ルール説明
何もない、空間だった。
わたしはぼんやりと辺りを見渡す。
何もない。
本当に、何もない。
ただの、真っ白い空間。
椅子があって、そこにポツンと一人、座っている。
虚無。
咄嗟に、そんな単語が頭に浮かぶ。
色や光、音、匂い、温度、質感――この世界にあるべき、様々な要素がごっそり欠落している気がする。
――ここは、どこだろう?
ひどく、狼狽する。
無色の空間に、ただ一人――それなのに、何故自分がここにいるのか、まるで分からない。ここがどこで、ここまでどうやって来たのかも、まるで記憶にない。わたし、どうしちゃったんだろう。
一体、ここは――
『原田瑞穂様ですね』
「ひゃっ!」
突然、上の方から声が聞こえてきて、わたしは文字通り飛び上がってしまう。
『お待たせしました。前の扉から奥にお進みください』
何の感情も感じさせない無機質な声。まるで合成音声のよう。
「え、と、扉……?」
顔を上げると、目の前に白い扉がある。
こんなもの、ここにあっただろうか。
こんな至近距離にあったら、普通気が付きそうなものだけど。
……いや、それよりも。
「あの、ここ、どこなんですか? わたし、何でここに――」
『前の扉から、奥にお進みください』
意を決して質問をぶつけてみたのだけど、天の声は同じ文言を繰り返すばかり。
どうやら、従うしか道はないらしい。
結局わたしは自らの置かれている状況が何も理解できないまま、目の前の扉に手をかけたのだった。
「だから、これは多分、便乗犯の仕業なのよ」
空間に足を踏み入れると同時に、女性の声が耳に飛び込んでくる。驚いて来た道を引き返そうとするけれど、もうそこには扉などなく、ただ真っ白な壁が広がっているだけ。どこを見ても出入り口らしきモノは見当たらない。
軽く、目眩がした。
「センセー、いきなり何を言い出すんスか……」
「いや、大介君、何かの参考になるかもしれない。聞く前から馬鹿にしない方がいい」
「さすが店長、いいことを言うわね。そうそう、どんな意見も、取り敢えず出し合って聞くっていう姿勢が大事な訳。大介クン、それに鹿島クンも、ちゃんと聞いて」
男女の話し声がする。
声の出所は、すぐに分かった。三メートル程先に黒い円卓がある。そこに四人の男女が腰掛けているのだ。
五十代の、サラリーマン風の男。
三十前後の、丸顔の女性。
眼鏡をかけた若い男性。
学生服を着崩した、中学生風の少年。
一見しただけでは、どういった集まりなのか皆目見当もつかない。かと言って、会話を聞いても、何について話しているか、さっぱり分からないのだけど……。
「あたし、ずっと気になってたんだよね」
丸顔の女性が勢い込んで話し始める。
「ほら、他の三人は絞殺――こう、ロープみたいなモノで首を絞められて殺された訳よね?」
自分の首の前で手をクロスさせながら、何やら物騒なことを口にしている。
「それなのに、一つだけ刺殺よ? 正面から、心臓を一突きにされてる訳。これ、どう考えても浮いてるじゃない。直前に未遂事件があったのも、これだけだし」
「殺す方法が違うから、別人ってことッスか? なーんか、弱くないスかねー」
学生服の少年が、見るからに怪訝そうな表情をする。
「弱くないわよ。いい? 快楽殺人者ってのは、普通、殺害方法を統一させるモノなの。絞殺ならずっと絞殺って訳。それなのに一件だけ刺殺って、おかしいでしょ。一つだけ方法が違うってことは、必ずそこに、何らかの理由がある筈なのよ」
「如月さんは、便乗犯による犯行が、その理由だと?」
サラリーマン風の中年男が、えらく的確な相槌を打つ。
「そうそう。だって、そう考えれば辻褄が合うでしょ? 警察は、全部が同一犯による連続殺人って決めつけているみたいだけど――その根拠って、例のふざけたアルファベットだけな訳でしょう? 逆に言えば、何か適当なアルファベットさえ残しておけば、同一犯の仕業って見なされる訳じゃない。だから、別人なのよ。便乗犯。一つだけ、犯人が違うってコト」
「――ちょっといいですか」
如月と呼ばれた女性が畳み掛けるように結論を出すが、そこに異議を唱える人物がいた。
ずっと黙って聞いていた、眼鏡の男性だ。
「何よ、鹿島クン。また反論?」
「また反論です。一つ二つ気になったことがあるんですが」
どことなく知的な口調で、淡々と話す。
「……言ってみて」
「まず一つ。如月さんの話では、便乗犯は現場にアルファベット文字が残されたのを知っていた、というのが前提となってますけど――これはおかしいです。警察はこのことを、マスコミに伏せている筈ですから」
「え? そうだっけ?」
慌てて手元の紙を覗き込む。円卓の上には、いくつもの書類や本、雑誌などが雑然と散らばっている。
「それに、さっき『快楽殺人者』という言葉を出されましたが――これも疑問ですね。一連の事件は、決して無差別殺人ではないし、快楽や興奮を主眼とした犯行とも思えません」
「その根拠は?」
女性が食い下がる。
「動機なき殺人ではない、と言うことです。俺たちが殺されたのは、必ず理由がある。その理由はまだ分かりませんが、俺たちは、何か共通の理由があって殺された筈なんです」
「やっぱ、そうなんスかね?」
背もたれに全身を預けて、学生服少年が口を挟む。
「そうだと思うよ。じゃないと――ヒカリさんは、あんなこと言ったりしないでしょう」
「まあ、確かにそうだけど、ね……」理路整然とした眼鏡男性の言い草に、如月も折れる。「あーあ、いいセンいってると思ったんだけどなぁ……」
「いや、実際、いいセンはいってたんじゃないかなぁ。如月さんの着眼点は、毎回面白いよ。参考になった。ありがとう」
「参考になったところで、話は何一つ進展してないんスけどね……」
中年男、学生服少年が続いて発言する。
わたしは、その一部始終を棒立ちで聞いていた。
――この人たち、何の話をしているのだろ。
全く分からない。
どうやら、どこかで起きた連続殺人事件のことを話しているらしいが――何故、そんなことを議題にしているのかが分からない。
取り敢えず、警察の人間ではないらしい。それは分かる。ならば、何故こんな血生臭い話で盛り上がっているのか……。
「――皆様」
「ひゃあっ!」
突然隣で声がして、再度飛び上がってしまう。
横を見ると、燕尾服に身を包んだ長身の男が控えている。
何やら優秀な執事然とした格好だが、顔には一切の表情がなく、声も、まるで機械のよう。
そう言えば、さっきわたしを扉に促した声と似ているような気もするが……。
「議論が白熱しているところ、真に恐縮ではございますが――新しいお仲間がいらっしゃいましたので」
男の声に、四人が一斉にこちらを見る。
数瞬の、間。
とてつもなく居心地が悪い。
「――って、五人目!?」
沈黙を破ったのは、如月というらしい、饒舌な丸顔の女性。
「とうとう五人目、か……」
「マジかよ。いい加減にしろよな……」
中年男性と中学生風の少年が、それぞれ感想を漏らす。眼鏡の男性だけは、一人、黙ってこちらを注視している。
「こちら、原田瑞穂様です。細かいプロフィール等に関しては、ご本人の口から伺った方が早いかと」
「資料はないのかな?」
手元の書類を探りながら、中年男性が聞いてくる。
「まだ、捜査が始まったばかりですので。おいおい、揃っていくとは思いますが」
「えっと、アナタ――瑞穂ちゃん、だっけ?」
如月という女性に話しかけられ、少し緊張する。
「あ、ハイ」
「やっぱり、何も覚えてない――のよね?」
探るような目つき。しかし、こっちは質問の意味そのものが理解できない。
「え、あの、何を、ですか?」
「要するに、どうして自分が今ここにいるか、分からない訳、よね?」
「……何がなんだか、サッパリ」
本当にそうなので、正直に答えておく。
「ヒカリ君も、ある程度は説明しておいてくれたっていいのに……。本当、ここに案内するだけなんだもの」
先程の執事然とした男は『ヒカリ』というらしい。無機質で慇懃なイメージとは裏腹に、随分と可愛い名前だ。
「ってか、センセー、ここ来てンだから、何も覚えてないに決まってるじゃん。オレらだってそうだったんだしさ」
少年が、ニヤニヤと笑いながら口を挟む。
「うっさいなあ。確認よ、確認」
吐き捨て、彼女はわたしに向き直る。
「ゴメンね? 色々訳分かんないと思うけど、今からちゃんと説明するから」
どうやら、彼女が説明役になってくれるらしい。
いつの間にか、『ヒカリ』と呼ばれていた執事は姿を消している。出入り口の類は一切見当たらないのに、だ。本当に訳の分からない空間だ。
「あ、自己紹介がまだだったわね。あたしは、如月羽生。よくペンネームと間違われるんだけど、これ本名だから。よろしくね」
「はあ……よろしく、お願いします」
人懐っこい笑顔を見せる如月さんに、曖昧な答えを返す。
「突然だけど――瑞穂ちゃんって、幽霊とか信じる人?」
「え?」
「幽霊よ、幽霊。死んだら化けて出るヤツ」
「いえ……別に」
正直言うと、あまり信じたくない。怖い話は大の苦手なのだ。
「自分が死んだらどうなるかとか、考えたことない?」
「ないです」
「もうすでに、自分が死んでるって言われたら、どうする?」
「……は?」
年上の人間相手に、随分と失礼な感嘆符を投げかけてしまう。
「ちょっと、言っている意味が分からないんですけど……」
「意味も何も、そのままよ」
アナタは、すでに死んでいるの。
如月さんの言葉が、フワフワと頭の上を通り過ぎていく。
死んで、いる?
「えっと……あの……」
「受け入れられない気持ちは分かるわよ? でも、これが現実なの」
「いやいやいや、わたし、今ここにいるじゃないですか」
「この空間が、この世のモノだとでも思ってる訳?」
如月さんの眼光が、鋭くなる。
「アナタだって、とっくに気がついている筈よ? 入った瞬間に消える扉、神出鬼没な案内人、現実感の欠片も感じさせない空気――ここは、まともじゃないって」
それは、確かにそうだけれど。
「で、でもっ、今こうして、如月さんはわたしと話しているじゃないですかっ! 他の人たちだって――」
「あたしたちも、そうなの」
彼女の口調は静かで落ち着いているけど、人を黙らせるのに充分な気迫に満ちていた。
「あたしたちも、みんな同じ――すでに、この世の存在じゃないの。死んでるのよ、みんな」
「そんな……」
信じられない。
信じたくない。
救いを求めて他の面子を見るが、誰も彼女の発言を否定してくれない。
黙って、二人のやり取りを黙視している。
「順を追って話しましょう。半年前、ある男性が路上で絞殺されているのが発見されたの。その時の被害者が、そこにいる尾崎さん。尾崎潤一さん」
隣の中年男性に視線をよこしながら、彼女は言う。
「詳しいことは後で話すけど――事件は、それで終わらなかったのよ。連続殺人だったの。次の被害者が、鹿島寛貴クン」
眼鏡の男性が、軽く手を挙げる。
「次があたし、如月羽生――で、その次が、桐島大介クン」
学生服の少年が、ぺこりと頭を下げる。
「そして、五人目の被害者が、アナタ、原田瑞穂ちゃんって訳」
また、狼狽した。今日で何度目だろう。目の前で語られている事実が、何一つとして理解できない。
自分が、連続殺人の被害者?
ここにいる全員が、被害者?
意味が分からない。
「でも、わたしはそんな――」
「うん。何も覚えてないんだよね? 自分がどこの誰なのかは分かるけど、事件に関することは全然覚えていない――でしょ?」
「……そうです」
「だよね。大丈夫。あたしたちも、そうだから。みんな、事件に関することだけ、綺麗さっぱり記憶から抜け落ちているの」
忘れてるのよ。
「だから、犯人の顔も分からない。何故自分が殺されたのかも、何も分からない状況って訳。真相解明なんて夢のまた夢。でも逆に言えば、あたしたち誰か一人が、何か少しでも思い出すことができれば、事態はかなり進展するってことなんだけど……」
「なんで……ですか?」
口が勝手に動いていた。いつも相手の顔色を窺いながら話すわたしにしては、珍しいことだ。
「なんで忘れるんですか、そんな大事なこと。変ですよ。絶対に変です。普通、忘れませんよ」
一度堰を切ってしまったら、もう止めることなどできない。
「嘘なんでしょ? 全部、嘘なんですよ。何ですかこれ。ドッキリですか? わたしなんか引っ掛けて、何が面白いんですか?」
「落ち着いて」
横から、尾崎さんがスッとティーカップを差し出す。
「飲みなさい。多少は、気持ちが楽になる」
言われるままに、湯気をあげる褐色の液体に口をつける。
たちまち広がる柑橘の香り。レモンティーだ。
彼の柔和な口調と合わせて、なるほど、確かに少し落ち着いた気がする。
しかし、レモンティーなんて咄嗟にどうやって用意したのだろう。
さっき見たときは、それらしきモノは何もなかった筈だけど……。
「君の気持ちは、分かるよ。私もそうだった。如月さんも、鹿島君も大介君だって、そうだ。最初は、みんな簡単には信じられない。皆、パニックになる」
「でも、これがあたしたちの現実なのよ」
如月さんが言葉を重ねる。
「連続殺人の被害者、つまり死者であるあたしたちは、この一室に集められた。それが、現実。しかも、事件に関することは、何も覚えていない……」
「だから、それは何で――」
「如月さんの言い方だと語弊があるね。ここに集められた私たちが何も覚えていないんじゃない。何も覚えてないから、ここに集められたんだ」
尾崎さんの口調は柔らかいのだけど、その内容はまるで意味不明。
「あの、言っていることが……」
「だからね。それこそが、私たちがここにいる理由なんだよ。私たちに与えられた命題、とでも言うのかな――」
――私たちは、何故自分が殺されたのか、思い出さなければいけないんだ。
彼の言葉が、不思議と胸に落ちる。
何故自分が殺されたのか、思い出さないと、いけない。
「世間では、連続無差別殺人だと思われている。警察も、捜査員のほとんどがそう思って捜査に当っている。だが、真実は違うらしい。面識も、共通点もまるでない私たちは、何らかの『理由』があって、殺された。私たちはそれを探らないといけない。それを知らないと、皆、ここから永遠に出られない。そういうルールなんだ」
「そ、そんな……」
急速に喉が渇いていく。慌ててレモンティーに口をつけた。
「通過儀礼、とでも言うのかな。死者である我々は、二度と現世世界に戻ることはできない。干渉さえ、許されない。ただ、思い出すこと。何故自分が死んだのか、理解すること。その手順を踏まなければ、次のステップには進めない――そういう、ルールらしい」
わたしたちと同じ立場にいる筈なのに、この人は随分と自分の置かれた立場を把握しているらしい。それが、少し引っかかる。
「……尾崎さんも、被害者の一人なんですよね。何も知らないで、ここに来たんですよね。じゃあ、なんでそんなこと――」
「そう言われたんだ。ヒカリ君にね」
ヒカリ――さっきの、執事っぽい格好をした男の名前だ。無機質で無表情で、人間らしさの欠片も感じさせない男だが……。
「彼の正体は私たちも知らない。聞いたが、教えてもらえなかった。多分、死神か、天使か、悪魔か――その類の存在なんだとは思うが。彼自身は、自分を『案内人』だと名乗っている。最初の被害者である私には比較的詳しくルールなり何なりを教えてくれたが、後は必要最低限しか姿を現さない。極力、自分たちの力で全てを思い出せということなんだろう」
自分たちだけで、全てを、思い出す。
「最初は、私一人だけだったんだ。私一人で、事件のことを思い出そうと、事件の全容を理解しようと頑張っていたんだが――見る間に仲間が増えていってね。君で五人目だ」
「人数が増えたところで、会議は何も進展してないんだけどね」
如月さんが軽い調子で茶々を入れる。
陽気で饒舌な如月羽生と、穏やかで柔らかい印象の尾崎潤一。
二人を見ても、とても死者とは思えない。
それを言うなら、自分自身もそうなのだけれど。
まるで、ピンと来ない。
死んだなんて。
もう、この世の人間じゃないだなんて。
「……わたし、まだ、十七なんですよ……」
思わず、言葉が漏れる。
「死んだとか、連続殺人の被害者なんて、急に言われても……」
「いやいやいや、ンなこと言ったら、オレなんてまだ十五だし」
斜向かいに座る桐山大介君が、背もたれに全身を預けたまま言う。手にはコカ・コーラのペットボトル。さっきのレモンティーもそうだけど、どこから取り出したのだろう。
「取り敢えず、受け入れるだけじゃねェんスか。違う違うって言っても、結局何も変わンねェ訳だし。てか、実際変わンなかったし」
しかし、その言葉から悲壮感は感じられない。
受け入れた、ということなのだろうか。
わたしもまた、死者であること、被害者であることを受け入れ、全てを思い出す作業に従事せねばならない、ということなのか。
「大介クンも、たまにはいいこと言うねー」
悲壮感ゼロの代表格、如月さんが、ことさら陽気な口調でそんなことを言う。
「たまにはって、センセーに言われたくないんスけど」
どこか不貞腐れたような態度だけど、恐らくこれが彼の通常運転なんだろう。
「いやいや、褒めてるのよ? まさにその通りだと思ってね。否定したって、何も始まらないんだもの」
前向きポジティブに、自分の死と向き合う。
何だか冗談みたいな状況に、またもや軽い目眩を覚える。
「連続殺人事件なんて血生臭いし、ましてや自分が殺された事件を探るなんて気分のいいモノじゃないけどさ――でも、案外やってみると楽しいよ? 刑事か名探偵にでもなったみたいでサ」
そこまで力強く言われては、こちらとて受け入れるしかない。
カップを両手で持ったまま、わたしは軽く頷いたのだった。