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【一】

【一】

「おい!名倉!お前のアレ、開発進捗どうなってんだよ!!」

武田係長の大きな声が事務所内に響き渡る。いつもの事で、誰も気にも留めない。


「すみません、武田係長。反応試験機が昨日から故障しておりまして...」

「あやまられたってしょーがねえって言ってんだよ! いつまでに出来るか聞いてんだよ!!」


「...保全課に確認中ですが、故障した部品が取り寄せらしく、時間が掛かると言われまして...」

「だから!時間が掛かるって何日後に終わるかって聞いてんだよ!!

 いつまでに修理が終わるか確認しとかねえと直ったらすぐ試験機が占領されるだろうが!!

 ガキの使いもロクに出来ねえのかよっ!!」

唾が飛び散る勢いで武田の口撃が容赦なく飛んでいく。


「本当に申し訳ございません。すぐ確認してきます。」


名倉祐介は事務室を急ぎ足で立ち去ると、エレベータに乗り研究室がある三階に向かう。

反応試験機の周りには二名の作業服を着た男性が外箱を開けて中身をばらしている。

解体されかけた試験機の中は、サイボーグ人間の様に、小さな赤色のランプが明滅しており、

テスターと呼ばれる筆箱サイズの道具を使って作業服を着た一人の男性が配線をまさぐりながら、

テスターから伸びている二本の線を箸を持つ要領で色々な所に当てている。

まるで医者が患者の腹部に聴診器を当てているかの様だ。


「すみません。応用開発課の名倉と申します。あの...この装置、修理終わるまでにどの位掛かりますで しょうか?」

「うーん。ここの基板は取り寄せだからなあ...大至急で取り寄せてるけど一週間は見といてよ。」

 もう一人の作業服の男性が頭をポリポリと掻きながら、少しだけうんざりした表情で答える。


恐らく何回も同じ質問を受けているのだろう。


一週間も掛かるようなら開発試験工程の見直しをしなければならない。


祐介は急いで事務所に戻ると、マウスを左右に振り、スリープモードになっているコンピュータを立ち上げる。長いユーザーIDとパスワードを入力してログインし、更にアイコンをクリックしてサーバーへ接続する。コンピュータのログインとは違うID、パスワードを入力して応用開発課のフォルダからファイル編集を始める。

カタカタカタとキーボードを弾く音が断続的に鳴り響く。

起案者氏名欄に名倉祐介と入れて稟議システムにデータを入力、修正データを添付する。


印刷ボタンを押して試験工程表をプリントすると、発信のボタンをクリックする。

再作成した試験工程表を武田係長に持っていくと散々嫌味を言われて渋々承認印を貰う。


今日も一日怒られっ放しで終わった。祐介のサラリーマンとしての仕事は十七時に終わるはずなのだが、

そこから翌日の試験の段取りや前日の試験データの解析がある。次回への道筋を立てながら再試験の条件を検討し、それをひたすらコンピュータに入力していく。そんなことをしていると、あっという間に時計は二十一時を指し示していた。


「帰るか...」

祐介はIDカードを事務所出口にかざしてロックを解除すると、更衣室に向かう。

白衣をロッカーに投げ入れると、貴重品入れにしまってあるスマホを鞄に入れて事務所を退出した。


帰り道、駅のホームでスマホの画面を開く。

そこには『香織』と書かれたIDからメッセージが届いていた。


【祐君元気にしてる?こっちは明日から軽井沢でロケです。このロケが終わったら

 一日オフがあるので、逢いたいな。】


祐介の恋人の香織からだった。今や草津香織の名前を知らない若者は居ないと言っても過言ではない。

人気若手女優で、テレビをつければドラマ、CMやトーク番組で、いつでもその顔を見る事が出来る。

香織は小さい頃から夢だった女優への道を、大学に入ってから本格的に追いかけ始めた。

そして今、見事にその夢を叶えていた。


一方自分はと言うと、東京大学という誰もがその名を知る日本の最高学府を卒業し、とある民間企業の

研究棟にある事務所で毎日上司に怒鳴られては同僚の嘲笑を受けている。


ため息をついて祐介は返事を書いた。

【元気だよ。楽しみにしてるね。俺も香織に逢いたいです。】



香織とは高校二年の夏から、付き合い始めた。この夏で付き合い始めてから七年目になる。

祐介と香織は同じ年で、お互い今年で二十四歳になる。


彼女は大学四年の夏、オーディションで見事に映画の主演を勝ち取った。

冬に公開された映画、彼女のデビュー作は好評ではあったが、彼女がブレイクするまでには至らなかった。


祐介と香織はそれぞれの大学を卒業し、祐介は民間企業への就職を決め、彼女は女優業に本腰を入れた。

東大卒の祐介が民間企業、今の勤め先に就職したのは、研究職への待遇が厚い事もあったが、何より先端科学の研究内容を直接自分で生産現場に持っていって量産へ繋げられるという所に魅力を感じたからだ。

自分が手掛けたものが日本の、世界の様々な場所に、色々な用途で広く行き渡り、それが世の中の役に

たっているという実感を感じられるところに強い魅力を感じたからだった。


祐介の同期のは皆、官僚だとか、公務員だとかを目指していた。

しかし祐介は小さい頃から物を作る事が好きで、いつか人の役に立つような仕事をしたいと考えていた。

今の会社、財閥系大企業グループの中核会社である化学系会社に研究職として就職して丸一年。

社会人生活二年目を迎えていた。


香織の方は映画が好評だった事もあり、徐々に出演作品を増やしつつあったが、大学を卒業してすぐの去年の夏、とある純愛ドラマで一気に大ブレイクした。

それをきっかけにドラマ、映画だけではなくCMやバラエティまで活動を広げていき、ここ一年、香織の

顔をテレビで見ない日は無いという位、露出が増えていた。


祐介は高校から付き合っていた彼女が、夢を叶えた事がとにかく嬉しくて、ブルーレイレコーダーで

全ての番組を録画し、スポーツ新聞の記事や週刊誌のグラビアなど、香織が掲載されているものは全て購入してスクラップしていた。


二人の関係は今も変わってはいないが、香織は多忙を極めていて年に数回のオフしかないような状態で

祐介は社会人二年目の洗礼なのか、唯のいじめなのか、毎日のように上司の叱責を浴び続けており、残業に次ぐ残業で心身共に疲れ切っていた。



祐介が社会人になって丸一年と四か月、香織がデビューして丸二年がたった、ある夏の暑い日、二人は半年ぶりに彼らの地元にあるレストランで逢っていた。


「そうそう!この前三上雄二さんと共演したんだよ!」

「もう、共演者の人たちも全員すっごいオーラが出てるの!」

「軽井沢って凄い涼しくてね!川の水も凄い綺麗で、あ、知ってる?湧水がそのまま飲めるんだよ!」


香織は伊達メガネをかけて髪を結っている。メイクも殆どしておらず、パッと見れば誰もあの草津香織だとは思わない見事な変装をしていた。そして嬉しそうに『自身の職場』の話を目の前にいる恋人に一生懸命に話している。


祐介は相槌を打って、微笑ましい顔をしながら香織の話にひたすら耳を傾けている。香織は祐介に逢うといつも楽しそうに、嬉しそうにして、ひたすら話し続ける。

祐介はその時間が居心地が良いと思っていたし、なにより折角二人で会っているのに自分の職場や仕事の

愚痴を香織に聞かせて、余分な心配を掛けたくなったから、ほとんど黙って香織の聞き役に徹していた。


香織の土産話が尽きる頃にはすっかりと日が落ちており、祐介は香織の実家までバイクで送り届ける。


「祐君、今日は会えて嬉しかった。また、連絡するね。」

「こちらこそありがと。また連絡待ってるよ。」

香織は手の平を祐介に向け、ヒラヒラと振った後に実家へと吸い込まれていく。


祐介はヘルメットをかぶり、あごひもを締めるとバイクに跨ってセルスターターのスイッチを押す。

キュルルル...ブオン!と勢いのある音と共に心地よい振動が伝わってくる。


左足のシフトペダルを踏み、右手のアクセルレバーを少し引くとバイクが加速し始める。

シフトペダルを蹴り上げ、更に加速していくバイクは香織の実家から消え去っていった。


この時香織は、祐介の表情が半年前と違っていた事に微塵も気付いていなかった。



茹だる様な暑さの夏が終わり、大分過ごしやすくなってきた秋のとある日、研究棟内にある事務所はいつにも増して重い空気に包まれていた。


「だから!試験データと量産データが何でこんなに違うのかって聞いてんだよ!!ええ!?」

「申し訳ございませんでした。」

「もうしわけなんて聞いてねえ!!違うってレベルじゃねえだろ、これは!

 お前のミスでラインメチャクチャになってこっちは生産課長から苦情貰ってんだぞ!!

 いくら損害出したのか分かってんのかおめえは!!」

武田係長の怒りの矛先は名倉祐介唯一人に向けられていた。名倉が起案して承認を受けた試験データに基づく量産データの一部に間違いがあり、量産開始直後に薬品同士が凝固反応を起こした。


試験データの文責は祐介だが、承認したのは係長であり、最終決裁は課長が行った、れっきとした会社組織の仕事のやり方通りに進めた内容だった。祐介も同行した量産前の試験ではこのような事は起きておらず、単にどこかのデータを間違えたであろう単純なミスによるものだった。


「ぼーっとしながらちんたらやってんだったら他所でやってくれ!こっちは足を引っ張られて

 迷惑なんだよ!何だったら配置転換希望出して貰って構わねぇからな! 

 ...ったく、無能な奴を押し付けられてホントいい迷惑だぜ!」

武田係長はそう言い捨てて、白衣を片手に事務所を飛び出していってしまった。


確かに武田の言う通り、祐介の仕事ぶりは早くスマートという訳ではなかった。

祐介は頼まれると断れず、あれもこれもと色々な所で自分の開発工程以外の所に絡んでしまう癖があった。その為、自分の開発工程の進捗が遅れがちになる事もあったが、それでも納期ギリギリには何とかしていたし、その為に毎日夜遅くまで会社に残っていた。ホワイトカラーの祐介は年俸歩合制に近い給与体系で、残業をしても全部それが手当てになる事はない。夜二十時を過ぎると食事手当が付くだけだ。


綿密に、ち密にデータを収集し、研究職の名に恥じず仮説と実証からデータを積み上げて生産現場に

的確な処理方法や数値を提示出来る様になっていた二年の名倉祐介は武田係長が目の敵にするほど出来ない男ではなかったし、むしろ同僚たちからは同情の目で見られていた。


本人すら気が付いていなかった。

そんな同情の視線を、周囲からの嘲笑と受取り、それも小さなストレスになってしまう程度に、祐介は病み始めていた事を。



主の居なくなった係長の席の前で頭を下げたまま微動だにしない名倉祐介を一人の同僚が後ろから見つめていた。

『ごめんなさい...私が入力したデータが間違ってたんだ...』

女性は自分が間違えたと言い出せなかった。だから一年後輩の名倉祐介が叱責を浴びているのを、心の中でひたすら謝罪した。彼女の心の謝罪は、誰にも届くことが無かった。


その日から祐介は会社に泊まり込みで原因調査と再量産試験の立ち合いに入った。

武田係長に提出した残業申請が否認された。自分の尻は自分で、しかも無償で拭えとの事だった。


研究棟は社内ノウハウや先端研究データの塊で、首から下げたIDカードによる勤怠管理は勿論の事、コンピュータのログオン情報や時間も全て管理されている。残業申請が承認されない場合、自分の端末は

終業時刻から十五分後に自動的にロックされる。

仕方なく祐介はコンピュータの個人ログオンの管理がされていない、生産現場の調査室を間借りした。

重要データにはアクセスできないが、生産現場の調査室であれば、自分が作り上げた量産用のデータを

確認する事が出来る。確認に必要なデータは紙に書き写した。これも後から班長の目の前でシュレッダに掛ける事になっている。


祐介は終業後ロッカールームで作業服に着替えて生産現場に移動する。

二時間程度の仮眠をするだけで、それ以外の時間はひたすらデータ解析に当てた。

そんな作業を三日三晩続けた所で、他班から貰ったデータの一部が間違っている事に気が付いた。

祐介は画面に表示されている小数点第六位までの数字の羅列を手を止めて眺めた。


「ここか...」

一人そう呟いて再びキーボードを叩き始めた。データの修正を終え、生産現場の係長に頭を下げ、修正したデータに基づいて再量産試験の立ち合いをする。量産品のプロトを調査室で確認し、勤務時間中に研究棟で精査する。


祐介が調査室と研究棟を泊りがけで行ったり来たりし始めて、八日が過ぎていた。

そして普段やり切れずに抱えていた仕事はその間溜まったままになり、そちらの開発工程が遅れる。

こうして悪循環が重なっていき、それを連日のように武田係長に怒鳴られる。

一か月近く深夜まで会社に缶詰となり、追われるように、追い立てられるようにひたすら仕事をこなしていく。


祐介の心は本人の自覚がないままにどんどん蝕まれていっていた。

疲れたら栄養ドリンクを飲み、酒の力を借りてとにかく寝る。食事はコンビニで食べる。昼食は時間が惜しいからとパンやカロリー摂取用のゼリーで凌いでいた。


色々とトラブル続きだった仕事たちがやっと片付き、十八時頃に帰社出来る様になったのは秋も深くなり、木枯らしが吹き始めようとする十一月の終わりだった。


そんな初冬のある日、仕事を終えて更衣室に向かっていると、女性更衣室から一人の女性が出てきた。


肩に掛るか掛からないかの髪の毛を僅かに脱色しているのか、茶色の髪に愛嬌のある顔をしており、

フロアにいる男性社員からよく彼女の話が持ち上がるくらいに人気のある、同じフロアで働く社員で、

秋沢という女性だ。班が違うため、殆ど会話をする機会がないが、データのやり取りでたまにメールを発信する事くらいはある。そんな関係だった。


祐介は軽く会釈をして通り過ぎようとする。すると後ろから声を掛けられた。

「あ、名倉君。今日ちょっと時間ある?」


秋沢麗奈という事務所のアイドル的存在の女性に急に呼び止められたが、祐介は別に何も感じていなかった。むしろ、貴重な早上がりの時間を取られることを面倒だと思っていた。今日はゆっくりと休みかったし、この時間に誘われると言うのは夕食を食べようという事だろうと思った。ただでさえ気を遣う事に疲れているのに、更に見ず知らずの女性と食事をする事は憂鬱以外の何物でもなかったが、生来の祐介の生真面目で優しい性格が無下に断ることを良しとはしなかった。


誘われるままに、隣のビルにあるレストランで食事をすることになった。移動時間は僅か数分。自己紹介はおろか会話すら生まれない僅かな時間でレストランに入り、そのまま奥のテーブルに案内される。


「名倉君。ごめんなさい。」

テーブルに向かい合わせに座ると、開口一番秋沢が頭を下げた。

思い当たる節が無かった訳ではないが、祐介は何も言わずただ謝罪を否定も、肯定もしなかった。


「あのデータミスの件、私が間違えたの。」

「ああ、あれですか。気にしないでください。もう終わった事ですから。」

祐介は淡々と受け答えする。

「まあ、稟議システムにデータを付けて送ったのは私ですから仕方ありませんよ。間違えたデータであろ うが、最終の文責は私なんですから。」

「本当にごめんなさいね。」

麗奈が再び頭を下げる。染めているわけではないのか、頭頂の生え際を見ても特に黒い髪が見え隠れする訳でもなく、綺麗に茶色に生えそろっていた。


「でもあのデータで量産する事は武田係長も当然承認済なのにね。自分が承認したものでラインから苦情 が出たってそんなの名倉君の責任外よね。それを全部名倉君に押し付けて...」


まだ悪口を言い続けようとしている麗奈に向かって、人差し指を唇に当ててから祐介は口を開いた。

「会社の隣にあるレストランでそんな話をしない方が良いですよ。誰が食事しているか、

 わかりませんから。」


お互いに自己紹介を済ませ、手早く食事をしてから、麗奈の行きつけと言うバーに寄り、そこで祐介は麗奈から会社の愚痴をひたすら聞かされた。


深夜と言っても差し支えない位の時間に帰宅し、倒れるようにして布団に入り込んだ。

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