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【九】

【九】


指示薬の量産体制の目途が見えてきたのは、臨床終了から一年半が過ぎた十二月だった。祐介は二十六歳、社会人になって四年、そして麗奈が他界して丸一年になろうとする師走の慌ただしい時期だった。東京本社の研究棟の会議室で、ここ二週間で煮詰めたデータを広げながら、祐介とチームのメンバーが社長以下役員を前にプレゼンテーションを行った。

当然、生産管理部や生産部の人間は食い入るように資料を見て、プレゼンに聞き入り質疑応答の時間は実現の可否ではなく、どうやってそれを構築していくかを決める場となっていた。


指示薬のコード名は祐介の強い希望で 『R-POINTER』と名付けられた。

医療の革命的な技術進歩をを意味するR、そしてマーカー機能により特定の遺伝子の観察を容易にするという意味から、ポインターという名前を付けた。そして製法を秘密裡にするのではなく、世界中の医療機関、そして製薬会社などがガン細胞の遺伝子研究に更に力を入れて貰えるようにあえて特許として全てを公開する事を希望した。


会議の席は夜になっても煮詰まらず、喧々諤々の議論は量産開発責任者である祐介を巻き込んで深夜まで及んだ。

祐介は課長に頼んで久しぶりに研究棟の事務所に行き、麗奈が使っていた、今では他の誰かが使っているであろうテーブルに突っ伏して眠りに落ちた。


その晩、不思議な夢をみた。

逢いたいとココロの奥底で思っていた麗奈が、見慣れたパンツスーツで、

事務所にいる祐介の前に立っている。

麗奈が無言で微笑んでいる。不思議とこれは夢なんだという感覚があり、

以前のように焦って手を伸ばすようなことはしなかった。


祐介は麗奈にどうしても伝えておきたいことを伝えた。

『麗奈。ありがとう。やっと出来たよ。麗奈が俺を守ってくれて、支えてくれて、背中を押してくれたお陰で、やっと出来たんだ。どう?すごいだろ。R-POINTERのRって、本当は麗奈のRなんだよ。』


『ふふ。知ってるよ。祐介の考えてる事は難しい事ばっかりだけど、祐介の気持ちはよく知っているから。』


『本当にありがとう。麗奈。愛してる。』


『こちらこそありがとう。さよなら。ココロから愛してたよ。祐介。』


泡沫の、春の夜の夢だったのだろうか。

誰も居ないはずの事務所の、机が並ぶ見慣れた場所に、昔毎日見かけていた麗奈の姿があり、確かに会話をしたような気がした。そして、麗奈は確かに祐介に言った。

『ありがとう。さようなら』、そして『愛していた』と。


不思議と涙は流れなかった。ココロの中の最後のわだかまりが、音もなく消え去ったような気がした。まるで氷が水の中で溶けていくように、音一つ立てず、祐介のココロという水の中に、麗奈という塊が消え去り、そして融合した。


命日には僅かばかり早かったが、これから先の事を考えると早々簡単に上京できるほど暇になるとは思えず、祐介は一人で麗奈の墓前の前に立っていた。


花を手向け、線香をあげて両手を合わせる。

永遠の別れはこの前研究棟の事務所で済ませたと思っていた。


『ここにはきっと麗奈は居ない。』


そう思っても、やはり遺骨が眠る麗奈の墓前で報告することが一番のような気がした。きっと麗奈なら、『そんなことイチイチ気にしなくていいよ。』と言うだろうと思いながら、墓前の前で手を合わせたまま念じる様に、麗奈に話をする。


『麗奈、俺は君に言われた通り幸せになってみせる。香織と二人でやり直してみるよ。』


祐介は誰も居ない寺院の墓標の前で一人、心の中で小さな誓いを立てた。

人生で最も深く愛した麗奈に、そしてその前に愛し、一度は別れたはずなのに、今も変わらず隣に居てくれる香織のために。



新年が明けた。年末は大晦日まで研究センターに缶詰だった。

プレスリリースへの対応、取材、ありとあらゆる仕事が量産開発責任者である祐介の元に雪崩のように降りかかってきた。無精ひげを剃るだけの時間も惜しく、研究センターの一室に段ボールを敷いて眠った日もあった。先輩の研究員から教えて貰った、最も安眠出来るという段ボールの布団は、少し固かったが、会議室のイスを並べて眠るよりも遥かに快適だった。


そしてやっと休みに入る事が出来た休日初日の元日、祐介は香織を連れて初詣に出かけた。

香織は成人式に着たという振袖と悪戦苦闘した結果、最後はギブアップして普通の冬の装いで準備をし始めた。


「あーあー。祐君に晴れ着見て貰いたかったのにな。」

「それは残念。大体、何で着付け出来ないのに着ようとしたの?」

「今時はインターネットの時代だよ?何でもわかるし、何でも出来るんだもん。」

「出来なかったじゃないの。」

「もー!それを言ったらおしまいだよ! いっその事、着付け習いに行こうかな。」

「どうせ無職で昼間は暇そうなんだから行ってみたら。」

「無職!私は立派な専業祐君の家事手伝いですよ!」

「俺専用の専業家事手伝いって何だよ、それ。」

祐介は久しぶりに声を上げて笑った気がした。


「なんか、久しぶりに見た。祐君が笑う顔。」

香織も同じことを思ったようだ。

それがなんだか少しだけくすぐったくて祐介には嬉しかった。


「じゃあ、初詣の列に並ぼうか。」

人混みでごった返す中、祐介は何も言わずに香織の手を握り、参列の行列に並び始めた。

牛歩のようにゆっくりと列が進んでいく。中には途中でお賽銭を投げ、その場で手を合わせる人もいる。


最後まで並んだ二人は、二礼、二拍手をして両手を合わせ、目を瞑った。

願い事を済ませると一礼をして、混みあう境内を後にする。祐介はずっと香織と手を繋いでいた。


「ねえ、祐君は何をお願いしたの?」

「そういう時は自分から先に言うものじゃないの?」

冗談めかして祐介が微笑む。


「私はね...祐君がいつまでも元気でいられますようにって。」


「私ちゃんと言ったからね!今度は、祐君の番だよ!」


「俺は...」

香織と繋がれた手に力が入る。


祐介は香織の見開かれた美しい瞳を真っすぐに見据え、口を開いた。


「俺は、香織との事を神さまと麗奈にお願いした。」


祐介は繋がれた手のひらの力を少し緩め、香織の指の間に、自分の指を絡ませて強く握りしめる。

香織は長らく祐介とそんな風に手を繋いでいなかったので、驚いた表情を見せていた。


「香織...俺と、もう一度恋人としてやり直して欲しい。俺のココロは香織に必ず全部伝えるから。もう間違えない。だから付き合って欲しい。...俺、おまえが好きだ。」


「うん。ありがとう祐君。 ...嬉しいな...」

香織は人差し指で小さく涙を拭っている。


香織と出会ってから十年、交際を始めてから九年、別れを切り出して二年が過ぎた。

祐介は香織に本心を素直に打ち明けられるようになるのに長い年月を要した。

草津香織と本当の意味で向き合えるようになったのは、他でもない麗奈という一人の女性と

出会えたことがきっかけだった。


止まっていた祐介と香織の時間が、再び動き出した。



今年も春が来た。香織とよりを戻してから四カ月。特に進展はなかった。

ただ、出掛ける時はどこでも指を絡めて繋ぐようになり、部屋でキスをするようになった。そして一つのベッドで寝起きを共にするようになったが、まるで襲い掛かって来いと言わんばかりに香織は上半身裸で毎晩祐介の頭を胸の谷間に埋める様に抱きかかえて寝るようになった。

何度言っても聞かないのは相変わらずで、はじめのうちはもうメンタル不全は治ったから大丈夫だと言い張っていた祐介だったが、単にそれが気持ちが良いことだと気付くと、バイクのタンデムの乗り方と同様にズルズルと香織の深みに嵌ってしまい、今では習慣のようになっていた。


それ以外にも香織は夜になると明らかに祐介を誘うような言動や格好をするようになった。

しかし祐介はそれを受け入れず、我慢してただ香織の二つの膨らみに顔をうずめて眠った。

数日が経ったある日、香織から尋問を受けた祐介はその理由を、自分の本心を香織に打ち明けた。


「ねえ祐君。なんか、夜だけあからさまに避けてるよね?」

「うん。」

「そんなに私、魅力ないのかなあ。やっぱり麗奈さんみたいに巨乳じゃないとダメ?」

「巨乳は関係ないよ。香織だって十分魅力的だし...

 ぶっちゃけその...俺だって我慢してるから...」

「何で我慢するの?私だってもうすぐ二十七だよ?

 いい加減、くもの巣が張っちゃうよ。腐っちゃうかもよ?」

「くもの巣も張らないし、腐りもしないから! というか、

 俺、本気で香織に戻って欲しいって思ってるんだ。」

「女優の事?」

「うん。香織はこんな所で燻っちゃダメだと思う。」

「寂しくない?」

「寂しいけど、今なら我慢できるし、我慢出来なくなったらちゃんと言えるから。」

「でも、あの事務所とは完全に縁切れてるよ?」

「別にテレビに拘らなくてもいいじゃないか。

 舞台でも、地方でも、例えば自主製作的なものでもさ。」


「うーん...確かに専業家事手伝いは時間を持て余すけど...」

「やっぱりもう暫く祐君の傍でイチャイチャしたいから、パス。」


「じゃあ、こっちも夜のお誘いはパスだ。」

「もー!何でそうなるのよー!大体祐君は今時じゃないんだよ!

 テレビの向こうの女の子が全員処女だと思ったら大間違い!

 確かに私は祐君に操を立ててたからした事ないけど...

 因みに私と共演したことのある人気女優のK子さんなんて新人俳優さんを食い物にしてて、

 女子会で付いたあだ名がユニコーンだよ!」


「ユニコーンって処女に懐く方じゃないの?メスのユニコーンっているの?

 しかもK子さんって伏せてないし。とにかく、俺の女優の処女信仰とかの話じゃなくて、

 香織にはちゃんと結婚まで綺麗な体でいて欲しいって事だけはわかって欲しい。」


「うん!わかったよ、ありがとう。じゃあ明日結婚しよう?」

「ごめん。それはもうちょっと待ってて。」

「もうちょっと?」

「うん。もうちょっと。」

「いつ?」

「もうちょっと。」

「むー!何よそれ!...でも祐君、私と結婚してくれる気はあるんだ?」

「勿論あるよ。無かったらよりも戻さなかったし、いつまでも一緒に居るわけないだろう?」


「そっか、そっか。嬉しいな。じゃあ祐君がプロポーズしてくれるまでは

 祐君の一人仕事のお手伝いしてあげるね!」

「一人仕事?」

「私、知ってるよ。毎朝、起きたらすぐにトイレで」

「もう!わかったから!!それはちゃんと一人で出来ますから!!」

「祐君は朝派だったんだね~」


翌朝祐介が奇妙な感覚を覚えて目を覚ますと、香織は半裸のまま一心不乱に右手を上下させていた。

何が何だか分からないまま、痺れる様な快感に身を委ねた祐介は、久しぶりに味わう、愛しい者から

与えられる快楽にココロの壁が少し壊れた気がした。

カラダとココロが久しぶりに繋がった気がした。



桜が満開の四月、社会人になって五年目となった祐介の仕事の方は順調に進んでいた。

今月末にはR-POINTER製造に関するの特許も公開され、いよいよ世界各国でし烈な本当の意味での開発競争と、価格競争が行われるようになる。当然祐介の会社は先発として試作量産品による生体試験、販売後の評価やフィードバックに基づく改良等、先行販売社としての大きなアドバンテージを持っている。


R-POINTERの開発と量産体制確立の功績が認められ、祐介は若干二十七歳にして仙台研究センターの主席研究員に昇進した。仙台研究センターは東北研究センターの下部組織の為、全ての研究員たちをまとめ上げる訳ではないが、博士号を持っているような研究職の本流の中でも、選ばれるにはそれなりの経験と実績が無ければ任命されることはない。

本社の研究職でいえば、班長、主任を通り越して係長待遇だった。


自宅アパートに戻ると、祐介は人事の話を香織にする。

「すごいよね!よくわからないけど、凄いんだよね!!」


「うん、まあ...同期でも流石に係長ってのは居ないからね。」


「祐君、おめでとう!じゃあ今日はお祝いだね!駅前のレストランにする?

 それとも私の愛情手料理が良い?」

「愛情手料理、但し作りなれた美味しい奴でお願いします。試作品は不可だから。」

「ああー!まだ疑ってるの?今はもうまともになってるでしょ!?」

「いや。試作品についてはその限りではない。だろ?」

「うっ...」

「いつも通りでいいよ。ちゃんと味わって食べるからさ。」


香織特製のリゾットアルネロなんとかが出てきたのは三十分後のことだった。


名前からするにイカ墨のリゾットなのだが、焦げているのか、墨で黒くなっているのか判別が出来ず、祐介に味見を先にしろと言われた香織は、眉間に皺を寄せながら恐る恐る口に運び、一口咀嚼した瞬間に、顔を青くさせ、まるでツワリでも起きたかのようにトイレに駆け込んだ。


「何を食べさせるつもりだったんだ...」

祐介は久々に働いた第六感に深い感謝を抱きながら、パスタを口に運んだ。こちらはミートソースをかけただけの簡単なもので、どうやら劇物は含まれていないようだった。


祐介と香織はお互いに作っていた見えない壁を少しずつ、丁寧に取り除くように、ココロとカラダの距離を近付けていった。

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