20
ハルくんは、びしょ濡れの上着を脱いで、後部座席に放り投げた。
タオルハンカチを差し出してみたけど、あんまり役に立ちそうにない。でも、せめて、と、ハルくんの髪から滴り落ちる雫を、そっと拭ってみたら。
一瞬、視線が絡まって。
「……ありがと」
ハルくんは、そう言って目を逸らし、ハンカチだけを私の手から受け取った。
「寄り道、するけどいい?」
さっきと同じことを、ハルくんは聞いた。
「うん」
答えると、ハルくんは息を吐いてハンドルに突っ伏した。
えーと……? 私、何か間違ったかな。
「美緒、もうちょっと危機感持った方がいいよ」
両腕をハンドルに乗せ、おでこをつけたまま、ハルくんは言った。
「俺んち行くとか、思わないわけ?」
「え? だって着替えるんでしょ?」
「……ホテルとかもありえるけど」
え? あ! そういう……こと?
「ありえないよ。だって、ハルくんだし」
私は焦って言った。ハルくんだし、しかも、私はお付き合い対象外、だし。
「ありえないって……それ、信用されてるってこと?」
ハルくんが心なしか不機嫌……?
それからハルくんは、車を発進させた。
「いいけど、ね。そんなことしたら、もう、後戻りできなくなりそうだし」
つぶやいたハルくんの言葉が、妙な緊張感をもたらす。
意味が、よくわかんないんですけど……。
車で五分ほども走っただろうか。
大学近くの住宅街にある、マンションの駐車場にハルくんは車を止めた。
「ここは?」
「姉貴んち」
ハルくんは車から降り、後部座席の上着も取って、それからわざわざ助手席のドアを開けに回ってきてくれた。
駐車場の建物と住居棟はつながっていて、ここは濡れずに済むのがありがたかった。
住居棟の入り口で、ハルくんはモニターに部屋番号を入れ呼び出しをかけた。
『はい』
「俺。開けて」
『どーぞ』
自動ドアが静かに開いて、ハルくんに促され中に入る。
ホテルのロビーのようなエントランスを抜けると、エレベーターホールがあった。真ん中のエレべーターに乗って九階へ。
エレベーターを出て左手へしばらく歩き、突き当りの部屋に着くと、ハルくんは再びインターフォンを押した。
インターフォンから返事は聞こえず、パタパタとおそらくはフローリングにスリッパの足音が響き、扉が開いた。
「早かったじゃない」
そう言ったお姉さんは、ハルくんを見て絶句。
「ごめん、ちょっと着替えさせて。着替えたら、彼女、送ってくから」
そう言ってハルくんは玄関に上がろうとする。
ちょっと待って、とお姉さんは慌ててタオルを取りに行って戻ってきた。
「また派手に濡れたわねー」
ハルくんにタオルを渡したお姉さんの視線が、後ろに立ったままの私に向けられた。
「あ、同じ学部の長谷川さん。着替える間、上がってもらってていいかな?」
ハルくんが言って。
「もちろん。どうぞ、入って?」
ハルくんが、玄関を上がって、まっすぐ奥へ向かった。
「遅くにすみません」
私はお姉さんに頭を下げた。
お姉さんはにっこりして、
「お久しぶりなのは、内緒ね」
と小声で言った。
ハルくんのお姉さんには、以前一度だけ会ったことがある。大学近くの、あのファミレスで、千裕も一緒にお茶を飲ませてもらった。でも、もう二年ほど前のことになるのに、覚えてくれていたんだ。
お姉さんは、私をリビングのソファに案内すると、ハルくんに着替えを用意し、私にお茶を入れてくれた。お構いなくって言ったんだけど、外は雨だし、少しでも温まって、と。
入れてもらったミルクティーは、なんだかやさしい味がした。
「改めて、伊東志保里です。弟がお世話になってます」
「あ、こちらこそ。散々お世話になってて……ご迷惑おかけしてます。長谷川美緒です」
お互いに遅ればせながらのご挨拶をしていると、お姉さんのご主人の服を借りたハルくんが、着替え終わってリビングに戻ってきた。
「ハル、紅茶入れたから」
「あ、さんきゅ。飲んだら、送ってくよ」
ハルくんは、リビング横のカウンターキッチンに置かれていたマグカップを取り上げた。
「ハル。美緒ちゃんちって、かなり遠いんじゃなかった? 今からだと、夜中になるよ。しかも、この雨の中、長距離走るのは 危ないんじゃない?」
お姉さんが、冷静な意見をしてくれたので、私が、
「あ、あの、駅までの道を教えてもらったら、電車で帰ります」
と言ったら、
「じゃ、せめて駅まで送る」
なんだか、ハルくんがムキになってるような。
「美緒ちゃん、環状線とか使う?」
「あ、はい」
「……地下冠水で運休中って、さっきニュースに出てたけど」
そういえば、千裕も路線によっては止まってるって言ってたっけ。あれは嘘じゃなかったんだ。
「泊まって言ったら? 主人、出張中で、私一人だし。明日、土曜だし、ハルに送ってもらったらいいじゃない」
それでいいよね、と、お姉さんはハルくんを見上げた。