第一の被害者・尾崎潤一
「原田さんへの説明と、私たち自身のおさらいも兼ねて、一件目の事件概要から説明していこう。……まあ、他でもない、私が被害者となった事件なんだが」
苦笑を漏らし、尾崎さんが声を上げる。声音が柔らかい割に、よく通る。生前は、教師か、あるいは接客業だったのかもしれない。
「――五月十八日の午前七時頃、杉並区高円寺の公園で、散歩中の付近住民により、男性の変死体が発見される。被害者は尾崎潤一、五十二歳。高円寺駅前のコンビニ『ゼロヨンマート』店長」
「コンビニの店長さんだったんですか……」
「意外かい?」
顔を上げると、さっきまでワイシャツだった筈の彼は、いつの間にかゼロヨンマートの赤い制服にコスチュームチェンジしている。こういう芸当も可能らしい。
「いえ、納得です」
実際、よく似合っていた。
「司法解剖による死亡推定時刻は同日午前二時から三時の間。死因は頸部圧迫による窒息死。背後から細いロープ状のモノで首を絞められたと考えられている。現場に遺留品はなく、凶器のロープは犯人が持ち去ったものと推測される。被害者は上下黒のジャージ姿で、所持品は家の鍵と財布のみ。財布の中身は、手付かず。また、現場には犯人特定に繋がる指紋、足跡の類は発見されず、目ぼしい目撃証言も得られていない――と」
自分の話を、まるで他人事のように淡々と話す。恐らく、これで話すのは四回目になる筈なので、それで慣れてしまったのかもしれないけれど。
「――と、まあ、ここまでだと何も分からないのと変わらないと思うだろうけど……この事件には、一つの特徴があった」
人差し指を立て、こちらの目を真っ直ぐ見据えながら彼は言う。
「何だか分かるかい?」
分かる訳がない。
「何ですか?」
「これさ」
彼が手で示す先、何もなかった白い壁に、事件現場と思われる写真が大きく映し出される。プロジェクターでも使ったかのようだ。
死体の写真かと一瞬目をそらしかけたが――そしてそれは実際に死体の写真だったのだけれど――ただ、ジャージの背中が大写しになっているだけで、何だか拍子抜けしてしまう。
それよりも、その背中に貼り付けられているモノが重要だった。
何やら、白い紙がガムテープでくっついている。その紙に書かれていたのは――
「……『M』、ですか?」
「その通り、被害者の背中には、A4コピー用紙に黒のマジックで、大きく『M』と書かれ、ガムテープで貼り付けられていたんだ。コピー用紙、インク、ガムテープはどれも大量に市販されている物で、流通経路の確保は不可能。問題は、この文字の意味だ。原田さんは、何だと思う?」
急に言われても。
「サイズとか……」
「そうだね。他には?」
「えっと、その……マゾヒスト、とか……」
女子高生になんてことを言わせるんだ。いや、別の単語を言えばいいだけの話なのだけど、思いついてしまったのだから仕方がない。Mの意味を聞かれたら、どうしたってそうなるだろう。しかし、尾崎さんは何も感じるところがなかったらしく、先を促す。
「ふんふん、後は?」
「マクドナルドとか……ですか?」
「まあ、そんなとこだろう。他には、男性、ミリ、メガ、ミリオン、マグニチュードにモル数、それに英文法における修飾語って意味合いもある。作品タイトルや人物のイニシャルってことまで考えると、もう選択肢が多すぎて考えられない。私自身に関連してるのかとも思ったが、どうもしっくりこない。当てはまるのは、男性ってことくらいかな」
確かに、M一文字だけでは、どうにも考えようがない。
「しかし、これが捜査陣を混乱させた。わざわざ紙にマジックで書いてガムテープで背中に貼り付けてあることから、犯人の残したメッセージであることは明らかなんだが、意味が分からないのでは、どうしようもないよ。もちろん、混乱したのは私たちも一緒でね、辞書を引っ繰り返してみたりもしたんだが……結局断念したよ」
しかし、無意味ということもないだろう。いかにも意味ありげだ。その意味が分からないのが問題なのだけど。
「さて、続いては被害者周辺の人間関係だが――やっぱり、自分で語るのは気恥ずかしいな。如月さん、お願いしていいかな?」
「待ってました」
立ち上がった如月さんは、すでに資料を手にしていた。
「尾崎さんの、コンビニ店長としての評判はなかなかね。仕事熱心で人当たりがよく、バイト君たちの受けもいいみたい。お客さんやゼロヨンマート本部とのトラブル、諍いの類も一切なし。プライベートで仲良くしている友人は少ないものの、酒もギャンブルもやらず、店の経営状態も問題なし。恨みを抱く人間は皆無。今も刑事たちが辛抱強く過去の人間関係を当たっているみたいだけど、ことごとく空振りに終わっているみたいねえ……」
結局、殺人の動機を持つ人間はいない、ということか。
――いや。
「あの、失礼ですけど、尾崎さんって、独身ですか?」
思いついて、やや立ち入った質問をしてみる。
「……いや、一度失敗してる。もう七年になるかな」
「その理由って……」
「大したことではないよ。コンビニ稼業なんてのは、軌道に乗るまでは休みナシだからね。それで、すれ違いが起きた。まあ、よくある話だよ。私も、家庭を顧みなかった仕事人間だったってことさ」
「そう、ですか……」
やはり、殺人に繋がるとは考えづらい。となると、ヒントは背中に貼り付けられていた文字だけ……。
「――死体検案書については、触れなくていいんですか?」
聞き馴染みのない声に、体が硬直した。
見ると、今まで黙って資料を黙読していた鹿島さんが顔を上げている。決してこちらの話を聞いていない訳ではなかったらしい。彼の声を聞くのは、この空間に入った時以来だ。
「ん? 鹿島クン、死因は絞殺でしょう? 何か気になることなんかあったっけ?」
如月さんが首を傾げている。
「はい。死体からは微量のアルコールが検出されています。恐らく、殺害される前の数時間以内に、軽く飲酒をしたのではないかと」
「それが、何か問題?」
「問題です」淡々とした事務的な口調で、鹿島さんは続ける。
「尾崎さん、お酒は飲まれないのではなかったですか?」
彼の追及に少し虚を突かれたような顔をする尾崎さんだったが、すぐに、いつもの温和な表情に戻る。
「……いや、飲まないと言っても、酔うほどは飲まないという意味だよ。仕事で疲れた時や、眠れない時なんかは、ビールを飲むことくらいはある。いわゆる、『嗜む程度』ってヤツだね。別におかしくはないさ」
「じゃあ質問を変えますけど――そもそも尾崎さんは、何故深夜の二時なんて時間に公園になんていたんでしょうか?」
「散歩かジョギングだろうね。健康のために、最近始めたんだ」
「その日の尾崎さんの足取りですが、深夜十二時までは店にいたと、深夜勤務のアルバイトが証言しています。自宅は徒歩三十分ほどの距離ですから、帰宅してから出かけたとなれば、計算は合います」
「だったら、何が――」
「酒を飲んでから、散歩に出かけたりするものでしょうか?」
如月さんの言葉を遮って、彼は言葉を重ねる。
「普通、酒を飲んだら、用事でもない限り出歩いたりはしないものだと思うんですけど」
「だとしたら――どうなる訳?」
「誰かに呼び出されたってことッスか?」
如月さんの問いに答えたのは、興味なさげに携帯ゲームに興じていた大介君だ。こちらも、一応話は聞いていたらしい。
「そうかもしれない」相手が年下だからか、途端にタメ口になる。「尾崎さんの部屋から、携帯は発見されなかったって書いてある。殺害当時、鍵や財布と一緒に携帯も持っていったんだろう。だけど、その携帯は見つかっていない。もしかしたら、犯人が持ち去ったのかもしれない」
「犯人に現場まで呼び出され、殺害したあとにケータイを持ち去られた――って、そうなると、どうなるの?」
彼女はさっきから質問ばかりだけど、それはわたしも同じ。
だったら、それが何だと言うのか。
「今の段階では、何とも。ただ、事件概要を理解するのに、頭に入れておいた方がいいと思ったから、発言したまでです」
俺からは、以上です。
そう結んで、彼は再び手元の資料に視線を落とす。何だか、テレビなどでよく見る捜査会議でもしているかのような態度だ。この鹿島寛貴という男、頭はキレるようだが、あまり無駄口は叩かない主義らしい。合理主義者と言うか。
やはり、概要を簡単に聞いただけでは、何も分からないようだ。
当たり前だけど。