凄惨な過去
そもそも父親はいなかった。
どこの誰かも分からない。母も教えてくれない。
何かをすると母に殴られた。何もしなくても殴られた。
何かをすると母に蹴られた。何もしなくても蹴られた。
何かをすると母にヒステリックに怒鳴られた、口汚く罵られた。何もしなくても、やっぱり怒鳴られた、罵られた。
母に煙草の火を押し付けられた。やたら寒い冬の日に、いきなり母の手で家の外に放り出されて、凍えそうになりながら朝を待った。
母に殴られて前歯を折られた。蹴られて奥歯を折られた。理由は、未だに分からない。
ある日、母の手によって変な所に連れていかれて、変なおじさん達に変な事をされた。そのお代として、一万円札数枚が母に支払われた。
その次の日には、あるお店の品を盗んでこい、と母に命じられた。その通りにしたら、警察に捕まった。失敗した、という理由で、母に顔が腫れ上がるほど殴られた。
母は、娘に向かって、お前のようなクズに生きる価値は無い、と、ハッキリと宣告した。
あろうことか、実の母親によって、存在と人格を完全に否定されたのだ。
その次の日には、母が自宅から姿を消した。そして、家には借金取りを初めとするやくざな者達が次々と押しかけてくるようになった。
以来、母とは音信不通である。
ゆかりは、子供だった頃の真山徹子が両親から受けてきた仕打ちについて淡々と話した。
彼女は、怒りや悲しみといった感情を抑え込んでいるように、幸佳には見えた。
「徹子が、魔法使いとしての力を発現させたのは、ほんの数年前だからね。それがきっかけで、私と徹子は出会ったんだけど、いや、ホントに、無力だった徹子の子供時代は、地獄のような苦痛と不快感に満ちていたよ」
「そ、そうなんだ」
幸佳は、震える声で相槌を打った。
知らなかった。
自分達が「暴力の鬼」と呼んで、心底忌み嫌っている女性が、それほどまでに凄惨な過去を背負っていたとは、全く知らなかった。想像もしていなかった。
ゆかりは話を続ける。
「食事をほんの少し残した、という理由で、異常なほど怒った母親にまたしても痛めつけられ、罵倒された挙句、顔を残飯まみれにされたこともあったらしいね」
それを聞いて、幸佳は自分の身に起こった出来事を思い出した。
そうだったのか。
幸佳も、給食を残したという理由で、真山の手によって顔を残飯まみれにされたのだった。
あの時の衝撃と異臭と感触と苦痛と恐怖は、今でも忘れられない。
あの時、幸佳は、「暴力の鬼」をこの世から消してやりたい、と願った。
しかし、ずっと昔に、真山も同じ仕打ちを受けていたのだ。
実の母親の手によって。
ゆかりは、口調に苦いものを滲ませながら言った。
「契約を結び、主従関係を築いた徹子と私は、感覚や記憶をある程度共有できる。そうやって、私はある程度、徹子の人生の記憶を自分のものにしたんだけれど、本当に、辛いものだったよ」
ゆかりは、更に続ける。
「徹子はね、高橋竜太郎達のような、どうしようもないゲスでクズでカスな男達だけじゃなく、伊藤愛のような、母親であるにも関わらず、生まれたての赤ん坊を容赦無く殺したり、まだ三つか四つの娘を虐待して殺したり、挙句の果てに正気を失って、初対面の女の子を殺しておきながら、平気で笑っていられるような鬼畜も絶対に許せなかったの。実の母親にすら、ぞんざいに扱われて苦しめられていた昔の自分と虐待されている女児達が、徹子の頭の中で重なるからね。憎くて憎くて憎くて、しょうがなかったんだよ」
柴田幸佳には、黙って聞いていることしかできなかった。
魔法少女の杖に取りついている、かえで先生が言った。
「私の、神の眼のような、時間や場所や距離を問わず、全てを見通す能力を使って、徹子先生は、高橋竜太郎や伊藤愛達の残酷な悪行を目の当たりにして、それで彼らに対して激しく怒って、解離しちゃっていたの。だから、あんなふうになってしまっていたのだけど、その気持ちもわかるでしょう?あんな人達、許せなくて当然だもの」
かえで先生や赤星ゆかりの話を聞いて、幸佳は頷く。
(かえで先生から情報を得ていた幸佳達は、武田隆・高橋竜太郎・原浩作・そして伊藤愛達がどれほど
残忍な悪行をやらかしていたのか、全て把握していた。)
そして思い出す。
・・・あたしを、あんな目に遭わせて、散々苦しめやがって・・・あたしがどんだけ地獄を味わってきたか・・・のたうち回って、生きてきたか・・・
伊藤愛と対決した時、魔法少女ファイこと真山徹子は、愛に面と向かって、そのような、全然わけの分からない、全く意味不明なことを言っていたが、それは、あの時の真山徹子が自分の頭の中で、伊藤愛と自分の母親を混同し、少女時代の虐められていた自分に退行していたからだったのだ。
凄まじく深い心的外傷・トラウマが生み出す、無尽蔵な不快感と苦痛、その負のエネルギーによって、心の時間を二十年近くも、巻き戻していたからだったのだ。
あの時の、ひどく解離していて完全に正気を失って、錯乱していた真山徹子という女性には、目の前にいる伊藤愛という女性が、自分の母親に見えていたのだ。
女児殺しの母親・伊藤愛という女性と、自分をさんざん酷い目に合わせた挙句、あっさり捨てた母親を同一視していたのだ。
柴田幸佳の頭の中で、答らしきものが出た、その時だった。
「う・・・ん」
静かに寝息を立てていた真山徹子が、わずかに呻きながら身じろぎした。
ゆかりと幸佳は、同時に席を立って、徹子に注目した。
目覚めの時か?と思ったが、
「や、めて・・・」
そう呻く徹子の寝顔はとても苦しそうだった。
ゆかりが、呟いた。
「この子、うなされている。かわいそうに。今頃、いつものように、鬼畜生にも劣る母親に虐待されている夢でも見ているんだろうね」
徹子の寝言は続いた。
「お、母、さん・・・わ、たし、良い子にするから・・・お願い、殴らないで・・・」
幸佳は、息を呑んだ。
「私を、置いて、行かないで・・・捨てないで・・・」
そう呟きながら、うなされている徹子の額の上に、ゆかりはそっと手を置いた。
「幸佳ちゃんが出会った、魔法少女ファイがそうだったように、子供の頃の徹子は、とても怖がりで恥ずかしがり屋で泣き虫な女の子だったんだよ。だからこそ、母親の虐待にも抵抗できず、ただ耐えるしかなかった。でも、あまりにも辛くて思い余って」
ゆかりは、下唇を噛んだ。
「徹子は、手首を切って自殺を図った事もあったの」
幸佳は、真山徹子の手首に傷跡があったのを思い出した。
あの傷には、そういう事情があったのか。
ゆかりは、天を仰いだ。
「自分を理不尽に痛めつける母親に対する怒りや憎しみと恨み、そして自分が捨てられることに対する恐怖と悲しみが、この子の頭の中で混在して、地獄の大鍋のようにグツグツと煮立っているの」
更に続ける。
「この学校に教師として入り込んでから、真山徹子は柴田さんを初めとする子供達に対して、異常なほど辛く当たり散らしてきた。事あるごとに怒りを爆発させて、暴れてきた。でもね、それは、徹子が本当は怯えていたからなんだよ」
それは、幸佳にとって予想外の答だった。
あの、「暴力の鬼」が、怯えていた?
「柴田さん達のような幸せな子供達を見ると、どうしても拷問のような自分の子供時代の記憶が頭の中で蘇って来て、耐えられなくなってきちゃうの。良い子にしていたはずの自分が、ほんの些細な事が原因で母親から散々痛めつけられてきたというのに、なんで自分よりずっと我儘で生意気な、この子達が叱られもせずのうのうと生きているんだ!どうして、これほどまでに扱いが違うのか自分には、さっぱり分からない!ってね」
ゆかりは、静かに話し続ける。
「自分を理不尽に責め続けてきた親に対する怒りや憎しみや恨み、そして恐怖が、徹子をおかしくさせて、彼女に、五年四組の子供達への猛烈な攻撃を開始させた」
真山徹子は、また少し呻いた。その閉じられた目から、すっと一筋、涙が流れ落ちる。
「私は、そんなに辛くて苦しいなら、教師を辞めた方が良いよ、と徹子に言った。でも、徹子はそれを拒否した。彼女はね、こう言ったの」
・・・自分がおかしいのはわかっている。ただ、今ここで教師を辞めたら、自分を苦しめてきた、あの母親への恐怖から逃げる事になる。そんな事は出来ない。自分は、負けたくない。
「だから、徹子は意地でも教師を辞めなかった。私も、徹子の意思を尊重したかったから、それ以上は言わなかった。その代り、柴田さん達には申し訳ないけれど、あなた達の精神をほんの少しだけ操作させてもらったの」
幸佳は首をかしげた。
「精神を操作って・・・どんな風に?」
「あなた達が、真山徹子と言う教師の事を訴えたりしないように、あなた達の心を少しだけ抑え込んだの」
「はあ?」
幸佳は呆気にとられた。そんな事をしていたのか。
そうか・・・だから、真山徹子先生があれほど荒れ狂って、見境なく大暴れしても、自分を含めた周りの人間は、彼女を解雇して、学校から追放しようという運動を行わなかったのか。
「本当にごめんなさい。でも、私は徹子の気持ちを大切にしたかったから」
ゆかりは、頭を下げた。
「でもね、徹子も、魔法少女ファイとして活動している時に、あなたと出会って、少し変わったの。あなた達五年四組の生徒がどんなに苦しんでいるか、あなたから生の声を聞いて、徹子も、というよりファイもかなりショックを受けて、少しあなた達に対して優しくしよう、と気持ちを改めたみたいだったから」
ここでようやく、幸佳の頭の中で、疑問は氷解した。
何故、自分が、「真山徹子」が全ての元凶だと主張すると、使い魔の猫・メルはそれをきっぱりと否定したのか。
何故、自分が「暴力の鬼」を激しく非難すると、「正義の魔法少女ファイ」は傷つき悲しんだのか。
何故、自分がファイと出会ってから、真山が少し穏やかになったのか。
全ては、「魔法少女ファントム・イレイザー」と「暴力の鬼・真山徹子」が同一人物だったからなのだ。
使い魔の猫・メルの人間バージョン・赤星ゆかりは、大きく息をついた。
魔法少女の杖に取りついている付喪神・白石かえで先生は、無言だった。
幸佳は、クラスメイトの女子をじっと見つめた。
そう、今にして思えば、ゆかりの好物が魚料理だったのも、ゆかりの運動神経が抜群だったのも、全ては彼女の正体が猫だったからなのだ。
ゆかりは再び口を開いた。
「私達についての話は、これで大体終わりね」
柴田幸佳は、何とも言えない表情で頷いた。
今回のエピソードで、真山先生の過去が判明しました。
これが、彼女が生徒達に対して、怒り、荒れて、発狂して、暴れていた理由です。
そして、この後、柴田幸佳は、「自分にできること」をします。
どうか、読んであげてください。




