19
しばらく扉と格闘してみたけど、無理だった。扉は、開かない。
このままじゃ、出られない。
扉の下からじんわりと広がった水たまりが、恐怖感を煽る。
水圧で扉が開かなくなったりするのって、そうとうなんじゃ……?
そのとき、ケータイの着信音が鳴った。
慌てて取り出し、通話状態にする。
『美緒、今どこ?』
千裕からだった。
「資料室! 帰ろうとしてたんだけど、ドアが……」
私が状況説明しようとすると、
『雨、すごいね。電車、止まってる線もあるみたいだよ』
千裕が何気なく言った言葉が追い討ちをかける。
『今から帰るの、大丈夫?』
大丈夫じゃない!
「ドアが開かなくって、出られないの!」
『え? それってマズくない?』
……まずいどころじゃないし。電話の向こうの千裕と温度差を感じる。
『じゃ、救援、頼んでみるから。待ってて』
そう言って、千裕は電話を切ってしまった。
救援、って。
どうするつもりなんだろう?
待ってて、って、時間が経つほど危ないんじゃ……? 窓の外はどしゃ降り。足下は、思ったより進んではないけど、水たまりが床を浸食してて。
あ、そうだ、ケータイ。教務課なら誰かいるはず。電話番号登録してないけど、調べればいいよね。
……天候のせいか電波状態がよくない。ネットがつながらない。
電話番号案内にかけて、つないでもらったらいいのかな。番号案内って何番だっけ?
……どうしよう? 明日菜んちなら近いから、かけてみようか。
かけてみたけど、出ない。なんで?
窓から、出たらいいのかな? と、窓を調べてみたけど、外側に格子がある。ガラスは何かぶつけて割ることもできるかもしれないけど、これじゃ、出られない。
なんだか。
思いつく限りのことは試そうとしてみたものの、結局なんにもできず。
情けなくなってきた。
もう少し早く気づいていたら。って、もう遅いけど。
ケータイを握りしめて、鞄を肩にかけた状態のまま、近くの椅子に座った。床から少しだけ足を浮かせて。
うん、大丈夫。水は、まだそんなに広がってきていない。……待ってれば、誰か気づいてくれて、出られるようになると、信じるしか、ないよ、ね。
どれくらい、たっただろう?
着信音に、半ば放心していた私の意識が立ち戻る。画面を見てみると。
え? なんで、ハルくん?
焦って通話状態にすると、
『美緒!』
あたりまえだけど、ハルくんの声、だ。
『すぐ、そっち行くから』
え?
「や、ダメ。危ないよ!」
『危ないのは美緒だろっ』
「ハルくん、今どこ?」
『車。構内に入れたとこ。すぐ、行くから』
「ハルくん?!」
唐突に電話は切れた。
なんで、ハルくんが? もしかして、救援って、まさか千裕……?
あああ、もう。
もう、どうするのよ、馬鹿。
「美緒!」
ハルくんの声がして。
扉が、開いた。
え? 水、は……? ドアが開かないくらいって、廊下は川みたいに浸水してるものと思ってたのに。
床は濡れてるけど。
ぼんやり、そんなことを考えていると、ハルくんが目の前にいて。
ずぶ濡れになったハルくんが、
「……とりあえず、無事だね」
と笑った。ちょっと情けなさそうな笑顔。
「……うん」
「よかった」
「浸水、は?」
「……扉の前で、傘立てが転がってたけど」
ハルくんは、すごく複雑そうな笑みを浮かべて言った。
えええ? なに、それ?
「水は、中からこぼれた分じゃないかな。で、傘立てが邪魔で外開きの扉は開けられなかった」
……なに、それ。
……!
もしかして。
「犯人は」
「……千裕、だね」
あーーー、もうっ。
「いったい何考えて……」
千裕に対する文句を言いかけた私を、
「とにかく、美緒が無事でよかった」
とハルくんがさえぎった。
「ほんとに浸水して閉じ込められてたらと思うと……」
ぎゅっとこぶしを握りしめるハルくん。それから、ふうっと息をつくと、
「とりあえず、帰ろう。送るよ」
と言った。
「でも、ハルくん、そのままじゃ風邪ひいちゃう」
「じゃあ、ちょっと寄り道していいかな?」
「うん」
転がった傘立てのせいで濡れた床。廊下はほとんど濡れていない。ハルくんの歩いた跡だけ。
その跡をたどって、法学部教務棟の出口へ。
外は変わらず、すごい雨。
目の前に、いつかの白いゴルフが駐まっていた。
「ほんとはここまで乗り入れたらダメなんだけどね」
と、ハルくんは言って、私の傘を持って、差し掛けてくれた。
「ハルくんのは?」
傘はどうしたのと聞くと、
「……車の中にあったかな」
ハルくんの目が少し泳いだ。
……車から飛び出して、そのまま来てくれたんだ。
不謹慎だけど、だからびしょ濡れのハルくんに、心がほっこりする。
ハルくんが車まで連れて行ってくれたので、私は思ったより濡れなかった。
私が乗ったのを確認してドアを閉め、ハルくんが走って運転席に回り込む。
「寄り道、すぐ近くだから」
そう言って、ハルくんは車のエンジンをかけた。