海
ケースケってさ、好きな女の子とか、いるの?」
隣の圭介が飲んでいたコーラを盛大に吹き出すのが視界に入る。
「お前……急に、何を……」
むせながら、圭介は目を白黒させている。
屋外の運動部にいるくせに肌白で、天然パーマで――馬鹿で。
こんなヤツのどこがいいんだろうと、半ば本気で思う。
「ね、答えてよ。いるかいないかだけでいいからさ」
「い、いねぇよ。んなもん」
僅かにつっかえながら、圭介は答える。そうだと思った。コイツは色気とは無縁のサッカー馬鹿だ。何人か告白した女子がいるとは聞くけど、それで交際に発展したという話は聞いたことがなかった。
「そっか……よかった」
「何がよかったんだよ?」
遠くで、潮騒が聞こえる。そこに、若い男女の嬌声が混じる。目を転じると、一緒に来た友人たちが、浜辺でビーチバレーに興じているのが見える。今日は波が穏やからしく、サーファーたちの姿は見えない。季節外れなこともあってか、人の数自体が少ない。秋口の潮風が頬を撫でるのを快く感じながら、わたしは思い切って本題に入る。
「――マイって、どう思う?」
「は? 奥寺? あー、ま、けっこういいセンいってンじゃね? 割と人気あるみたいだし」
上から目線か。
いや、取り敢えず立場的には上なのかもしれない。いつの時代も、惚れた方の負けなのだ。そんな経験のないわたしには、さっぱり実感の出来ない世界だけれど。
「それに、いい奴だと思うよ。塞ぎ込んでたお前を助けてくれたの、アイツだもんな」
圭介には、裏サイトのことはまだ話していない。話すつもりもなかった。猪突猛進、直情バカのコイツのことだ。書き込んだ犯人を探し出すとか言いかねない。それだけは、勘弁してほしかった。
頭をよぎる暗い過去を振り払い、さらに切り込んでいく。
「マイがね……ケースケのこと、けっこういいと思ってるみたいなんだよね」
付き合ってみる気、ない?
そこで初めて、圭介の目を見る。
見慣れた筈の幼馴染の顔は、驚きで引きつっていた。
「……マジで?」
「マジで」
冗談でこんなこと言うか、バカ。
声には出さず、心の中でそう呟く。
圭介のことが好きだと舞に打ち明けられた時、『ああ、そういうことか』と妙に腑に落ちたことを覚えている。何故、舞がわたしみたいな地味な人間と仲良くなりたがったのか、ずっと疑問だった。分かってみれば、どうということはない。少しでも圭介に近づくための算段だったのだ。倍率の高い圭介を落とすため、大人しそうで御しやすそうなわたしに接触したということなのだろう。
それでもよかった。
最初の動機はどうあれ、今が楽しいのは事実だし、救われたのも、また事実。ある程度の打算が絡んでいたからと言って、そんなのは全く問題にならない。
それに、わたし自身、一切の打算、計算のない人間関係などありえないと思ってる。圭介の存在ありきで今の付き合いがあるのなら、むしろこの幼馴染には感謝すべきなのだろう。
圭介クンに、それとなく聞いてみてもらえないかな――。
二学期の中間テストが終わって、最初の週末。舞のグループは、皆で鎌倉に遊びに行く計画を立てていた。その中には、もちろんわたしも含まれている。さらに、今回はわたしや圭介を介在して、男子サッカー部も数人、参加することになっている。グループデートだとはじゃぐ子もいたが、正直、わたしはあまり興味がなかった。それよりも、海に行けるのが単純に楽しみだったのだ。
舞に相談を持ちかけられたのは、そんな時だった。
彼女の気持ちには随分前から気が付いていたが、はっきりと口に出して言われるのは、これが初めてだった。勝気な反面、恋愛になると臆病になる質なのか、今まで様子見をするばかりだったのだが――ようやく、第一歩を踏み出す決心をしたらしい。
わたし自身は、圭介のことなんてどうも思ってない。そのことは、前もって伝えてある。だからこそ、舞は自分を協力者に選んだのだろう。これで友情関係が持続するのなら、お安いモノだ。
これも、打算なのかな――臆病で卑怯なわたしは、心の中だけで卑屈な笑みを浮かべる。
「そうか……奥寺が、おれのこと……」
何やら考え事を始める圭介。
「相変わらず鈍いよね、そういうトコ。けっこう一緒にいること多かったのに、全然気付かなかったの?」
「全然気付かなかった……」
ダメだ、こいつ。脳味噌は筋肉でできているに違いない。こんな奴に心寄せるだなんて、正直、どうかしている。
「……お前、おれとの仲を取り持つよう奥寺に頼まれたんだよな?」
考え考え、言葉を発している。
「取り持つって言うか――他に好きな子がいないか聞いてって、言われただけ。その後のことは、わたしのお節介。だから、本人には絶対言っちゃ駄目だよ」
一応、口止めしておく。こうしておかないと、何でもペラペラ喋ってしまいそうで、怖いのだ。
「そりゃ分かってるけど――そうか……」
まんざらでもない風の圭介を見て、おや、と思う。今までだったら興味がないの一言で一蹴していた筈なのに。やはり、相手が美少女だと話が違ってくるのだろうか。
「……考えておくわ」
圭介の声が、宙に舞う。
秋口の潮風が、異様に冷たく感じられたのを、覚えている。
天を、仰いだ。
水平線の遥か上空で、太陽が燦々(さんさん)と照り輝いている。そこから照射される陽光が、容赦なく肌を焼く。その温度も、質感も、何もかもが果てしなくリアル。
だけど。
全て、偽物。紛い物。
ここから見える大海原も、海面を撫でる潮風の音も、匂いも、太陽や風の感触も――全ては、五感がそう認識しているだけの話。
大量のデータも残り数センチにまで減ってきた。丸暗記は得意だ。集中力にも自信がある。降り注ぐ陽光の下、せっせと一枚ずつデータに目を通し、咀嚼嚥下して、海馬に蓄積していく。難しい作業ではない。
一人円卓で書類相手に格闘しているところに、不意に影が差す。誰かが背後に立ったようだ。如月さんか、それとも尾崎さんか。逆光を手で遮りながら振り向いたわたしは、そこに意外な人物を見る。上下真っ黒な燕尾服に、揺らぐことのない能面。
「ヒカリさん……」
すっかり忘れていた。わたしをここに案内した、正体不明の執事風の男。
「原田様、少し、よろしいでしょうか」
合成音声のような抑揚のない声で、ヒカリは言う。
「え、あの、いつの間に。って言うか、何で……」
混乱している。自分でも何を言っているか、よく分からない。
「私は常にここにいます。普段は皆様の集中力を乱さぬよう、姿を消していますが」
さらりとトンデモなことを言うが、この空間ならそれも有り得る。何でもありなんだ、ここは。
「えっと、わたしに、何か用でも……」
「進捗状況はいかがかと思いまして、こうして声をかけさせて頂いた次第です」
言葉遣いはごくごく丁寧だけど、へりくだった感じは一切しない。ならば慇懃無礼かと言えば、そうでもない。まさに、ロボットかコンピュータープログラムを相手にしているような感覚。
「……ほとんど何も進んでません。分からないことばっかで……。すみません。他の人たちは頑張ってるんですけど、わたしはただ、ついていくのに必死で」
こんな相手にも卑屈になってしまうのが情けないけど、どうしようもない。ここでは、わたしは一番の劣等生なのだ。
「参加したばかりですから、それは仕方がないのでは。あまり根を詰めすぎない方が、よろしいかと」
心配されてしまった。そんなに無理しているように見えるのか。
「ほとんど、お休みになってないのではないですか?」
確かに、ここ数日は一切の休憩なしでデータ暗記に躍起になっていたけれども。
「大丈夫ですよ。死んだ人間には、食事も睡眠も必要ないじゃないですか。寝ようと思えば寝られるし、飲み食いだってできるけど、そんなの、結局気分の問題だし」
「その気分転換が肝要なのでは、と申し上げているのですが」
「必要ありません。みんな頑張っているのに、わたしだけ怠ける訳にはいきませんって」
ヒカリは顔のパーツを動かさず、油圧で動いているかのようなスムーズさで、体を百八十度回転させる。
その先には、波打ち際でスイカ割りに興じる三人の姿があった。
如月さんが目隠しをし、尾崎さんと大介君が右だ左だと指示を出している。鹿島さんだけは我れ関せずといった具合に、砂浜に腰掛けて資料を読み返している。
「――とても、頑張っているようには見受けられないのですが」
「さっきまで! ついさっきまでは、真剣にやってたんですって!」
背景を星空から海へと変化させたのは、如月さんだった。この方が集中できるという理由で、だ。
実際、数日は皆、真剣に各々の調べ物をしていたのだけど――数時間前に、三人ほぼ同時に、集中力が切れた。
『何か気分転換をした方が効率的だろう』と提案したのは尾崎さん、『海ならスイカ割りッスね』と言い出したのは大介君、『あたし、やったことないんだよね!』と乗ったのが如月さんだ。鹿島さんは賛成も反対もせず、黙って円卓を立ち、彼らの近くに腰掛けた。この場面だけだと、確かにわたしだけが頑張っているように見えることだろう。
「って、ヒカリさん、ここにずっといたんですよね? だったら、事の顛末も知っている筈じゃないですか」
「存じたうえで、申し上げているのです」
どうやら、是が非でも休憩しなければならない流れらしい。体は一切疲れてないし、頭もクリアなので、どうせならこの勢いのまま終わらせてしまおうかと思っていたのだけど。
「分かりました……」
円卓の上の資料を手で押しのけて場所を作り、『イメージ』する。次の瞬間、目の前にチーズケーキと紅茶が出現する。やはり、休憩には甘いモノだ。
「ほら、こうしてちゃんと休みますから」
「恐縮です」
ちっとも恐縮してない顔で、頭を下げる。
「あ、そうだ――せっかくだから、少し聞いておきたいんですけど」
他の四人とは違い、ヒカリはこの空間の人間だ。この機会に、溜まっていた疑問をぶつけてみるのもいいかもしれない。……彼が人間がどうかは、大きな疑問符がつくところではあるのだけれど。
「私に、答えられることならば」
鉄面皮を一ミクロンも動かさず、ヒカリはこちらに向き直る。
「あの、殺された理由を思い出さないとここから出られないって話ですけど――もし、ずっと思い出せなかったら、どうなるんですか」
「ずっと、こちらにいて頂きます」
あまりにも予想通りの答え。
「ずっとって、ずっとですか? 永久に、ずっと?」
「ずっとです」にべもない。
「しかし、警察の捜査はリアルタイムで行われていますし、マスコミや一部の遺族たちも、独自に調査を開始しています。事の次第が詳らかになるのは、時間の問題かと。この質問は、かなり序盤の段階で如月様がお答えになっていた筈ですが」
「ヒカリさんの口から、答えを聞きたかったんです。それに、ここまでは導入部です。本題は、ここから」
「と、おっしゃいますと」
「仮に全てを思い出したとして――その後、わたしたちはどうなるんですか?」
「それは皆様次第です」
「罪人だったら地獄に落ちて、そうでなければ成仏して天国に行けるってことですか?」
「『地獄』や『天国』、『成仏』というのは、皆様方が勝手に定義した概念です。実際の形に沿うモノではございません」
「宗教や死生観の話なんてしてません。質問に答えてください」
「これ以上は、ちょっと。ご容赦ください」
肝心な部分は、やはり答えてもらえないらしい。ならば――と、目の前の紅茶で口内を湿らせ、新しい手を打つ。
「ヒカリさんは、事件の真相を知っているんですか?」
「お答えできません」
「連続殺人は、まだ続くんですか」
「お答えできません」
「わたしたちは――罪を犯したんですか」
「お答えできません」
「……もういいです」
これも想定の範囲内だったけど、やはり核心に触れる部分は何も教えてもらえないらしい。仕方がないので、能面のまま直立不動のヒカリに背を向け、チーズケーキにフォークを入れる。美味しい。しっとりとした食感と程良い甘さに、わたしの機嫌は回復する。
「申し訳ありません」
しかし、そんな態度がヒカリには不貞腐れたように見えたらしい。音もなく真横にスライド移動し、言葉を続ける。
「質問にはお答えできません。その代わりと言っては何ですが――今後の作業がより円滑に行える新機能を、紹介したいと思います」
新機能?
妙なことを口走りながら、ヒカリは右手を挙げる。
何が始まるんだろう、と思うわたしの目前、空間が歪み、ブン、と音を立てて黒い長方形が現れる。
どこかで見た形だ――と思うのと同時に、長方形の中に見知らぬ人物が現れる。
『……本当に、真面目で穏やかな人で――そんな、殺される心当たりなんて、全然……』
中年女性だ。目に涙を浮かべながら、画面外の人物に答えている。
画面?
ああ、そうだ。これは、テレビやパソコンなどの、モニター画面にそっくりではないか。
【ゼロヨンマート高円寺店 パート従業員 野村孝子(45)】
女性の下にテロップが現れる。どうやら、尾崎さんの店のパートさんらしい。これは、刑事の聞き込みか何かだろうか。
「お察しの通り、これは警察の聞き込みの様子を動画で再現したモノです。今後、皆様が望みさえすれば、証言や現場の様子、監視カメラの映像など、動画でご覧頂けるようになります。内容自体はお手元にあるデータ資料と同等ですが、映像媒体でご覧になることで、より情報量が多くなるかと」
画面の中では、すでに次の人物に映像が切り替わっていた。憔悴した様子で突然の不幸を嘆く細身の中年女性。当然、顔は初めて見るのだけど、テロップで表示された名前には見覚えがあった。野村孝子と同じ、ゼロヨンマートのパート従業員、井上幸、三十八歳だ。
『店長は、物凄く仕事熱心で……しつこいクレーマーにも、辛抱強く対応していましたし……。絶対に、恨みを買うような人じゃなかったのに……』
野村孝子と似たようなことを、伏し目がちに語っている。『誰からも恨まれることのない人間など、胡散臭い』と評していた尾崎自身が、本当に誰からも恨まれることのない好人物だったらしい。
そんなことよりも。
「……確かに、分かりやすいですね」
わたしは、素直な感想を漏らしていた。
活字のデータでは、証人が口にした内容だけが全てになる。しかし、映像となると、必ずしもそうではない。顔色や表情、視線の動きなど、細かい感情が微妙なニュアンスとして伝わってくるのだ。鋭い人間なら、それで嘘を吐いているかどうか、見分けられるかもしれない。それに加え、背景も大きな情報となる。例えば、野村孝子と井上幸の場合は、職場であるゼロヨンマートだ。少し見ただけでも、なかなか盛況の店だと分かる。いずれも、紙の資料ではなかなか分からないことだ。
「閲覧できるのは、あくまでも警察捜査やマスコミ取材の様子、及びそれらの延長線上で入手できた映像媒体のみとなります。殺害の瞬間や、皆様の日常風景など、都合のいい場面は見られませんので、悪しからず」
「それはいいんだけどさー」
前触れも無く背後から声がして、持っていたティーカップを落としそうになる。振り返ると、黄色いTシャツにハーフパンツ姿の如月さん。片手には砕けたスイカの欠片を持っている。スイカ割りは無事成功したらしい。
「何で今頃になって、そんな便利機能を紹介する訳? そんないいモノがあるのなら、最初から教えなさいっての」
まなじりを吊り上げ、ヒカリに詰問する。どうやら、この動画閲覧機能は、如月さんたちも知らなかったらしい。
「頃合いを、窺っておりました」
彼女に詰め寄られても、ヒカリの表情は驚くほど涼しいまま。燕尾服などという暑苦しい格好とで、プラスマイナスゼロ。いや、むしろマイナスか。
「何よ、頃合いって」
「もう次の段階に進まれたように見受けられましたので」
「頃合とか、次の段階とか、どういう――」
「画面は任意のタイミングで、お好きな場所、お好きな大きさで出現させることが可能です。一度に複数の画面を出すこともできます」
「あたし、無視されたんだけど」
ぼやく如月さんの肩を、尾崎さんがポンポン叩いて諌めている。
「また、お一人で閲覧頂く際は、ヘッドホン推奨となっております」
空中からメタニカルな色彩のヘッドホンを取り出し、円卓に置く。
「では、皆様のさらなるご活躍を心よりお待ちしております」
言うが早いか、余韻など残さず、刹那の間に姿を消してしまう。
「毎回、好き勝手言ってすぐいなくなるんだから……」
「まあ、いいじゃないか。今回は、朗報だ。この動画機能を使えば、調査考察の幅も一気に広がる」
「早速、約一名、使いこなしている人がいるみたいだけどね……」
見れば、鹿島さんはすでに席に着き、画面を開いてヘッドホンをして、頬杖をついている。後ろからだと、画面はただの黒い長方形に見えるだけで、何を見ているのかまでは分からない。
「休憩も済んだし、こちらもそろそろ、本腰を入れるとしようか」
静かに気合を入れ、鹿島さんの隣で画面を開く尾崎さん。
「何か、ネカフェみたいねえ……」
並んで画面を覗き込んでいる二人を見て、如月さんはインターネットカフェに例える。
「センセーも、ネカフェとか行ったりしてたんスか?」
「そりゃ、漫画は好きだからね。ただネカフェって時間制だから、ネームを考えるのはファミレス、本格的な作業は自宅で、って感じかな」
おお、プロの漫画家みたいだ。いや、プロの漫画家なのだけど。
「大介君も、行ったりするの?」
「ネカフェ……ネカフェ、か」
如月さんの質問を無視して、口の中で何やらブツブツ言っている。
「そういや、まだ調べてなかったかも……」
何かを思いついたのか、素早く自分の席に戻り、やはり同様に画面を開く。
「瑞穂ちゃん……今日、あたし無視される日なのかな……」
「いや、そんな日はないと思いますけど」
情けない顔をする如月さんに、精一杯のフォローをする。
「きっとみんな、事件のことで頭がいっぱいなんですよ」
「まあ、そうだとは思うけどね……」
微妙な笑顔を浮かべ、持ったままになっていたスイカにしゃくり、と口をつける。
「瑞穂ちゃんも、食べる?」
「いただきます」
直前にチーズケーキを食べていたが、スイカも嫌いではない。それより何より、死人は満腹を感じない。オールデイ別腹なのだ。
二人並んで砂浜に腰掛け、海を見ながらスイカを食べる。
「瑞穂ちゃんは、海、好き?」
「はい。海水とか水着とかは苦手なんですけど、雰囲気が好きって言うか。潮風に吹かれるのとか、何か、いいなって」
思い出すのは、鎌倉の海のこと。
圭介の、こと。
いや、圭介は関係ないか。
「生まれも育ちも、ずっと赤羽?」
「はい。だから、時々千葉や神奈川に遊びに行くのが楽しみで」
赤羽は東京都北区にあって、埼玉に隣接している。近くには荒川も流れているが、海にはあまり縁が無い。
「ふうん。そっかあ……。あたしなんて、子供の頃は、生活の中に当たり前みたいにして海があったからさ……だから今でも、海を見ると落ち着くのかもしれないけど」
そう言えば、この風景を選んだのは如月さんだったか。海に対して、何か特別な思いがあるのかもしれない。
「如月さん、生まれは?」
「浜松。静岡県のね」
「浜松って……ええと、ウナギの?」
「そ。ウナギと楽器とバイクの町。あたしが住んでたのは、今では南区って呼ばれてる、海沿いの地域でね。ゴールデンウイークの浜松祭りの時なんか、人がたっくさん来てさ……空を舞う大凧を、みんなで見るのが好きだったなあ……」
ゴールデンウイークに祭りがあって、正月でもないのに凧を上げるのか。浜松のことも祭りのことも全く知らないので、今ひとつリアクションが取り辛いのだが、それでも分かったことがあった。
「如月さん、地元が好きなんですね」
「まあね。高校卒業して上京してからは、一度も帰らなかったけど」
「何で、ですか」
聞いてから、しまったと思う。今のは、あまり深く立ち入るべきではない部分だったかもしれない。
「うん? 簡単よ。地元は好きだけど、実家は大嫌いだったから」
案の定だった。
「世間体ばっか気にする、クソみたいにつまんない家だった……。あたしが漫画家になりたいって言っても、もっと安定した職業に就けとか、適当な相手見繕って結婚しろとか――今時ビックリするくらい、テンプレなことしか言わないの。根元から価値観が違いすぎるからさ、話すのも嫌で、一度も家には帰ってない」
「……そう、ですか」
「漫画家として成功して名前あげて、見返してやるつもりだったんだけどなァ……。まさか、こんな目に遭うなんてね」
ホント、うまくいかない。
視線の先には、イメージによって作られたニセモノの海が広がっている。彼女はそこに、故郷の海を重ねて見ているのだろう。
「あたし、色んなモノ諦めて、この年までやってきたんだよねえ。男とか、子供とか、家庭とか、さ。学生時代の友達、みんな結婚して、子供いんの。あたしはそういうの関係ない。漫画家として成功するためには、そういうの犠牲にしなきゃ駄目なんだって――そう自分に言い聞かせてた訳」
淡々と、自嘲めいた口調で自分の半生を――否、一生を振り返る。
潮風が、やけに冷たい。
やはり、あの日あの時の、鎌倉の海を思い出してしまう。
「馬鹿みたいだよね。挙句、どっかの殺人鬼に刺されてジ・エンド。FIN。終劇。あたしの人生、何だったんだって感じよ。せめて、単行本出してから死にたかったなっ、と」
スイカの皮を、海に向かって放り投げる。
しかしそれは海に落下するより前に、見えない壁にぶつかって、そのまま消える。如月羽生の人生、その暗喩を見ているようで、切ない気分になる。
「わたしも……悔しいです」
「……だよね」
「わたし、まだ全然生きてないんです。十七、だったんです。それなのに、首絞められて、指潰されて――あんまりです」
「憎いよね、犯人」
「憎いです」
憎くない訳がなかった。もしできるなら、全てを返してほしい。全て、元に戻してほしい。
「あたしも同じ。もしできるなら、呪い殺してやりたい」
「……如月さん」
「名前で呼んでもらっても、いい? 仲のいい女友達は、みんなあたしのこと下の名前で呼んでるから」
仲のいい女友達、か。
期せずしてできた年の離れた友人に、少し胸が熱くなる。
「分かりました――行きましょうか、羽生さん」