夕暮れの教室
何故、人は人を好きになるんだろう。
容姿や人格、能力が自分にとって好ましいもので、そこに強く惹かれるからか。孤独や寂しさを紛らわせたいのか。穴を埋めたいからか。理解したいからか。理解されたいからか。自分を見てほしいからか。認められたいからか。助けたいからか。救いたいからか。そばにいたいだけか。そばにいて欲しいだけか。あるいは、もっと下世話に、性的欲求に準拠しているのか。
わたしには、分からない。
前も分からなかったし、死者となった今でも分からない。
幼稚なくせに達観していて、理が勝っているくせに感傷的になりやすく、打算を肯定するくせに算段の仕方が下手で。
だから。
わたしはずっと、一人だった。
別にそれ自体はどうとも思わない。もう諦めていた。恋人なんて、彼氏なんてわたしとは無縁な存在で、それを求めること自体が許されないことなんだって、勝手に悟っていた。自己評価の低さが、劣等感が、全てを押しのけていた。
それでいい。
わたしは、それでいい。
だけど。だけれど。
親友のこととなれば、話は別だ。
夕暮れの教室。
舞は、泣いていた。
年が明けて、新学期が始まってすぐ辺りだったから、あれは一月頃になるのだろうか。
その日は、朝からずっと様子がおかしかった。いつもテンションの高い舞が、その日に限っては一言も喋らなくて、何となく近寄りがたい雰囲気で、周りのみんなもそれを察してか、遠巻きに見ているだけで。HRが終わってからも、彼女は帰り支度一つ始めなくて。ただ、俯いたまま席に着いているだけで。
「マイ――どうか、した?」
心配になって、声をかけた。純や雅、春香といったいつものメンバーも一緒だったと思う。他の子たちはとっくに帰っていた。蜂蜜色に染まるⅠAの教室で、わたしたち五人だけが、そこにいた。冬の陽は低く、短く、弱い。ぐんぐん伸びる影を横目に、わたしは俯く舞の顔を覗き込む。
舞は、泣いていた。
ボタボタと、確かな質量を持った涙が陶磁器のような頬を伝い、シャープなラインを描く顎から滴り落ちて、机に水たまりを作る。
息を飲んだ。
端正な筈の舞の顔は、醜く歪んでいた。目をつむり、歯を食いしばって、声にならない嗚咽を漏らしていた。
「…………っ!」
ただ事ではない。いや、ただ事ではないのは最初から分かっていたのだけれど。分かっていたからこそ、こうやって彼女を囲んでいるのだけれど。
真冬の夕方の教室の、親友の慟哭の、その意味を知りたくて。
「マイ……」
肩に手を置こうとして――だけど、その手は振り払われて。
「えっ」
「ミズホ――」
立ち上がった彼女の目が、わたしを射竦める。その双眸の圧に、僅かにたたらを踏んでしまう。
「えっ……」
「私、ふられたの」
刹那、わたしは瞳の奥に、静かに揺らめく青い炎を見る。
そのせいで、台詞に対する反応が遅れてしまった。
「――えっ!?」
「ケースケ、私とはもう付き合えないって」
「なん、で……」
口内が干上がっていくのを感じながら、精一杯の疑問符を吐く。
「…………っ!」
また、睨みつけられる。その視線の鋭さに、わたしは硬直する。先に視線をそらしたのは、わたしだったのか――それとも。
「ゴメン」バッグを抱えて、舞は立ち上がる。「帰る」
顔を伏せたまま、わたしたちの横を通り過ぎる。
――私、ふられたの。
――ケースケ、私とはもう付き合えないって。
その言葉だけが、いつまでもわたしの中で反響していた。
何故、人は人を好きになるのだろう。
そして何故、人は人から離れていくのだろう。
あの時の涙の訳、視線の意味、二人の別れの理由――それが何なのかは、聞けなかった。親友だから、知りたかったけど。だけど。
結局、全ては聞けずじまいに終わってしまった。
「……それで、今に至るって感じなんですけど……」
夕暮れの教室。蜂蜜色に染まった羽生さんは、頬杖を突いた姿勢でわたしの話に聞き入っている。若干、半目なのが気になると言えば気になるのだけれど。
「――それで?」
頬杖を突いたまま、彼女はそう言う。
「それで、と申しますと?」
羽生さんの態度に若干威圧的なモノを感じて、わたしは思わず姿勢を正してしまう。
「申しますと、って何よ」苦笑をこぼしながら、彼女は身を起こす。「だからね――何か、言いたいことはたっくさんあるんだけどサ、瑞穂ちゃん、本当に何も分からない訳?」
「何も、と申しますと?」
「それはもういいから――だから、一年の秋口に付き合い始めた舞ちゃんと圭介君は、年が明けてすぐに別れちゃった訳でしょう? 瑞穂ちゃんは、その理由も、舞ちゃんの態度の訳も、何も分からない訳なの?」
「分からない、ですけど……。え、羽生さんには分かるんですか?」
「何となく、ね。もちろん、分からないことも多いけど――まあ、だいたいのところは」
「教えてくださいよ」
「うぅん……今それをあたしが言うのは簡単だけど……それじゃ意味がないんじゃない? 瑞穂ちゃんのことなんだから、瑞穂ちゃんが自分で気付かなきゃ」
また、それか。
自分が殺された理由は、自分で思い出さなければいけない。
親友が失恋した理由も、自分で気が付かなければいけない。
結局、わたしはわたしのことすら、何一つ分かっていなかったってことなんだろうか……。
「いくつか、確認なんだけどサ」頬杖を外した羽生さんが、おもむろに身を乗り出す。「ふったのは、圭介クンの方なのね?」
「舞は、そう言ってましたけど……」
実を言うと、詳しいことは知らない。その件に関しては二人とも話そうとしなくて、立ち入ったことは聞けずじまいだったのだ。
「ふうん……その後は、舞ちゃんとも圭介クンとも、付き合いは続いていた訳?」
「……圭介とは、普通に友達づきあいしてましたけど……」
「舞ちゃんとは、それっきり?」
「いえ、そういう訳ではなくて――しばらくは学校を休んだりもしてましたけど、付き合いそのものは、ずっと続いてました」
「だけど?」
わたしの心を見透かしたように、逆接の接続詞で先を促す。
「暗くなっちゃったって言うか……思いつめるような表情が多くなって。一緒に遊んでいても、心から楽しんでないって言うか……」
「なるほど――ね」
何だろう、物凄く思わせぶりだ。だけど多分、聞いたところで何も答えてはくれないんだろう。そういう人だ。事件の核心に絡んでいるのならまだしも、今回のそれは生前の思い出話の一つにすぎない訳だし。
そう言えば。
「結局、何なんでしょうね?」
「主語を省かないの」
「だから――わたしの、『罪』ですよ」
ああ、と言葉を漏らして少し上を見る。何を言いたいかは伝わったようだ。
「被害者にそれぞれの『罪』があって、それが殺人の動機になっているのだとしたら――わたしのそれって、何なのかなって」
「うーん、そうだねえ」傾げた小首を手で支える姿勢で、羽生さんは思案顔だ。「今までの話を聞いた限りでは、いまひとつピンと来ないのよね……。一年の夏頃にあった学校裏サイトの一件がそれっぽいけど、結局、それも解決した訳だしねえ。自己評価の低い性格だとか、ネットを毛嫌いしてるトコも引っ掛かるって言えば引っ掛かるけど、『罪』ってほどじゃないし。まあ、強いて言えば」
「強いて言えば?」
「今教えてくれた、舞ちゃんと圭介クンの一件、ってことになるのかな……?」
「は?」
頭上に浮かんだ巨大な疑問符が、ゴトリと音を立てて教室の床に落下し、ゴロゴロと転がっていく。漫画っぽいと言うか、シュールな光景だ。最近、心象風景の視覚化が極端になっている気がする。
それよりも。
「舞と圭介のことが、なんでわたしの『罪』と関係するんですか!? わたし、関係ないですよね!?」
羽生さん、チラリとわたしの顔を見て、深い溜息を吐く。
何だ。
何だって言うんだ。
わたしは常に傍観者だ。色恋には関わらない。関係ない。
なのに。それなのに。
この人は、彼女たちの一件こそがわたしの『罪』と関わっているのでは、と指摘している。意味が分からない。混乱するより前に、怒りが先に立った。
「……ゴメンゴメン。怒らせるつもりはなかったんだけどね」
顔に出ていたらしい。自己主張が苦手なくせに、すぐ表に出てしまうところ、何とかしたい。もう死んでいるのだけれども。
「まあ、それもこれも想像なんだけどね。あたしはその二人を直接知ってる訳じゃないし、何を考えているのかも分かンない。もしかしたら、全然違うことなのかもしれない。だから、話半分に聞いてくれればいいわよ」
職業柄か、羽生さんは発想空想想像妄想に関して一日の長がある。往々にしてそれが突飛な方向に行ってしまうのが残念なところではあるのだけど。
「結局、羽生さんの妄想なんじゃないですか……」
「妄想は大事よお? 想像し、創造する。それが人間、作る人ってモノじゃない」
「どっちかって言うと、遊ぶ人って気もしますけど……」
下らない遣り取りだ。だけど、下らないのがいいのかもしれない。最近は、根を詰めすぎで疲弊しがちだった。そういう時こそ、あまり中身のないお喋りが有効になる。
周囲を見渡してみた。
窓からは低い斜度で夕陽が差し込んでいて、教室前方の黒板に大きな影を落としている。整然と並ぶ机や椅子、教卓から伸びる影も長く、物悲しさを助長している。
この光景を選択したのは、わたしなのだけれど。
ここまで、周囲の光景は星空の草原、海岸、繁華街、屋上と目まぐるしく変化してきた。それぞれ、鹿島さん、羽生さん、大介君の選んだ光景だ。そして、次の選択権はわたしに移った。そこで選んだのが、この、礼林学園二年B組の教室という訳だ。よくない思い出もたくさんあるけれど、やっぱり、わたしが選択するとなれば学校以外ない。直前にあんな回想をしたからか、時間帯は夕暮れで固定されている。ずっと夕焼けのまま。最初は西日が眩しくて仕方なかったのだけれど、今はもう慣れている。皆、思い思いの席で思い思いに調査を進めている。
教室後方の机で、ウィスキーの水割りを片手に資料を熟読してるのは尾崎さんだ。
大介君は教壇に直接腰掛けて動画画面を開いている。しばらくは漫画雑誌を読んでいたようだが、さすがに飽きたらしい。
ずっと具合の悪そうだった鹿島さんはと言えば、廊下側最前列の席を陣取り、腕を組んで目を閉じている。瞑想でもしているのだろうか。屋上での一件以来、わたしはこの人がよく分からなくなっている。
そして、教室ド真ん中に鎮座する黒い円卓で雑談に興じているのが、わたしと羽生さん。最初は情報交換の名目で建設的な話をする予定だったのだが、今のところ、実は結んでいない。
注目すべきは、窓際最前列の席で大量のデータ資料と格闘している男である。その名は横山慎一。三日前の事件で新たにメンバー入りした六人目の被害者である。卑屈でネガティブ、消極的で口下手で、意思の疎通が難しい人物で、正直、あまりいい印象はない。
「……でも、悪い子ではないのよね……」
わたしの視線を辿ったのか、羽生さんが思わぬことを口にする。
「横山さんのことですか?」
「うん――ほら、あんなに熱心に資料を読み込んでる」
顎でしゃくる先、横山さんは膨大な量の紙を捲りながら、一生懸命にノートをつけている。その気迫、熱心さは受験生のそれを彷彿とさせる。
「多分、あたしたちに追い付こうと必死なんじゃないかな。と言うより、迷惑をかけたくないって気持ちの方が強いのかも」
「……羽生さん、横山さんのこと、あんまり好きじゃないと思ってました」
現にさっきの会議では何度かイラつきを見せていた。
「まあね。でも、あの子に関して色々と調べてみたら、色々と興味深いことが分かってきたのよ。横山クン、元々真面目な性格で、子供の頃はけっこう成績もよかったみたい。小学生の時は児童会長まで勤めていたらしいしね」
これには驚いた。今の人物像からは、まるで想像ができない。
「中学、高校の成績は優秀で、常に学年トップクラス、そのまま国立大学にまで進学したんだけど――この辺りからちょっとおかしくなってくるのね。どうやら彼、学部で一人も友達が作れず、サークルにも入らず、割と孤立していたみたいなの。学業に対しては真面目だったみたいだけど、居心地が悪かったんでしょうね。二年の途中からは講義にも出なくなって、結局、単位不足で途中退学。その後、居酒屋チェーン店でアルバイトを経て正社員になるものの、二年と持たずに退職。書店やコンビニのアルバイトの後、派遣社員として川崎市の自動車部品工場に勤務するも、不況のために一年で契約解除、今に至る――と」
「何か、可哀想ですね」
「可哀想、ね……」
何だろう、含みのある言い方だ。もっとも、この人はだいたいがこんな調子なので今さら気にもならないのだけれど。
「ま、そんな可哀想な横山クンではあるんだけど、どの職場に聞いても、『真面目で大人しい』って印象で一貫してるのね」
「この前、聞きました」
「うん。人柄としてはそうなんだけど……能力に関しては、必ずしも芳しくはない訳。真面目なんだけど、要領が悪いって言うのかな。作業はできるけど仕事はできないって言うの? ドジって言うか、不注意によるミスも多かったらしいの」
「そんな感じですね……」
「居酒屋時代は、それでその時の上司に随分いびられてたみたい。モラハラって言うの? 些細なミスで何度も吊るし上げにあって、完璧に参っちゃったみたいでね。極度に卑屈になっちゃったのも、その時のことが原因としてあるみたい」
はあ、と気の抜けた返事をしたものの、正直、どうリアクションしていいかよく分からない。ただでさえ影の薄い横山さんの、その闇の部分を垣間見た気分ではあるのだけれど――それが、何だって言うんだ。
「あ、何言ってんだこのオバサン、って顔してるー」
「そんな顔してませんってば!」
既視感。いや、単なる記憶か。肝心の所が戻らないのに、こんな部分ばかりがしっかりしている。
「要するにね――あたしは、横山クンは誰かから恨まれるような人間じゃなかった、ってことを言いたい訳」
「いや、あの、それはわたしたちもそうだし、尾崎さんとかが散々話題に出していたと思うんですけど……」
「うぅん、そうじゃなくて――何て言うのかな」
察しの悪いわたしにどう伝えようかと考えあぐねるように、羽生さんはこめかみに指を当てる。
「学力はあるのに能力はなくて、仕事も全然うまくいってなくて、現在無職で、恋人はもちろん友達もいなくて――そんな人が突然死んじゃったら、瑞穂ちゃんはどう思う? 連続殺人犯の餌食になったって、そう思うかな?」
何を言おうとしているんだろう。
何を言わせようとしているんだろう。
そんな。
まさか。
「自殺だった――とか言いませんよね?」
怖気が立った。
「屋上には文字が残されていて、階段室のドアノブにも手すりにも指紋を拭った跡があったって言ったじゃないですか!? 不審者も目撃されてるし……さすがに、あれが自殺ってことはないですよ」
「それ以前に、五人もの人間が、明らかに他殺という形で殺害されている訳だし?」
こちらの考えを見透かすような笑みを浮かべ、先を促す。
「そうですよ。後ろから絞め殺されただとか、心臓を一突きにされただとか――変なアルファベットも残されているし――誰か、わたしたちを殺した人間がいるのは確実ですっ!」
「待って待って、先走らないで」
右手を出し、暴走し始めるわたしを制する羽生さん。
「先走るも何も、思わせぶりなことばっかり言う羽生さんが悪いんじゃないですか……」
「あたしが言いたいのは、殺人事件そのものじゃなくて――これ」
言いながら、右腕を胸の前で斜めに掲げる。
「……何の決めポーズですか」
「腕よ、腕。瑞穂ちゃん、この前言ってたでしょう? 横山クンの両腕、なます切りにされてたって」
「言いましたね」
「その謎、解けたんじゃない? 自殺は有り得ないとしても――自傷だとしたら、どう?」
ようやく、彼女の言わんとしていることが分かってきた。
「リストカット、ってことですか?」
「正確にはアームカット、って言うのかな? 会議の時から薄々そうじゃないかな、とは思ってたんだけど、あの子の半生調べて確信に近づいたって感じ? 何やら謎めいていたけど、生前に自分でつけた傷だって考えれば合点もいくじゃないの」
一応の辻褄は合う。合うけれど。
「……どうやって確認するんですか」
「それこそ、警察やマスコミにはできない、死人会議の最大メリットじゃないの」悪戯っぽく笑いながら、教室隅を指差す。
「本人に、聞いてみましょうよ」
やっぱり、こうなるのか。以前にも似たことがあった気がする。と言うより、あった。大介君に女性関係云々を聞いた時だ。お互いのプライドを傷つけ合い、ひどい言い争いになったのを覚えている。
その時の記憶があるのかないのか、羽生さんはノリノリだ。受験生よろしく大量のデータ資料と格闘している横山さんの肩を、軽く叩く。
「わっ!」
よほど集中していたのか、体全体が跳ね上がっている。そこまで驚かなくてもいいだろうに。
「横山クン、今ちょっと、いい?」
「あ、いえ、あの、僕が何か――また何かやっちゃいましたかっ!?」
まだ何も言ってないのに、勝手に早合点して勝手に恐縮している。
「スミマセンスミマセン、僕――」
「愚鈍なんで、でしょ? そういうのいいから」
セリフを先取りして軽くいなしている。慣れたものだ。
「しばらくは卑屈禁止ね。それより聞きたいことがあるの。OK?」
「あ、OK……です」
羽生さんの威圧感に押されるようにして、横山さんは首肯する。
「横山クンって、リストカットとかする人?」
直球だ。率直だ。オブラートなしだ。話題が話題だけに難しいとは思うが、多少は前振りをしたって罰は当たらないと思うが。
「リスカ、ですか。いえ、僕は、そういうのは、ちょっと……」
軽く眉を寄せて、嫌悪感を露わにしている。いつもオドオドしている彼にしては珍しい表情だ。
「そう? 横山クンの死体、腕に無数の切り傷があったって話じゃない? あたしたち、さっきその話をしてたんだけどね――」
ここに来てようやく、質問の趣旨を説明する。どうでもいいけど、そこにわたしを含めるのはやめてもらえないだろうか。羽生さんと行動を共にするようになってから、何だか一貫して巻き込まれている気がする。そしてそれは、きっと気のせいではない。
「――ってことで、ひょっとして横山クンが生前、アームカットをしてたんじゃないかなー、って思った訳」
「さっきも言いましたけど、僕、そういうのはしないので」
顔を上げると、長く伸びた前髪の間から切れ長の瞳が覗く。初めてまともにこの人の目を見た気がするが、思いのほか知性的な光が宿っていることに驚く。大学に入るまでは優等生だった、という羽生さんの情報を思い出す。
「……そもそも、自殺と自傷はまるで別物なんですよ。前者は文字通り自分で自分を殺す行為ですけど、後者は違う。あれは、生きたいから――生きたいのにうまく生きられないから、ああいう行為に走るんです。根っこの目的が、まるで別ベクトルなんですよ。僕は違います。そりゃ、愚鈍で無能なのは確かですけど――僕は、そんなんじゃない」
口が、開いていた。
これがあの横山慎一か。あの、卑屈でネガティブで、いつもオドオドしていたあの人が、ここまでしっかりとしたことを喋るなんて――いや、喋られるなんて。
「第一、外側を切られていたんですよね? リスカとかアームカットって普通、内側を切るものなんじゃないですか? 僕もネット画像で見たことあるだけなんで、詳しいことは知りませんけど」
言われてみれば、確かにその通り。反論の言葉がないのか、羽生さんも黙って横山さんを正面から見据えている。
「――って、思ったんですけど……」
途中で、急に勢いがなくなる。黙って聞いていたのが、怒っているのだと思わせたのかもしれない。
「……スミマセン。調子に乗って、勝手なこと言っちゃって……」
見る見る間に、いつもの横山さんに逆戻りだ。俯いたせいで、再び目が前髪に隠れて見えなくなる。
「ううん。何で? いいじゃない。感心してたんだよ? へえ、横山クン、ちゃんと自分の考えてること言えるんだって」
「いや、でも、僕なんかの意見聞いたって、時間の無駄って言うか、ホント、申し訳なくて――」
「卑屈禁止」キリリと顔を引き締め、睨めつける羽生さん。
「前も言ったけど、もっと自信持った方がいいよ。今だって、えらい一生懸命データ読み込んでたじゃない。ノートも取ってたみたいだし――何か分かった訳?」
「いやいやいやいや、これはホント、何でもないんでっ! ただの落書きみたいなものですからっ!」
机の上の大学ノートを、体全体を使って必死になって隠している。 痩せてるな、この人。
「落書きってことないらー。お姉さん達に見せたらいいじゃんかー」
楽しんでるな、この人。
地元の方言らしきモノを織り交ぜて煽っている。と言うか、『お姉さん達』って、わたしも含まれてるのか。年下なんだけど。
「いや、ホント、僕の考えなんて――」
「はい、ダーッシュ!」
横山さんが怯んだ隙にノートを取り上げる羽生さん。放課後か。
「ちなみに、今の『ダッシュ』は、『奪取』という意味です」
ノートを胸に抱きながら得意気になっている。イラッとした。
「……羽生さん、そろそろ真面目にやりましょうか」
「何よう。瑞穂ちゃんは真面目だねえ。こっちは、横山クンの萎縮を解いてあげようとしてるってのに」
「いや、やってること、小学校のいじめっ子みたいですから」
わたしたち二人の下らないやりとりを、横山さんは不安そうな顔で見上げている。ノート奪還を狙っているみたいだけど、残念ながら羽生さんに隙はない。
「うわぁ……字、ちっちゃいねぇ……」
ノートに顔を近付け、目を細めている。しばらくはページを捲りながら眼球を忙しなく動かしていたみたいだけど、ある箇所でその動きが止まる。
「……横山クン、この図って、どういう意味?」
「いや、ホントにそれは――」
「いいから。言ってみなさいっての。絶対に否定しないって約束するから」
「え……あ、はい……」
不承不承といった感じで頷いている。見るからに押しに弱そうな人ではあるけれど、案外、羽生さんとは相性がいいのかもしれない。最初こそ不協和音が目立ったけど、今では横山さんの人となりをそれなりに評価しているみたいだし。
「いや、あのですね……僕なりに、一連の事件の構造を考えてみたんですよ」
「事件の、構造?」
何だか凄そうなことを言い始めた。
「いえ、あの、スミマセン。あくまで僕個人の意見なんで、聞き流してもらって構わないんですけど……」
「そういうのいいから。本題に入りなさい」
羽生さんには一切の容赦がない。横山さんの扱いが分かってきたと言うべきか。
「……えっと、だから――一つ一つの事件じゃなくて、全体を俯瞰的に眺めた時に、どういう構造になっているのかを、僕は考えてみたんです」
「と、言うと?」
「僕たち被害者には一切の共通点がない訳ですよね? 性別も年齢も職業も住んでいる場所も、バラバラ。唯一の共通点と言えば恨みを買う人間ではない、という評判だけで――だからこそ、捜査も難航しているって話なんですけど……」
「確かにそうね。それで?」
尾崎さんもそうだけど、羽生さんもなかなかの聞き上手だ。相手の話を引き出す術を知っている。
「そのくせ、殺害方法には一貫性がありません。ほとんどの人間が絞殺されている中、如月さんは刺殺、僕は墜落死です。さらに言えば、手際の差にも疑問が残ります。ほとんどの事件では、指紋も足跡も目撃証言もなく殺害に成功していますが、いくつかの事件ではそうではありません。原田さんの件では、足跡を残したり、携帯を持ち去るために鞄の中身をぶちまけたりと、杜撰な面が目立ちます。逃走している姿を目撃されている部分もそうですね。僕の事件では不審車両が目撃されているし、如月さんの件に至っては、一度未遂事件を起こした挙句、顔まで目撃されています。その時の状況にもよるんでしょうけど、とても同一人物が引き起こした犯罪とは思えません」
「そうなると、どうなるのかな?」
いつの間にか、横山さんの話に引き込まれている自分がいる。性格はアレだが、これでなかなかエースの素質があるのかもしれない。
「そうは言っても、六件の事件が起きている訳で、起きている以上は殺人犯が必ずいる訳なんですよ。僕が考えたのは、その構造です」
「だから、その構造ってのは、何な訳?」
「複数犯、ないし黒幕の可能性です」
「詳しく」促す羽生さん。対する横山さんの目に、迷いはない。
「図1を見てください。数字は僕ら被害者、黒丸は犯人を表しているんですが――これだと、従来通り、一人の犯人が六人の被害者を殺害したことになります。しかし、これだと最初に話した理由で、疑問が残る結果となる。僕ら六人には、何の共通点もないんです。そこで僕が考えたのが、代理殺人の可能性です」
咀嚼嚥下するのに、数瞬の時間がかかる。そして、理解した瞬間、何故そのことに考えが至らなかったと、悔しい気持ちにもなる。
この人、侮れない。
「別々の動機を持った六人の人間が一人の人間に依頼して、その人物が実行犯として、連続殺人を成し遂げた――それを表したのが、図2です」
「ん? 動機を持った人間が別々にいるってのは分かるんだけど……さっき、殺害方法とか手際とかの点で、複数犯だって話をしてなかった?」
「それで思い至ったのが、図3です。これだと、黒幕が一人で、実行犯は被害者の数と同じ、六人、という図式になります」
実行犯が、六人。
そんな。まさか。
「でもそれだと、黒幕は一人で、目的は一つってことになっちゃう訳よね? あたしたちは、何か特定の目的のもと、殺されたってことになってしまう――」
「はい。そこを鑑みると、図4の構造が結論となるんです。つまり、別々の目的を持った人間が六人いて、実際に手を汚した人間も六人いるということになる訳で――」
目眩がした。
「真ん中の段は省略しちゃっても構わないのかな? つまり、六人の殺人者と、六人の被害者がいるっていう構図になるんだけど……」
困惑するばかりのわたしを他所に、羽生さんはさらに話を展開させている。この人の順応性の高さは、異常だ。
「そう、ですね……それが一番、シンプルで分かりやすいかもしれません」
「ちょっと待ってください」
考えるより前に声が出た。いつものことだ。
「犯人が六人で被害者も六人って――それ、普通に六件の事件ってことじゃないですか!?」
「六件の殺人事件じゃないの」
キョトン、とした顔で小首をかしげる羽生さん。分かっていてこういう態度をとる辺り、なかなか底意地が悪い。
「そうじゃなくて、連続殺人じゃなくなるって言ってるんです」
「連続殺人じゃなくなる? そう?」
小首を傾げたまま、疑問符を重ねている。その顔やめろ。
「そうじゃないですか。バラバラの目的を持ったバラバラの人間六人がバラバラの被害者六人を殺害したのなら、それはもう、バラバラの六つの事件ですよ」
「バラバラ殺人事件ね」
「違います」
「冗談よ」
「真面目に聞いてください」
「真面目に聞いてるわよう?」
この人は軽佻浮薄に見えて思いのほか物事をしっかりと見据えている。横山さんとはまた違う意味で、侮れない。
「瑞穂ちゃん、大事なことを忘れてる」
「大事なこと?」
「あたしが最初、何について調べていたか、覚えてる?」
「……あっ――」
迂闊だった。
「アルファベット……」
「ご名答。六件の殺害現場には、必ずアルファベットの文字が残されていた」
羽生さんが左手で教室の端を指差す。その先――黒板には、『M』『V』『E』『W』『J』『S』の六文字が大きく描かれている。
「一貫性があるようでない六つの事件の、共通点の一つが、これ。この文字が現場に残されていたことで、辛うじて連続殺人事件になっているって訳」
「……あの、いいですか?」
おずおず、といった感じで横山さんが口を出す。前髪の奥の目が光っている。ちょっと怖い。
「いちいち許可をとらなくていいってば。なあに?」
「えっと、あの、僕の考えでは、その文字が残されていることが、一連の事件の鍵になっているんだと思います」
「と、言うと?」
「あの文字さえなければ、如月さんの言った通り、六つの事件は全く別のモノとして扱われていたのかもしれません。しかし、実際はそうではない。こんなアルファベット文字が、バラバラの六つの事件を一つの連続殺人事件として繋げたんです。だけど、何の作為もなしに、犯行現場にアルファベット文字が残される訳がない。これは、ある人物が、一連の事件を連続殺人事件として偽装するため、実行犯に文字を残すよう指示したんだと考えられます」
「その人物、とは?」
「真の黒幕です。六人の実行犯を、裏で束ねている人間が存在するんです。何らかの殺意を持つ人間を集め、ありもしない連続殺人を演出し、指揮して、世間や警察、マスコミを欺いている――一連の事件は、そういう類のモノ、なんだと思います」
言葉尻に自信のなさが表れているが、主張そのものは斬新で説得力があった。
「つまり、図4における六つの黒丸の、さらにその下に、大きな黒丸が一つあるってことね?」
「そうなります」
羽生さんはほとんど納得しかかっているけど、わたしはまだ、聞きたいことが残っている。
「何のためにそんなことするんですか? 六つの事件を一つの連続殺人に仕立て上げて、何かメリットとか、あります?」
「あ、はい、いえ、メリットは、ありますよ」
わたしに向き合った横山さんは、何故か緊張している模様。九つも年下のわたし相手に、丁寧語で接している。
「一番大きい利点は、アリバイ作りです」
一切視線を合わせず――と言うか、前髪で隠れて見えない――横山さんはまた、淡々と説明を始める。
「一連の事件を連続殺人だと見なした場合、当然のことながら犯人は単独――一人、ということになります」図1の形だ。
「そうすると、その犯人は六つの事件全てにおいてアリバイがない、ということになる。実際、警察はそのように思っているのだと思います。六つの事件のうち、一つでもアリバイが成立するのなら、もうその人物は容疑者圏内から除外されてしまう……」
今更ながら、ようやく彼の言わんとしていることが分かってきた。
「そうか……自分の担当している事件でアリバイがないのは仕方ないにしても、それ以外の事件の時に鉄壁のアリバイを用意しておけば、警察には疑われずに済む――ってことですか!?」
「え、あ、まあ、はい。そういう、ことです……」
「瑞穂ちゃん」いつの間にか身を乗り出していたらしい。羽生さんにやんわりと手で押し戻される。「横山クンが緊張しちゃうから」
「スミマセン……」
せっかく饒舌に推理を展開していたのに、またいつもの横山さんに逆戻りでは忍びない。わたしはさりげなく身を引いていく。
「話を戻そっか――横山クンの推理が正しいのだとすると、現在捜査本部が進めている指針は、根本的に見直さなきゃならない訳ね。警察は人海戦術を使って無数の容疑者を洗い出し、全ての事件のアリバイを調べている訳だけど――一つでもアリバイが成立したのなら、その時点で簡単に容疑者圏内から除外されてしまう。だけど、一つの事件につき一人の実行犯だとするならば、それは間違い。捜査本部の篩からこぼれた中にこそ、あたしたちを殺した殺人犯が潜んでいる――って訳」
「わたしたちは、それを探し出さないといけないってことですか」
「そうなるわね」割と絶望的な内容をさらりと言ってくれている。
「……より難易度が高くなった気がするんですけど……」
「悲観することはないわよ。ほら、これ、見てみて」
言いながら一枚のデータ資料を提示する羽生さん。
「これは?」
「見ての通り、事件関係者全員のアリバイ表よ。○はアリバイあり、×はアリバイなし。星印は当人が被害者になったってことで、横棒はすでに死んでいるって意味。上の数字は、死亡推定時刻ね。尾崎さんは五月十八日の午前二時から三時の間に殺されたでしょう? その間に明確なアリバイのある人間や、地理的に犯行現場への行き来が不可能だと判断された人間には○がついてるって訳。ちなみに家族の証言は無効だから、深夜はどうしても×が多くなる。逆に、日中に起きた第三、第六の事件はアリバイ成立が多くなっている」
表の見方は、何となく分かる。分かるけれども。
「あとは動機と機会の双方から怪しい人間を絞り込んでいけばいい。そこから先はは今まで通りでしょ。記憶の欠落は事件に直結しているし、事件はあたしたちの罪に直結している。皆一様に声を揃えて『誰からも恨まれることのない』と評するあたしたちが、背負っていた罪――そこに繋がる人間こそが、殺人の実行犯って訳。ね? 指針が見えてきたじゃない」
けっこうな内容を、さらりと言っている。
理屈は分かる。
ただ、それは理屈が分かるというだけの話だ。
論理的合理的に情報を取捨選択して仮説を積み重ね、類推と飛躍を繰り返して真相に辿り着けるのならば、わたしたちはとっくの昔に記憶を取り戻している。
でも、現実はそうではない。
訳も分からず殺害されて、死んでいるのに死んだ理由は分からず、訳の分からない密閉空間に閉じ込められ、同じ境遇の死者たちと徒に議論を重ねて、真相の周りをウロウロするだけ。
終わりは、あるんだろうか。
確かに、様々なことは分かりつつある。ただ卑屈でネガティブなだけだと思われていた横山さんは意外な推理力を見せ、今までにない斬新な仮説を打ち出した。
だけど、それだけだ。
推理はどこまで行っても推理で、仮説はどこまで行っても仮説の域を出ない。
記憶が戻らないのだ。
自分のことが、分からないのだ。
新事実発見に色めき立つ二人を尻目に、わたしは夕陽を眺める。
永遠に沈むことのない、固定された夕陽を。