついているようにしか見えず、女子生徒の間には単なる気まぐれですぐに破局するだろうという希望的な観測もあった事から、二人の恋路を邪魔しようとしたり、香織がいじめにあうような事はなかった。
高校二年から彼女としての関係が始まり、今までの七年間彼女だけが恋人だった。
祐介は勉強は出来たし、友達も沢山いたが、恋愛は不器用だった。
中学、高校と何人かの女性と付き合ったが、相手から告白され、そして相手から別れを告げられ続けて
来た。
「面白くない」「あなたの気持ちが分からない」「私を見てくれない」
そんな風に言われると、恋愛に関して自分は本当にダメな奴なんだと嫌でも自覚せざるを得なかった。
この頃の祐介は大学受験の準備もあって、特に恋愛への関心が薄れていた。
当然、香織との付き合いも全て順調だった訳ではなかった。色々と悩み、喧嘩もした。付き合い始めても、平日も休日も受験勉強に忙しく、香織と過ごす時間が少なかった。
祐介は東京大学を、香織は国立大学を進学希望にしていたので、唯一、図書館で二人で勉強をするのが
デートと言えばデートのようなものだった。
初めて彼女が祐介に夢を語った時の事は今でも覚えている。
ちょっと照れたように、自信なさげにポツリと彼女から放たれた言葉を耳にして、祐介は本心からすごいと思った。自分は何をやりたいのか、将来どうしたいのか。考えた事がなかった。
ただ、テストで高得点を取って、偏差値の高い大学に入れば良いと思っていた。
香織は大学の先、自分の将来をすでに見据えながら日々を過ごしているのに対して何も考えずただひたすら勉強をしている自分が酷く幼稚に感じた。
「へえ、凄いな。香織なら絶対叶えられるよ。俺も応援するから一緒に頑張ろう。」
「えへへ。ありがとう。祐介君は将来の夢、あるの?」
「何も。考えた事もない。香織は凄いよ。ちゃんと夢を持って生きてる。」
「そ、そんなことないよ!どうせなれるわけないし。」
「諦めたらその時点で終わりだよ。諦めずに出来る所までやってみようよ。勉強と同じで、コツコツ
出来る所からさ。」
「例えば?」
「うーん...お肌のお手入れとか、筋トレとか...かな?」
「今のちょっと適当っぽくなかった?」
「いや、そこまで女の子の事情に詳しくないからさ。でもそんな感じの、地道な努力も
必要なんじゃないか?」
大学は二人とも第一志望を現役合格した。
校内トップで圧倒的な成績を誇っていた祐介が東大に合格、トップ10を常に維持し、祐介と付き合い始めてからは更に成績を伸ばした香織は志望校のランクを上げ、お茶の水女子大に合格した。
このニュースは卒業間近の学校内でも相当なインパクトを与えた。祐介たちの大学は、市内では進学校に分類されていたが、東大や京大への進学者は数年に一人で、名門と呼ばれる大学への進学も数えるほど、それも現役合格となると数名しかいなかったからだ。
香織は大学に入ってから、更に髪を伸ばし始め、腰に掛る位のロングヘアーにした。イマイチだった眼鏡はコンタクトに変えた。それだけで思わず息を呑むような変貌を遂げたのに、更にファッションについてもショップの店員に色々と教わり、どんどんあか抜けていった。大学三年からは読者モデルとして雑誌に掲載され、アルバイトでテレビ局に出入るするようになった。
この年に同大学のミスコンに選ばれ、東京選抜に選ばれるなど、徐々に、地道に知名度を上げていった。
テレビ局のバイトは祐介の大学の友人がたまたまコネを持っていたために、香織を紹介して無理やりねじ込んで貰った。友人のレポート作成代行と引き換えだった。自分のレポートを丸写しにするわけにもいかず、結構な時間を取られたが、香織の為だと思えば苦にはならなかった。
そして迎えた大学四年の夏のオーディション。
スポットライトがグルグルと回り、司会者がグランプリ 草津香織の名を高々と読み上げた。
香織は両手で顔を押さえ、涙を流しながら感想を述べた。
「諦めていた夢を一緒に追いかけ、時には厳しく、いつも優しく助けてくれた人がいます。
その人のお陰で 今日、オーディションでグランプリを頂く事が出来ました。
感謝の気持ちで一杯です。」
香織はそう言って華やかなステージの上から、祐介に感謝の気持ちを述べた。
祐介はその言葉が嬉しくて、香織が夢の一歩を踏み出せた事が嬉しくて、
生まれて初めて喜びの涙を流した。
初めて画面の向こうに映る香織を見た時には、感動して友人や親にまで電話してしまった。
彼女の露出が増えれば増えるほど、逢える時間が減っていき、今では半年に一度、お盆と正月に一日か二日逢って話をする位だ。あの冴えなかった女の子、草津香織はテレビの、映像の申し子とまで言われいる。多忙の極みにあって、メッセージすら長らく既読が付かない状態が当たり前だ。
寂しくない訳がない。逢いたくない訳がない。
逢いたい。逢って、彼女に触れたい。
香織とは唇を重ねただけの、子供のようなキスを何度か交わしただけの、プラトニックな恋愛を続けていた。祐介は女優を目指している香織を、自分みたいな人間が汚してはいけないと心の底で考えていた。
彼女と結婚を考えていない訳ではなかったが、古い貞操観念を持つ両親の元で真面目な人間になるようにと育てられてきた祐介は、香織と結婚する前に性交渉をすることを良しとしていなかった。
逢いたい気持ちも、触れたい気持ちも、そして本能が求める香織との深いつながりも、全ての本心を、
根が真面目で優しすぎる祐介は香織に伝える事が出来ないまま、交際から七年が過ぎていた。
ふと昔の事を思い出し、意識が現在に帰ってくると、画面の向こうで笑う彼女はいつの間にか居なくなって、目の前のテレビの画面は有象無象を映し出している。
有象無象は祐介の目に白と黒の砂嵐のようにしか映らなかった。