屋上風景
飛行機雲が青一色の空に白いラインを引いていく。
遠くから聞こえてくるトランペットは、吹奏楽部の練習だろうか。素人でも分かるくらいにヘタクソだけれど、逆に好感が持てる。
ひび割れたコンクリートに仰向けに寝そべったまま、わたしは大きく息を吐き出す。
さいたま市立南浦和第二中学校、その屋上。
星空の草原、遠州灘の海岸、新宿の繁華街に続いて大介君が選択したのが、この光景だった。本来なら次の選択権は尾崎さんかわたしにある筈なのだけど、新宿の繁華街はあくまで現場検証のために選んだ光景ということで、引き続き大介君がこの光景を選んだのだ。
雨ざらしにされて砂っぽいコンクリート。周囲は転落防止の鉄柵。端には三階に降りるための階段室があって、そのすぐ横には給水塔が鎮座している。その他には何もない。周囲の光景も一望できるけど、どこを見渡しても住宅街ばかりで、あまり面白いものではない。仕方がないので、わたしは柵の近くで横になっている。
突き抜けるような青空と、かすかに吹く風が心地よい。
大介君はよくこの屋上に忍び込んで、授業をサボっていたらしい。本当は出入り禁止になっているらしいけど、それはそれ、手段さえ選ばなければ侵入する方法などいくらでもあるらしい。授業サボタージュと合わせて考えると、どうやらお世辞にも真面目とは言い難い生徒だったようだ。
こんな風に死ぬと分かっていれば、わたしだって無理していい子ちゃんを演じることもなかったのだけれど。
いや、違うか。
わたしは、無理して優等生を気取っていた訳ではない。そうしたいから、そうした方が楽だから、生真面目なガリ勉という道を選んだのだ。それを今になって愚痴って後悔するなんて、卑怯だ。
――人は誰でも、被害者面したい生き物だからね。
尾崎さんの言葉が、耳に蘇る。
不満や不安を誰かのせいにして自己正当化して、優位に立ったつもりになって上から目線。批判して否定して馬鹿にして、それで自分が偉いつもりになって――わたしが心底嫌悪する、ネットの日常風景。そこと同じラインには立ちたくない。嫌うから、厭うから、自分自身をそこに貶めたくないと、強く思う。
ま、死んだ今となっては、どうでもいいことなんだけど。
半身を起こし、目の前に画面を出現させる。もう何度も繰り返し見た、警察の聞き取り映像だ。
『――瑞穂が死んだのは、私のせいなんです』
画面内の美少女が、疲れきった顔でそう言う。
『私がずっと一緒にいれば、瑞穂は死なずに済んだのに……』
目の下には濃いクマができていて、瞳は生気を欠いている。肌もボロボロだし、髪にも艶がない。何日も寝ていないのかもしれない。元々の顔が整っているだけに、憔悴具合が余計に目立つ。
『――私が、代わりに死ぬべきだったのに――』
舞の映像を見るたびに、内面が掻き毟られる感覚に襲われる。悲しさ、悔しさ、後悔、彼女を悲しませていることへの罪悪感と、犯人への強い怒り――そういった諸々が高速で飛び交い、内側を斬りつける。何度も、執拗に。
この映像を見れば、自分が傷つくことは分かっている。それなのに、定期的に見ている自分がいる。舞。舞。舞。ごめんね。わたしなんかのために。わたしなんかが、こんな変な事件に巻き込まれたばっかりに――。
顔を俯けると、涙が一雫。それさえ、屋上の風に乗って、どこかに消えていく。後には、切なさだけが残る。
『犯人分かったら、すぐに教えてくださいよ』
ヘッドホンから聞こえる音声が、舞から少年のそれに変わる。わざわざ映像を見て確認するまでもない。
『オレが、瑞穂殺した犯人、ぶっ殺してやるんで』
圭介だ。刑事にそんなこと言ったって、相手を困らせるだけだろうに――相変わらず馬鹿だな、と思う。ただ、その気持ちは純粋に嬉しい。疲れて憔悴しきっている舞とは対照的に、圭介は鼻息荒く、怒りを露わにしている。犯人への復讐を、本気で考えているのかもしれない。正義感が強くて血の気が多くて一本気で。コイツのそういうとこ、嫌いではなかった。舞も、そういうところを好きになったのかもしれない。
鎌倉の海に遊びに行ってからしばらくして、舞が圭介に告白し、圭介はそれにOKを出して、二人は付き合い始めた。その日の夜は、興奮して電話をかけてくる舞の相手で、大変だったのを覚えている。このことは、すぐに教室中に知れ渡った。クラス公認カップルの誕生だ。サッカー部の連中も、二人の恋を応援してくれていたらしい。
もっとも、それ以降も皆でよく遊んだし、わたし自身も、圭介と個人的に電話で話したりもした。舞はどちらかと言えば焼きもちを焼きやすいタイプらしかったけど、わたしに対しては寛大だった。そりゃそうだ。何せ、わたしだ。わたしみたいな存在が、恋路の邪魔になる訳がない。
わたしは、もう、諦めている。
「また圭介クンの映像?」
物思いにふけるわたしを、羽生さんの声が現実に引き戻す。いつの間に現れたのだろう。口元に笑みなど浮かべて、わたしの右斜め前で鉄柵にもたれかかっている。
「彼氏――ではないんだよね?」
しつこい。
「そんなんじゃないですって。わたしは、ただの友達。それ以上でもそれ以下でもありません」
「瑞穂ちゃん、好きな人とかいないの?」
このタイミングで、嫌な質問が飛んできた。
「……いませんよ。いても仕方ないし」
「何が仕方ないの」
掘り下げないでほしい。深く掘っても、湧き出るのは悪感情だけなんだから。
「何がって……わたしみたいなのが、誰かを好きになったってどうしようもないですよ。わたしみたいな、可愛くない女……」
「そう? 瑞穂ちゃん、充分カワイイと思うけどな」
「可愛くないですよ」
やめたほうがいいと頭で分かっていながらも、言葉を止めることが出来ない。悪感情はマイナスの言葉を引き出し、更なる悪感情を生む。分かりやすいスパイラル構造だ。
「性格、悪いんです。ネガティブだし、頭でっかちで理屈っぽいし、人の嫌なとこばっかり目が行っちゃうし……」
「そう?」
スパイラル構造で錐揉み落下していくわたしを、羽生さんは不思議そうな顔で見つめている。
「でもそれは、瑞穂ちゃんの自己評価でしょう? 外側から見たら、また別じゃない? 卑屈になる前に、自分こと客観視してみたらどうかな?」
「……客観視したって。わたしは、わたしですよ。卑怯で、臆病で、どうしようもない――」
「ストップ」
顔を俯けるわたしに、待ったをかける。
「そこまで。それ以上自分を貶めるの禁止。自己嫌悪、禁止」
真っ直ぐな瞳を向けながら、はっきりとした口調でそう言う。
「ずっと気になってたんだけど――瑞穂ちゃん、思ったこと口に出さずに呑み込んじゃう癖があるよね? あと、過剰に人の顔色を気にしすぎている感じがする。頭いいし、カワイイんだから、もっと堂々としてればいいのに」
羽生さんの言葉が、優しく胸に触れた気がした。
「資料を読み込んだだけじゃ分からなかったんだけど……学校で、何かあった? あたしでよければ、聞くけど」
そこまで優しくされると、もう駄目だった。
これ以上、黙ってなんていられない。
フィルターを外すのなら、今だ。
ポツリ、ポツリと、わたしは自分の身の上話を始める。
裏サイトでの誹謗中傷、そこに手を差し伸べてくれた舞の存在、彼女がわたしに近づいた本当の理由、そして圭介とのこと――
「……色々、大変だったんだね……」
話し終えたところで、羽生さんは嘆息と共に感想を漏らす。
「ネットって、やっぱ怖いわよね……。あたしも、自分の作品の批評とか、極力見ないようにしてるもん。まあ、それ以前に話題にもならないんだけどさ」
自虐ネタを飛ばす羽生さんに、わたしは素朴な質問を投げかける。
「羽生さんも、インターネットとかやるんですか?」
「うん? まあ、人並みにね。ツイッターのアカウントもあるし、ネットオークションも頻繁にやるかな。あとは動画サイトとか、匿名掲示板とか――漫画関係のスレッドだけは見ないようにしているけど」
よく意味が分からなかったのだけど、詳しくは聞かずにおいた。ネットのことに詳しくなっても、仕方がない。
「それで――どうだった?」
「どうだった、とは?」
「圭介クンの映像見てたんでしょう? それで、何か思い出した?」
随分と話が戻った。そう言えば、元々は舞や圭介の映像を見返していたんだっけか。
「ちょっとでも、何か思い出せたらよかったんですけどね……サッパリです。誰に殺されたのかも、何故殺されたのかも、指を潰された訳も、残されたJの意味も、全然……。そもそも、あの日何でテニスコートにいたのかも、未だに分からないんですもん」
直前に聞いた舞の言葉がフラッシュバックする。
――瑞穂が死んだのは、私のせいなんです。
――私が、代わりに死ぬべきだったのに――。
胸が苦しくなる。舞は悪くない。悪いのは犯人に決まっている。そしてその犯人は、舞ではない。だから、舞は悪くない。
ちなみに、警察は舞や圭介たちのアリバイも一応調べたらしい。結果は、全員シロ。死亡推定時刻の前後、皆どこかしら別の場所にいたらしい。防犯カメラや店員の証言からも、それは確実だ。あの子たちが犯人な訳ないだろうに――それでも、警察はあらゆる可能性を潰さなければならないんだろう。ご苦労なことだ。
「そっかあ……」鉄柵に体重を預け、羽生さんはニセモノの空を見上げる。「そりゃ、簡単には思い出せないわよねぇ。あたしもそうだもん。この前の瑞穂ちゃんの推理、あたしもかなりいいセンいってると思ったんだけど、それで何か思い出せたかって言うと、まるで駄目だし。結局、もっともっと真相を解明するしかないってことなのかな……」
前の会議から、すでに数日が経過していた。一旦時間をおいて各々で考えを推理しよう、という尾崎さんの提案に従い、今はバラバラになってそれぞれの時間をすごしている。
屋上の中央にある円卓にいるのは、今現在尾崎さん一名のみ。グラス片手に、何やらずっと画面を覗き込んでいる。鹿島さんと大介君の姿が見えないのは、恐らく階段室の逆側にいるからだろう。羽生さんはさっきまで鉄柵にもたれかかって空中に浮かぶ画面とにらめっこしていたのだけど、それも一段落ついた模様。
と、言うか。
「そう言えば羽生さんって、現場に残された文字の謎を解明するって言ってませんでしたっけ? あれ、もうやめちゃったんですか?」
「ん――やめた訳じゃあないけどね。色々と考えて、答えらしきモノも、出たっちゃあ、出たんだけど……」
「分かったんですか!?」
だとしたら聞き捨てならない。犯人からのメッセージが分かったとなれば、それは大きな前進を意味する。
「いや、これかな? って答えは一つ、出たんだけど――」
ひどく歯切れが悪い。分かったのなら、もっと胸を張ればいいと思うのだけど。
「何て言うのかな――意味は分かったけど、意味が分からないと言うか……」
「すみません、意味が分からないです」
わたしの理解力が足りないせいではないと思いたい。
「えっと、だからね――あたしは最初、この文字の謎を明かせば、犯人の目的とか、あたしたちの殺された理由とか分かるかもって考えていた訳」
「そうじゃなかった、っていうことですか?」
「そう――うん、いや、あたしの推測が正しければ、なんだけどね」
鉄柵から背中を離し、羽生さんは腕を組む。
「現場に残されたアルファベットは、警察を撹乱させるためのミスリードと言うか、カモフラージュと言うか……とにかく、それ自体に深い意味はなさそうなのよ。せいぜいが、通し番号ってとこ? あたしが殺されたのは三番目で、瑞穂ちゃんは五番目で、みたいな」
「MとかVとかが、なんで番号になるんですか?」
確かにローマ数字にはMもVもあるけど、Mは千、Vは五を意味したはずだ。E、W、Jに至っては、対応する数字すらない。
「うーん、今ここで説明するのは簡単だけど――やっぱ、今は言わないでおくわ」
「何でですか」
「確信が持てないの。外れてたら恥ずかしいし」
少し前に、堂々と捨て推理を語って聞かせた人物の言葉とは思えない。何を今さら、と思ったけれど、言うのはやめておこう。
「仮に当たっていたとしても、だから何? って話よ。真相への道しるべにはなりそうもない。皆の推理の足しになるとは、とても思えないのよ。だから、保留。時が来たら、自分から話すわ」
「やけにもったいつけますね……」
「そういうつもりはないんだってば。本当に、確証がないから、口にしたくないだけ――って、何かこれ、フラグっぽいよねー」
口に手を当て、クスクスと笑っている。わたしには、何がおかしいのか分からない。
「フラグ――って、何ですか?」
フラッグなら旗のことだけど、いずれにせよ意味が通じない。
「え!? あ、瑞穂ちゃん、死亡フラグって、聞いたことない!?」
「ないです」
「そっかぁ……えっと、だからね、映画や漫画なんかで、登場人物の死を予兆させる台詞や行動のことを、俗に死亡フラグって呼ぶの。ほら、ミステリーなんかでよくあるじゃない。真相に至るヒントを見つけたのに、もったいぶって口にしないで、結局探偵役に話す前に犯人に消されちゃうパターン。これなんて典型的な死亡フラグで、さっきのあたしってまさにそんな感じだな、って思った訳」
優しい羽生さんは、無知なわたしにも丁寧な解説をしてくれる。
「で、できれば『フラグも何も、わたしたちもう死んでるじゃないですかー』みたいなツッコミを期待してたんだけどね?」
ううん、そんなブラックなツッコミ、例え単語の意味を知っていたとしても、口にしたかどうか。怪訝そうな顔を見てとったのか、羽生さんはさっさと話題を転換させる。
「えっと、脱線しちゃったね……。何の話だったっけ」
「文字の謎を解明しても真相には至らない、じゃなかったですか」
「あ、そうね。さすが瑞穂ちゃん。頭いい」
羽生さん、わたしを見る目が明らかに変わっている。この前の推理がよかったのか、それとも元学年トップと知ったからか。
「うん、だからね、何が言いたいかと言うと――結局、脇や外堀を攻めてたんじゃ本丸は崩せないって話よ。正攻法で行くしかない」
「正攻法、ですか」
「そ。資料読んで映像見て、五人の周囲を洗って、あたしたちの記憶にない部分を炙り出す。それを繋ぎ合わせて、想像力を駆使して、真実を浮かび上がらせる。それこそが、正攻法でしょう」
でしょう、と言われても。そんなことは、今まで皆が散々やってきたことだと思うのだけど。
「あ、何言ってんだこのオバサン、って顔してるー」
「そんな顔してません!」
何てことを言うんだ。人聞きが悪すぎる。
「要するに、あたしも正攻法でいくことに決めた訳よ。で、改めてあれこれデータを探ってみたんだけどね――一つ、興味深いことが分かったの」
「何ですか、それ」
新事実の発見だろうか。身を乗り出さずにはいられない。
「それは、直接本人に聞いてみましょ」
チョイチョイ、と階段室を指差し、羽生さんは微笑む。どうやら一緒に行く流れらしい。
階段室の裏では、大介君が仰向けに寝そべっていた。足を組み、漫画雑誌らしきものを読み耽っている。まるっきり、授業をサボっている中学生の図だ。
「大介クン、何読んで――」
羽生さんの言葉が、途中で途切れる。顔からも、表情が消える。何故か、彼女の周囲だけ空気が冷えたように感じる。
彼女の肩越しに覗き込むと、大介君の読んでいた雑誌の表紙が目に入る。『週間GANG』という名の青年漫画雑誌だ。表紙には水着姿のグラビアアイドル。その右下に、可愛らしい女の子のイラストと共に『新連載! アカルイアシタ はぶやよい』という文字が、派手なフォントで踊っている。『アカルイアシタ』というのが作品名で、『はぶやよい』が作者名なんだろう。
はぶやよい。
深く考えるまでもなかった。
漢字を当てるとしたら、それは『羽生弥生』となる。羽生と羽生。二月の旧暦である如月と、三月の旧暦、弥生。本名をもじった、如月羽生さんのペンネームだ。
きっと、羽生さんがどんな漫画を描いているか気になって、大介君はこの雑誌に目を通していたんだろう。
それより気になるのが、羽生さんのリアクションだ。顔面を蒼白にして、自分の連載漫画が載った雑誌を見つめている。自分の漫画を大介君に読まれたのがそんな嫌だったんだろうか。普通は逆だと思うけど……この辺りの心理は、当人に聞かないと分からない。
「……オレに何か用ッスか?」
しかし、わたしがそれを尋ねるより早く、しびれを切らした大介君が口を開く。
「……ああ、うん。ちょっと、聞きたいことがあって」
「オレに?」
「そう、大介クンに。……更新分のデータには、目を通してる?」
警察の捜査は毎日精力的に行われている。事件解決には至らなくても、細かい情報は日々増え続けているのだ。捜査本部が重要視しない情報が意外なヒントとなったりするので、わたしたちは気を抜かずにチェックする必要がある。
「ああ……まあ、一応見てますけど」
そう言って、漫画に視線を戻す。羽生さんの表情が強張るのが、斜め後ろにいてもはっきりと分かった。
「漫画なんか読んでないで、ちゃんと聞いて」
ぐい、と雑誌を押し下げ、強引に大介君の顔を覗き込む。
「なんか、って何スか。これはセンセーの――」
「単刀直入に言うわよ」大介君の手から雑誌を取り上げ、彼女はさらに顔を近付ける。「大介クン、異性に興味がないなんて嘘でしょ。本当は、付き合っている恋人がいたんじゃないの?」
あまりにも唐突な発言に面食らう。何を根拠に、そんな。
「いきなり、何の話ッスか……。オレ、ウソなんかついてねーし」
「安原つぼみさん、知ってるわよね。クラスメイトの」
「安原がどうかしたんスか?」
その子は知っている。かつて羽生さんに見せてもらった関係者一覧にも、その名前があった。
「その子、大介クンのこと好きだったそうじゃない。告白されたんですってね。その時、自分が何て言ったか、覚えてる?」
「さあ」
「好きな人がいるから、お前とは付き合えない――そう言ったのよ」
「お決まりのセリフじゃないッスか。それに、もし仮にオレに好きな人間がいたとしても、それで恋人がいたってことには――」
「それだけじゃないの」言葉を遮って、羽生さんは続ける。
「複数の証言があるのよ。大介クン自身、明言はしなかったそうだけど、何人かのクラスメイトがアナタに女性の影を感じていた」
「ンなもん、そいつらの勝手な妄想――」
反論する大介君に人差し指を突きたて、黙らせる。その指はツーっと下がっていき、大輔君の首筋に到達したところで、停止する。
「……首が、どうかしたんスか」
「キスマーク、つけて登校したことあるんだって? 噂になってたらしいわよ」
カァっと、顔が熱くなる。何てことを言い出すんだ。
「虫刺されか何かを見間違えたんでしょ」
「ふうん、キスマークがどういうモノか、知ってるんだ……」
「さっきから何の話をしてるんスか!?」大介君が声を荒げる。
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいいじゃないッスか」
「最初にハッキリ言ったつもりだけど? 大介クン、本当は恋人がいたんじゃないかって」
気のせいだろうか。羽生さん、少し苛ついているように見える。茶々を入れたり、ブラックジョークを飛ばしたりすることはあったけど、こんな風にカリカリ怒るなんてこと、今までなかったのに。
「ね、この際だから、正直に話してほしいの。もうあたしたち死んでるんだし、今さら何も隠しだてすることなんてない筈よ?」
「ウソなんかついてねえっての。オレには、本当に恋人なんていなかったんスから」
「じゃあ、女性経験がないってこと? 童貞ってことね?」
だから、そういう過激な単語を口にするなと言うのに。
「や、別にオレ、ドーテーじゃねーし……」
もごもごと口ごもりながら、大介君はそう言う。はっきりしないのは、見栄から出た嘘だからか、それとも――
「あら、矛盾するじゃない。恋人はいなかったんでしょう? と言うことは、そのお相手とはもう別れた、って解釈でいいのかしら。それとも、一夜限りの関係? その年でワンナイトラブとは、大介クンもやるわねえ」
「あの!」限界だった。静観していいようかとも思ったけど、これ以上は、無理。「羽生さん、さっきから何の話をしているんですか? 大介君の女性経験なんか、事件に関係ないじゃないですか」
「それはどうかしら」
多少強めに言ったつもりが、彼女には柳に風。動じない。
「ねえ、大介クン、お相手の名前を教えて、とまでは言わないわ。ただ、思い出してみて。その人がどこの誰で、自分とどういう関係にあったかを」
「いや……それは……」
様子がおかしい。羽生さんの不躾な質問に憤っているというより、困惑しているように見える。顔色も悪い。
「思い出せない、のよね?」
顔を近づけ、彼女は断言する。
「思った通りだったわ。大介クン、アナタは、ある女性と関係を持ちながら、その事実を思い出せないでいる。それは何故か。事件と関係しているから――そうじゃない?」
大介君は何も答えない。
いや、本当は反論したいのだろうけど、眉間に皺を寄せたまま、必死で考え込んでいる。どうにかして、記憶を蘇らせようとしているのだろう。
しかし、そこまでしないと思い出せない、というのは不自然だ。やはり、事件に関係しているが故に記憶を失っている、と考えるのが妥当なんだろう。
「だけど――それが、どう事件に関わるって言うんですか。まさか、その相手が犯人とか?」
「さあ、そこまでは、何とも」
わざとらしく小首をかしげ、羽生さんは思案の表情を浮かべる。
「だけど、それはないかな? 大介クンのお相手が犯人、ってのは分かりやすい考えだけど、何の接点もないあたしたち四人にまで手をかける理由が見つからないもの。そこまで直接的な関わりじゃなくって――そう、これは大介クンの、『罪の形』なんだと思う訳」
また、罪の形か。
「店長の話を思い出して。あたしたちは皆、何らかの罪を抱えているのよ。表向きは真面目で人畜無害って思われてるみたいだけど、実はそうじゃない。影を、屈託を、十字架を、後ろめたい何かを、それぞれ抱えていた――そして、それが殺人の理由になっている。店長は元アル中で、最近は悪質なクレーマーに引っ掛かっていた。あたしは鹿島クン殺害犯の重要な証拠を握りながら、創作のネタにすることを理由に、それを隠匿していた。それぞれに、『罪の形』がある。じゃあ大介クンのそれは何かって言うと――女、になる」
当の本人が反論できないのをいいことに、羽生さんはスラスラと自説を展開していく。
「では、何故女が罪になるのか? ここで問題は、相手が誰なのか、というところに戻る訳。この件を調べていた刑事さん、色んな子に話を聞いたみたいだけど、どうしても相手が誰なのか分からなかったみたい。何でだと思う? 答えはカンタン。大介クンと、そのお相手が隠していたからよ。じゃあ、何で隠していたのか? そんなに騒がれるのが嫌だったのか――あたしは、違うと思う」
「言いたいことがあンならはっきり言ってくれって、さっきも言ったはずッスけど?」
見下ろす形の羽生さんを、大介君は下からじろりと睨み返す。もう思い出す努力は放棄したらしい。
しかし、羽生さんはやっぱり動じない。
「結論はもう少し待ってね――で、考えてみたんだけど、この話って少し変なのよね。いくら当人たちが気をつけていたとは言え、同じ学校の生徒同士が付き合ってるのに、そのことを周囲に完璧に悟らせないようにする、なんてことが果たして可能なのかな? 特に中学生女子なんてのは色恋に関して敏感だもの。あたしは、ちょっと現実的じゃないと思うのね」
この人は、本当に何を言おうとしているのだろう。横で聞いているだけなのに、肌がザワザワと粟立っていくのを感じてしまう。
「となると、お相手は校外の人間となる。そうすると、どういう相手が想定できる? 中学生の交友関係なんて高が知れている。ネット上の出会い系サイトで知り合った、って説もなくはないけど、大介クンのキャラには合わない気がする。では、誰か」
人差し指を、ピンと立てる。そのまま、手首を使って円を描く動き。回転を終えた頃、彼女の人差し指と中指の間には、一枚の写真が挟まれていた。
「誰だか、分かるわよね?」
とある女性の、バストアップ写真だった。
黒髪を肩まで伸ばしていて、瞳は黒目がち。顔立ちは整っているが、『キレイ』というより『カワイイ』と言った方がしっくりくる。かなりの童顔で、二十代でも通用しそうだ。
実際には、三十代半ばの筈なのだけど。
「……カワイイ人よね。黒崎奈津美さん――お母さんの妹、つまり大介クンにとっては叔母さんにあたる、この女性」
お相手は、この人ね?
後頭部をガン、と殴られたようなショックを受けた。そんな。まさか。それじゃあまるで――
「きん――」
不用意なことを口走りそうになり、慌てて口を噤んだ。
「そう、近親相姦ね」
口を噤む必要はなかったらしい。どうも、さっきからわざと過激な単語を選んでいるような気がする。挑発のつもりだろうか。
「彼女、週一の家庭教師として家に出入りしていたらしいじゃない。それにアナタ、小さい頃から『なっちゃん、なっちゃん』って随分懐いていたって言うし。……この黒崎奈津美さんこそが、大介クンの恋人。二人は頻繁に通じ、関係を続けていた。甥と叔母という、禁断の関係をね。これこそが、アナタの罪の形――違う?」
小首をかしげるお得意のポーズで、羽生さんは自説を締めくくる。
それに対する大介君の反応は、舌打ちと、溜息。
「……オレは、そのドヤ顔の妄想にどうリアクションとればいいんスか。センセーの暴走はいつものことッスけど、今回はさすがに付き合いきれねえッスわ」
心底呆れた、という風に顔をしかめ、吐き捨てる。それでも、羽生さんの追及は止まらない。
「妄想じゃないでしょう? 現に、大介クンには記憶がない訳だし。別にあたしは、アナタと叔母さんの関係をどうこう言うつもりはないの。ただ、それを事実と認めてくれれば、真相究明の役に――」
「しつけェな!」
突然の大声に、わたしは数十センチも後ろに飛びのく。
「知らねェもんは知らねェんだよ! 何をさっきからネチネチ言ってンだよ! 百歩譲って、オレはいいよ。オレが我慢すりゃいい話だし。だけど、普通、人の家族のことまで悪く言うか? 馬鹿にするのもいい加減にしろよ? アンタ、気遣いが得意とか、ぜってぇウソだよな。デリカシーねえもん」
……キレてしまった。
争いごとも、怒鳴り声も苦手だ。物凄く、この場から離れたい。何で、わたしはここにいるんだろう。
「いや、あのね、怒らせちゃったのなら、謝るわ。ゴメンナサイ。でもね、こうしてお互いの過去を暴いて、罪の形をはっきりさせるのも、大切なのよ。そこは、分かって?」
キレた中学生を宥めながら、必死の説得を試みている。もう、ここまで感情的になってしまったら、何を言っても無駄な気がするのだけど。
「ハイハイ。罪の形ね。オレはなっちゃんが好きで、なっちゃんもオレが好きで、親戚同士でセックスしてて、それが原因で殺されましたーって、これでいいッスか?」
口角を不自然に吊り上げ、両手を広げて大介君はそんな風に言う。これは、もう、駄目だ。
「そんな風に言わないで。話をしよ?」
「だから、オレは話なんてしたくないんスよ。もう終わったっしょ? 漫画読んでんスから、終わったならさっさと行ってください」
羽生さんから漫画雑誌を取り戻し、再び読む姿勢に戻る。取り付く島がない。
「そこまで言うなら、仕方ないけど……」
今は何を言っても無駄だと判断したのか、羽生さんはその場で踵を返しかける。返しかけるのだけど、結局振り返ることはせず、寝そべったままの大介君に、言葉をかける。
「……ね、漫画読むのはいいんだけど、せめて、別の漫画にしない? 面白い漫画なんて、他にいくらでもあるでしょう?」
やっぱり、自分の漫画が読まれるのが嫌みたいだ。
「何でですか。これ、センセーが描いたヤツっしょ? まだ読み始めだけど、面白いッスよ?」
「面白いって……」だんだんと、声までもが固くなっていく。よくない兆候。「面白くないでしょ」
「面白いですって」
「描いた人間が面白くないって言ってるんだから、確実でしょ」
「読んだ人間が面白いって言ってンだから、いいじゃないスか」
羽生さんの顔半分がヒクヒクと引きつっている。理由はわからないが、これは彼女の地雷で、逆鱗なのだ。
「それとも、あれッスか?」どこか得意気な口調で、大介君は続ける。「たった半年で打ち切りになった作品って、やっぱ読まれたくないもんなんスか?」
サァ――と、血の気が引いていく音が、聞こえた気がした。
「知ってた、の……」
「そりゃ、全員分のデータは端から端まで読み込んでますからね。最初は分かんなかったんスけど――オジサンの話聞いて、センセー、フィルター外したっしょ? それで、今まで描いた連載作品やら何やら、分かるようになったんスよ。自分でフィルター外しといて、今さら何を恥ずかしがってんスか」
「全部知ってて、あたしの前で、それを読んでたの……」
体が小刻みに震えている。駄目だ。止めなきゃ――頭ではそう思うのだけれど、緊張して動けない。そうしている間にも、二人の口論は続いていく。
「いいじゃないスか。打ち切り、これが初めてじゃないんでしょ? 三ヶ月で打ち切られたこともあるみたいだし。アンケート最下位の常連で、掲載順も後ろの方ばっか。でも、それも慣れたっしょ。本当のこと言われたからって、そんな怖い顔しなくても――」
パン――と、乾いた音が屋上に響く。
羽生さんが、大介君に平手打ちしたのだ。
「デリカシーがないのはどっちよ……ッ!」
声が、震えている。
「馬鹿にしてんのは、どっち!? 何も知らないくせに、好き勝手言わないでよッ!」
「先にやってきたのはそっちだろうがッ! オレらのこと散々好き勝手言っておいて、ちょっと痛いとこ突かれたからってファビョってんじゃねェよッ!」
『ファビョる』って何、と思ったけれど、当然そんなことを聞ける空気ではなく。
「好き勝手って、本当のことじゃない!」
「打ち切りだって本当のことだろ!」
「分かんない子ね。これは真相解明のために必要なことなんだってば。だけど、打ち切りどうこうなんて事件に関係ないでしょ!?」
「ンなもん、分かんねェだろ。案外、それがセンセーの『罪の形』なんじゃん?」
「そんな訳が――」
「はいはい、そこまで」
激昂し、お互いの怒りをぶつけ合う二人の間に、人影が割って入る。尾崎さんだ。両手を使って、二人を引き離す。
「何か騒がしいなと思ったら、こんなことになっていたとはね。白熱するのはいいけど、議論と喧嘩は違うよ?」
「それは、分かってるけど……」
年上の男性に諭され、羽生さんの熱が急速に下がっていく。
「分かってない。確かに、真相究明のために過去を暴かなければならない、とは言ったよ? 過去を暴くってことは、傷をえぐるってことだ。どうしたって、痛さが伴う。だけどそれも、真実を知るためには必要なことなんだと、私は確かに言った。だけど、えぐった傷口に塩を塗りこめとまでは、言ってない」
二人の顔を交互に見ながら、尾崎さんは言う。この口調は相変わらず穏やかなのだけど、気のせいかいつもよりも饒舌な気がする。
「簡単に言うと――二人とも、言いすぎだ。ここは、感情をぶつけ合う場ではない」
バツが悪そうに顔を伏せ、羽生さんは今度こそ踵を返す。
「……ちょっと、頭冷やしてくる」
去って行く羽生さんの姿は、すぐに階段室に隠れて見えなくなる。
「オレからは、謝るつもりねェんで」
大介君は大介君で、雑誌で顔を隠し、漫画の続きを読み始める。気まずくなったわたしは、尾崎さんと一緒に円卓に戻った。
「なかなか、難しいもんだねえ……」
しみじみとそう吐き捨てて、グラスを一気にあおる尾崎さん。
「私も長年コンビニ店長なんてものをやってきたが、やはり、パートやバイト同士の人間関係ってのが、一番気を使うね。そりゃ、みんな気持ちよく仕事をしたいのは当然なんだから、コミュニケーションをとりつつ、お互いの落としどころ、妥協点を見つけていくしかないんだろうが……。今回は、それと同じという訳にはいかない。何せ、殺人事件を解決しようと言うんだからね。しかも、被害者は我々自身だ。冷静ではいられないよ。各々の立場を理解しようにも、記憶がないのでは、その立場すら危うい。うまくはいかないよ」
やはり、いつもより口数が多い。顔も、ずいぶんと血色がいい。いや、血色がいいと言うよりは――赤い。
訝しげに見るわたしの前で、尾崎さんは傍らの缶を傾け、褐色の液体をグラスに注いでいる。
「……何、飲んでいるんですか?」
「ん、これかい? ビールだよ」
さらりと答える彼の姿に、虚を突かれてしまう。いや、本当は、缶のラベルを見た時点で気付いてはいたのだけれども。
「お酒、やめたんじゃなかったんですか?」
「それは生前の話さ。よくよく考えてみれば、私はもう死んでいるんだ。依存症も何もない。幸か不幸か、断酒は殺害直前に破られてしまったしね。別段、無理して我慢することもなかったのさ」
口ぶりはにこやかだけど、わたしはそこに違和感を感じてしまう。
「本当に、それでいいんですか?」
「うん? よく分からないな。悪いことなんて一つもないさ。元々、ビールなんて私にとっては水みたいなものだし、ちょっと飲んだくらいの方が、具合もいいしね。素面でいた時より、頭の冴えもいい。何を今まで我慢してたんだろうと、逆に不思議なくらいだよ」
そんなものだろうか。
数日前、彼は死ぬ思いで断酒したと語っていた筈だけど。二度とアル中地獄に戻らぬよう、自制心を強くしてアルコールを遠ざけていた筈、だけど。
死んでしまったから、だろうか。
死んでしまったら、全ては終わるのだろうか。
死んでしまったら、全ては許されるのだろうか。
いや。
いやいやいやいや。
やっぱり、違う。
私たちは今、生前の『罪の形』を探して、データ収集と議論に勤しんでいる。『罪の形』こそが殺害の動機に繋がっているという、尾崎さんの仮説を信じて、だ。そしてその尾崎さんは、過去にアルコール依存症だったことが、『罪の形』になるのではないかと、自ら推測した。
それなのに。
今、尾崎さんは罪の形そのものであるアルコールを――ビールを、口にしてしまっている。依存性のあるなしとか具合の良し悪しなんか別にして、これは、間違っていると思う。
「――正直、飲まないとやってられないんだよ」
わたしの視線にトゲを感じたのか、途端に口調が弁解じみてくる。
「いつだったか、鹿島君が話題に出した、畑中繁という男のことを覚えているかい?」
「クレーマーの――」
「そうだ。相変わらず記憶は戻らないんだが、気になったから詳しく調べてみたんだよ」
そしたらこれが、とんでもない男でね――。
グラスを一気にあおって、尾崎さんは続ける。
「大まかな概要は、鹿島君が説明した通りだ。あの辺り一帯では有名な人物だったらしい。コンビニ、書店、ゲーム屋、レンタルビデオ屋、各種飲食店――そういう場所を頻繁に利用し、店員や店のほんの些細なミスをあげつらい、執拗なクレームを繰り返す。それも、ただのクレームじゃあない。一週間でもっとも混雑する曜日、時間帯を狙って訪問し、店員を捕まえて何時間でも粘る。決して金品を要求したりはしない。ただ、誠意を見せろと繰り返す。少しでも隙を見せようものなら、すかさず言質を取られて、何度も何度も繰り返し謝罪を求められる。その一方で、本部の方にはしっかりと報告。店側がされて嫌な事を全て計算づくで行う、最も忌み嫌われるタイプの男だったらしい」
その概要は、以前鹿島にも聞いた。そしてその時も思った疑問を、思わず口にしてしまう。
「何のためにそんなことを……」
「復讐、なんだろうね」
さらりと口にする。空になったグラスには、新しく出現させた缶ビールを注いでいる。さっきまで飲んでいたビールの空き缶は見当たらないから、これで何本目なのかも分からない。
「復讐って、誰に対してのですか」
「接客業に対してのさ。この畑中という男はね、今でこそ派遣で工場勤務となっているが、二年前までは某有名ファーストフード店の店長を勤めていたらしいんだ」
そんな人物が、何故。
「仕事ぶりは真面目だったらしいんだが、元々向いてなかったんだろうね。長時間労働による過労と、度重なるクレームによるストレスで鬱病を患い、自主退職している。まあ、ここまではよくある話だったんだが――この男の場合、それでは終わらなかった。クレームに神経を磨り減らしていたファーストフード店長は、一転、最悪のクレーマーへと成り下がった。全て、自分を苦しめた接客業というモノに復讐するためだ」
注いだばかりのビールを、ぐびぐびと喉を鳴らしながら流し込んでいく。ビールなんて飲んだことないけど、そんな飲み方で大丈夫なんだろうか。
「ふざけた男だよ。本当に、ふざけた男だ。そりゃ、辛いのは分かる。苦しいのも、分かるよ。だが、大の大人ならば、そんなのは自分で折り合いをつけるべきことだ。周囲の人間には関係ない。腹立たしいよ。私はこういう、被害者面した負け犬ルサンチマンが一番許せないんだ」
普段温厚なこの人が、ここまで怒りを露わにするのも珍しい。手にしている缶を握りつぶしそうな勢いだ。酒のせいだろうか。いや、逆だ。湧き上がる怒りを、酒の力で抑えているんだ。飲まなければやってられない、というのはそういう意味なんだろう。
「それ以上に情けないのは、もしかしたらこの男が私を殺した犯人かもしれないということだ。逃亡してるのか、どこかに潜伏しているか分からないが、一刻も早く身柄を確保してもらいたいものだね」
私たちは、ここから動くことすらできないのだから――。
そう吐き捨て、残ったビールを一気に流し込んでいったのだった。