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【十三】

【十三】


翌朝、むしろ昼前と言った方が正確だった時間帯に、香織は目を覚ました。

未明の事がまるで夢であったかのように、ぼんやりとした心地よい疲労感に包まれて目を覚ました。

だが、それは一瞬の事で、すぐに自分の下半身が感じた冷たい感覚に、思わず顔を真っ赤にし、そしてそんなはずが無いと祈る様な気持ちで掛け布団をめくった。


そこにはまるで子供のおねしょのように染みが広がっていた。

香織の上半身には数えきれないほどの祐介に付けられた印が刻み込まれていた。


祐介も生まれたままの姿で隣で寝息を立てている。香織は祐介を掛布団です巻きにして敷布団から移動させると、汚れたシーツを洗濯機に放り込んだ。リースだからそこまでしなくてもいいのだが、流石に若い二人が住んでいたアパートでそのままにしておいたら額面通りに受け止められる事は間違いない。

祐介と二人きりならどんな事でも受け入れられるが、他人に知られることは香織の中ではあり得ない事だった。


出発まであと数時間。このアパートに備え付けられている乾燥機に心の底から感謝した。



新幹線の時間を考えると、そろそろ祐介を起こさなければならない。

香織は祐介の頬を人差し指でつつく。

むーーっと祐介が声を上げる。その寝顔が愛しく、可愛らしかった。しかしこれ以上余韻に浸っていれば祐介に支給された新幹線の指定席が無駄になってしまう。勿論祐介は自分の席の隣に自費で香織の指定席も取っている。

香織は祐介を完全に独占出来る時間帯、祐介の可愛い寝顔を拝める時間を後ろ髪を引かれる思いで諦め、祐介を揺すり起こした。


祐介は起き上がれず、ズキンズキンと痛む頭を抱えながら、香織が用意したお茶を飲んでいる。


「ごめん香織...俺酔っぱらって...も、もしかして?」

うろ覚えながら、未明の交わりの事はわずかに記憶があるようだったが、周囲には避妊具が入っている、小さな正方形の空袋がない事を悟った祐介は少しだけ慌てていた。


「婚約したんだから大丈夫だよ。祐君との子供が出来たら嬉しいかな。」


その一言を聞いて祐介は頭を抱えた。

「俺はなんてことを......」

「嫌?」

香織は不安一杯の顔で祐介を覗き込む。


「嫌な訳ないだろ。でもやっと香織の女優復帰が見えて来たって言うのに...」

「祐君、私の夢はもう女優をすることじゃないよ。」

「えっ?...何で?」


香織が裸の祐介の右肩に抱き着き、頬に唇を当てる。

「私の夢は、祐君と死ぬまで一生ずっと一緒に居続けること。」

「祐君が女優をして欲しいって言ってくれるから復帰はしようって考えてるけど...私の夢は祐君の傍にいる事だから。」


「いつも私の夢を叶えてくれてありがとう。愛してるよ、祐君。」

香織が首筋に強く吸い付くと、祐介の首筋には香織に付けられた印がじんわりと赤くにじむ。


「あっ!ここだと服で隠せないじゃないか!」

「んふふー!お返しだもんねー!!」


じゃれ合うようにしながら二人は服を着替えた。いよいよ仙台での生活も終わろうとしていた。


生乾きのシーツを布団の上にたたんで置き、香織は集荷にくるであろう人に対して心の中で小さく謝罪を述べる。

祐介は香織から合鍵を受け取ると、二つの鍵をまとめてポストの中に投函しておく。

鍵は新しい入居者立ち合いの元で新しいものに取り換えられるので心配はないし、昨日までに引渡し前の大家の確認も全て終わっている。


香織にとっては二年弱ぶりの、麗奈の四十九日の法要以来の東京となる。

東北新幹線から見える仙台の、宮城の車窓とも、当分お別れだと思うと少しだけ寂しく思えたが、それよりもこれから祐介と始まる生活の方が、香織にとっては楽しみで、これから自分が成し遂げたいと思っている祐介のもう一つの夢を果す為に上京出来る事に小さな高揚感を覚えていた。


二人にとっての新婚生活がこれから始める。


それは香織にとって、十年来の人生の本当の意味での夢だった。


祐介と離れて寂しい気持ちがどんどん膨らみながらも、流されるように売れっ子女優として忙殺された。仕事に打ち込むことで、寂しいと思う気持ちを忘れようとしていたこともあった。


そんな時、ココロの支えだったはずの祐介に、麗奈という素敵な女性が現れ香織は祐介を失った。

祐介はいつも傍に、ココロの近くにいてくれるのが当たり前だと思っていた。そんな香織に祐介は別れて欲しいと告げた。

それを聞いた香織はココロが不安定になり、食事が出来なくなった。


自分にとって、本当に必要なものは何だったのか。麗奈は香織にも気付きを与えてくれた。


一生ただ近くにいるだけの、そんな関係でもいい。香織は祐介が近くにいてくれるだけでココロが安らぐことに気付くことが出来た。

新たに祐介の恋人になった麗奈はそんな弱い香織を突き放すことなく、祐介の傍に居続ける事を許し、受け入れてくれた。

三人の関係を見つめ直したいと麗奈に言われ、女同士の約束をして仙台に祐介と二人で旅立った。

将来、祐介がどのような選択をしようとも、決してお互いを恨みはしないと麗花と二人誓いあった。


その僅か八か月後に二人の女性と、一人の男性の、三人のココロを確かめあうことなく麗奈はこの世を去ってしまった。

香織は祐介の次に大事な友人を、そして祐介を救ってくれた自分にとっての恩人を失った。


本当は自分も声を上げて泣きたかった。しかし酷く憔悴した祐介を見て泣けなった。麗奈にはきつく言われていた。

『祐介がココロに再び傷を負ったとき、あなたのカラダで癒してあげてほしい』と。


麗奈に言われた通り、母性の象徴に祐介は顔をうずめると、まるで子どものようにスヤスヤと寝息を立てて深い眠りについた。

香織は祐介の事を何も知らなかった。

こんな性癖があることも、自分の演技をココロの底から楽しみにしてくれていたことも、彼の好みも、嫌いな事も、何一つ知らなった。


祐介のココロに、自分から踏み込もうとせず彼の優しさに甘え続けていたことを麗花から突き付けられた。

祐介と香織が共に過ごした年月の長さというハンディを、麗花は自らの勇気と努力を以て祐介のココロの奥まで踏み込んだことで僅か数か月で祐介のココロもカラダも虜にした。


祐介は香織にプロポーズした時にこう言った。

『俺の事も、幸せにしてよ。』と。


自分の幸せの為ではなく、彼の幸せの為に自分が出来る事はなんだろう。

香織はあの日から祐介の幸せとは何か、祐介が幸せだと感じてくれるために自分が出来る事を考え続けていた。


香織は寝不足気味で大好きなビールも飲まずに眠ってしまった祐介の席のテーブルを引き出すと、温かいお茶を一つ置き、そして彼の頬に口づけをした。


『祐君、待っててね。祐君の大好きな草津香織は必ず帰ってくるからね。』


雪景色の仙台を見ながら香織は誓った。

愛しい祐介の希望を叶えるために、祐介の為に再び女優を目指そうと決めた。東京に戻ったら本格的に女優復帰を目指すことを決めた。

あれだけ我がままを言って止めたのだから、すんなりと戻れるとは思っていない。土下座をして、どさ回りをしてでも、どんな小さな仕事でも真剣に誠実にやろうと決めた。


祐介が日々の仕事に追われる毎日の中でいつも香織に見せていた、人としての真心と誠意、そして情熱が香織に復帰の勇気をくれた。

今度こそ祐介に返したい。祐介が喜んでくれるなら、どんな屈辱でも、辛い事でも耐えて見せる。

過去の栄光を全て忘れ、一からやり直そう。


決意を固めた香織の目には、車窓の向こうに映る白い雪景色だけが見えていた。



東京についた翌日、麗奈の命日に祐介と香織は麗奈の墓前で二人で結婚の報告に来ていた。


『麗奈、俺、香織と結婚するよ。必ず麗奈の分まで幸せになるから。ありがとう。』

『麗奈さん...あなたが救ってくれた祐介と私は二人で一緒に幸せになります。

 絶対に祐君のことは離しません。あなたが守った祐君を今度は私が守り続ける。だから...許してくれるよね?』


それぞれ麗奈に報告と誓いを終え、同時に目を開けた二人は並んで同時に空を見上げる。


東京郊外に、初雪が降り始めた。

それはまるで、天国にいる麗奈からの二人に手向けた贈り物のように、白く、清らかで、何かに触れると消えてしまう儚げな初雪だった。

祐介は自ら希望して引き取ったシルバーのペンダントを麗奈のお墓にそっと差し出し、それを置いた。


「香織、行こう。」

祐介は涙を流したまま、それを拭いもせずに香織の手を取り、いつものように指を絡めた。

香織も涙を流していた。二人の足音が、砂利を踏む音だけが麗奈の墓石の周りに響き、少しずつ遠ざかっていく。


二人は振り返ることなく、麗奈が眠る墓地を後にする。


祐介と香織の二人のココロとカラダを結び付けた秋沢麗奈という二人にとっての大切な女性との決別。

三人の関係が終わり、二人が歩み出す決意を新たにし、祐介と香織は去っていった。



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