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尾崎潤一の場合

「私――は、何だろうね」

 コーヒーカップに視線を落としたまま、首を傾げる。

「仕事は順調だったし、断酒も継続していた。妻と娘が出ていったのは過去のことだし……やはり、畑中とかいうクレーマーが関係しているんだろうか。クレームに屈して自死を選ぶほど、弱い人間ではないつもりだが……」

「今の尾崎さんの言葉、一つだけダウトが混じっています。そしてそれが、尾崎さんが人生に絶望した理由でもあります」

「それは、何なんだい? クレーマーも関係しているのかな」

「間接的には」

「勿体ぶらず、ズバリと言ってもらえると有難いんだが」

「自分で気付き、思い出さないと意味がありませんからね……」

 羽生さんがわたしに言った台詞だ。きっと、皆に共通する命題なんだろう。

 怪訝な顔の尾崎さんを尻目に、鹿島さんは一本のペットボトルを出現させる。記憶に新しい。表向きはミネラルウォーターのペットボトルだけど……。

「これ、覚えてますよね」

「もちろん。水のペットボトルに純米吟醸を詰めたものだね。ついこの前まで、私が飲んでいたんだ」

「そうです。その中身が如月さんにバレた時、自分が何て言っていたか覚えていますか?」

「えっと……私は、何か言ったかな」

 思い出そうとしたけど、無理だった。前後の情報量が多すぎて、一つ一つの言葉なんて覚えていられない。

「『これ、なかなかに便利なんだよ。いちいちコップに注ぐ手間が省けるし、携帯もしやすいしね』――そう仰ったんですよ」

「そう、だったかな? だけど、それがどうしたって言うんだね」

「『なかなかに便利だ』という言葉からすると、尾崎さんは生前、何度か同じことをされてたんでしょう。経験がなければ、そんな言葉は出てこない筈です」

「まあ、そうだね。酒に溺れていた時期に、そんな真似をしていたんだろう」

「それが、ダウトなんですよ」

 刹那、鹿島さんと尾崎さんの視線が激しく交錯する。

 あくまで凪の鹿島さんに対し、尾崎さんは巨大な疑問符を浮かべている。わたしも、よく分からない。何がダウトだと言うのか。

「俺の記憶が確かなら、小型ペットボトルの自主規制が緩和されたのは、九六年です。それ以降、五〇〇ミリのペットボトルは大量に流通するようになりました。さらに、水筒の代替品として使われるようになったのは二〇〇〇年代に入ってからです。少なくとも、尾崎さんがアルコール依存症に陥っていた時期――九〇年代初頭には、まだ一般化されていなかった筈なんですよ」

 何でも知っている人だ。その知識と記憶力には、単純に脱帽せざるを得ない。

「そうすると、妙な話になってきます。尾崎さんがペットボトルに酒を詰め替えて飲んでいたのは、いつの時期の話なのか……」

 黙って聞く尾崎さん、顔面が蒼白になっている。

「おかしなことはまだあります。尾崎さん、ペットボトルに酒を詰め替えて飲むメリットに関して、『手間が省ける』『携帯に便利』という二点を挙げていますよね。これ、よく考えるとおかしいんです。ペットボトルに日本酒を注ぐには、漏斗(じようご)を使わないと上手くいきません。コップに注ぐ方が、よっぽど手間がかからないんです。それに、家に引き籠って酒に溺れていたのなら、携帯性を考慮する必要もない筈です。つまり――ペットボトル酒を飲んでいたのは、別の理由で、ということになるんですよ」

「……うう」

 呻いている。汗も、びっしょりだ。それは冷や汗か、脂汗か。

「もっと最近、なんじゃないですか? ペットボトルに詰め替えるメリットにしても、もっと別のがあった筈だ。例えば、周囲から酒を飲んでいると気付かれないようにするため、とかね。実際、俺たちはしばらくの間、尾崎さんが日本酒を飲んでいるのだと気付かなかった訳だし。本来なら酒を飲んではいけない場所で、周囲にそう気付かれないように飲むため、ペットボトルに移し替えて飲んでいた――そうは考えられませんか?」

 もう、尾崎さんは何も答えない。両手で顔を覆ってしまっている。

「どんな時に酒を飲むのか――その問いかけに対して、如月さんは『嫌なことがあった時』と答えました。要するにストレス解消です。繰り返し執拗に訪れるクレーマーは、甚大なストレスとなり得るのではないですか?」

 尾崎さん、震えている。

 容赦ない鹿島さんの追及に、記憶が戻りつつあるのかもしれない。

「断酒は、破られていたんですよ。畑中繁の執拗で陰湿なクレーム攻勢に、貴方はすっかり疲弊してしまっていた。擦り切れ、穴が穿たれていた訳です」

「その穴に――私は、酒を注いでしまったということか」

 声が、僅かに震えていた。

「そうか……そう、だ。私は、連日のクレームに、すっかり疲れていた。疲れて、いたんだ」

 顔を覆う両手の間から、尾崎さんの怯えた目が覗いている。

「よくないことは分かっていた。一滴でも飲んだら、後戻りできないことは、十分に分かっていたんだ」

 だけど。

 なのに。 

 ――私は。

「ビールくらいなら――そう思ってしまった。あの冷たい喉越しを、思い出してしまったんだ。そのくらいなら、何とかなると思った。そのくらいなら、罰は当たらないと思ったんだ……」

「しかし、罰は当たってしまった――と?」

「……クッ」

 尾崎さん、顔を覆ったまま、体全体が震えている。

 泣いているのかと思った。

 だけど、それは間違いだった。

 笑って、いるのだ。

 失笑に似た苦笑は、いつしか嘲笑となり、哄笑に変わる。

 ケタケタと一通り笑い、涙を拭いながら独りごちる。

「愚かだよねえ。私は、クレームに負け、酒の誘惑に負け――結局、全て元通りだ。酒浸りの日々だよ。最初は家だけで飲んでいたのが、そのうち仕事中にも口をつけるようになって……あとは、坂道を転げ落ちるがごとくだよ。断酒の苦労も何も、全部元通りだ。全部、水の泡だよ。失望した。絶望したよ。自分自身に、ほとほと嫌気が差した。私は駄目な人間だよ。結局、何一つ克服できなかった。いくら年を重ねても、駄目な人間は駄目なんだよ! ああ、私は駄目人間さ! アル中なんだよ!」

 笑っている。

 嘲笑っている。

 自分自身を、半世紀以上に渡る自分の人生を。

「被害者面も! 負け犬も! ルサンチマンも! 全部、私のことだったんだ! 私は私に絶望して、死を願ったんだ!」

「……だけど、単純な自殺は望まなかった」

「そうだ。アル中でも何でも、店長であることには変わりがない。私が自殺しては、従業員の皆を傷つけることになる。卑怯で臆病な私は、自分の死を偽装することにした。自殺ではなく、どこかの殺人鬼の餌食になることを望んだ。私は――鹿島君に殺される道を、選んだという訳だ」

 自殺は、残された人間に深い深い傷を残す。

 何故自分はあの人を救えなかったのだろうと、未来永劫苦しめる羽目になる。尾崎さんは、それだけは避けたかったんだろう。自分の意思で死を選んだのではなく、あくまで被害者として、自身の人生を締めたかったのだ。

「整理しましょう――全ては、段取り通りに行われました。五月十八日のあの日、仕事が終わった尾崎さんを、俺は携帯で呼び出した。呼び出して、俺は、尾崎さんを絞め殺した。抵抗はなく、全てはスムーズに行われた。証拠も証言も、残らなかった。俺は尾崎さんの背中に『M』の字を残し、現場を後にした――全ては、予定通りでした。ただ一点、尾崎さんが酒を飲んでいたこと以外はね」

「アル中の最期だ。死ぬ前に酒を飲んでおこうと思うのは当然の流れだよねえ。私はビールを流し込んで、現場へと向かったんだ。まさか、それが後々問題になるなんて、思いもよらない。これで、全ての絶望から解放されるんだって――それだけを――馬鹿みたいに夢想していたんだ。馬鹿と言えば、これ以上の馬鹿はないよねえ。馬鹿は死んでも治らないと言うが――あれはきっと、私みたいな人間のことを言うんだろうねえ……」

 弛緩した表情でグラスの液体を一気に飲み干す。

 いつの間に出現させたんだろう。

 その中身は、日本酒か洋酒か――種類は分からないけれど、酒であることは間違いない。酒に溺れ、酒によって自身に絶望した男が、酒に()って、酒に酔って、安寧を得ている。皮肉な話だ。

「でも、ちょっと羨ましい」

 空気を読んだのか読めてないのか――いや、読んだんだろう――羽生さんが口を挟む。

「何が羨ましいんだね?」

「だって、店長は一人目なんでしょう? 最初の人間な訳じゃない。鹿島クンは店長を殺したし、あたしは鹿島クンを殺した。大介くんも横山君も、等しく人殺しの中で――店長だけ、誰も殺してない。人殺しじゃない。羨ましいわよ」

「……だったらよかったんだけどねえ」

 どこか弛緩した表情で、どこか諦観した目で、尾崎さんは語る。

「私も、殺している。皆と同じ、人殺しなんだよ」

「え……?」

「不思議に思わないかい? 警察が必死に行方を追っている、クレーマーの畑中がどこへ行ったのか。どこへ、消えたのか」

 ククク、という乾いた笑いに、わたしは慄然とする。

「私だって、ただでは死なないさ。あんな男が生きていたって、世の中のためにならない。だから――計画の三日前、性懲りもなく店に来た奴を、私は、裏の駐車場に連れ出して――それで――」

 言葉尻を、アルコールと一緒に飲み干す。

「殺した……んスか?」

「首を絞めて、ね。近くにあった自分の車に死体を詰め込み、仕事が終わった後、山に埋めたよ。案外、見つからないものだね。まあ、見つかっていたら計画も破綻していたかもしれないんだが」

 計画。

 それはつまり、連続殺人に偽装した自殺幇助のことか。

 この人たちは、一体――。

「畑中繁は、言ってみれば0番目の被害者だった訳です。尾崎さんもまた、加害者だったんですよ」

「そんな……」

 口を覆う羽生さん。対して、中学生の大介君は冷静だ。

「オジサンは、全部思い出したんスか?」 

「ああ……」

 グラスの酒を飲み干し、瞬く間に補充する。無限に酒を飲めるこの空間は、彼にとっては天国か――それとも、地獄なのか。

「全部、思い出したさ。全部ね。私の罪も、みんなの罪も、全部だ。しかし、物事には順序があるし、自分の罪は自分で気付かなければ意味がない。後は、鹿島君に任せることにするよ」

 そう言い終えて、グラスいっぱいに注がれた酒を一気に飲み干す。

 何だか、ひどく不味そうに見えた。

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