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【十】

【十】


祐介にはゴールデンウィークが無かった。厳密に言うと、全て潰れた。

特許の公開と共に、量産の為の準備と本格的な一般生体試験が始まったからだ。


祐介は一般生体試験の第一弾として、自らの血液を提供し検査を行った。

顕微鏡を覗く研究員が、少し体を強張らせて顕微鏡に喰いつくようにしていた。


「どうしました?」


祐介が声を掛けても、『いや』だの、『あの』だのといった曖昧な返事しか返ってこない。

「ちょっと見せてください。」

自身のカルテを片手に、祐介は顕微鏡を覗く。


見事に遺伝子の一部に発光が認められた。


祐介は努めて冷静に、自分のカルテを『要精密検査』の保管場所に置くと大学病院に連絡を入れた。

そしてその夜、祐介は香織にその結果を打ち明けた。


「う、うそ...うそでしょ...?」

「本当だよ。もし俺たちの製品が正しければ、98.75%の確率で、俺は悪性の腫瘍を持っている事になる。ポインターは消化器系、つまり食道から直腸までのどこかの遺伝子に高い確率で腫瘍、つまりガンが発生している事を示した。」


「嫌だよ...そんな...祐君も...麗奈さんだけじゃなくて...」

「香織!落ち着いてっ!!」


祐介が香織の両肩をしっかりと掴んで、そして力強く抱きしめた。


「もしこの結果が正しくて、俺にガンが見つかれば、量産品の生体試験第一号から成果が出る事になる。それは俺の夢の本当の意味での実現であり、麗奈の希望でもあった。」

「明後日から大学病院で精密検査だから。大丈夫、ガンなら急にぽっくり逝くことは無い。どんな状態でも必ずちゃんと香織に伝えるから。」


「祐君...嫌だ...死んじゃ...いやっ!!」

「大丈夫だよ。きっと麗奈が見てくれている。麗奈なら絶対にまだこっちに来るのは早いって言うだろうさ。」


「検査の結果が出るまで、ここにいるか?」

香織は首を横に振る。


「じゃあ、病院に一緒に行こう。精密検査だから最悪は二泊くらいしないといけないかもしれない。

病院の入院棟にはシャワールームもあるから、着替えを準備しておいて。」


突然ふって沸いてきた陽性疑いの結果に、香織は呆然自失の状態で、明日にも祐介と別れなければならないというような顔をしている。自覚症状が出てない内臓系の悪性腫瘍で、ガンそのものが翌日いきなり命を奪い去る様な

劇的な症状を起こすことは皆無だ。


ガンに携われば、誰にでもその事はわかる。

祐介も医師に同行して臨床試験中に緩和ケア病棟に行った事があるし、症例や関連論文、図書などは穴が開くほど見ている。


ターミナルケア、終端医療とも呼ばれるものは、余命宣告を受けてから自立した生活が出来なくなるまで、もしくは痛みが酷くなるまでは自宅で過ごしたり、思い出づくりをしたりする。

入院後は緩和ケア病棟に入り、手術や抗がん剤などの積極的な治療はせず、ガンの進行具合に応じて痛みを抑える薬の量を調整しながら終末期に訪れるガンによる激しい痛みを緩和する。


ガン患者の殆どは、亡くなる数日前までに急激に衰えていく。残された時間、つまり数日間は意識の覚醒と睡眠を交互に繰り返す。睡眠時間が徐々長くなり、朦朧とする時間が長くなり、やがて昏睡状態になる。


ガンという病気は、事故や心臓発作、脳卒中といった他の死因と違って、死に逝く者にも、残される者にも、十分な時間が許される病気であるとも言える。最期の数日は意識が混濁し、ある事ない事を言ったり性格が豹変したりするが、それはガンの終末に血液の浄化作用が低下することで発生する脳が見せる幻覚であり、一般的に終末期の患者に多く見られる症状の一つである。今まで温厚だった人間が突然悪態を突いたり暴言を吐いたりするが、それも含めて闘病生活なのだと残される側が正しく理解し、患者と向き合っていけるのであればガンという病気は別れの為の時間があり、残された者の気持ちの覚悟が出来る病気であると言える。


ガンは部位にもよるが初期の段階で発見されれば、十年生存率は九十パーセントを超える、付き合っていける病気になり得る。

ガンの特効薬や根絶は現代の科学、医療ではまだまだ先が見えず、そういう意味では簡易診断の段階で初期のガンを効果的且つ安価に発見する為の試薬、R-POINTERの開発量産には大きな社会的意味があった。


祐介は麗奈を奪い去っていったこの病気に打ち勝つために、覚悟を決めた。

香織は麗奈に続いて、祐介を奪おうとしているこの病気を忌み嫌い、悲嘆にくれていた。


この二人の差は、『知っているか、知らないか』の違いであると言えた。

全ての人間は、いつか必ず親しい人と、愛しい人達との別れを迎えるその日が来るのだから。

ガンを知り、考えるという事は、人の死に方を知る、考えるという事で、それはいつか必ず全ての人間に訪れる死という別れ方を考えるということだと祐介は考えていた。


精密検査の結果、食道系にガンが見つからなかった。

香織は心底安心した表情で、良かった。良かった。と涙ぐんでいた。


対照的に祐介は1.25%の確率に該当したのだろうかと、量産品試薬に対して不安を大きくした。

そんな時、祐介が懇意にしていた青木医師が病室に入ってきた。

軽く挨拶を交わすと、隣の看護師が差し出した祐介の検査結果を見て、そして試薬の試験結果のデータを読む。


「名倉さん。内視鏡による大腸検査もしてみませんか?」

「先生、流石に私も一回目の生検で、しかも自分の体で失敗したくはありません。調べられる手段を、手を尽くして頂けませんか?」

お互いの同意が取れた所で、翌日は内視鏡による検査が行われた。


その結果、祐介の体から、ガンの病巣が見つかった。

通常の検査ではまず発見できないような小さなものだった。これを一年間放っておけば、患部や進行状況によってステージ3、そして最悪のステージ4まで進む可能性があった。


内視鏡により、切除されたがん細胞はそのまま検体に出され、祐介はこのあと三か月ごとに同じ試薬による検査と、血液検査による腫瘍マーカー値の検査を並行することになる。

まさに、身をもって試作量産品のテストをすることになった。


患部が極端に小さかった事から、経過観察も不要との判断ですぐに退院した。

香織は医師から近々の再発の可能性は低いと言われた事に胸を撫でおろした。

その後は自分の生検結果のデータを纏め、本社に送るなどしていたら、あっという間に術後一週間がたった。


祐介は香織と今後の事を話し合った。

再発の可能性がある事、死別という人と人とのあり方について、そして将来の事を話し合った。



祐介に初期のガンが見つかり、内視鏡による除去を行ってから二カ月以上が過ぎた梅雨明け間近の七月二十二日、祐介はある決意を持ってこの日を迎えた。


忙しい仕事の合間をぬって、準備に準備を重ね、二十二日は半日休暇を取った。

昼間に自宅アパートに戻るの初めてだった。勿論、全て香織には内密に進めて来た。


香織は出かけているだろうか。

最近は昼間にガン関係の本を読んでいるようで、少しずつ向き合い方もわかって来たようだった。

告知された当初は毎晩ベッドに潜り込んで来てはしがみ付いて、涙を流していたのだから、少しは落ち着いてきたのだろうと祐介は考えた。

もっとも祐介が香織の胸に顔をうずめて寝てしまうと、香織も祐介の寝息で安心してしまうようで、ある意味お互いの不安を打ち消し合う、至極合理的な寝付き方であった。

本人たちはとても他人には話せないようだが。


玄関のドアノブをひねると鍵がかかっている。

鍵を開けてそっとドアノブを回し、中に入ると見慣れた香織のヒールも、近所に出かける時用のローファーも綺麗に揃え置かれていた。


奥から何やら籠ったような、うめき声が聞こえる。

腹筋でもしているのだろうかと思い、リビングに入っていくと、こちらに背中を向けた状態で香織がベッドの上に横たわり、一人仕事の真っ最中だった。今朝、祐介が脱ぎ捨てたパジャマを祐介の枕に被せ、そこに顔をうずめて、一生懸命に一人仕事に励んでいた。


切なく、狂おしそうな艶やかな声を上げて、左手を盛んに動かしている。

香織にここまで我慢させてしまっていたことを申し訳ないと思った。


一人仕事に勤しむ香織に気付かれない様にそっと外に出ると、スマホを取り出して香織に電話をする。

彼女のために少し間を開けて部屋に戻ると、ベランダの窓が開け放たれていて、絶賛換気中だった。


「珍しいね、半休なんて。」

香織は至って普通に、顔色一つ変えずに祐介に話しかけてきた。流石は元人気女優、圧巻の演技力だった。


ワザとらしく、ベッドに近付いていき、枕に被せられたパジャマを一瞥する。

「まだ洗濯終わってない?」

「ううん。大丈夫だよ。今日の分はぜん...」

香織は努めて冷静にササッと枕に被せてあるパジャマを手に取り、洗濯かごに放り込む。

「ごめんね。無いなあと思ったらこんな所に!」

事実を知らなければ祐介は完全に騙されていただろう。女優とはかくも恐ろしいものかと、戦々恐々の思いだった。


「香織、ちょっと出ない?」

「うん。いいよ。行こう!」


香織は昼間から祐介と出かけられるのが嬉しいのか、クローゼットからワンピースを取り出し、髪を整えると化粧を始めた。


女優を引退してから三年。最近は髪を伸ばし始めていて、今では肩の少し下まで掛かるようになっている。

祐介は相変わらず、綺麗な顔立ちをした一人の女性の後ろ姿を眺めながら、どうか今日の決意と、告白が彼女のココロに届いてほしいと願っていた。


程なくして香織の支度が整い、祐介と香織は手を繋いで歩き始めた。


「今日はバイクじゃないんだ?」

「その格好でバイクはないだろう。」

「確かにそうだね。下着見えちゃうし。」

「その前にワンピースの裾がチェーンに巻き込まれるし、マフラーで焦げちゃうよ。」

「ねえ祐君、何処に行くの?」


「ちょっと駅まで歩くけどいい?」

「うん...大丈夫だけど。」


祐介は努めて普通に世間話をし続ける。会社の話や学生時代の思い出話しを織り交ぜ、駅前まで歩くとタクシーに乗り込む。


「ちょっと一緒に見たいものがあってね。」

「へえ、何を?」

「内緒。」


タクシーで三十分弱ほど走り、木々に囲まれた瀟洒な大きな建物が見えてくる。

クラシックな雰囲気のロビーにはドアマンが控えており、タクシーがロビー正面に止まると、ドアマンが恭しく右側のドアを開ける。祐介は運転手に万札を渡し、お釣りを受け取り、ロビーの前に立っている香織の元に向かう。


「へえ、流石杜の都、仙台だねえ。すっごいお洒落!」

香織は目をキラキラさせており、祐介はホッと胸を撫でおろす。


「こっちだよ。」

香織と手を繋いで再び歩みを進める。祐介はチェックインカウンターではなく、そのまま階段を上り、二階にある貸衣装屋のスタジオに入っていく。受付でスマホの画面を見せながら何やら話し込んでいる。

程なくすると、二人の女性スタッフが現れ、香織を別室へと連行していく。それを見届けた祐介も別の女性スタッフに連れられて小部屋に案内される。

白やライトグレー、グレー、光沢のあるシルバーに黒、様々なタキシードや燕尾服が並べられている。

恐らく香織の所にも同じように服が並べられていて、今頃は目を丸くして選んでいるだろう。


祐介はそんな色とりどりのタキシードの中から、ライトグレーにチェックが入った物を選び、試着する。

フィッティングルームの中で白の肌着に白のドレスシャツを着て、ズボン、ベスト、ジャケットを羽織り、最後に蝶ネクタイを当てる。

悪くない。そう思いながらも、他人の意見が気になり、祐介はフィッティングルームのカーテンを開ける。


『あの、これどうでしょうか?』

そう聞く前に目の前にいる若い女性スタッフの反応をみて、祐介は言葉を飲み込んだ。

女性スタッフは頬を少し赤く染めて、目を大きく見開き、口に手を当てて言葉を失ったからだ。

女性の反応を見るに、可笑しな格好ではないようだ。


「お、お客様...凄く素敵ですよ。」

服を決め、一旦普段着に戻って次は薄くメイクを施され、最期に髪の毛をセットする。

男性の身支度にはそれほど時間が掛からないので、正味三十分ほどで全ての準備が終わり、祐介はそのまま撮影スタジオのすぐ横にある木製のイスに腰を落とし、主役の登場を待っていた。

一時間ほどして、香織が来た。


胸元や袖口がシースルーになっていて、そこに大小取り取りの薔薇をモチーフにした花が映えている。

純白のワンピースは膝下までスカートのようになっており、そこからプリーツが入ったレース地が地面ギリギリまで膨らみながら、広がっている。

髪型はサイドをタイトに後頭部まで流してまとめられ、凛々しく美しかった。

アクセサリーも、化粧も、全てが草津香織を引き立て、本当に天使のように見える。


「香織、凄く素敵だ。」

「ありがとう。祐君もカッコいい...」

香織が照れたように頬を赤くそめると、まるで宝石を散りばめられた人形のようでもあり、祐介も思わず見とれてしまった。


二人はそのままスタジオに入り、十数枚の写真を撮影し、コンピュータの画面から数枚の印刷をお願いした。

印刷から受け取りまで、二時間ほどかかるとの事で、貸衣装を借りたままの二人は庭を散歩することにした。

祐介は香織の手を取り、エスコートする。

木々に囲まれ、緑と色とりどりの花々が咲き誇る庭は、幻想的で、遊歩道の至る所から時折噴射されるミストが幻想的な雰囲気を作り出していた。

日の長い初夏とは言え、日が傾いてくれば、『杜の中』は所々薄暗くなってくる。


少し歩くと、小さな小屋のようなものが見える。ミニチュアのチャペルが見える。

石畳でかさ上げされており、二人はゆっくりと石畳の階段を一歩ずつ上っていく。

小屋の奥には小さな池があり、その周りには更に色とりどりの花が咲き乱れている。



祐介は香織の正面に立ち、そして跪いて香織の手を取り右手の甲にキスをした。


片膝をついた体勢のまま、香織を見上げ、優しい表情で香織に想いを告げる。



「香織、君だけを一生愛し続けると誓います。俺と結婚してください。」



香織は何も答えず、何も考えられず、ただ飛びつくように祐介にしがみ付いた。

香織の両手が祐介の頭を包み込み、祐介の両手は香織の腰にしっかりと回されている。


どの位そうし続けていたのだろうか、祐介が立ち上がり、笑顔を見せながら香織に向かって、

まだもらえていない返事を促した。


「祐君...ありがとう...私と結婚...して...」

涙声が、嗚咽になり、言葉は続かなかった。


祐介は自分の胸の中で香織を力強く抱きしめ、耳元で優しく囁く。

「香織のこと、もっともっと幸せにしたい。」


「俺の事も、幸せにしてよ。」

祐介の腕の中で香織が小さく頷く。


左手を香織の腰に回したまま、タキシードの上着から、青い小箱を取り出す。


「俺の気持ち、受け取ってくれる?」


「はい...」

涙で少し崩れてしまったメイクなどお構いなしに、二人は見つめ合い、そして口づけを交わした。

祐介は香織の左手の薬指に婚約指輪を嵌め、もう一度長く、優しい口づけを交わした。



七月二十二日、当時高校二年だった祐介と香織が交際を始めてから、今日で丁度十年が経った。



二人は手を繋ぎながらスタジオに戻り、貸衣装を返却する。

スタジオの横にある木製のイスで二人は密着して座って写真の受け取りを待っていた。


「祐君、覚えててくれたんだね。今日のこと。」

「勿論だよ。」

「私、びっくりしちゃって...夢じゃないよね?」

「多分。」

「もう!多分って何よ?」

「ははは、夢じゃないよ。香織、一緒に幸せになろう。」

「うん...えへへ。本当に夢みたい。」


程なくするとスタッフに呼ばれ、二人は出来上がった写真を受け取った。

スタッフから相談があると言われ、展示用のウインドウに飾っても良いかと聞かれた。

「俺は別にいいけど...香織は...」

「いいよ。もう何年も経ってるから今更見られた所で。」

「そうか。香織が良いなら、俺は全然構わないから」


「いいですよ。飾っていただいて。」

祐介が返事をするとスタッフは安堵の表情を浮かべ、色々な割引券がセットになった冊子を二冊くれた。

撮影代も半額になり、祐介は財布の負担が減った事を内心喜んだ。


「ねえ祐君。折角だから、ここのレストランで食事していかない?」

「当たり前だよ。予約済ませてあるし。」

「うわっ!今日の祐君、何から何まで男前だね!」

「いつもは男前じゃなくてすみません。」

「そんなんじゃないよ。今日の祐君はスーパー祐君なんだよ。ありがとう!裕君!」

「持ち上げても何も出ませんよ、香織さんや。」


二人は笑いながら森を眼下に眺められるオープンエリアのレストランでコース料理を堪能した。


十年は長かったようで、あっという間だった。

離れた事もあった。辛いこともあった。それがあったからこそ、今の二人がある。

一生片想いでも良いと言い、ずっと祐介の傍に居た香織。

香織が愛し続けた祐介には麗奈という新しい女性がいた。

嫉妬に、愛憎に、狂おしい思いをしたことも多々あったはずだ。


麗奈に不幸が降りかからなければ、いつか祐介は恐らく麗奈に今日のような

素敵なプロポーズをしたのかもしれない。

しかし麗奈という女性に出会えたからこそ祐介と香織は今日、

共に生きていく事を誓い合った。


秋沢麗奈という女性が、二人の運命をしっかりと結びつけた。

まるでそれが彼女の運命であったかのように。

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