ペットボトル
数分後、被害者メンバー六人は中央の黒い円卓に集まっていた。今更だが、夕焼けの教室の真ん中に黒い円卓が鎮座しているという図はなかなかにシュールだ。もちろん、連続殺人の被害者が顔を突き合わせて自分たちの殺された理由を探っているというこの状況そのものが、悪い冗談みたいなのは言うまでもないが。
皆が各々所定の位置に着いたのを見て、わたしは口を開く。
「何かあったんですか」
「新事実だ。煩雑になるので結論から言うが――例の、横山君殺しの時に目撃された不審車両、その持ち主が特定された」
「え……」
思わず、大介君と顔を見合わせてしまう。横山さんも驚いた顔をしている。俯いたままでいるのは、鹿島さんだけだ。
「少し前に更新されたデータ資料をチェックしていたら、たまたま見つけたの。警察も、仕事はちゃんとしていたって訳」
尾崎さんの横で羽生さんが胸を張っている。何故この人が得意気なのかは分からないけれど。
「……あの、それで……誰だったんですか」
珍しく横山さんが自分から口を開く。やはり自分の事件だけに、気になるのだろう。
「うん、この男だ」
尾崎さんが右手を掲げると、その先に一枚の顔写真が表示される。三十前後で、張ったエラと大きな口な特徴的だ。
「名前は菱川政伸。横浜にある京浜リサーチ社の調査員だ。平たく言えば、探偵だね」
「探偵?」
何だかおかしな雲行きになってきた。不審者の持ち主、イコール横山さん殺害の実行犯だと思っていたのに、どうやら違うようだ。
「ああ。この菱川という探偵自体は、割と信頼できる人物らしい。仕事ぶりは実直で、横山君との関係は一切見当たらない。それよりも、問題は当日彼が何をしていたかだ。ここも詳しくは割愛するが、とある人物の浮気調査のため、あの時間、マンションの前で車の中から張り込み――つまり、マンションの出入口をずっと見張っていたのだと証言している」
嫌な予感がした。
「張り込んでいたのは、午後一時から午後六時の間。横山君が墜落したのは三時から五時の間だと見られているが――菱川は、その間、マンションの住人しか出入りしなかったと証言しているんだ」
言葉が頭に浸透するのに、数瞬を要した。そして、言葉が頭に浸透したところで、それの意味するところは分からない。
「……一時から六時までの間、住人しか出入りしなかった……」
意味が分からないあまり、ほとんどオウム返しにしてしまう。
「あの、六時って、僕の死体が発見された時間ですよね? その時、その探偵は何をしていたんですか?」
「何も。同じようにマンションの入口を見張っていたらしい。マンション裏手にある駐車場で横山君の死体が発見され、騒ぎになり、調査対象に自分の存在が露見するのを避けるため、そのまま逃走。事件のことは各種報道で知っていたらしいが、面倒事を恐れて名乗り出せずにいたらしいね」
「僕が墜落した瞬間は……」
「気付かなかったと言っている。概要の時に説明された通り、あの辺りは工場が多く、日中は騒音がひどい。それに加え、駐車場は裏手にあるからね。表で見張っていただけの菱川は気付けなかったんだろう」
しばらく停止していた頭が、緩慢に回転を始める。墜落の前後で、住人以外、マンションに出入りする人物はいなかった――。
つまり。
「犯人は、マンションの住人、ってことですか?」
「あるいは、その時どこかの部屋を訪ねていた人間ということだね」
「菱川が見たのって、本当に住人な訳? と言うか、外部の探偵である菱川が、マンションの住人全員を知ってるっておかしくない?」
頬杖をつきながら、もっともなことを言う羽生さん。
「ああいや、それは警察捜査の結果だよ。マンションに出入りした人間全員の顔写真を確認させて分かったことなんだ」
「別の場所から出入りしたってことはないッスか?」
横から大介君が口を挟む。
「ううん、駐車場に行くにせよ、道路に出るにせよ、必ず正面エントランスは通らないといけない構造になっているんだよね……。部屋の窓から抜け出したとしても、周囲はブロック塀に囲まれているため、結局は正面に回らないといけなくなる。いずれにせよ、菱川の目には入ることになってしまうんだ」
ペットボトルのキャップを外し、水を流し込む尾崎さん。
「……だったら、あの、これは僕の思いつきなんですけど……」
横山さんも遠慮がちに口を出す。さっき鋭い見解を見せたばかりだと言うのに、意見を言う前に保険をかけておくのは相変わらずだ。
「その探偵が張り込みを始める前に建物内に入り、死体が発見された後は廊下や階段なんかに身を隠して、どさくさに紛れて逃げ出した、ってことはないですか?」
「どうだろうねえ……。けっこうな騒ぎになったようだから、死体発見の前後で公共スペースに不審者がいたら、目撃証言が出てもよさそうなものなんだが……」
「それ以前に、菱川がその時間にマンションを見張っているなんて、犯人には知りようもないことだもんね」羽生さんが補足説明をする。「菱川の目を気にして妙な動きをするなんてことは考えづらい訳。だから、ここは単純に、住人か来訪者に犯人がいるって仮定した方がいいんじゃないかな」
だとしたら。
「これ、相当に絞り込めるんじゃないですか……っ!」
「……だといいんだけどねぇ。問題は、その絞り込み作業な訳よ。横山クン、ご近所付き合いなんて殆どなかったみたいで、家族以外にマンション内に因縁のありそうな人間は皆無なのよ。警察は人海戦術で全ての該当者に全ての事件のアリバイを調べたそうだけど、全ての事件でアリバイのない人間は、これまた皆無」
だけどね――と、そこで羽生さんの視線はわたし、そして横山さんへとスライドする。
「さっき、新しい仮説が出たの。これは新メンバーである横山クンが考えついたことなんだけどね――」
と、ここで、羽生さんは『非連続殺人事件説』を披露する。初耳の大介君は素直に驚いていたようだが、鹿島さんは未だ俯いたまま。本当にどうしたんだろう。この会議が終わったら話しかけてみようか――羽生さんの説明を聞き流しながら、そんなことを考える。
「……と、まあ、この説が正しいとすると、何も六件全てのアリバイが必要ってことじゃなくなる訳。分かりやすく言うと、横山君が屋上から突き落とされた時間帯、明確なアリバイがなくて、かつマンションにいたことが確認されている人間が容疑者候補って訳よ」
「警察の捜査資料によると、それに当てはまるのは横山君の母親を含めて五人だね。ちなみに――横山君、この人たちのことは?」
尾崎さんは、手元の資料を斜め前にいる横山君に見せる。が、軽く目を走らせただけで首を振ってしまう。
「……僕、本当にマンションの人たちとは交流がなくて……。そこにある名前も、ほとんど初見のモノばっかりです。本当、お役に立てなくて申し訳ありません……」
「いいってば。そんなの最初から分かってたことだし」
しょげかえる横山さんを軽くいなす羽生さん。
「――結局、我々はまた、同じ命題に戻ってしまったという訳だ」
溜息混じりにそう言う尾崎さん。ペットボトルを口元に運ぶのだけど、水は全て飲み終えてしまったらしく、すかさず新たなペットボトルを出現させる。出現させたそれを、静かに開封し、口に運ぶ。
「同じメーダイって何スか」
喉を潤す尾崎さんを見据え、大介君が尋ねる。
「何度も話し合ってきたじゃないか。我々は、何故殺されたのか――何故、殺されなければならなかったのか。表層的に見れば恨みを買うような人格でなかったにも関わらず、我々は殺人事件の被害者として絶命するという憂き目にあっている。しかも、それは無差別殺人などではなく、明確な理由が存在するらしい。そしてそれら一切合切を、我々は忘れてしまっている。忘れてしまったそれらを思い出すために、我々はここにいる。ここにいて、来る日も来る日も受動的にデータを閲覧し、正誤判定の出ない議論を続けているという訳だ。議論の中心はと言えば、やはりそれは殺された動機・目的という点に集約される。犯人が誰であるとか、我々の共通点はどこにあるのかとか、殺害状況の違和感や矛盾点、現場に残されたアルファベットなど、謎は幾つかあるが、それらはあくまで枝葉末節、メインの謎を補強するサブ命題にすぎない。メインの謎とはつまり、我々が殺された理由だ」
立板に水の如くの早口でそれだけのことを一気に言い、ペットボトルを口に押し込む。喉を鳴らして、それを飲む。僅かに口からこぼれ、口角から細い水流を生む。話は続く。
「何故、殺されなければならなかったか。一つの仮説として、我々にはそれ相応の罪があったという考えがある。罪だ。ここにいる皆は、何かしらの罪を犯したんだ。それによって、我々は殺された。では、殺される程の罪とは何か。ここにいる面子は刑事事件とは無関係な人間ばかりだ。何だかんだ言って、みんな真面目で、責任感、倫理観が強い。しかし、何かしらの傷が存在することも確かだ。突き詰めるとしたら、そこだろうね。自覚せずに誰かを傷つけることはあるし、いつのまにか誰かの邪魔になっていることも、往々にしてある。では、それは何か」
突如として始まった演説に、誰一人口を挟めずにいる。ただ、呆けたように尾崎さんを見つめるだけだ。
「如月さんはプロの漫画家で、生前からムードメイカーとして周囲の人間に親しまれていた。頭の回転も早く、職業柄か発想も豊富だ。しかし、その一方で創作に関して貪欲な部分があり、犯人を特定する決定的な証拠を手にしながら、創作の役に立つという名目でそれを隠匿していたのではないか――という仮説が立っている。また、肝心の仕事の方はと言えば、お世辞にも順風満帆とは言えない状況にあり、自分の作品に対しては忸怩たる想いを抱いていたようだね」
途中で怒り出すかとヒヤヒヤしていたが、当の本人は口元に苦笑いを浮かべているだけ。やはり、事実だけに怒ることもできないんだろうか。
「大介君は、一見いかにも今風の中学生ではあるが、その実、粘り強く責任感が強い一面を持ち合わせている。学業が芳しくなかったのは、単にやる気の問題なんだろう。友人も多かったようだし、これと言って瑕疵は見当たらない――が、よくよく調べてみると、彼の罪は我々の斜め上を言っていた。白状すると、先日の如月さんとの口論の際、その内容のほとんどが聞こえてしまっていたんだが……ここで言ってしまっていいかな」
「別に。それが大事なことなら、言ってもいいんじゃないッスか」
どこか他人事のような口調なのは、拗ねているからか、諦めているからか、それとも、その事実をどう受け止めるべきか未だに判断できないでいるからか。
「大介君は、若く美しい叔母と肉体関係を結んでいたのではないかと見られている。明け透けな言い方をしてしまえば、近親相姦だ。もっとも、それがどういった類の罪になるか、今の時点では分からないんだがね……」
罪では、あるんだと思う。
ただ、それがどう殺人に結びつくのかと問われれば、確かによく分からない。念のため、件の相手・黒崎奈津美のことも調べてみたのだけど、殺された日時にはしっかりとアリバイがあった。今のところ、容疑者はゼロだ。
「鹿島君は、皆も知っての通り、完全無欠の秀才だ。この中で一番の頭脳という評価に異論を挟む人間はいないと思う。口数は少ないながらも、その発言は常に正鵠を射ている。実質的に我々のエースと言える存在だ。その一方で人付き合いは苦手らしく、根拠のない罪悪感に苛まれている面も見受けられる。自己評価も低い」
どうやら、尾崎さんはこの密閉空間で交わされたほとんどの遣り取りが耳に入っているらしい。元々は二十畳ほどの密閉空間である訳で、耳を澄ましていれば他所の会話も聞こえてしまうのかもしれないのだけれども。
「それに加え、高所恐怖症という弱点も判明した。とは言え、どれもこれも、命を狙われるほどの瑕疵とも思えないんだが――」
聞こえているのかいないのか、当の鹿島さんは俯いたまま無反応。顔色悪く黙り込んだままで、何を考えているか一切分からない。少し、不気味ですらある。
「原田さんは、典型的な優等生だ。真面目で勤勉、思慮深くて、年の割に落ち着いている。しかしその反面、自己主張が苦手で自己評価が低い面がある。合理的思考を尊重する部分と過度に感傷的になる部分がアンバランスに共存しているとも言えるし――まあ、この年頃の娘は、みんなそうなのかもしれないがね」
何だろう、物凄く恥ずかしい。
「さて、鹿島君以上に、原田さんの罪は分かりにくい。一年生の時にネットいじめで人間不信に陥り、それ以来ネットそのものを嫌悪している、というエピソードもあるにはあるが――それとて過去の話だ。また、奥寺舞さん、鍋島圭介君との間で色恋に関するトラブルが起きたりもしたそうだが、これも、どう殺人に関わってくるかは分からない。彼女に関してはまだまだ調査の余地がありそうだね」
調査の余地も何も、舞と圭介が別れたこととわたしは直接関係ないのだけど――口にするのをやめておいた。尾崎さんも如月さんと一緒で、わたしには分からない何かを感じているらしい。
「そして六人目の横山君だが――彼に関しては、とにかく、極端に自己否定的な言動が目立つ。彼自身は決して無能な人間でないにも関わらず、必要以上に自分をこき下ろしている。確かに、要領が悪いだとか、コミュニケーション能力が低いだとかいった部分はあるにはあるが、それにしても卑屈すぎる。罪があるとしたら、その部分だろう。セルフイメージへの絶望が、横山君の罪という訳だ」
忌憚のない尾崎さんの言葉を、横山さんは真顔で受け止めている。言い訳をすることも、無意味に謝ることも、しない。この人なりに思うところがあるんだろう。
「最後に私、尾崎潤一だが――私の罪はやはり、酒、とういうことになるんだろうね」
どこか他人事のように突き放す口調で、尾崎さんは手元のペットボトルに目を落とす。落とした直後に、グイッと勢いよく飲み干す。先程出現させたばかりのペットボトルは、瞬く間に空になる。
「……酒ってのは、悪魔だよ。悪魔の化身だ。何でもない顔で近づいてきて、誘惑し、堕落させる。一杯だけ、もう一杯だけ、これ以上飲んだら止まらない、終わらないと頭では分かっているのに、気付いたときにはもう自分で止められなくなっている。気付いた時には、制止すべき理性そのものが溶かされているんだ。中途半端に酒に強い私は、どれだけ酔っ払っても、傍からはそうは見えないらしい。顔が赤くなることもないし、呂律も足腰もしっかりしている。だから気付かれない。無根拠な高揚感と多幸感と共に、加速度をつけて堕ちていく。そして、絶望するんだよ。無数の空き缶、空き瓶を抱えて、私は絶望する。絶望が嫌で、絶望している自分が嫌で、恥ずかしくて、情けなくて、忘れたくて、私はまた酒に口をつける。果てることない無限ループだ。光はなく、周囲の闇はその濃度を濃くしていく。平たく言えば、馬鹿だね。大馬鹿野郎だ。酒は罪で、それに溺れる私は罪人そのものだ」
私は、酒に殺されたんだよ――。
そう呟いて、尾崎さんは再びペットボトルを出現させる。音もなくキャップを開け、それを口に運ぼうとする。それを、羽生さんが制止する。自分の左手首をがっちりと掴む羽生さんの顔を、尾崎さんは不思議そうな面持ちで眺めている。
「……何かな?」
「何かな、じゃないでしょ。飲みすぎよ」
「気にするな。私にとっては水みたいなモノだ」
「水みたいなモノってことは、水じゃないんじゃないっ!」
刺を含んだ羽生さんの声が、夕闇の教室に反響する。わたしも気付いていた。いくら鈍感なわたしでも、ここまで聞いたら、分かる。というか、臭いで気付く。
「これ、お酒でしょ!? ビール、ワイン、ウイスキーときて、酔い覚ましのチェイサー代わりに水を飲んでるんだと思ってたけど――騙された。水のペットボトルに、日本酒を詰め替えてたのね。詰め替えた段階のものを、出現させた。だから気付けなかった……」
変だとは思ったのだ。普通、ペットボトルを開封する時にはキャップが音を立てる。しかし、尾崎さんの出現させたペットボトルは、どれも音もなく開いた。つまり、開封済みだったということだ。
「確かに、見た目では分からないわね。口調も比較的しっかりしてるし。でも素面の時と比べて格段にお喋りだもん。ばればれ」
「これ、なかなかに便利なんだよ。いちいちコップに注ぐ手間が省けるし、携帯もしやすいしね」
悪びれることもなく、尾崎さんはそう言う。よくよく見れば、紅潮こそしていないものの、その顔は以前に比べて少しだけ弛緩しているように見える。
「そんなこと誰も聞いてないでしょう!? 酒は悪魔だ、罪だって言うその口で、何でまたお酒を飲むのよ!? 矛盾してるじゃない!」
「矛盾はしてないさ。私はもう死んだ身なんだ。今は、何をしたって自由なんだよ」
「そういうの、ダブスタって言うんじゃないスか?」
斜め前から大介君が口を挟む――のだけど、わたしはその単語の意味が分からない。
「だぶすた?」
「ダブルスタンダードです」解説してくれたのは、意外にも横山さんだった。「一方であることを禁止しておいて、もう一方では許容する――二重基準とか、自己矛盾ってことです。……間違ってたらスミマセン」
「いや、合ってるよ」
何故か、糾弾されている尾崎さん自身が肯定する。
「ダブスタで、矛盾だらけで、愚かで、間違っていて、弱い。私はそういう人間だ。それこそが、私の罪だ。私はきっと、酒が原因で殺された。殺されたからと言ってその罪が雪がれた訳でもないのに、過大解釈して勝手な理屈をつけて、死して尚、率先して堕落している。そういう、愚かな男なんだよ、私は」
自虐気味に顔を歪ませ、韜晦するように両手を広げる。
「いや……あの、でも……ちょっといいですか?」
横山さんが小さく手を上げる。一見遠慮がちだが、前髪の下の目は力強い。こうなった時の横山さんは、ちょっと心強い。
「いちいち断らなくていいってば」
苛つきを隠そうともせずに、羽生さんが言う。
「はい、スミマセン。……あの、今の話聞いて不思議に思ったんですけど――尾崎さんがアル中だったのは昔の話で、断酒には成功したんですよね? 酒の誘惑は全て断ち切って、今では立派にコンビニ店長として社会復帰してるって――」
「殺されるまではね」答える尾崎さんは無表情だ。
「だが、殺される直前に、私はビールを飲まされた。断酒は破られたんだ。ここに来てしばらくは我慢してたんだが、そのうち我慢する必要などないってことに気が付いた。おかげで今では立派に酒浸りだ。断酒するのには長い時間がかかったが、戻るのは一瞬だったねえ。馬鹿らしい。馬鹿らしいから、また酒を飲む。無限ループの無間地獄って訳だ。犯人はそれを狙ったのかもしれないねえ」
酔った尾崎さんはいちいち話が長い。だけど、はっきり言ってその論旨は無茶苦茶だ。死後の世界を見越して殺害する犯人などいるものか。
「この前も話したんだけどサ――」円卓に両肘を突き、身を乗り出す羽生さん。「それじゃ、あたしはどうなる訳? あたしも、殺された時はへべれけだった訳でしょ? そりゃお酒は好きだったけど、絶対にアル中ではなかったわよ? 手が震えたんじゃ、漫画なんて描けないもの」
「えっと――一つ、素朴な質問なんスけど、いいスか?」
大介君から羽生さんに質問が飛ぶ。
「いちいち断らなくていいってば」
羽生さんの受け答えは自然だ。わたしは内心、少しだけ感動していた。大介君は以前の喧嘩をずっと引き摺っていて、ずっと気まずい思いをしていた。皮肉や嫌味でなく、まともに言葉を交わしたのはあの時以来だった筈だ。大介君、極力自然を装ったみたいだけど、だいぶぎこちなかった。それに対して、羽生さんの受け答えが何と自然なことか。仲直りがどうとかではなく、これなら、そのまま以前の関係に戻れそうだ。
そんな羽生さんの態度に安心したのかどうか分からないが、大介君はいつもの口調で続ける。
「オレ、未成年だし酒飲んだこともないし飲みたいと思ったこともないんスけど――酒って、何で飲むんスか?」
「そりゃあさ、酒って言うのは――」
「尾崎さんは黙ってて」ナチュラルに口を挟もうとする尾崎さんを制止し、羽生さんは真剣な顔を見せる。「それはまあ、友達と遊ぶ時とか、美味しいお酒を飲みたくなった時とか、色々とあるんだけどサ――まあ、嫌なことがあった時が多いかなァ。飲まなきゃやってられないって言うの? 一生懸命に構成練って、必死になって描いた漫画が打ち切りになった時とか」
ここに来て、まさかの自虐ネタだ。
大介君はポカンとした表情で羽生さんを見つめている。
「あたしもさァ、それなりに必死こいてやってる訳。魂込めてるとか言ったら恥ずかしいんだけど、実際にそうだったのよ。でも、認められない。報われないのよねェ。何を描いても読者には響かない。あー、あたしって才能ないのかなァ……って思った時には、飲みたくもなるわよね」
なるわよね、と言われても返答に困る。
大介君も同様だったらしく、今までで一番気まずい顔をしている。が、羽生さんは気にしない。
「『アカルイアシタ』もね……あたしは、自分で言うのも恥ずかしいし情けないし、何かアレなんだけど――本当の本当に本気で描いたのね。でも、結局打ち切りってことになって……その頃は、割と荒れてたかな。あたしには才能がない。あたしの漫画なんて誰も読んでくれないって思って――しばらくは連載されている雑誌自体、見たくもなかった訳」
「……スミマセン」
横山さんの口癖だが、口にしたのは大介君だ。
「ううん、いいのいいの。結局それって、目を背けて逃げてただけだもの。大介君があたしの漫画読んでて、まあ、色々と思う所もあったけど――面白いって言ってくれて、本当はけっこう嬉しかった。あ、こういう読者もいるんだ、って思った訳。殺された後にそれを知るってのが、何とも皮肉なんだけどね」
どこか晴れ晴れとした顔で、口元にうっすら笑みを浮かべている。皮肉や当てこすりで言っているのではないことは、その顔を見れば分かった。
「えっと、何の話だったっけ?」
「センセーはどういう時に酒を飲むか、じゃなかったッスか?」
「いや、何で羽生さんは泥酔状態で殺されていたのか、だったと思うけど……」
どうも、話が脱線しがちだ。
元々は六件目の事件の際に目撃された不審車両の持ち主が張り込み中の探偵だった、という所からスタートしたのではなかったか。それが、横山さん殺害犯はマンションの住人だという仮説に移り、メンバーそれぞれの人格と罪を尾崎さんが総論する形で語り始め、酒の魔力の話になり、今の話題にスライドしていったのだと思う。議論が活発なのはいいのだけれど――全体的にフワフワしている。
何故だろう。司会進行役の尾崎さんが酔っ払ってしまったからか、羽生さんと大介君がついさっきまで喧嘩を引き摺っていたからか、
それとも――メンバーのエースと言える鹿島さんが、何一つ自分の見解を述べないでいるからか。
彼の考えを聞きたいという欲求が大きくなっているのを感じる。が、依然鹿島さんは沈黙を守ったままだ。円卓に肘を突き両手を合わせ、親指を額に突き立てて俯き、唇がかすかに動かして熟考を続けている。何だかとっても近寄りにくい。他の面々もそう感じているのか、鹿島さんのことなんて放って話を続けている。
「じゃあ結局、センセーは、嫌なことがあったからベロンベロンになるまで酒飲んで、そこをケータイで呼び出されて殺されたってことになるんスかね?」
「どうかしらね。記憶がないから、何とも言えないんだけど……。ただ、それが正しいんだとすると、じゃあその『嫌なこと』って何だって話になるのよねェ」
「あの……」
言いづらそうな大介君。手元には例の漫画雑誌が出現させてある。それだけで羽生さんには伝わったらしい。
「ああ、『アカルイアシタ』の打ち切り? それはないわよ。最終回の号数見てもらえば分かると思うけど、去年の年末のことだもの。あたしが殺されたのは七月だから、半年以上も前ってこと。事件とは無関係よ」
「無関係、ッスか……」
「それ以降、連載はしてないんだね?」
久々に尾崎さんが発言する。手元にはコーヒーカップ。中身はブラックコーヒーだろうか。取り敢えず、アルコール依存という無間地獄から脱出する努力は始めたようだ。
「店長も人が悪いわねェ。知ってるくせに。あの漫画以降は連載の話もなくて、地道にアシスタントで食いつないでたわよ」
だとすると、話はまた宙に浮かんでしまう。
嫌なことがあったから――それが泥酔の原因だとして、ならば、その嫌なこととは何なのか。わたしたちがまだ探り当てていない、羽生さんの日常に関係したことなのか――もしそうなら、彼女本人に思い出してもらうよりない。それができないから、ここまで苦労しているのだけれども。
「なーんか、詰んだっぽいわねぇ……」
大きく伸びをしながら、そんなことを漏らす羽生さん。
『詰む』というのは、将棋で言うところの『詰み』のことだろうか。そういう表現がサラリと出るということは、普段から将棋を差したりするんだろうか。イメージになくて、少し吃驚する。
「尾崎さん、そのペットボトル、少しもらっていい?」
わたしの疑問を他所に、意外なことを口にする。
「ん? これ、日本酒だが、いいのかい?」
「知ってるわよ。言ったでしょ。嫌なことがあったら、飲みたくなるの。何か行き詰まっちゃったからサ――気晴らしに、ね」
「もちろん、私は構わないが……」
尾崎さんの承認を得て、ペットボトルに口をつける羽生さん。
「ん。おいし。これ、いいお酒ね」
「純米吟醸だ。これで案外、酒にはうるさいんでね」
何の話をしているんだろう。確かに、気晴らしは大事だけど。 わたしの視線を感じてか、羽生さんは小首を傾げる。
「……瑞穂ちゃんも、飲みたい?」
「絶対にいりません」
飲んだら倒れる自信がある。もっとも、死人が急性アルコール中毒になるかどうかは分からないけれども。
「大人はいいッスよね。そういうストレス解放の仕方があって」
「大介クン、飲む?」
「いいッスよ。いくら死人だからって、未成年に酒を進めないでください」
完全に以前の関係に戻っている。こんな下らないやりとりが、自分を何より和ませる。これがわたしの気晴らしの仕方なんだろう。
「ってか、マジでそれがストレス解放になるんスか? その理屈が、いまいちよく分かんねェんスけど……」
「酔うと、色々とどうでもよくなるんだよ」答えたのは尾崎さんだ。
「ストレスというのは、頭で感じるものだ。怒り、悔しさ、恐怖、羞恥心――それらマイナス感情は、脳味噌によって作り出される。そして、アルコールはその脳味噌に直接作用する。悪感情を溶かし、浄化し、無効化する。もちろん、取り巻く環境、ストレス因子はそのままなんだが、一時的に忘れることはできるという訳さ」
もっとも、溺れてしまっては本末転倒なんだがね。
最後、自虐的に呟いて尾崎さんは独自の理論を締めくくる。
「……いいですね……」
ひどく聞き取りづらい声で、横山さんが雑談に参加する。
「僕、酒とか全然駄目で、すぐ気持ち悪くなっちゃうんで……アルコールで発散できる人って、正直、羨ましいです……」
「横山クン、飲みたい?」
「……人の話、聞いてました?」
前髪の下の目を光らせて、初めてのツッコミを入れる。この人も、だいぶこの面子に打ち解けてきたようだ。染まってきた、というべきか。
「それよりも……僕は、如月さんの漫画、読んでみたいです」
「あたしの? 『アカルイアシタ』のこと?」
「あ、もちろん、如月さんが嫌ならいいですけど。スミマセン、空気読めなくて。忘れてください」
慌てて身を引く横山さん。そこまで恐縮することはないと思うのだけれど。
「いいってば。あたしはもう吹っ切れたんだから。こんなのでよければ、自由に読んで頂戴。内容の保障はできないし、時間の無駄になっても責任は取れないけど」
吹っ切れたと言いつつ、その言葉はやはり卑屈気味だ。一度刷り込まれた自己評価の低さは、なかなか払拭できないモノらしい。
さて。
いい加減、雑談も一段落したようだ。事件に関する議論も出尽くした感がある。散開する頃合だろう。
みんなも同じ考えだったのか、それぞれに席を立つ準備を始める。尾崎さんはカップのコーヒーを飲み終える。羽生さんは最後に一口、ペットボトルに口をつけ、キャップに手を伸ばす。横山さんは大介君から漫画雑誌を手渡される。
と、雑誌がぶつかったのか、羽生さんが手を滑らせ、ペットボトルを落としてしまう。
「あっ……」
羽生さんの手を離れたペットボトルは円卓の角に一度ぶつかり、妙に鈍い音を立てて床に転がる。半分以上入ったペットボトルが横倒しになり、中の日本酒が広がっていく。
「あー……、やっちゃった……」
「スミマセン、僕のせいですよね」
「違う違う。気にしないで、あたしが手を滑らせただけだし」
「日本酒ならまた出現させればいいさ。この空間における数少ない特権の一つだ。遠慮せずに行使すればいい」
「センセー、そのへんで飲むのやめればいいんじゃないスか……」
落下したペットボトルを見ながら、おのおのに勝手なことを言っている。皆、口調は柔らかく、態度はフラット。実際、あらゆるモノを出現させ、消去させることのできるこの空間では、飲み物を落としたことくらい、どうということはないんだろう。
それなのに。
一人だけ、明らかに顔色を変えた人物がいた。
「……あ」
音を立てて、おもむろに立ち上がる。
鹿島さんだ。
顔面を蒼白にして、落ちたペットボトルを凝視している。
「……どうかした?」小首を傾げ、鹿島さんの顔を覗き込む。
「もしかして、鹿島クン、お酒飲みたかった?」
しつこい。
そろそろ、この人の軽口が天然なのか意図的なのか分からなくなってきている。
なんて、そんなことはどうでもよくて。
「……あの時……あれが……」
棒立ちのまま、唇だけを動かして譫言めいたことを呟いている。
「それが……罪だったんだ……」
「鹿島さん、何言ってるんですか!?」
思わず、わたしも声が出ていた。
ペットボトルが落ちた――ただそれだけのことで、この人はひどく困惑し混乱し狼狽し、自問自答の末に自己完結してしまっている。
ついていけない。
ついていきたい。
だけど。だけれど。
鹿島さんは両手を円卓に突き、ブツブツと独白を繰り返したまま、誰の問いにも答えようとしない。
よくよく見ると、震えている。
眼鏡の奥の目も、怯えている。
この人は、何を考え、何を思い、何を思い出し、何を背負い、何に気付き、何を築き、何に傷つき、何を感じ、何を勘付き、何に苦しんでいるんだろう。
わたしには分からない。
できれば教えてほしい。
考えを聞かせてほしい。
だけど。
鹿島さんは何度か頭を振って、ヨロヨロとした足取りで教室の扉に手をかける。
「どこに、行くんですか」
夕闇の教室はあくまでわたしが出現させた光景であって、この場所の本質ではない。ここはあくまで二十畳程度の密閉空間。四方を白い壁に囲まれていて、出入り口は存在しない。つまり、教室を出たところで、どこにも行けはしないのだ。鹿島さんだって、そのことは重々承知している筈なのだけど――。
「……考えを整理したい。しばらく、一人にしてくれ」
ごめん、と言い残し、教室を出て行ってしまう。
わたしたちは、扉の向こうに消える背中を無言で見送ることしかできなかった……。