第六の被害者・横山慎一
「……スミマセン」
六人目の被害者である横山さんは、円卓に着くなり、いきなり謝罪を始める。例によって、すでにヒカリの姿はなくなっていた。
「何で謝るの?」
隣の羽生さんが尋ねる。その声音は比較的柔らかだったと思うのだけど、横山さんはそれだけで身を固くする。
「だって、僕みたいなのが新しい被害者で、申し訳ないって言うか……。スミマセン。僕みたいなのじゃ、全然お役に立てないと思うんですけど……」
「そんなこと、やってみないと分からないでしょう?」
「分かりますよ――僕、無能なんで。愚鈍なんで。分かるんです」
既視感に、頭が痛くなる。
あまりにも低い自己評価と、激しい自己否定。鹿島さんや、自分の漫画に対する羽生さんと同じだ。
そして、わたしも。
「有能無能はどうでもいいよ」
逆サイド、尾崎さんが優しい声をかける。ただし、その手には赤ワインの瓶が握られている。ビールから切り替えたらしい。
「私たちは警察でも探偵でもない。ただの被害者だ。名推理を披露する必要などない。ただ、君は思い出せばいい。そのための、作業なんだ」
「……スミマセン」
口角を釣り上げた――作り笑いのつもりなんだろう――へつらうような表情で、横山さんは再度頭を下げる。
連続殺人事件は、ついに六人目の被害者を生み出した。
横山慎一、二十六歳。
神奈川県川崎市在住で、両親と同居。現在、無職。
ヒカルに連れられてこの空間に来て以降の流れは、わたしの時とほぼ同じ。自分が死者ということや、連続殺人事件の被害者ということ、そしてそれに関する記憶を全て失っていることなどを、懇切丁寧に説明して、現在に至る。
やっぱり、最初はかなり困惑、混乱、狼狽していたのだけど――今は落ち着いてきたらしい。視線を俯けて円卓に着いている。
ただ――少し、と言うか、かなりコミュケーションに難のある人物らしく、少し離れた場所でも、緊張感のようなモノがひしひしと伝わってくる。ここに来てから誰とも目線を合わせようとしないし、ずっと伸びた前髪をいじっている。服装は上下白のスウェットで、素足にサンダル履き。コンビニにでも行くかのようなラフな格好で、口元には無精ひげがまばらに生えている。さらには猫背、伏し目がちで、それがみすぼらしさに拍車をかけている。口を開いても、出てくるのは卑屈でネガティブな言葉ばかり。これに関しては、あまり人のことを言えないのだけど……。
「しっかし、川崎か……」
ワインを口にしながら、尾崎さんが独りごちる。
「とうとう、神奈川県にまで進出したねぇ……」
「スミマセン……」
横山さんが小さくなっている。『スミマセン』というのは口癖なんだろうか。この異様な状況に萎縮してしまっているのか、それとも彼の卑屈な性格がそうさせるのか、先程注意されたばかりにも関わらず、ことあるごとに謝ってばかりいる。
とっとと話を進めた方がいいと判断したのか、やはりわたしの時と同じように、尾崎さんと羽生さんがペアになって、この場のルールやシステム、そして先に起きた五件の事件概要などを簡単に説明し始める。横山さんは驚いた風ではあるものの、余計な相槌などは打たず、黙ってそれを聞いている。その間に、わたしは六番目の事件詳細資料に目を通しておく。
すでに同じことを何度も繰り返していたせいか、二人の説明はひどく簡潔で、過不足がなく、分かりやすいモノに仕上がっていた。特に尾崎さんの語り口調は非常に滑らかで、原稿でもあるのかと疑いたくなるほどだった。しかも、これまで出てきた疑問点や違和感、それに対する仮説なども列挙するという気の配りようだ。その上で、聞き手である横山さんに先入観を与えないようにしているのだから恐れ入る。少しアルコールが入った方が頭が冴えてくる、というのは強ち詭弁ではなかったのかもしれない。それにしても、すでにワインを一本空けているというのは飲みすぎだと思うのだけど。
グラスに注いだ最後の一滴を飲み干したのと同じタイミングで、尾崎さんの説明は終了する。
「――と、まあ、ここまでが連続殺人の概要だ。ここまでで、何か分からないことはあるかい?」
「……え!?」
突然の呼びかけに、今まで俯いて聞いていた横山さんはバネ仕掛けのオモチャのように身を起こし、目を泳がせている。
「あ、え!? あ、はい、大丈夫です」
本当に大丈夫なんだろうか。見るからに挙動不審だ。
「……ちゃんと聞いていたんだよね?」
「あ、大丈夫です。もちろんです。聞いていました。聞いていない訳がないです。僕はそんな偉い人間じゃないので。スミマセン」
「いや、聞いていたのなら別にいいんだけどね――その上で、何か分からないことはないかな、と聞いたんだが……」
「何か分からないことはないか、ですか?」
前髪をいじりながら、横山さんはにわかに呼吸を荒くする。
「あ、いえ、えっと……聞いていたんですけど、正直よく分からないと言うか、僕なんかが疑問に思ったことはすでに出ちゃってるって言うか、えっと、そうですねえ――」
「何もないならそれでいいんだよ?」
「スミマセン。僕、愚鈍なんで――」
しきりに前髪をいじりながら、血色の悪い顔を伏せる。
少し視線をそらすと、斜め前の羽生さんと目が合う。彼女は小首を傾げながら、横山さんに気取られないように軽く肩をすくめる。その気持ちはよく分かる。わたしも同じ感想だ。
この横山という人――遠慮がちに言っても、かなり厄介な人種のようだ。
「ではそろそろ、六件目の事件概要に移ろうか」
無駄に卑屈な横山さんは置いておいて、尾崎さんはついに本題に入る。その視線は横山さんから羽生さん、鹿島さんと移り――わたしのところで停止する。
「原田さん、今回は君が説明する?」
「わたし、ですか?」
「瑞穂ちゃん、熱心に資料に目を通してたじゃない。自分の口で説明したくて、ウズウズしてたんじゃない?」
羽生さんが薄笑いを浮かべているが、もちろんそんな訳はない。逆だ。不意に指名されてもいいように、充分な予習をしていただけにすぎない。もちろん、指名を断る理由もないのだけれど。
「じゃあ、横山さん殺害事件の概要を説明しますね」
今まで目を通していた資料を取り上げ、わたしは口を開く。
「六人目の死体が発見されたのは、十月十三日の午後六時すぎ。川崎市高津区にあるマンション駐車場で男性が倒れているのを、同住人が帰宅時に発見したとのことです。被害者氏名は横山慎一。年齢は二十六歳。去年までは川崎区の自動車部品工場に派遣社員として働いていたそうですが、契約終了と同時に失業。以降は職探しをしながら、両親と同居していたようです。死体発見現場となったマンションは被害者の実家でもあり、部屋番号は三〇五号室です」
「死因は?」新しいワインを出現させながら尾崎さんが尋ねる。
「司法解剖がまだなので断言はできないみたいですけど――現場の状況から見て、墜落死ではないかと。六階建てであるマンションの屋上には鍵はかけられておらず、出入りは自由だったようです。被害者は上下スウェットにサンダルというラフな格好で、財布、携帯といった所持品の類は一切ナシ。警察は、屋上に呼び出され、そこから突き落とされたものとして捜査を始めているようです」
「突き落とされたとした根拠は何かな? 仮に突き落とされたとしても、それが何故屋上からだと分かる?」
毎度のことながら、尾崎さんの相槌は的確で話しやすい。
「マンションの構造上、死体のあった場所へは屋上からでないと落下できないようです。部屋のベランダからでは位置がずれてしまうらしくて。極端に強い突風でも吹いたなら話は別ですが、当日、川崎市周辺ではそのような突風は確認されていないとのことです」
「他には?」
「屋上へと出る扉のノブ、それに転落防止用の柵の一部に、布で拭い去った跡があったそうです。恐らく、犯行の際に付着した指紋を拭き取った跡ではないかと。つまり、被害者が落下した時、屋上にはもう一人別の人物がいたということになります」
「なるほどね。……他には?」
どうやら、尾崎さんはそんな些細なことではなく、もっと別の、重大な事柄を期待しているらしい。実際、わたしももったいぶってここまで言わなかった部分もあるのだけれども。
「……はい。例のアルファベットは、今回は屋上のコンクリに、油性マジックのようなモノが書かれていたそうです。連続殺人事件の六件目と断定されたのも、これが発見されたからです」
「今回は何かな?」
「えっと、今回は――」
「ちょっと待って」
言おうとした瞬間に待ったをかけられる。誰かと思えば、今まで黙って聞いていた羽生さんだ。口元をゆるく綻ばせながら、右手を前に突き出している。
「まだ資料見てないんだけど――それ、当てちゃっていい?」
小首を傾げたお決まりのポーズで、思いもしないことを言い出す。
「ほら、あたし、この前まで文字の謎を追ってた訳じゃない? で、もしかしたらその謎が解けたかも、とも言ったわよね? その確認がしたい訳」
なるほど、確かにそんなことを言っていた。その時は、文字の謎を解いたところで真相にはたどり着けない、みたいなことも言っていた筈だが――。
ともかく、わたしは首肯して回答を促す。
「六番目は――S、なんじゃない?」
「当たり、です……」
「やっぱりそうなのね……」
一人で納得して、一人で頷いている。
「え、あの、やっぱりそうなのね、じゃなくて――。理由は?」
「この前も言ったでしょう? 言ったところで、真相への道しるべにはならない。時が来たら自分で話すって」
「だったら、最初から黙ってりゃいいのによ……」
円卓の隅、ずっと漫画雑誌を読みふけっていた大介君が、ボソリと毒を吐く。キッ、と鋭く睨めつける羽生さんではあったが、結局何も言わずに口を閉じる。先程の喧嘩、まだ引きずっているらしい。空気が悪くなるから、できれば早く仲直りしてもらいたいのだけど。
「原田さん、話を戻そう」
と、ここで軌道修正するのが尾崎さんの役割。
「はい、えっと――屋上に残されていたSの文字に関してですが、マジックの類は周辺から発見されておらず、恐らくは犯人が持ち去ったものと考えられているようです。使われたインクに関しての捜査はまだですが、これも今までのパターンから言って、大量に市販されているものとみて間違いないだろう、とのことです」
「いつもどおりだね。他に何か留意点はあるのかな?」
「はい、ここからが肝心なんですが――今回の事件、特筆すべき点が二つほどあるんです」
一拍置いて、皆の顔を見渡す。全員が、わたしを見ていた。
「……瑞穂ちゃんも、案外もったいぶるのが好きなのね」
「本日の、お前が言うな」
呆れる羽生さんに奇妙なツッコミを入れるのは、もちろん大介君だ。対する羽生さんは完全無視することに決めたらしく、見向きもしない。わたしも意に関しないふりをして、先を進める。
「まず一つは、横山さんの死体の状況です。六階からの墜落死ということで、脳挫傷をはじめとして、骨折、打撲は全身に渡り、ほぼ即死という状態でしたが――問題は、その腕にあります」
「腕、かい?」
「はい。両腕の前腕部――つまり手と肘の間のことですが――その外側に無数の切り傷があったそうなんです。ナイフか包丁のような刃物でつけたような傷が、腕に対して垂直に、何本も……」
言いながら、自分の腕に指で筋を描くジェスチャーを見せる。
「傷口に生活反応があったこと、死体周辺の血だまりに不自然な跡がなかったことなどから、恐らくは突き落とされる前につけられたものと見られています」
「それは何、防御創ってこと? 屋上で襲われて、それから身を守るために傷を負った、みたいな」
よく似たシチュエーションで手の甲を刺された羽生さんが、鋭い見解を見せる。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれません」
「何よ、それ」
「問題は、傷の形状です」
警察が撮影した傷の写真を取り上げ、皆に見えるように掲げる。
「見てください。これ、けっこうグズグズなんですよね。スパッと切りつけられたと言うよりは、力任せに押し潰されたみたいな……」
「研いでない包丁で刺身を切ったりすると、そうなるね」
結構な量のアルコールを飲んでいるにも関わらず、相変わらず的確な相槌を打つ尾崎さんに、わたしは強く頷く。
「そんな感じです。わたしは素人なのでよく分からないんですけど、身を守るためにためにできた防御創と言うよりは、机か何かの上で、こう、ザクザク刻んでいったような……」
「……何、それ……」
「それはまだ分かりません。とりあえず、今は事実を述べているだけにしておきましょう」
「いや、今の『何それ』はそういう意味ではなくってね……」
こめかみに指を当てながら、羽生さんは思案風。
「瑞穂ちゃん。『傷がグズグズ』とか、『ザクザク刻んだ』とか――何か、凄いよね。前は死体の写真見ただけで卒倒しかけてたのに」
「ああ……」そういうことか。
「この短期間で、ずいぶんグロ耐性ついたんだねぇ。あたしなんて、正直ドン引きだった訳だけど。『何それ』ってのは、そういう意味」
「そりゃ、来る日も来る日も死んだ殺したって考え続けてれば、どうしたって慣れますよ」
あまり、慣れたくはないのだけれど。
「それよりも」グラスにワインを注ぎながら、尾崎さんが口を開く。
「特筆すべき点は二つあるって言ったよね? 一つが腕の切り傷だとして、もう一つは何なのかな?」
「もう一つは――朗報です」
尾崎さんの口癖を引用して、わたしは言う。
「と、言うと?」
「不審車両が目撃されているんです。被害者の死亡推定時刻は午後三時から五時の間なんですが、その間、白の国産車がマンションの前に路上駐車されていたという話です」
「犯人の車って訳?」羽生さんは眉根を寄せる。
「その可能性は高いと思います。例によって指紋や足跡、不審者の目撃証言等はなかったそうですが、今回は車が目撃されています。だいたいの車種も分かっているようなので、特定までは時間の問題かと」
「それはいいんだけどさ――落ちた瞬間は、誰も気がつかなかった訳ね?」
「昼間は住人が少ないようですね。近くに工場も多いので、ちょっとした物音や振動では騒がれなかったようです。その上、駐車場は建物の裏手にあるので、通行人にも気づかれにくかったんではないでしょうか」
「そんな中で不審車両が見つかったというのは、確かに朗報かもしれないね。一連の犯人は、五件目の事件で足跡を残した以外、ほとんど手がかりを残していない。そんな中で車が目撃されていたのは大収穫だ。警察がまもなく特定してくれるだろうが、今はとにかく、空振りでないことを祈るばかりだね」
同感だった。これまでに六人もの被害者を出している連続殺人事件だが、犯人を特定する物証はゼロに等しい。遺留品はなく、目撃証言もなく、被害者周りをどれだけ調べたところで怪しい人物一人浮かび上がってこない。強いて言えば、クレーマーの畑中繁、羽生さんを襲った狐顔の男が容疑者として挙げられているが、その二人の行方は未だ掴めていない。
はっきり言って、袋小路だったのだ。
そこに来ての、六番目の事件である。自宅マンションの屋上から突き落とされるという新しい殺害方法に加え、今回は不審車両の目撃証言もある。何の関連もないという危険性はもちろんあるが、それでも、これまでとは雲泥の差である。否応無しに期待は高まる。
「そして最後に、横山さんの評判に関してですが……だいたいは、『真面目で大人しい』という印象で一致しています。普段から口数が少なく、物静かで、黙々と仕事をしている印象が強かった、ということです。交友関係はあまり広くなく、親しい友人も少なく、休日も家に引きこもっていることが多かった、ということですが……」
「……友達いないんですよ」
ずっと黙っていた横山さんが、珍しく自分から口を開く。
「生まれてから今まで、友達ってのができたことないんです。人に嫌われる才能があるみたいで、どこに行ってもアウェーなんです。愚鈍で無能で醜悪な僕は、常に誰からも軽んじられて、嘲られて、虐げられてきたんです。そういう、人間なんです」
口の中でモゴモゴと、どこまでも卑屈なセリフを垂れ流している。前髪が目にかかっているためにその表情を読むことはできないが、彼の周囲では空気までもが澱んでいる。
「……トラブルの類とかは、なかった訳?」
頭をかきながら羽生さんが尋ねる。直接は何も言わないが、幾分苛ついているようにも見受けられる。
「そうですね――現在報告されている限りは、横山さん周囲で目立ったトラブルはなかったようです」
「トラブルが起きる程、人間関係、築いてないので……」
彼の言葉はどこかじめりとした質感で、口にした瞬間、この黒い円卓に沈着していくような気がする。
「……本当、何で僕だったんでしょうね……。僕なんか、殺すほどの価値もないって言うのに……」
「あのさ」
際限なく続く横山さんのネガティブマシンガントークを、羽生さんが手で制する。
「黙っていようかとも思ったんだけど――横山クン、ちょっと卑屈すぎるんじゃない? わざわざ、自分で自分の価値を下げる必要はないと思うんだけど」
「だけど、事実なので――」
「言わなくていい、って言ってるの」
羽生さんの眉がピクリと上がり、横山さんの体がビクリと硬直する。思わず、こちらも緊張してしまう。
「アナタが卑屈なこと言うたびに、この場の空気が悪くなるのよ。正直、迷惑な訳。愚鈍で無能で醜悪? それは横山クンの主観的な判断でしょう? はっきり言って、どうでもいい訳。それを口にしたところで、誰が得する訳でもないし。今大切なのは、横山クンが記憶を取り戻すことであって、自分を卑下することではない、そうでしょう?」
腰に手を当て、実にもっともなことを言う。
「ネガティブ発言はいいからさ、今の話聞いて、何か――」
発言の途中で、羽生さんは言葉を途切らせる。その視線の先、円卓の端では、大介君が雑誌を広げてこちらに掲げている。広げているページは、例の漫画雑誌の例の新連載――羽生さんの作品である『アカルイアシタ』だ。無表情で、見開きページを見開いて羽生さんに見せている。
「……どういうつもり?」
「いやあ、卑屈でネガティブで、自分で自分の価値下げてるのは、どっちかなぁ、と思って」
「はァ?」
「読んだ人間が面白いって言ってるモンを、ムキになって面白くないって言い張った作者は、どこの誰ッスか」
「さっきから何なのよ……。それとこれとは違うでしょう? あたしのは、事実じゃない」
「それこそ、センセーの主観的な判断じゃねェんスか?」頬杖をついた姿勢で、大介君は続ける。「横山サンが卑屈すぎるのは同感ッスけど、この人も、センセーには言われたくないと思いますよ」
「あ、いえ、あの、僕は別に……」
自分の名前が出るたびに、横山さんは体を硬直させる。が、羽生さんは構わずに続ける。
「うっさいガキねぇ……さっきのこと、まだ根に持ってるの?」
「根に持ってるのはどっちッスか。オレは何も間違ったこと言ってないんスけど」
「間違ってない? 何が? 全然違うでしょうが!」
「ちょっと落ち着きなさい」
立ち上がる羽生さんを、尾崎さんがたしなめる。
「今は下らないことで喧嘩している場合じゃないだろう。新たな事件が起き、新たな被害者が生まれる。本来このこと自体は痛ましいことだし、あってはならないことだ。だが、これは同時にチャンスでもある。解決へのヒント、真相究明への手がかりは確実に増えている。だからこそ、六つの頭をすり合わせ、真実を見つけ出し、記憶を取り戻さなければならないんだ。我々は、そうしないと先に進めないんだよ」
ワイングラスを片手に、演説めいた説教を展開している。
正論だし、口調も滑らかなのだけど、以前に比べて饒舌になっているのは明らかだ。やはり、酔っ払っているのだろうか。
「本題に戻ろう。ええと、どこまで行ったっけ?」
ほら、進行役を買って出ているのに、進行状況を把握していない。素面の時では考えられなかったことだ。かと言って飲酒をたしなめる気にもならなくて、わたしは素直に助け舟を出す。
「六件目の事件概要、あと横山さんの人となりの下りまでは終わっています」
「ふん。念の為に聞くが、我々五人との繋がりは?」
「今のところ見つかっていません。住所は川崎市で年齢は二十六歳、現在無職で交友関係も少ないということなので、接点を見つけるのはなかなか難しそうですね」
「スミマセン……」
前髪をいじりながら、横山さんは何度目かの謝罪を漏らす。条件反射のようなものなんだろう。もう、誰も何も言わない。
「一つだけ、聞いていい?」
声を上げたのは羽生さんだ。
「住所、川崎市の高津区だっけ? そしたら、最寄駅ってどこになるのかな?」
呼びかけるが、反応がない。「……ねえ、聞いてる?」と羽生さんが言って、ようやく、彼は驚いたように顔を上げる。
「え!? ああ、はい、大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃなくって――あたしの話、聞いてた?」
「あ、いえ、はい。もちろんです。大丈夫です」
忙しなく視線を彷徨わせながら、取り繕うように言葉を吐く。とてもではないが大丈夫そうには見えない。
「も・よ・り。君ン家からの、電車の最寄駅を聞いてるンだけど」
「あ、最寄駅ですか。えっと、ノクチ――武蔵溝ノ口ですけど」
「って言うと……南武線だっけ」
「あ、そうです」
「そっかあ、残念」指をパキンと鳴らし、背もたれに体を預ける。「川崎駅だったら、一本だったのになあ」
羽生さんが何を言いたいのかは、何となく分かった。以前にも出た話題だ。大介君が南浦和でわたしが赤羽、羽生さんは蒲田で、この三駅は京浜東北・根岸線で一本に繋がっている。仮に横山さんの最寄りが川崎駅だった場合、このラインはさらに延長されることになる。だから何だと言われればそれまでの話だけれど、なかなか興味深い符合ではあると思う。
「ってか、それってオレが言い出した説なんスけどねー」
手柄を横取りされたと思ったのか、すかさず大介君が横から口を挟む。この辺りの子供っぽさは、さすがに年相応といった感じ。だけれど、羽生さんは相手にしない。相手にしたら喧嘩になるだけだと分かっているんだろう。
「死亡推定時刻直前の足取りは、どうなっているのかな?」
切りがついたと踏んだのか、尾崎さんは次の質問を繰り出す。
「はい。当日は朝からずっとマンションの自室にいたようで、それは母親が確認しています。午後三時すぎ、買い物に行くと言って出かけたのが、横山さんの生前最後の姿となっています」
「その足で、そのまま屋上に?」
「恐らく。遺体は、スウェットにサンダルというひどくラフな格好でした。所持品はゼロで、現場にも屋上にも一切の遺留品がなかったようなので、買い物などには行かず、そのまま屋上に上がったのではないかと」
皆の視線が横山さんに集まる。彼は今、死亡した時と同じ服装をしている。それが恥ずかしいのか、顔を横に背け、両肘を手で庇うような格好をとっている。
「……今の服が嫌なら、着替えることもできるわよ?」
内面を見てとったらしい羽生さんが優しい言葉をかける。
「え、あ、え? 着替え、ですか?」
「そう。さっきも説明したでしょう? この空間では、強くイメージしたものがそのまま視覚化されて形になるの。データ資料や飲食物はもちろん、周囲の光景も、自分自身の服装、体の状態なんかもそう。横山クンが念じさえすれば、それは全て視覚化されて出現するって訳」
羽生さんの丁寧な説明を受けて、横山さんは簡単に着替えを済ませる。白のスニーカー、ジーンズに、白のフード付きパーカー。お世辞にもオシャレとは言い難いが、だいぶ見られるようになった。
「スミマセン……服とか、こういうのしか持ってなくて……」
誰も何も言っていないのに、勝手に小さくなっている。必要以上に人の目を気にするタイプなのかもしれない。
「携帯電話の有無に関しては、どうかな?」
着替えが済んだのを確認して、尾崎さんが続ける。
「何度も言っている通り、遺体、現場、屋上には一切の遺留品はありませんでした。ケータイも、そうです。警察は横山さんの部屋も調べたそうですが、ケータイは見つからなかったそうです」
「ケータイそのものは、持っているのよね?」
羽生さんが呼びかけるが、またしても横山さんは無反応で、円卓の上の資料に釘付けになっている。
「――横山クン」
肩にポンと手を置き、再度呼びかける。
「え!? あ、はい、大丈夫です」
前髪をかき上げながら慌ててそう言うが、さすがに、もうそれは通用しない。
「……横山クンさあ……」羽生さんの眉根が見る見る間に狭まっていく。「いい加減にしなよ? 何なの、さっきから。大丈夫です大丈夫ですって、そう言えば何とかなると思ってる? だとしたら、あたしらのこと馬鹿にしすぎだから。聞いてないなら聞いてないって言えばいいじゃない。聞いたら聞いたで、必ず質問を鸚鵡返しにするしさ。何なの? 耳、悪いの?」
「スミマセン……」横山さんの返答はやっぱり定型通り。
「僕、愚鈍なんで……」
「そういうの、もういいからさ――」
羽生さんは苛立ちを隠そうともしない。
「ケ・イ・タ・イ。携帯電話。持ってるか持ってないかって聞いたんだけど」
「あ、ケータイですか」性懲りもなく、また鸚鵡返しだ。「普通に持ってましたけど」
「ふうん? 横山君、それはちょっと解せないな。君の携帯電話は、部屋からも現場からも見つからなかったそうだが?」
「……誰かに、持ち去られたってこと、ですか……?」
顔色を窺いながら答える横山さん。下手なことを言ったら怒鳴られるとでも思っているのだろうか。
「多分ね。そして持ち去ったのは、十中八九、犯人。現場に残されたアルファベットと一緒で、ここは六件全てに共通しているトコ。きっと、この持ち去られたケータイが、事件の鍵を握っている筈なのよね……」
その言葉は横山さんに言って聞かせると言うより、自分自身の考えを整理しているだけのようにも見える。
「……まあ、このことに関しては、まだ何も分かってないのが情けないトコなんだけどね」
まだ何も分かってない。
確かにその通りだ。ケータイに関してだけではない。事件そのもの、犯人像そのものが、まだ何も分かっていない。どこかの誰かが明確な殺意を持って六人もの人間を殺めてきたのに、だ。
この一ヶ月間、わたしたちは顔を突き合わせて様々なことを話し合ってきた。結果、『罪の形』なるものが、ぼんやりと浮かび上がったりもした。
だけど、それだけだ。
未だ、はっきりとした犯人像に辿り着けていない。
記憶も戻らない。
何も分からないから、先にも進めない。
暗中模索の五里霧中だ。
一応、今回は不審車両の目撃証言もあるので、期待はしているのだけれども……。
「ふん。概要や注目箇所に関してはこんなモノかな」
新しく出現させたウィスキーボトルのキャップを開けながら、尾崎さんがまとめに入る。
「他に何かあれば今のうちに聞いておきたいんだが――鹿島君、今回は何もなしかな?」
そう言えば、横山さんが来てから一言も口を利いていない。
何か考え事かと視線を向けると、円卓に両肘を突き、組んだ手の上に額を乗せて俯いている鹿島さんの姿。尾崎さんの言葉を受けて、ゆるゆると顔を上げる。
「……一つだけ……」
覇気のない声で、そう答える。顔色は、こちらが引くほどに悪い。
「どうしたの!? 鹿島クン、具合悪いの!?」
死者には健康状態も何もないので、精神的なことを聞いているんだろう。先程の屋上風景では、高所恐怖症ということもあってか、だいぶ参っているようだったけれど……。
「……話を聞いていたら、途中で気分が悪くなってきて……」
驚いた。
いや、これが一般の人だったら、特にどうということはない発言なんだろう。実際、わたしがグロテスクな話をした時なんかは、羽生さんがけっこうな難色を示していた。聞いていれば気分の悪くなる話ではあったのだ――あくまで、一般的には。
しかし、鹿島さんは一般からはかけ離れた人間だ。
どこまでも合理的論理的で、推理能力の高い思考マシーン。やや自己評価の低い部分はあるものの、それとて能力に対する瑕疵にはならない。加えて、彼は現役の医大生でもある。肉体的物質的グロテスクにはある程度の耐性がある筈で、さっきの話程度で気分を悪くするとは到底考えられないのだが――。
「そうか……気分が悪いと言うのなら、無理強いはしないよ。話題が話題だからね。でも、何か聞きたいことがあるんだろう?」
「ええ……横山さん、警察が被害者宅を調べたそうなんですけど、持っている靴って、これで全部なんですか?」
土気色の顔色のまま、何かのデータ資料を見せている。
「え、はあ……ちょっと見せてください」
怪訝そうな顔で資料を手元に引き寄せる横山さん。持っている靴が何だって言うんだろう。
と言うか、横山さん、年下に対しても丁寧語なんだ。
「何、警察って、被害者の持ってる靴まで調べる訳?」
小首を傾げる羽生さん。同感だった。わたしたちも一応部屋を調べられたりはしたけど、靴まで調べたというデータは残っていない。
「……死亡時、サンダル履きだったのが引っ掛かった捜査員がいたようです。結局、有用な手がかりは見つけられなかったようですが」
だけどそれは鹿島さんも同じだ。何かが引っ掛かったからこそ、ここでこうして尋ねたのだろう。何が引っ掛かったかは、教えてもらえそうにないけど。
「それで、どうですか」
資料に目を落としたまま何も言わない横山さんに、鹿島さんが話を向ける。
「あ、いや、えっと……スニーカーが、なくなってます」
「スニーカー? どういうヤツですか?」
「いや、今履いている、この靴なんですけど……」
言いながら自分の足を見せる。
「その靴は、確かに横山さんの持ち物だったんですね?」
「その筈なんですけど……おかしいな。どこに行ったんだろう……」
横山さんと鹿島さん、二人して思案顔だ。聞いているだけのこちらは、まるで意味が分からない。
「鹿島君、その靴がどうかしたのかな?」
しびれを切らした尾崎さんが尋ねる。
「いえ、今の段階では何とも言えませんが」
「質問は、それで終わりかい?」
「はい……俺からは、以上です」
「そうか」
ウィスキーロックのグラスを傾けながら、不可解そうな顔をする尾崎さん。
「まあいいや。今後、何か新しく気付いたことがあったら、何でもいいから教えてくれ」
鹿島さんが一同のエースだと認めているんだろう。心配しつつも、かける期待は大きいようだ。
「さて、今回はここまでにしておこうか。まずはお開きだ。横山君は、全てのデータ資料に目を通しておいてもらおう」
尾崎さんの言葉が言い終わらないうちに、恐ろしい量の紙束が横山さんの目の前に出現する。一メートル数十センチはあるだろうか。明らかに、わたしの時よりも量が増している。
「……頑張り、ます……」
横山さんの声が強張っている。きっと表情も引き攣っていたのだろうけれど、あまりに大量の紙束のせいで、それを窺うことはできなかった。