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彼方から愛を乞う

作者: 貴遊あきら



 シプレの森をさ迷い歩くと、木々の間にひっそりと佇む一軒の宿屋に出くわすという。

 小ぢんまりとした丸太づくりのそれは、扉一つ、曇って中の様子など皆目見当のつかない窓が一つ、とそれだけの簡素なものだ。扉を開けて中に入ると、窮屈そうなカウンターと奥に繋がる廊下、屈強な男が目に入る。男は滑らかな机上に鈍い色を放つ石付の鍵を置き、


『シングル、食事は朝夕二回。まっすぐ進め。部屋に説明書きがある』


と言葉少なに案内を告げる。

 細い廊下から直線的に続く階段を上れば、廊下の突き当たり、すぐに扉が見える。左右を見ても壁で、他に扉は見当たらない。開けるほかない。





「ほう、それでぇ?」


 とある酒場の一席で、赤ら顔の男が向かい側に座る友人に訪ねる。どちらもすでに酩酊状態だ。


「開けてみたらなんと、お貴族様もびっくりな、ものすげぇ内装だったらしいぜ」

「そりゃすげぇ! お貴族様もびっくりか!」


 大仰におどろいた赤ら顔の男は、その大胆な動きによって丸椅子の上から転げ落ち、床に転がってガハガハと笑い出す。友人は気づきもしないのか、話を続けている。


「そこからがまた驚きだ。腹が減って降りてみれば、受付しかなかったはずだってぇのに、立派な食事処があったらしい。給仕は相も変わらず愛想のないオヤジだが、席について出されたのは、それはもう垂涎物の絶品だったそうだぜ。――ん? 相棒、どこいった?」


 ようやく気が付き、テーブルの向こう側を覗き込むと、赤ら顔の友人が腹を抱えて笑い続けていた。話は聞いていたらしく、友人と目を合わせると、羨望の眼差しを浮かべ、


「行ってみてぇなあ」


と天井向けて呟いた。


「俺だって行ってみてぇさ。なんて宿かも知らねぇんだけどな!」

「それはどうしようもねぇな!」


 ガハハ、ガハハ。かび臭い酒場に男たちの笑い声が響く。


 所同じく、その隅でグラスに入った紅の液体を舐めるように嗜んでいた男が、彼らの様子をちらと見てその口角を上げた。暗色のフードを深くかぶり、その顔は暗い闇に隠されている。端からこぼれる艶やかな黒髪、僅かに光の当たる白く整った顎の輪郭。グラスの柄を掴む指は滑らかで長く、骨ばっている。

 空になったグラスの隣に御代を置いて、外套の長い裾を静かに翻し、人知れず酒場を後にした。






***


「結構噂になっているみたいねぇ」


 厨房で大なべを掻き回していた三鷹依織(みたかいおり)は、手を止めてエプロンで手をふき、ふとかけられた声に振り返った。ボブカットの黒髪が緩やかに浮いて、ふわりと空気を孕んで首筋に落ちる。


「サティ、いつからそこにいたの?」


 黒々とした円い目を怪訝そうに細めて尋ねた相手は、木製の調理台の上――に設えた棚に丸まっている。美しい黒の毛並み、理知的な翠の瞳、優美な肢体を備えた依織の愛猫―サティアスだ。


「いつからだったかしら。依織がせかせか働くのを見物していただけよ」

「せかせか……」


 虫みたいだね、と依織は苦笑いだ。


「虫なんかよりずっと、可愛いおもちゃよ。安心なさい」


 人であればにっこり微笑んでいるだろう。サティアスの楽しそうな様子に、依織はお愛想程度に笑っておき、話を戻す。


「それで、噂って?」


「この店のこと。口止めしているわけでもないから、遅かれ早かれ口に上るのは分かっていたけれどねぇ。千差万別な内容ながら、サジタリウスのことだけは一貫して“屈強なオヤジ”だったことには笑えたわ」


「……知らなかった。どこで聞いたの?」


「色々と。猫の情報網、甘く見ないで頂戴」


「今まで生きてきて、サティのこと甘く見たことは一度もないけどね。頼りにしてるよ、ホント。こっち(・・・)に来てからはお世話になりっぱなしだね」


 照れ一つない感謝の言葉だったが、サティアスは満足そうに喉を鳴らした。





 シプレの森の謎のお宿、その主は強面をした 屈強な男(サジタリウス)ではなく、エプロン姿の少女―三鷹依織だ。男は人ですらない。依織お手製の布人形に、サティアスが何重にも術を掛けて作り上げた自動人形のようなものだ。唯一の従業員として常駐しているため、日々の出来事から色々と学んだのか、他人行儀な敬語口調から、酒場のオヤジ然とした口調に変化した。行動もしかり。今では依織の父親的存在でもあった。


「なんていうか、サージィは、誤解されやすいタイプだよね」


依織は完全に裏方に回っているので、今のところ客とは一切接触はない。カウンターに招き猫のように座り込んだサティアスに比べると、サジタリウスの接客を見る機会は少なかった。


 サティアスはしばらく黙り込む。

 父性の目覚めたサジタリウスが、唐突に“父”とは何かをサティアスに尋ねたことは記憶に新しい。適当に説明したおかげで、依織は17という年齢にもかかわらず、“高い高い”をされてしまった。驚くばかりでまったく喜ばなかった依織に、強面男はたいへん落ち込んだ。依織の中ではサジタリウスのイメージは、傷つきやすい(ナイーブな)お父さんだ。客との認識の差に開きがあるのは無理もない。


「まあ、本人は何とも思ってないだろうから、いいんじゃないかしら」


 サティアスの見解に、依織は「サティが言うなら、そうなのかな」と頷く。


「依織にさえ嫌われなければいいって、そういうスタンスよ、どうせ」


 誰が主人かわからないわ、まったく。

 サティアスはそうぼやき、不機嫌そうに目を細めた。






 名も知らぬ大陸――その西方に、メーリュンステと呼ばれる王国がある。その東には、魔獣の棲むシプレの森があった。生粋の日本人である依織が目覚めたのは、その森の湖のほとりだ。隣には愛猫サティアスが座っており、尻尾の先で依織の頬を撫ぜていた。


 本当に来ちゃったんだね、と依織は苦笑した。見知らぬ光景、嗅いだことのない空気のにおい、肌で感じる違和感。それらすべてに順応していないとはいえ、あっさりと受け止めたのはすでにそこがどういう場所が知っていたからだ。


――異世界。


 星の数だけ世界はあるのだと、いつだったか冒険心豊かな父親が浮かべた眼差しを思い出した。

 依織のあちらでの世界での最期を、彼女自身は他人事のように認識している。目前に迫った二つの目。あれはフロントライトだったのだと、死んだ事実を人づてに教えられてからようやく理解した。ふわふわとした気分の中、隣には愛猫がいて、心配そうに見上げてくる。ああそうだ、サティを追いかけてたんだっけ。そう思い出した。


 目の前には老人が一人。自らを“暇人”と名乗る柔和な笑みを浮かべた彼は、その瞳に楽しげな色を浮かべながら、冗談のように言った。


――楽しませてくれんか


 代償に、と与えられた莫大な魔力とともに依織が次なる世界に降り立つには、こういう経緯があった。言い返そうにも、依織は一言も口が利けなかった。一方的に与えられ、次なる世界はいったいどのような所かの説明をされ――老人の声とともに容赦ない光の筋が幾重も襲い、一人と一匹は知らぬうちに開け放たれた白き扉の向こうへと押し込まれていた。


――魔力を遣い、世界を統べるもよし。思うままに生きてみなさい。


 気を失った依織に、そんな声がかけられたことなど、彼女は知らない。





 異世界は森。静かな所だ。

 草の絨毯に座り込み、しばらく感心しきっていた依織だったが、掌を舐めるざらりとした感触にそちらを振り向いた。サティアスはちろと桃色の舌を出したまま、上目遣いで依織を見つめていた。


「おかしなことになっちゃったね」


 痛みさえ感じなかった死は、いつまで経っても実感がわかなかった。全身を見回しても変わったところはない。魔力について考えてみて、戦う人生なんて頼まれても嫌だけど、昔あこがれた美少女戦士のような存在になれるのだろうかとふと思った。そしてやや遅れ、家族や友人の顔を思い浮かべ、困ったように顔を顰めた。見つめてくる緑の瞳が揺れる。


「寂しい?」


 ぽつり、と問いかけた。湧き上がる感情を、胸の奥へ奥へと押し込める。


「これからどうしようか、サティ。今日からわたしと二人だよ」


 しんみりとした声に、サティアスが怖々とした様子で口を開く。いつものように、にゃんにゃんと鳴いて慰めてくれるのだろうと依織は目を細める。しかしすぐに、次に襲ったあまりの驚きに瞠目し、硬直した。


「私はちっとも寂しくないわ。依織がいれば、それでいいのよ」


 可愛らしい猫の口から、人の言葉が零れ落ちた。


「え? 今、しゃべった?」


 永遠に続くかと思われた沈黙ののち、依織はようやくそう訊いた。

 サティアスは目を弓なりに細め、しなやかな体を依織の膝頭に押し付けた。


「可笑しな依織。ええそうよ。二人きりだもの。話せないと寂しいでしょう?」


 そう言われ、確かにそうだと納得してしまった。じわじわと喜びが滲み、やがて胸を満たし、ゆるゆると強張った顔の筋肉が解け、満面の笑みとなる。狂喜乱舞し、何度か叫び、サティアスを抱きしめ頬をその顔に摺り寄せたところで、はた、と気づいた。


「あれ、でもサティ。男の子だよね?」


 率直な問いに、サティアスは動作を止めて黙り込んだが、じわりと妖艶な色気を全身から漂わせつつ、もし彼が人ならば稀代の悪女も尻尾を巻いて逃げるほどの笑みを湛えて、言った。


「あら、優雅で、気品溢れる口調だとは思わない?」


 その場に第三者などいなかった。依織は例に漏れず丸め込まれた。






「ホント、あのときは驚いちゃったな」


 夕食の準備も終わり、後片付けの手を動かしながら、依織は過去に思いを馳せていた。その肩にはサティアス。もともと身軽ながら、すっかり達人の域に達した魔術運用能力で身を軽くしているらしい。依織の首筋に頭を押し付け、耳元で「なぁに、あのときって」と問いかけた。擽ったそうに身をよじりながら、依織は「サティがしゃべったとき」と答えてやる。


 結局のところ、老人から授かったとてつもない魔力は日常生活以外には使われていない。異世界の料理が物足りないという理由から自炊をはじめ、その延長線で宿屋を経営することになったことだけが、“暇人”と名乗る老人の唯一の暇つぶしとなっているだろうと想像しつつ、平和な日々を過ごしていた。老人が小遣いを持たしてくれた、ということも大きいかもしれない。


「サティと喋れたらな、って思ってたんだよね、ずっと。わたしの悩みとか、話を聞いてもらうばっかりだったでしょ? なんとなく表情とかでね、考えてることとか、してほしいことは分かってるつもりだったけど、言葉が通じると、思った以上に楽しいの」


「…ふぅん。私と話したかったの。私が人だったら、よかった?」


「どうかな、それはわかんない。人だったそもそも拾ったって言って家に連れ帰れないよ。年齢的にはいくつくらいだっけ、もう大人でしょ?」


「まあ、それもそうよね。因みに、私はもう大人の男よ」


「その口調で言われると物凄く違和感あるけど、……サティが人間だったら、かあ。絶世の美女も裸足で逃げ出しそうだね」


「あら、美しい男は嫌い?」


「毎朝鏡を見るのが怖くなるだろうな、とは思うよ」


「依織は、可愛いわよ」


 サティアスの言葉に、依織は明るく笑い礼を言う。

 サティアスは不機嫌そうに嘆息した。





 夕食時もすぎ、一階の食事処はすでに魔力を閉じてあった。客を迎えるのはカウンターと廊下、無愛想な受付、サジタリウスのみ。依織の仕事は基本的に食事に関することだけだ。洗濯も掃除も無尽蔵な魔力で行っているので、自動化と言っても過言ではない。


 すでに朝食の準備はあらかた終えて、給仕はサジタリウスに頼んである。魔力で掃除をすれば、今日の仕事は完了だ。客のいないことを確認して、サジタリウスにあとを頼んだ。サティアスに目配せすれば、彼はトントンと床を前足で打つ。ぶわりと魔力の渦が展開し、一人と一匹の身体を包み込んだ。





「明日は別の街に行ってみてもいい?」


 勢いよくベッドに飛び込み、依織はとことこと後ろをついてくるサティアスを振り返った。

 サティアスはしっぽをゆらゆらと揺らしながら、


「依織が行きたいなら、連れて行ってあげてもいいわよ」


 上から目線ながら、その声は優しいテノールだ。嬉しがる依織に、満足げに目を細める。

 すでにパジャマ姿の依織は、ベッドの掛布団の下に潜り込むと、隣を示してぽんぽんと叩く。

 サティアスは一瞬沈黙し、


「先に寝てなさい。顔を洗ってくるわ」


告げて、隣にある浴室へと消えていく。

 依織は特に気にもせず、横に隙間を開けたまま、夢の世界へと旅立っていった。






***


(……困ったものね)


 ぎしり、ときしむ音を立てベッドが揺れた。眠りに落ちた依織の身体に、黒く大きな影がかかる。長く滑らかな指先がその頬をつ、と撫でたあと、首筋にかかる黒髪を払う。むき出しとなった鎖骨を名残惜しげに辿り、腕の付け根に上り、肩に触れる。


「ばかね、ホント」


 ぽつり、と毀れたテノールは、どこか寂しげに響いた。依織の唇が何か寝言を呟き、曖昧ながらそれが自分の名だと知って、閉じた唇がゆるく弧を描いた。肩に置いたままの手が、掛布団の上に置かれた依織の手に重なる。一回りも小さくややカサついたそれを取って、自らの唇に押し付けた。

 翠の双眸がきゅ、と細められる。

 浮かんだ色は、情欲だ。


「依織…」


 規則的に布団を持ち上げる胸につ、と視線を走らせる。秀眉をぐっと寄せ、握ったままの手をそこに重ね、――次の瞬間には、眠る彼女に口づけていた。唇を食み、柔く噛み、表面をざらりとした舌で舐める。閉じられた口に舌の侵入を拒まれ、少し顔を上げた。


「さ、てぃ…」


 その声がどこか名残惜しげに聞こえ、目をうっとりと細め、誘われるように口づけを落とす。肩の後ろへ流れていた艶やかな黒髪がするりと落ち、依織のそれと交じり合った。




 “暇人”は夢枕に立ち言った。

 それが欲しいのだろう、と。

 人になりたいのだろう、と。

 言葉を交わし、やがてその愛を手に入れたいのだろう、と。


 猫であることが嫌いだったわけではない。ただ初めは、“せんぱい”と呼ばれる男に対し、雌の目に浮かぶような熱っぽさをうっすらと浮かべた依織を、見たくなかっただけだった。

 どうしようもなく欲しいと思ったのは、獣である身の本能か、それとも老人の言う“獣を超越する感情”のせいか。彼にはわからない。

 ただ気づけば、“暇人”との約束の場所に、約束の時間に間に合うよう、飛び出していた。すぐ後ろを依織が走ってくることを、知らなかったわけではない。うっすらと、恐るべき事態を予想したか否か――答えは、否、ではない。


 それでも、サティアスに後悔はなかった。

 猫が人に惹かれ、番にすることのどこが間違っているのだろう。そう思った。


 何度となく、依織が泣いていたのは知っている。誰を思い浮かべたかなど知りたくもなかった。家族か、それとも友人か。それとも――“せんぱい”か。

 どうだっていい。誰にも渡すつもりなどないのだから。

 目の腫れた依織を、サティアスは優しく慰めた。人の言葉であやした。

 そして、まだ依織は知らない。


 彼が、人に転じたことを。




「後悔している訳じゃ、ないのよ」


 人になれば、すぐに思いを遂げられると思っていた。狂おしいほどの気持ちを解き放ち、自分の者にできると確信していた。たった一つ、誤算があっただけなのだ。人が人であるがゆえに芽生える感情、そのおかしくも奇妙で、弱い心を。


 いつか依織は、サティアスを大事な親友といった。家族だといった。それを番と同じだと思った、かつての愛猫(サティアス)はいない。そこにはまったく違う心の動きがある。愛の種類、それに伴う行為の意味。人となった彼はもう、それを知っている。


 そして、拒絶されることへの恐怖。

 理由はそれだけだ。



「“愛している”の意味を、知ったのよ、依織。すごいでしょう?」





 魔獣の棲むシプレの森に、フードを被った男がいたという。月光が淡く地面を照らす夜の話だ。ともすれば闇にまぎれてしまいそうな彼は、月の姿をほしいままにした湖面を見つめたあと、躊躇うことなくフードを取った。艶やかな黒髪、翠の双眸。緩く笑んだその顔はぞくりとするほどの美貌を湛えていた。

 彼は小さく、誰かの名を呟いたという。

 それは甘く、愛を乞う様に呼んだという。


初、異世界にトリップした話、でした。

読了ありがとうございます。


サティアスの名前、さっそく使わせていただきました。

ありがとうございますー! とこの場で感謝を叫びます。

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