罪の名前
階段室の鉄扉は錆び付いていて、開け閉めするだけで派手な音が鳴る。大介君はよくこの屋上で授業をサボっていたという話だったけど、開閉のたびにこんな大きな音がしてしまったのでは、階下の先生たちに気付かれてしまうと思う。今となっては、かなりどうでもいい心配なのだけど。
階段室と呼ばれるだけあって、室内は階段があるだけだった。階下へと伸びる階段は、半分をすぎた辺りで闇に遮られていて、全く先が見えない。
とは言え、もちろん中学校の校舎になど用はない。仮にあったところで、これは見せかけだけのバーチャルな光景だ。端から階下になど降りられはしない。
用があるのは――
「鹿島さん、いるんですか」
「何」
背後からの声に、数センチ飛び上がる。ここに来てからこんなのばっかりだ。いい加減、嫌になる。
高鳴る鼓動を抑えて振り向くと、そこに鹿島さんはいた。階段とは逆側の壁に背を付け、顎を出してしゃがみこんでいる。
「……何してるんですか、こんなところで」
「休憩」
「こんなところで、ですか」
「屋上、苦手なんだよ」
薄暗いせいかもしれないが、フレームレスの眼鏡をかけた細面の顔は、なるほど、確かに青白く見える。しかし、いつも冷静な鹿島さんに、高所恐怖症の気があるなんて。人間、聞いてみないと分からないものだ。
「俺に何か用」
壁を背にしたまま、鹿島さんは立ち上がる。わたしより、頭一つ大きい。鋭い双眸と相まって、何だか威圧感を覚えてしまう。
「いえ、あの、用って言うか……」
「今度は俺の『罪』を探りに来た?」
「え……」
「それとも、単に考えを聞きに来ただけかな」
薄暗い階段室の中、鹿島さんの薄い唇だけが動いている。
「えっと、あの、鹿島さんは――」
「全部聞こえてた。如月さんと桐山の口論も、管を巻く尾崎さんの声も、全部」
「そう、ですか……」
見た目は屋上風景だが、実際は密室にすぎない。その気になれば、そこここで行われている会話など、全て耳に入ってしまうのだろう。
「桐山は実の叔母と通じていた。如月さんは自らの漫画家人生に行き詰まりを感じていた。尾崎さんは生前に粘着質なクレーマーに付きまとわれていたと知って、死んだ今になって再びアルコールに口を付け始めた。立て続けにメンバーの違う一面を見せられて、戸惑い、困惑した。それで、あまり物事に動じなさそうで、かつ何でも見透かしているかのような言動をとることの多い、俺と話をしたくなった――ってところか」
「……実際、見透かしているじゃないですか……」
「どうかな。俺は、俺に分かることを口にしているだけだ」
言って、再びしゃがみこむ。差し込む光をレンズが反射して、眼鏡の奥の瞳が見えなくなる。
「一方、俺は、普通の人間が普通に分かることが、分からない」
目が見えないということは、表情が読めないということだ。もっとも、この人は普段から相手に表情など読ませないのだけれども。
「普通の人間が普通にできることが、俺にはできない。何一つ、まともにこなせない」
「えっと、あの――」
いつの間にか、何だかよく分からない方向に話が進んでいる。
「一体、何の話をしてるんですか?」
「『罪』、の話だよ。一連の事件の被害者は、表立って分かりにくい、何らかの『罪』を抱えていた。殺された原因は、そこにある。その『罪』を明らかにすることが真相究明に繋がる――最近の会議では、その考えが主流となっている。実際、俺もその説が的を射ているんじゃないかと考えている」
だから、考えてみたんだよ。
水底を思わせる静謐さを纏いながら、彼は語り続ける。
「俺の――鹿島寛貴の罪ってやつを。俺は生前、どんな屈託を、傷を、十字架を、苦悩を、傲慢を抱えていたのか。……考えるまでもなかった。記憶が失われている云々の次元じゃなく、答えは実に明白だったんだ」
「分かったんですか」
だったらそれは大きな進歩となる筈なのだけど、鹿島さんからは一切ポジティブな反応が見られない。ただ、深く濃く巨大な影で覆われているだけだ。
「――生まれてきたことが、罪だったんだ」
「え……」
断定的な口調に、わたしは一瞬、言葉を忘れる。
「それは……一体、どういう……」
「勘違いしないでくれ。別に、劇的な何かがあった訳じゃない。望まれずに生まれた不実の子だとか、凶悪犯の血を引いているとか、そういう訳ではない。父親は真面目な医者で、母親は堅実な専業主婦だ。虐待を受けるでもなく、ごくごく普通に、まともに育てられた。その点、俺は両親に感謝すべきで、本来、こんな感情を抱くこと自体が許されないことなんだろう。だけど――」
罪悪感が、消えないんだ。
「生きている――ただそれだけのことで、罪悪感が蓄積していく。災害や戦争、犯罪や病気で不幸な死に方をする人間は大勢いる。そんな中で、俺みたいなのがのうのうと生き続けている。それが、耐えられない。実家が病院だったせいで、子供の頃から死は割と身近にあった。そのせいかもしれない。何故、俺じゃないのか。何故俺みたいなのが、生きることを許されているのか……」
「何、言ってるんですか」
思わず言葉が出ていた。
「何でそんなこと思うんですか。鹿島さん――頭いいし、凄いじゃないですか。卑下しないでくださいよ。『生まれてきたことが罪』だとか、『何故俺みたいなのが生きるのを許されてるのか』とか、おかしいですよ」
「おかしいんだろうね」
怒るでも意地になるでも、論理的に反論するでもなく、どこまでも静かに、彼はわたしの言葉を受け入れる。引き入れる。
「実際、おかしいんだろう。ある種の強迫観念、ノイローゼ、抑うつ状態なのは明白だ。専門医の投薬やカウンセリングが必要なのは、俺だって分かってる。さっきから口にしている罪悪感ってやつが、劣等感とニアリーイコールだってことも、分かっている。だが、本格的にどうにかする前に、俺は殺されてしまった。殺されて、記憶を失って、この仮想密閉空間に閉じ込められている。苦手な屋上風景を前に不安定になって、知り合って間もない女子高生相手に下らない愚痴を垂らしている――全部、分かってはいるんだ」
隙のない自己分析だ。
だけど、わたしはそんなの、好きじゃない。
「分かってないですよ……。さっきわたしも羽生さんに言われたんですけど、何ていうか、自己評価が低すぎます。劣等感って、何ですか。さっきも言ったけど、鹿島さん、凄いと思いますよ。もっと堂々としてればいいのに――」
「凄くはないよ。さっきも言ったけど」
顔を上げ、わたしに視線を向ける。だけど、眼鏡は光を反射したままで、やはりその奥の目が見えない。内側が、見えない。
「普通の人間が普通にできることが、俺にはできない。勉強ができたからって、それが何だって言うんだ。何になるって言うんだよ。友達作って一緒に遊んで笑い合うだとか、恋人を作って愛し合うだとか――そうことが、俺にはできないんだ」
「でも、彼女がいたことはあるんでしょ?」
「昔ね。女性経験がないことで下に見られるのが耐えられなくて、いわゆる恋人というものを無理して作った時期はある。失礼な話だ。当然、長続きはしなかった。鹿島君は人の気持ちが分からないの――別れ際に言われた言葉だ。的を射ている。きっと、理が勝ちすぎているんだろう。俺は、人の気持ちを理解できない。だから駄目なんだ。生きている資格がないんだよ」
そんな。
そんな。
そんな。
「そんな理由で――殺されたって言うんですか!? そんな訳ないじゃないですかっ! 人の気持ちが理解できない人間なんて、いくらでもいますよ!? グループに溶け込めない人間だって、いくらでも、いるし……」
知っている。裏サイトなどで他人の誹謗中傷を行っている輩が前者で、わたしが後者だ。特別なことではない。
「問題なのは、それに対して無駄に罪悪感を募らせている、俺自身なんだ。間違っているのは分かっている。理屈に合わないことも、理解している。だが、これはどうしようもない。消えずに肥大化していく罪悪感そのものが、俺の『罪』なんだよ」
「『罪』って……」
罪とは、何だろう。
アルコール中毒とクレーマー。
証拠隠匿と連載作品打ち切り。
実の叔母との間の、近親相姦。
肥大化する、劣等感と罪悪感。
そして――わたしは。
「『罪』って、何ですか。昔アル中だったから、犯人の証拠を隠してたから、叔母さんと関係を持ってたから、何だって言うんですか。肥大化した罪悪感って何ですか。それで、誰かが傷ついたんですか。迷惑かけたんですか。そんなんで、殺されなきゃならないんですか。だったら――」
わたしは。
「わたしは、どんな『罪』を犯したって言うんですかっ!」
言ってから、顔がカァッと熱くなる。
臆病で頭でっかちのくせに、いつも言葉が先に出る。感情は、その後からついてくる。いつものことだ。
口に出した言葉は一人歩きを始める。
口をついた言葉は、全て自分に跳ね返ってくる。
それでも。
わたしは。
「わたしは、そんなの、絶対違うと思いますッ!」
鹿島さんの返答を待たず、踵を返す。
もう嫌だ。
もう、嫌だ。
分かっていたことだけれど。
自分たちが殺された理由を探ること。
その意味は、分かっていたつもりだったけれど。
こんなのは、もう、嫌だった。
「……頭、冷やしてきます」
羽生さんの台詞を引用して、扉に手をかける。
今は、駄目だ。
鹿島さんの言ったことが、例え事実だったとしても、今のわたしには無理。文字通り、頭に血が上りすぎている。
リセット。
リセットだ。
一旦、全てを精算して――血を全身に巡らせて――出直しだ。
ギギギ、と音を鳴らして、階段室の扉が開く。
その先。
真っ白い空間が、広がっていた。
数瞬前まで存在していた屋上風景は、どこにもない。
振り返ると、今まで自分たちがいた階段室もない。泡沫のように消え失せていた。そこには、ただ鹿島さんがうずくまっているだけ。一瞬のうちに、一番最初の真っ白な空間に戻ってしまったらしい。慣れたとは言え、この急激な変化には、毎回言葉を失う。
「な……」
「話は終わったかい?」
円卓には三人が座っている。缶ビールに直接口をつけて飲んでいる尾崎さん、僅かに微笑んでこちらを見る羽生さん、不貞腐れたように漫画雑誌を読み続けている大介君。
そして。
「――凶報だ」
真っ白い空間の隅に、二人の人物が立っている。
一人は、案内人・ヒカリ。
そしてもう一人は――
「新しい被害者が出た」
尾崎さんの言葉が、頭上を通り過ぎていく。
「ご紹介致します」
ヒカリの無機質な声が無機質な空間に響く。
彼の隣にいたのは、二十代中盤くらいの男性だった。中肉中背、前髪が長く、猫背で、落ち着きなく視線をキョロキョロと彷徨わせている。
「こちら、横山慎一様です」
紹介された男性は、不自然に両側の口角を上げ、軽く会釈をする。
わたしが殺されたのは九月二十日。今日が十月十三日。
被害者は、ずっと月イチペースで殺害されていた。
犯行は、まだ続いていたのだ。