ネカフェ考察
ここに来て、話が少し進展したようだ。
話の中心は、第一の被害者、尾崎潤一。彼は皆のフィルター解除に役立てばと、率先して自分の身の上話を始めた。重度のアルコール依存症だったという、過去。
それが今回の事件――特に尾崎さんの死体からアルコールが検出された件にどう関わっているかは、分からない。彼本人の言うように『罪の形』を表したのかもしれないし、そうでないかもしれない。全く関係のない可能性もある。
それよりもわたしの関心を引いたのは、鹿島さんが話したクレーマーの方だった。畑中繁。陰険で粘着質なクレーマーで、尾崎さんの店も被害に遭っていた、らしい。現在、行方不明。
問題なのは、尾崎さんがそのことを全く覚えていないという点だ。記憶の欠如は事件の関与と深く関わりあっている。この男が尾崎さん殺害に関わっているのは間違いない。
円卓の上に置かれた畑中の顔写真を、ぼうっと見つめる。
その横には、羽生さんの手を刺していったという、狐顔の男の似顔絵。二人は似ても似つかない顔つきだが、重要参考人という点では一致している。以前、大介君は複数犯説を提示していた。この二人が、そうなのだろうか。
いくつもの情報が頭の底に沈殿し、ぶくぶくと泡を立てて発酵を始める。そのいくつかはぷかりと浮遊し、表面に出る直前で再び沈んでいく。
アルコール依存症。
クレーマー。
コンビニオーナー。
酒。
通り魔。
殺人未遂。
右手。
ナイフ。
――あ……。
濁りきった頭の中で、一つの像が形を結ぶ。やっと気付いた、違和感の正体。何で――
「せっかくですから、オレの考えも聞いてもらっていいッスか?」
何かを思いついたその時、横で大介君が立ち上がる。やはり少し疲れているようだが、表情は明るい。この子も重大な何かに気付いたんだろうか。わたしはさっき自分が気付いたことを忘れないよう、強く記憶に刻み込む。
「なに、今度は大介クン? 今日は次から次へ、確率変動中ねえ」
円卓に両肘をつき、半身を倒す。何だかとてもアンニュイだ。
「是非とも聞かせてくれ」興味を示したのは尾崎さんだった。今の今まで頭を抱えていたのに、もう回復したらしい。
「さすが店長、切り替えが早いわねえ……」
「いや、正直言うと、まだ混乱している。だから、別の考えを聞いて整理したいんだよ」
「余計に混乱しなきゃいいけどね……」
溜息を吐く羽生さん。
遠くで、潮騒が聞こえる。
「じゃあ早速始めますけど――とりあえず、場所を変えましょうか」
言うのと同時に、潮騒の音がぴたりとやむ。
代わって聞こえてくるのは、街の雑踏。
無数の足音、車のエンジン音、店のBGM、喧騒、人いきれ。
浜辺に置かれていた筈の円卓は、何故か今は繁華街の路上に置かれていた。周囲には、居酒屋のチェーン店などが軒を連ね、さらには多くの通行人が絶えず行き来している。
「また、ガラリと変えてきたね……」
星空の草原、遠州灘の浜辺と来て、次は都会の繁華街。あまりにも変化が劇的すぎて、若干ついていけない。
「大介クンって、埼玉の子なのにこういう感じが好きなのね……」
「別に、落ち着くとか集中できるとかって理由で場所変えたんじゃないスよ」つまらなそうに大介は答える。「あと、さりげなく埼玉ディスんのやめてください」
ディスる――全く聞き慣れない動詞だが、文脈から考えて、disrespect――『否定する』とか『貶める』という意味なのだろう。最近の中学生はこういう表現をよくするのだろうか。あまり年は変わらない筈なのに、ジェネレーションギャップを感じてしまう。
「見て分かンないスか? ここ、鹿島サンの死体が発見された場所じゃないですか」
言われてみれば、確かにそうだ。目の前、雑居ビルの谷間の部分、幅一メートルに満たない狭い路地が続いている。あの奥の場所で、鹿島さんの絞殺死体は発見されたのだ。
「そうッスよね、鹿島サン」
「……俺に聞かれても、記憶がないからよく分からないけど……資料によると、そうなってるね」
さすがの鹿島さんも、大介君が何を始めようとしているか見当もつかないのだろう。やや困惑した面持ちで答えている。
「死体が見つかったのが午後十一時すぎで、死亡推定時刻が午後八時から九時の間。被害者の当日の足取りは分かっていない――でしたよね。オレ、ずっと気になってたんスよ。鹿島サン、この日何をしてたんだろって」
「それに関しては警察も調べてはいるらしいが、未だにはっきりとは分かってないようだね」資料を確認しながら、尾崎さんが言う。「一人暮らしの学生じゃ、それも仕方ないことだとは思うが」
「でも、オレ一つ思いついたんスよ。今までずっと、被害者は犯人にケータイで呼び出されて殺されたんじゃないかって考えてた訳じゃないスか。だけど、もしかしたら違うんじゃねえかと思って」
「違うって……呼び出されたんじゃなくて、鹿島クンは最初からそこにいたってこと? こんな、薄汚い路地裏に?」
「ちげーよ、センセー。ここはあくまで発見現場――殺害現場じゃないスか。鹿島サンは多分、建物から出たところを引き込まれて襲われたんじゃねえかって、オレは思ったんです。んで、この辺で鹿島サンが出入りしそうな店とかねえかなって探してたら、あったんスよ。すぐ真横に」
「真横……?」
路地裏の左右を見渡すけど、居酒屋やパブなど、あまり鹿島さんには似つかわしくない店が並んでいるだけだ。皆が分からないでいるのを察したんだろう。大介君は円卓から路地に移動して、ビルの壁をペタペタと叩く。
「ほら、ここッスよ。鹿島サンの死体が背中をつけていた雑居ビル、一階にネットカフェがあるんスよ。もしかしたら、直前までそこにいた可能性もあるんじゃねえかなって、オレは思ったんです」
「こんな所にネカフェなんてあったんだ……」
「いや、それも含めて警察は調べたんだと思うが……」
思い思いの感想を口にする羽生さんと尾崎さん。当事者の鹿島さんは、黙って大介君の話に耳を傾けている。
「まあ、警察も調べたかもしンないスけど、見落としとかってあるじゃないですか。だからオレ、当日の監視カメラ、チェックしてみたんスよね」
恐ろしく根気のいる作業だ。実際は、新しく取り入れられた動画機能を有効活用したかっただけではないんだろうか。いずれにせよ、この状況で自ら名乗り出るということは、何らかの成果が出たということなのだろうけれども。
「結論から言うと、鹿島サンは見つかんたなかったッス。そりゃそうッスよね。警察もそこまで間抜けじゃねーってことで」
結論から言うと宣言した割に、結論を言っていない。
だから、何だと言うんだ。
「その代わり――ちょっと面白いモノが見つかったんスよ」
これなんスけど。
大介君が右手を広げると、その先にスクリーンサイズの大画面が出現する。映し出されているのは、ネットカフェの入口らしき場所を俯瞰で捉えた映像だった。モノクロで画質は悪いが、それでも客や店員の顔はかろうじて判別できる。
「ネットカフェ『オリーブ』のレジ台前の映像です。基本、利用客は来た時にここで受付をして、帰るときにここで精算することになります。会員登録には身分証の提示が必要で、会員証を見せると利用代金が割安になるみたいッスけど、一回限りのビジターでも利用は可能ってことです」
「大介クン、店の利用規約とか、別に興味ないんだけど……」
円卓に両肘を突いたままの姿勢で、羽生さんがツッコミを入れる。
「や、ここからが本題ッスよ。――と、その前に、一つだけ。センセー、ここの店、利用したことあるんスか?」
「え? ないわよ。蒲田にもネカフェくらいあるし」
「一度も?」
「しつこいな。ないものは、ない――って、え?」
言っている途中で、身を起こす。何かに気がついたようだ。
同時に、わたしも気が付いた。
尾崎さんや鹿島さんも同様だったのだろう。皆、食い入るようにして画面を注視している。
「じゃあ――これは、誰なんスかね?」
映像は動き続けていた。
受付の前に、トートバッグを提げた一人の女性が立っている。
地味なキャップを目深にかぶっているため、目元は分からないが、注意深く見れば、それが誰であるかは明白だ。特徴的な丸顔、あまり高くない鼻梁に、大きな口――。
「……あたし?」
どう見ても、羽生さんだった。
たった今、新宿のネカフェには行ったことない、と断言したばかりなのにである。他人の空似にしては、似すぎている。
「監視カメラによると、この映像は六月八日、午後六時四十二分のモノです。この後、午後九時十五分に精算して退店するまで、この人物は一時退店などはしていません。……もう一度聞きます。センセー、この日、この店に行ったこと、本当に覚えてないんスか?」
「……覚えてない」
だとしたら、それの意味するところは一つだ。
「如月さんが鹿島君の事件に関わっている、ということかな?」
尾崎さんが皆の考えを代表して口を開く。異論を唱える人間は、誰もいない。慌てたのは羽生さん本人だ。
「あたしが鹿島クン殺した犯人だってこと!? 冗談はやめて。何であたしが、見ず知らずの鹿島クンを殺さなきゃいけないのよっ!」
「誰もそんなこと言ってないじゃないッスか。センセー、暴走しないでくださいよ」
「別に暴走じゃないでしょ。現場真横の店に、死亡推定時刻ジャストの時間にいたってことは――あれ?」
言っている途中で、おかしなことに気が付いたらしい。
「そうッスよ。センセーに犯行は不可能ッス。死亡推定時刻は八時から九時の間で、センセーが店にいたのは六時四十分から九時十五分の間――店には従業員用の勝手口を使う以外は、絶対に入口のレジ台前を通らなければいけないんです。でも、店員にも見られず、監視カメラにも映らずに通過することは、絶対に無理。つまり、センセーだけは絶対に犯人ではないってことです」
「だけど、事件には関係しているんだよね?」
今ひとつよく分からない状況を整理するように、尾崎さんが必死に進行役を買って出る。この人は追及したりされたりするよりも、こういう役回りがよく似合っている。
「そうッスね――ここからは完全にオレの想像ですけど――多分、センセーは何かを目撃しちゃったんじゃないッスかね?」
「あたしが、目撃者ってこと? ネカフェの中で何を見たってのよ」
「それは分かりませんよ。犯人が何かやってるトコかもしんないし、殺す瞬間を目撃したのかもしんねえし。んで、目撃者の口封じをするために、センセーは消された――」
例の狐顔の似顔絵を手に、大介は淡々と自分の推理を話す。
「あたしの事件は、想定外の出来事だったって訳?」
「そう考えると、未遂事件があったのも、一つだけ殺害方法が違うのにも、説明がつくじゃないッスか。如月羽生殺人事件は、本当は連続殺人の一部じゃなかったんスよ」
「……でも、文字は残されてたわよ?」
「んなもん、連続殺人だと思わすためのカモフラージュに決まってンじゃないスか。木を隠すなら森の中ッスよ」
今回の大介君は少しテンションが高い。疲れているのか、自分の発見に興奮しているのか――恐らくはその両方だろう。いつもだるそうにしている彼が自信満々にそう言うと、そんな気もしてくるから不思議だ。
「一つ、いいかな」
沈黙を破り、鹿島さんが口を開く。自分の事件の話をしていると言うのに、眼鏡の奥の双眸は相変わらず怜悧に光っている。
「何スか。また反論ッスか」
「また反論だね。今の推理、いくつか疑問点がある」
「例えば?」
「桐山は、如月さんが口封じされたのは、店内で犯人が何かをやっているところを目撃したためだと説明した。あるいは、犯人が殺人を犯す、その瞬間を目撃したのかも、とね」
「オレの想像ッスけどね」
「想像としては面白い。だけど、現実的ではない」数学問題を解くみたいに論理的な口調で鹿島さんは続ける。「通常、ネットカフェというのは半個室の形で区切られている。仮に犯人がその内部で何らかの工作をしていたとして、それが目撃される危険性は非常に低い筈だ」
「個室でやったとは限らないっしょ」
「個室の外なら、尚更だ。不特定多数の人の目がある場所で、見られたら口封じをする必要に迫られる何かをやっていたとは、到底思えない。犯行の瞬間を目撃した可能性に至っては、もっと薄いと断言できる。死亡推定時刻、如月さんはずっと店内にいた。そこで犯行を目撃したと言うのなら、当然犯人も店内にいたことになる。店内にいながらにして、路地裏にいる俺を絞殺することはできない」
「それなんだけどね」
流れるように語られる反対意見にストップをかける人間が現れた。尾崎さんだ。
「本当に、店内にいながらにして外の人間を殺すのは不可能なのかな。この点、もっと検証してもいいと思うんだけど」
「店長、やっぱりあたしが犯人だって言いたいの?」
すかさず、羽生さんが噛み付く。
「そうじゃないよ。如月さんは、殺人の瞬間を目撃したかもしれないんだろう? 犯人は、そこにいた訳だ。だったら、店内からの殺害トリックを考えてみたって損はない、という話をしているんだよ」
可能性を積み重ねていくうちに、何やら妙な雲行きになってきてしまった。
「トリックって……どう考えたって無理っしょ。超能力者じゃないんスから」
「いや、抜け道は、あるんだ」
言いながら手をかざす尾崎さん。周囲の光景が、路地裏の奥へとズームインする。数秒もかからず、一同は鹿島さんの死体発見現場の目の前へと移動していた。
「鹿島君は、ネットカフェ側の壁に背中をあずけ、地面に腰掛けるようにして絶命していたんだったね」
「……いや、俺に確認を求められても困りますが。確かに、資料ではそうなっているようです」
「あそこを、見てほしい」
彼が指差す先、地面から二メートル程の高さに、小さな窓がある。幅一メートル、高さ三十センチくらいの換気窓だ。小柄な人間でも通り抜けるのは大変そうだけど、ご丁寧なことに鉄格子まで嵌められている。客が精算せずに脱走するのを防ぐためだろうか。
「この窓は、男女共用トイレの個室にあるものだ。利用客ならば誰でも入ることが出来る」
「この窓を使ったって言いたいんスか? 無理っしょ。出入りができないのはもちろんッスけど、腕を伸ばすにしても、窓のある位置が高すぎて届かないですもん」
「手は無理でも、ロープなら届かせることができるよ」
窓の前に立ち、どこか泰然とした態度で自説を展開している。
「どういうことッスか?」
「例えば、便座なり何なりを足場にして窓の内側に付き、そこからロープを垂らして、鹿島君が頭を突っ込んだ隙に勢いよく引っ張り上げる、というのはどうだろう。そうすれば、店内にいながらにして、絞め殺すことは可能になる。死体があった位置もちょうどいいしね」
「何が悲しくて、わざわざ自分からロープに首を突っ込まなきゃいけないんスか。殺して下さいって言ってるようなモンじゃないスか」
大介君が呆れている。同感だった。
「方法なら工夫すればいい。例えば、電話で誘導するという手もある。窓の真下に来るように指示し、タイミングを見計らってロープを垂らした、というのはどうだろう」
「鹿島さん、どう思います?」
「電話中に上からロープが下りてきたら、手で払いのけるな」
若手二人は容赦がない。とは言え、口にこそ出さなかったけど、わたしも同じ考えだった。鹿島さんに意識があって、自由意志で動いている以上、頭上の小窓を使って絞め殺すのは現実的でないように思える。
「第一、それでは現場の壁に文字を残すことは不可能です。携帯の回収も同様で、トイレの個室からでは無理でしょう」
「うーん、悪くない考えだと思ったんだが、駄目か……」
口では残念がっているけど、その態度に落胆の色はない。あくまで思い付きを検証してみたかっただけなんだろう。
「あー、もう」話が一周したところで、大介君が声をあげる。
「何だか、取っ散らかってきちゃいましたね……オレら、何の話してたんですっけ……」
溜息とともに、ツンツンに立てた頭をクシャクシャをかきむしっている。ここに来て疲れが出たようだ。
「俺が殺された時間、すぐ横のネットカフェには如月さんがいた。そのことを彼女は覚えていない。それは何故か、というのが命題だ」
「……物の見事に、三行でまとめてくれたわね……」
苦笑しながら、呆れ半分で感心する羽生さん。鹿島さんはこの中で唯一の理系人間。分析解析要約解読はお手のモノなんだろう。
「分かりましたよ……。鹿島サンの言うとおり、オレのところから間違ってたんスわ。センセーは別に、犯人が何か工作するとか、犯行の瞬間だとかを目撃した訳じゃないってことッスね」
「じゃあ、あたしは何で殺されたのかな? 鹿島クンの件とは無関係ってこと?」
「いや、如月さんの記憶が失われている以上、ネカフェにいたことが何らかの形で事件に関わっているのは間違いないよ。やはり、犯人に不都合な何かを知ってしまったがために消されてしまった、と考えるのが自然だ」
円卓を囲みながら喧々諤々とした議論を交わす四人。
わたしだけが、そこに参加できずにいる。
自分だけが。
――いや。
その時、天啓とでも呼ぶべき閃きが、わたしを襲う。大介君が発言する前に気が付いた違和感と、先程から続いている命題が刹那の間に有機的に結びつき、明確な像を結ぶ。
そうか。そうだったのか。
瞬息の間に言うべき内容をまとめ、意を決して口を開いた。
「あ、あの……っ」
だけど、口から出た言葉は意に反して、どこか間抜けな響きを帯びていた。八つの瞳が自分一人に集中し、その緊張に耐えられずに慌てて顔を俯ける。
「ん、どうしたの瑞穂ちゃん。何か、いいことでも思いついた?」
こういう時、意を汲んでくれるのは決まって羽生さんだ。その優しさに、わたしは身を委ねる。
「あ、はい。あの、わたし、一つ思いついたことがあるんですけど」
「聞こう」尾崎さんがゆっくりと手を組む。
「えっと、あの――」
どうも、意味のない接続詞ばかりが多くなる。頭の中で言うべきことを再構築し、自説展開を始める。
「羽生さん、何かを見たんじゃなくって、何かを拾ったんじゃないでしょうか」
「……それは、犯人にとって不都合なものを、ということかな」
そう言う尾崎さんの目を、勇気を奮い起こして正面から見据える。
「そうです。凶器とかの物的証拠、犯行計画を記したメモ――もしくは、それらの入った鞄か、何か」
「それ、そのまま持ち去っちゃったってこと? 普通、落し物を見つけたら店なり交番なりに届ける筈じゃない? それじゃ、あたしが置き引きしたみたいだけど……」
「いえ、そういうつもりはなかったんだと思います。羽生さん、トートバッグを持って入店してますよね? 犯人も似たようなバッグを持っていて、それが何かの拍子に入れ替わっちゃった、とは考えられないですか?」
「……まあ、有り得ない話ではない、のかな?」
首を傾げる羽生さん。無理もない。ここまでは完全なる空想だ。
「原田さん」鹿島さんの鋭い声が、新宿の路地裏に響く。「根拠があるなら、聞かせてもらいたんだけど」
「もちろん、あります」
待ってましたとばかりに立ち上がり、資料の一つを掲げる。
「これ、未遂事件の時の、羽生さんの怪我の診断書です。皆さん、『右手を刺された』とだけ言っていたので、わたしも深くは考えなかったんですが――『右手の甲から手の平にかけて刺傷(貫通)』ってなってるんですよね。つまり、羽生さんは手の甲を刺されたってことです。これ、よく考えるとおかしくないですか?」
言って四人を見渡すけど、これといった反応はない。仕方がない。再現だ。
「大介君、ちょっと立ってもらっていい?」
「いきなり何スか……」
戸惑いながらも、素直に立ち上がる大介君。彼の前に立ち、手を後ろ手に組む。鋭利なサバイバルナイフをイメージすると、右手にはしっかりとしたグリップの感触。大介君に向かって一歩を踏み出しながら、大きくナイフを振り上げる。
「えっ! ちょっ!」
突然の行動に度肝を抜かれたのだろう。慌てて右腕を前方に突き出し、顔と体を庇っている。
「――ほら、いきなり襲われたら、今の大介君みたいになる筈なんです。この時、犯人に対して手の甲じゃなく手の平を見せる形になりますよね。切りつけられたにせよ刺されたにせよ、手の甲を怪我するってのは、ちょっと考えにくいんです」
「だけど、あたしは実際に、手の甲を刺された……」
顎に手を当てて、羽生さんは考えている。その後ろでは「オレを実験台にしないでくださいよ……」と、大介君がむくれながら席に着いている。
「そうです。では、どんな状況だったら、こんな怪我をするのか――わたしは、荷物を体の前に抱えていたんじゃないかって、考えたんです。犯人は最初、羽生さんに、持っている荷物をよこせと脅迫した。だけど羽生さんはそれには応じず、自分の――実際には、犯人のと入れ替わってるんですけど――バッグを取られまいと、体の前で抱え込む姿勢をとった。どうしても取り返したい犯人はナイフを取り出し、羽生さんの右手に突き刺した。痛みとショックで手が離れた隙を狙って、バッグを奪還して逃走――だいたい、こんな流れだと思います」
「原田さんの説によると、如月さんのバッグはネットカフェで入れ替わったんだよね?」
穏やかな口調で尾崎さんが尋ねてくる。
「鹿島君が殺されたのが六月八日で、如月さんの未遂事件が起きたのが七月十日だ。この間、一ヶ月近く空いている。さすがに、如月さんもバッグが入れ替わったことには気が付いていた筈なんだ。それなのに、警察にもどこにも届けることをせず、他人のバッグを持ち続けている。これは少し、おかしくないかな?」
「それは想像するしかありませんが……如月さんには如月さんの考えがあったんだと思います」
「あたしの、考え?」
羽生さんんの眉間にシワが寄る。無理もない。自分もことなのに、何も分からないのだ。これほど歯痒く、気味の悪い話もないだろう。
「バッグには、犯人を特定する何かが入っていた――如月さんは連続殺人犯に関する重要情報を掴んでいた筈なんです。なのに、警察にも届けず、誰に明かすこともなく、自らの胸の内に収め続けた。何かを、しようとしていたのかもしれません」
「まさか、センセー一人で犯人捕まえようとしていた、なんてことはないスよね」
「それはない。あたしはそんなキャラじゃない」
大介君の言葉を、彼女は強く否定する。
「本人が言ってるんだから間違いないわ。それならまだ、漫画のネタにしようとしていた、って考えた方が自然かもね」
「漫画のネタ、ですか」
「リアルなんてのは、創作の肥やしになるためにあるものなのよ。漫画家の実生活なんて地味そのものだけど――そんな刺激的なネタに巡り合えたのなら、それを独り占めしようと考えたとしても、おかしくないかもね」
自ら危険な目に遭ってまで、創作のネタを持ち続けた、ということか。理解できない世界だが、プロの漫画家というのはそういう人種なのかもしれない。
「あくまで、そう考えることもできる、って程度だけど」
「うん、如月さんの行動に関しては、それでもいいだろう。少し話を整理するよ」
穏やかな口調はそのままに、手を組んだまま少し前傾姿勢になって、尾崎さんは静かに話し始める。
「鹿島君殺害前後に、犯人は真横のネットカフェにいた。しかし、そこにたまたまいた如月さんとぶつかって、犯人特定に繋がる重要証拠が入ったバッグが、彼女のそれと入れ替わってしまう。如月さんはそのことに気がついたが、漫画のネタにしようとしたか何かで、警察に通報もせずに持ち続けていた。当然、犯人は如月さんを追い始め、何らかの方法を使って彼女の住所を突き止める。そして七月十日、犯人は路上でバッグ奪還を試みたが、如月さんの抵抗に遭い、ナイフで右手を刺すという強硬手段に出る。バッグは持ち去られ、如月さんは次の標的に選ばれる。結果、その三日後に、彼女は心臓を一突きにされて殺害されてしまう――と、こういうことかな?」
「多分、それで合ってると思います」
前にも思ったことだが、このコンビニ店長は恐ろしく理解が早い。かつては建設会社のエリートだったという話だし、元々頭はいいのだろう。
「あたしのは、想定外の殺人だったってことね。たまたまバッグが入れ替わって、そしてそのことを創作のネタにしようとしたばっかりに、あたしは本来の標的ではないのに、殺されてしまった……」
「そうと決まった訳ではないけどね。あくまで、原田さんの説だ」
申し訳程度に尾崎さんはそう添えるが、その表情からは、この説こそが真実だと確信しているように感じられる。
わたしの思い過ごしかもしれないけれど。
「鹿島君は、どうかな? 今の話を聞いて、どう思った?」
いつも鋭い反論を展開する鹿島さんに話を振る尾崎さん。
「――面白い説だと思います。多少論理が飛躍しているし、空想の占める割合が多いのが気になりますが、筋は通っている。積極的な反論材料が見つからない、というのが正直なところです」
瞬間、体がフワリと軽くなった気がした。
「瑞穂ちゃん、すごーい」
羽生さんがパチパチと手を叩く。
わたしは、照れ臭くて顔を伏せる。
本当は。
突然訳の分からないところに放り込まれて、訳の分からない状況説明をされて、訳の分からない連続殺人事件の真相解明をすることになって――ずっと、不安だった。
自分には無理だと思っていた。
だけど。だけれど。
粘り強くデータを詰め込み、議論を重ね、思考を続けて――それで、導かれる真実も、あるんだ。
わたしたちは、これでやっていけるんだ。
「……少し、休憩をしよう」
薄い頭に手をやって、尾崎さんがそう言う。
「この短期間に、色々なことが分かってきた。それ自体は非常に喜ばしいんだが……はっきり言って、まだ混乱している。整理する時間が欲しいな」
「賛成。あたし自身のことなのに、結局まだ何にも思い出せていない訳だし」
今回の会議で意外な事実が発覚した二人が、やや疲弊した面持ちで呟く。実際、考えの整理が必要なのは皆同様だったので、他の三人も無言で頷く。
ただ、鹿島さんが難しい顔で顎に手を当てているのだけが、少し気にかかったけれど。