とある告白
「ちょっと、聞いてもらえるかな」
尾崎さんの声に、四人全員が顔を上げる。
二日が経っていた。ヒカリに動画機能を教えてもらい、羽生さんの身の上話を聞き、文字に関する捨て推理を聞いてから、ちょうど二日だ。わたしはようやく全てのデータを読み終わり、今は警察が苦労して集めた聞き込みの結果を動画で見返していたところだ。他の四人は、黙々と集中して各々の作業にあたっている。
周囲の光景は、海のまま変えられていない。
どこまでもリアルな、偽者の遠州灘。
潮騒の音だけが響く密閉空間――その沈黙を、尾崎さんが破る。
「聞いてもらいたい話があるんだ」
「何か思い出したんスか?」
あまり期待してない面持ちで大介君が尋ねる。彼は、二日前にスイカ割りに興じたきり、不眠不休の飲まず食わずで調査に没頭していた。死者は疲れも眠気も空腹も乾きも覚えない筈だけど、さすがに疲れたような顔をしている。精神的なモノが大きいのだろう。あの時、ネカフェがどうのとか言っていたみたいだけど、その調査は進んだんだろうか。機会があれば後で聞いてみよう。
「いや、何か思い出したとか、何か分かったとか――残念ながら、そういう類の話ではないんだ。ただその、何と言うか、あまり建設的ではないんだが……身の上話を聞いてもらおうかと、思ってね」
「それは、何のためにですか」
鹿島さんの声は、声量こそ小さいが、鋭く場に突き刺さる。
彼もまた、この二日の間、作業に没頭していた一人だ。無数の資料を手繰り、動画を同時に複数箇所開いて情報を集める姿は鬼気迫っていて、近寄りがたかったのを覚えている。
「うん……この前の、ヒカリ君の言葉を、思い出してね」
「何か言ってたっけ? 無視されたことしか覚えてないんだけど」
羽生さんは通常運転。相変わらず英和辞典と各種データと格闘してはいるが、どこか真剣味が感じられない。もちろん、彼女は彼女で真面目にやっているのだろうけれども。
「動画機能に関してだよ。何故、今頃になって新しい機能を紹介したのか、という問いに対し、彼は『頃合い』という言葉を使った。何が頃合いなんだとずっと考えていたんだけど――もしかしたら、彼は私たちの『覚悟』を待っていたんじゃないか、と思い当たったんだよ」
「『覚悟』、ですか?」
思わずオウム返しにしてしまう。何だか物々しい言い草だ。
「そう。つまり、自らの罪に向き合う『覚悟』だね。その直前の会議で、私が言ったことは覚えているだろう? あの時私は、ここにいる五人は何らかの罪を犯したせいで連続殺人の被害者になったと言った。だからこそ見栄も体裁も捨て、全てがデータに載るよう、心のフィルターを払ってほしい――そう、お願いした筈だ」
この空間では、警察やマスコミが調べたあらゆるデータを閲覧することができる。肝心な部分の記憶が欠如している現状にとって、それは命綱とも言える。
しかし、そのデータとて万能ではない。
本人が知られたくない情報は閲覧できなくなっているのだ。尾崎さんは、便宜的にそれを『フィルター機能』と呼んだ。全てを明らかにするためにはその機能はがネックで、だからこそ、全て包み隠さず話してほしいと語ったのだが――。
「とは言っても、なかなか難しいよね。人間には防衛本能がある。恥ずかしい部分、後ろ暗い部分は知られたくないと思うのが当然だ。そのせいか、データは前からほとんど変わっていない。捜査状況が進んで情報が増えるのを待っている、というのが現状だ」
それでは、駄目だと思うんだよ。
円卓の上で手を組み、尾崎さんは皆の目を順々に見て、そう言う。
「だから、言いだしっぺの私が、先陣を切って自分のフィルターを外そうと思ったんだ。そうすれば、皆も話しやすくなるだろう? いや、わざわざ話さなくとも、心の中で思うだけで、だいぶ変わってくる筈なんだが」
率先して恥部を晒すことで、ハードルを下げようという訳か。
「何よ、店長って、そんなに恥の多い人生をおくってきた訳?」
半笑いで、文豪の有名な一説を引用する羽生さん。
「離婚を除けば、割と順風満帆だったんじゃないの?」
「とんでもない。ドロ船もいいとこさ。こう見えて、難破寸前まで行ったこともあるんだよ。何とか持ち直したけどね」
若干、斜に構えて聞いていた羽生さんと大介君が、姿勢を正す。聞く体制に入ったらしい。鹿島さんは何も言わず、じっと尾崎さんの顔を見つめている。相変わらず、何を考えているか分からない。
一つ大きく息をついて、尾崎さんは話し始める。
「……私はね、今でこそコンビニ店長なんてやってるが、昔からそうだった訳じゃない。若い頃は、とある建設会社で働いていたんだ。いわゆる、大手ゼネコンって奴だね。自分で言うのも何だか、けっこうなやり手社員だったんだよ?」
今の尾崎さんだけを見ると、やり手でバリバリ働いているところなど、なかなか想像できない。
「結婚して、娘ができたのもその頃だ。当時は世間全体が浮かれていたからねえ……それこそ、順風満帆を絵に描いたような生活だったよ。しかし、それも長くは続かなかった。私が三十になった辺りかな……バブルが崩壊して、一気に業績は悪化した。そこからは、坂道を転げ落ちる勢いだったよ」
バブル、か。生まれる前の話だ。わたしの中では、バブルも戦争も明治維新も、皆歴史の中の出来事だ。ただ唯一違うのは、それをリアルに体感した世代が、すぐ近くにいるということで。
「何年かは持ちこたえたが、結局、会社は倒産。私は路頭に迷う羽目になった。そこで心機一転やり直して、再就職先でも何でも見つければよかったんだが――私は、自分で思っていた以上に弱い人間だったらしい。家に引きこもって、朝から晩まで、酒浸りの日々を送るようになった。それも、半端な量じゃない。変に酒に強いのもよくなかったんだろう。一升や二升なんて、ざらだった」
「よく、体壊さなかったわね……」
羽生さんが目を丸くして驚いている。確かに、尋常な量ではない。
「壊したんだよ。完全なアルコール依存症。アル中だ。そのせいで何度も入退院を繰り返した。これでは駄目だと思いつつ、どうしても誘惑に勝てない。今日は一杯だけ、と思いながら、一度飲み始めると加速がついて止まらなくなる。地獄だったよ。あの時はもう、生きているのか死んでいるのか、自分でも分からない状況だった」
今だって生きているか死んでいるか分からないじゃない、なんて茶々が羽生さんから入るかと思ったが、さすがにそこは自重したようだ。黙って尾崎さんの話を聞いている。
「妻が娘を連れて出ていったのも、その頃だ。当然だね。働きもせずに一日中酒をあおっている男と一緒にいたい人間なんていない。私の酒狂いは、ますますひどくなった……」
「でも、最終的にはよくなったんスよね?」
大介君が心配そうに聞いている。
「……まあね。貯金もなくなってきていたし、そのままでは富士の樹海直行コースだ。民間の断酒会に入って、それこそ、死ぬ思いで断酒したよ。とは言っても、簡単に再就職先は見つからない。そんなところを拾ってくれたのが、先代のオーナーだった」
「先代がいたのね」
「そりゃそうさ。ド素人にコンビニのオーナーなんて務まらない。接客の基本からコンビニ経営のイロハまで、十年余りで徹底的に叩き込まれたよ。私は運がいい。人生のどん底を味わいながらも、人脈には恵まれていたようだ。オーナー然り、歴代の本部SVしかり――もちろん、パートさんやバイトの皆も同様だ。まあ、従業員に関しては、本当に信頼できそうな人間しか雇わなかった、というのもあるけどね」
アル中から心機一転してコンビニオーナー、か――人に歴史ありとは言うものの、聞いてみなければ分からないものだ。
感心すると同時に、わたしは一つの違和感に気が付く。それは羽生さんも同時だったらしい。こめかみに指を当てながら、尾崎さんに尋ねる。
「……あのさ、ちょっと、変じゃない?」
「何が、かな」
「アルコール依存ってさ、断酒に成功して、それが数年、数十年続いたとしても、たった一滴のお酒で全部水の泡になっちゃうって聞いたことがあるんだけど……」
「そうだね。さすがに一滴は大袈裟だが、まあ、おおむねその通りだ。アルコール依存から抜け出した人間は、生涯酒を口にしてはならない。これは大原則だね」
「だとしたら、死体から微量のアルコールが検出されたってのは、どういうこと?」
それだ。
わたしも、その点がずっと引っ掛かっていた。アルコール依存は、克服したのではなかったのか?
「……それは、私にも分からない。断酒は続いていて、二十年以上、文字通り一滴の酒も飲んでいなかった筈なんだが……」
尾崎さんも頭をひねっている。アル中の記憶はあっても、依然としてその部分の記憶は失われたままらしい。
「前に言ってた、嗜む程度に飲むって話は、嘘なのね?」
「そうだね。あの時は、昔アルコール依存だったってことは隠そうとしていた。だから、ついそんな嘘を吐いてしまった。実際は、ビールの一本も口にしたことはないよ。少なくとも、覚えている限りではね」
つまり、覚えてない部分――事件に関係するところで、酒を飲んだということか。どういうことだ、それは。
「犯人に飲まされたってことッスかね」
腕を組んだ大介君が、そんなことを言い出す。
「絞め殺す前に、無理やり飲まされたってこと? 何のために、そんなことするのよ?」
「オジサンをアル中に戻すためッスよ」
「だから、それは何のため?」
「ンなこと、オレに分かる訳ないじゃないスか。犯人には、犯人の理屈があるんじゃないですか?」
「理屈って……あたしが言うのもアレだけど、それはちょっと飛躍してない?」
飛躍した推理ばかり口にしているという自覚はあったらしい。しかし、意外な人間が大介君の説を肯定する。尾崎さん本人だ。
「いや――私もずっと考えていたんだが、アルコールが検出されたのは、やはり、犯人が無理やり飲ませたと考えるのが、一番しっくりくると思う。それも、私をアルコール依存に戻すという目的のために、だ」
「ちょっと待ってってば。意味、なくない? アルコール依存に戻したところで、どっちみち、これから殺す訳でしょう?」
「犯人の中では、意味のあることだったんだよ。形式と言うか――儀式と言い換えてもいいかもしれない。犯人は、恐らく、『罪の形』を表したかったんだと思う」
「かつてアルコール依存症だったってことが、店長の罪?」
「そうだ。我々一人一人は、皆、何かしらの罪を犯している。その罪を形にして表し、その上で殺す。この連続殺人は、そういう性質のモノじゃないかと、私は考えている」
どうも、腑に落ちない。
尾崎さんが言うには、かつてアルコール依存症だったことが彼の罪だと言うけど、果たして本当にそうなんだろうか? 彼がアルコール依存になったことで、傷ついた人間は誰だ。妻のみどりさんか、娘の朋美さんか。いずれも、違うと思う。それに、アル中どうこうは過去の話だ。今になって殺人に発展するとも考えづらい。
死体からアルコールが検出されたことが、尾崎さんがかつてアルコール依存だったことを表してると言うのならば、他の面子はどうなる? 泥酔状態で殺されていた羽生さんは、自分はアル中ではないとはっきり否定している。指を潰されていたわたしは、どうだ? それが、何らかの『罪の形』になるのか?
これらの疑問に答えられない限り、彼の説には賛同できない。ただ、変に角を立てたくないので、決して口にはしないのだけれど。
「鹿島君は、どう思う?」
ずっと黙っているのが気にかかったんだろう。円卓の隅で難しい顔をしている鹿島さんに、尾崎さんは話を振る。
「……身の上話は、さっきので終わりなんですね」
視線を円卓に落としたまま、はっきりとした口調でそう言う。
「終わりじゃ駄目かな。他にもまだ何か、聞きたいことでも?」
一瞬、逡巡するような素振りを見せるが、眼鏡のフレームを指で押し上げ、尾崎さんを真っ直ぐに見据えて、鹿島さんは口を開く。
「『しつこいクレーマー』って、何ですか」
「ん?」
質問の意味が分からなかったようだ。そのまま固まっている。
「尾崎さんの印象を聞いた際、何人かの店員が、『しつこいクレーマーにも、辛抱強く対応してくれた』と言っています。実際に、そういう人間はいたんですか」
「……そりゃあ、お客さんには色んな人がいるからねえ。接客態度が悪いだの、レジで待たされただのと言ってくる人も、いたにはいたが……」
「でも普通、そういうのは一度きりで、クレーマーとは呼ばないのではないですか? 言葉の響きからすると、割と頻繁に店に文句を言ってくる、みたいなイメージを受けるんですが」
「悪い。何が言いたいのか、よく分からない」
それはわたしも同じだった。羽生さんや大介君もそうらしい。皆一様に、鹿島さんの顔を不思議そうに見つめている。
「畑中繁という名前に、心当たりはありませんか?」
「ハタナカ?」尾崎さんの頭上に、巨大な疑問符が浮かぶ。
「知らないな。初めて聞く名だ」
「この男なんですが」
鹿島さんが示す先、浜辺の空に顔写真が映し出される。二十代後半くらいだろうか。やや下膨れの、顔色の悪い男だ。
「……知らない。私の知っている人なのかな?」
「知っている筈、なんですが」
尾崎さんの顔をじっと見つめながら、彼はそう言う。嘘を言っていないか、見抜こうとしているかのようだ。
「いや、本当に知らない。誰なんだ、この男は。鹿島君は、私に何を聞こうとしているんだ?」
「そうですか……」
幾らか声のトーンが落ちる。落胆したようにも、納得したようにも見える。
「では、そろそろネタばらしします。彼――畑中繁こそが、店員たちの言う『しつこいクレーマー』だそうです」
「ええ……?」尾崎さんの顔が歪む。本気で驚いているようだ。
「捜査員が店員にしつこく聞いて、最近やっと判明したことです。尾崎店長の事件とは関係ないと思って、店員たちは揃って口を閉ざしていたようですね」
「あ、あった! これか!」
横で大介君が声を上げる。資料データの更新分のページ。捜査は続いているとは言え、ここ最近は目新しい情報もなかったため、最新分は見落としていたらしい。
「畑中繁、二十七歳。高円寺にある実家に住む派遣社員で、今は工場勤務。かなり粘着質な性格で、周囲の評判は相当に悪いようです。店員の些細な失敗を見咎め、ネチネチと責め立て、何度も執拗に来店する。責任者の言葉の揚げ足をとり、言質をとり、さらに追い込む。全てのやり取りを録音してネットに晒すと脅された人間もいたようです。物を壊すとか暴力を振るうとか、あるいは金品を要求するようなことは一切なく、ただ、クレームのためのクレームを延々と繰り返す。ノイローゼになって倒れた店員もいたようですね」
聞いているだけで気分が悪くなってくる。
「それが……私の店にも?」
「そのようです。何人もの店員が、そう証言しています。応対は全て、尾崎店長が一任していたらしいとのことですが」
「私が……」
腕を組んで考え込んでいる。顔色は蒼白だ。
「覚えて、ないんですね?」
瞬間、鹿島さんの眼鏡が光った気がした。
「全く、記憶にない」
「どういうこと……?」羽生さんが戸惑っている。
「この人が、尾崎さんの事件に関係してるってことですか?」
誰に言うでもなく、呟いていた。久々に喋ったせいで、声がかすれている。
「多分、そうだと思う」
鹿島さんの視線がこちらを向く。鋭い視線をまともに受けて、思わず顔を俯けてしまった。
「じゃあ何よ。この男が、尾崎さんにお酒飲ませて絞め殺したってことなの?」
黙ってしまったわたしに代わり、再び羽生さんが口を開く。
「そこまでは、何とも」
「何でよ。本人捕まえて聞けば済む話じゃない。そこまで調べてあるのに、警察は何をやってるのよ?」
「センセー、ダメッスよ」
新しいデータに目を走らせていた大介君が、情けない声を出す。
「こいつ、行方不明だって」
「えぇ?」
「五月十五日――だから、オジサンが殺される三日前、仕事に行くって家を出たきり、帰ってない。仕事先の人間も、友人知人も、誰もどこ行ったか知らないらしいッス……」
「そんな……」
二人して脱力しているけど、鹿島さんはなおも続ける。
「畑中が尾崎さん殺害事件の犯人なのか、それはまだ分かりません。しかし、何らかの形で関わっているのは間違いない。俺は更新データをチェックしながら、この男に注目していきます」
尾崎さんも、極力思い出すよう、努力してください。
一切の感情を交えない冷静な声に、尾崎さんは混乱したような面持ちで、静かに頷いた。