彼女 2
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いつもよりも目覚めのいい朝だった。珍しくすっきりと目が覚めたことに違和感を覚えながら顔を洗って台所へ行くと、朝食の準備をしようとしていた兄が驚いた様子で私を見る。
「なんでもう起きてるんだ?」
「目が覚めたから」
「緊張して眠れなかったか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
普段から寝起きがよくないことを自覚している分、自分でもこんなにすっきり目が覚めたのは不思議だった。
「朝ごはん作るの手伝う」
「えー……」
すごく微妙な反応をされた。兄はいつも私が手伝うと言うと渋る。
「ダメ?」
「いや、ダメってわけじゃないんだが……じゃあ冷蔵庫から卵とベーコン出して」
言われたとおり冷蔵庫から材料を取り出すと、フライパンに油をひいて火をつけていた兄に渡す。
「ほい、ご苦労さん」
「他には何かない?」
期待はせずに尋ねてみると、
「あー……ご飯とパンどっちがいい?」
「パン」
「じゃあ、パン焼いて。トースターの使い方わかるだろ?」
「それぐらいわかるよ!」
心外に思いながら、手伝いをさせてもらえることが予想外で嬉しかったのでさっそく取り掛かった。私がトースターにパンを入れている隣で、兄はフライパンにベーコンを置いて卵を片手で割りいれた。熱せられた油が跳ねるいい音がするフライパンに蓋をして、兄は冷蔵庫から何かを取り出していた。手際がいいなぁと思いながら、私はその様子を横目にトースターの様子を眺める。
「お兄ちゃん、料理うまくなったよね」
「は? どうした、急に」
怪訝そうに冷蔵庫を閉めた兄の手にはレタスとトマト、ハムがある。
「前は卵を片手で割るなんてできなかったじゃん」
「……まぁ、な」
「私もできるようになりたいなー」
「いつかできるようになるよ。急ぐことない」
「うーん……」
兄がそう言うのは、私が不器用だから怪我をしないか心配で言っているのだろう。確かに私は卵を割るのも時々失敗するし、包丁もまだ危なっかしい。爪の先を落としたときはさすがに怖かった。少しずれていたら指が落ちていたところだった。それに、この前は砂糖と塩を間違えるという不器用だからという言い訳ができない古典的な失敗をした。
家庭科の調理実習でも友達に気を遣われて簡単な作業を任せてもらっているのだけど、いい加減周りに甘えてばかりもいけないとは思っているのだ。母がいたら教えてもらえるのに、と思わないこともないけれど、兄がいる前でそんなことは絶対に口にはできない。
そういえば昔は母と一緒にお菓子を作ったりしたことがあったなぁ、と思い出す。まだ小学生で簡単なことしか任せてもらえなかったけど、とても楽しかった記憶がある。
「パンがこげるぞ」
言われてハッとなってトースターを覗くと、こんがりとパンに色がついていたのでスイッチを切った。パンにバターを塗ってお皿に載せているうちに、兄はサラダとベーコンエッグを作り、りんごの皮を剥き終わっていた。
「今日の昼はどうするんだ?」
「友達とファミレス行こうって話になってるんだけど」
「そうか」
「お兄ちゃんは?」
「終わったら帰るよ。何か荷物とか預かってほしいなら持って帰るから言えよ」
「うん」
洗い物を終えた兄が食卓に着く。
「せっかく早起きしたんだから、ちゃんと食って早めに学校いっとけ。今日で最後なんだからな」
「うん。いただきます」
手を合わせて兄と一緒に食べ始めた。兄とこうして学校に行く前の朝ごはんを食べるのも今日で最後なんだと思うと、なかなか食が進まなかった。私は改めて今日と言う日を意識する。
今日が高校生最後の日、卒業式だ。
教室に入ると、みんなが心なしかそわそわした様子でそれぞれ談笑をしていた。いつも通りの教室の風景なはずなのに、やっぱり何かが違う。
「ミノリーン」
「わっ!」
突然背後から抱きつかれて私は倒れないように踏みとどまる。後ろを見ると、クラスメイトのユキノの笑顔があった。
「ちょっと、ユキノ。急に来られたらびっくりするじゃん」
「えへへーごめん」
笑って頭を掻くユキノに、
「朝から騒がしいぞ」
と言って背後から軽くチョップをお見舞いしたのはトシキ君だ。
「トシ君いったーい」
「そんな強くやってないだろ」
「女の子に手を挙げるなんていけないんだー」
「小学生か……」
言い合う二人を見て、相変わらず仲がいいなぁと思いながら笑っていると、ユキノが私の手を取った。
「ねぇねぇ、今日ミノリンの家の人は来るの?」
「うん、来るよ」
「二人とも?」
「え?」
言われて私はハッとする。そういえばユキノは転校生だから私の両親のことは知らないんだった。私も教えることでもないと思って今まで言わなかったけど。
「えっとね、私の家――」
言いかけたところでまたトシキ君のチョップがユキノの頭に落ちた。
「ふぎゃぅ!」
「用事思い出した。ユキ、ちょっと付き合え」
「いいけどなんでブツのー!」
「理由はない」
言いながらユキノの肩を掴んで押し出すように連れて行く。
「悪かったな」
去り際にトシキ君が小さくそう言った。ユキノに文句を言われながら去っていくその背中を見送る。気を遣わせてしまったなぁと私は苦笑して教室に入り、他のクラスメイトの輪に加わった。
式は思っていたよりあっさりと終わり、最後のホームルームも滞りなく終わった。泣くかなと思っていたけれど、隣にいたユキノが号泣していて宥めていたので、私の涙は引っ込んでしまった。他のクラスメイトも泣いたり笑ったりと騒がしい。教室にやって来た保護者達の中に兄の姿を見つけて声をかけた。
「お兄ちゃん」
「おぉ、どうだった? 卒業式は」
仕事用のスーツを着ている兄は、保護者達に不思議そうな目を向けられていたようで少し居心地が悪そうだった。確かに高校生の親にしては兄は若すぎる。
「うーん、どうだったと言われても」
「まだ実感ないか?」
「かなー」
「俺もそうだったよ」
言って兄は肩を竦めた。
「あ、後で写真撮るから。校門の辺りとかで」
「写真?」
「叔父さんたちが見たいんだと」
叔父夫婦は、仕事の都合がつかなかったので卒業式には来ていない。
「ふーん。じゃあお兄ちゃんも一緒に撮ろうよ」
「俺はいいよ」
「えー、なんで?」
「お前の卒業式なんだから、お前だけでいいんだよ」
せっかくだし一緒に撮りたいと思っていたのに。兄と写真を撮るなんて何年振りかわからない。
「お、イサメか?」
急に声をかけてきたのは私のクラス担任の先生だった。
「久しぶりだな、元気してたか?」
「どうも。先生老けたっすね」
「久しぶりに会って第一声がそれか? しかし変わったなぁ、お前」
笑顔で兄の肩を叩く先生は嬉しそうだった。
「そういえばミノリはお前の妹だったな」
「そういえばっつーか、三者面談の時も会ったじゃないすか」
「あぁ、そうだったな」
「先生ってば、時々私のことお兄ちゃんの名前で呼ぶんだよ」
「いやぁ、すまんすまん。つい、なー」
先生は兄が三年生の時の担任だったので、よく私に兄の話をしていた。
「イサメは保護者会には出るのか?」
卒業式の後には、教職員と保護者で食事会みたいなものが開かれるらしい。
「いや、さすがに保護者の中じゃ浮くんで、帰ります」
「そうか」
先生は少し残念そうに答えて、
「時々は顔見せてくれよ。俺はまだこの学校に残ってるつもりだからな」
笑って言うと他の保護者へ挨拶に行ってしまった。
「かわらねぇな、あの人も」
懐かしそうに言って、兄は携帯を取り出した。ぶら下がったストラップのキャラクターが私を見つめる。
「タツキか」
どうやらタツキさんからのメールらしい。
「写メ欲しいって」
「何の?」
「お前の」
「え? なんで?」
「今日が卒業式だって言ったら写メよこせって」
「えー、なんか恥ずかしい」
そう言っている間に、兄は携帯を構えてこちらに向けた。カシャリとシャッター音がする。
「あ!」
すごく気が抜けている顔を撮られてしまった。
「ちょっと、今の送らないでよ!」
「別にいいだろ、減るもんでもないんだし、どんな顔してたってかわらねぇよ」
言いながらすでにメールを送ってしまったらしく、兄は携帯を閉じた。
「うー……すごい間抜けな顔してたでしょ」
「気にするな、いつも通りだ」
すると、兄の携帯が震えた。今度は電話のようだった。
「もしもし?」
『あんた適当に撮って送ったでしょ! 女の子なんだから気を遣え!』
電話の向こうからタツキさんの声が聞こえる。
「別にかわらねぇだろうが」
『これだから男は。ミノリちゃんそこいる? 代われる?』
「あぁ。ほら、タツキだ」
兄から携帯を受け取って、耳に当てる。
「もしもし」
『あ、ミノリちゃん? 卒業おめでとう!』
「ありがとうございます」
『ごめんね、イサメってばデリカシーないから』
「いえ、慣れてます」
電話の向こうでタツキさんの笑い声がした。
『今度また遊ぼうね、卒業祝いにご飯でも行こうか。イサメとマコトも一緒に』
「はい!」
『じゃあ、楽しみにしてて。イサメに代わってもらえる?』
兄に携帯を返すと、兄とタツキさんが再び話し始めた。その時、後ろから肩を叩かれて振り返ると、ユキノとトシキ君がいた。
「ユキノ、もう大丈夫なの?」
先程まで号泣していたユキノは、目を真っ赤にしながら頷いた。
「ごめんね、ミノリン」
「いいよ。大丈夫そうならそれでいいの」
「ミノリンはこの後一緒にご飯来てくれるんだよね?」
「うん、行くよ」
それを聞いたユキノは目を輝かせて、花が舞いあがりそうな笑顔を浮かべた。
「ねぇねぇ、その人がミノリンのお兄ちゃん?」
「うん、そうだよ」
「そうなんだー」
ユキノは興味津々な様子で兄のことを見上げていた。両親のことを聞いてこなかったのは、あの後おそらくトシキ君がユキノに説明したのだろう。
「お兄ちゃんかっこいいねー」
「そ、そうかな?」
あまり意識したことはないが、兄はかっこいい部類なのだろうか。でも、身内を褒められてあまり悪い気はしない。
「あ、でもでも、トシキ君が一番かっこいいよ!」
「っ……聞いてねぇよ、バカ」
唐突な言葉に目を泳がせて答えたトシキ君は顔を赤くしていて、私は笑ってしまった。本当に仲がいいなぁ。
「あぁ、じゃあな」
電話を終えた兄は携帯をしまうと、
「友達と飯行くんだろ。さっさと写真だけ撮っちまおう」
「あ、うん。ユキノ、ちょっと写真撮ってくるから待ってて」
「私がシャッター押してあげるよ!」
「お前、ちゃんと撮れるのか?」
トシキ君が呆れたように言う。
「え、うーん……でもお兄ちゃんと一緒に撮るでしょ?」
言われて私は兄を振り返る。
「? なんだよ?」
兄は今の会話を聞いてなかったようで首を傾げた。兄のことだから、一緒に撮ろうと言っても首を縦には振らないだろう。
「お兄ちゃん、ユキノがシャッター押してくれるって。一緒に写真撮ろう」
「はぁ? 俺はいいよ、お前の卒業式なんだから」
予想通りの答えに、私は口を尖らせる。
「いいじゃん、滅多に二人で写真なんか撮らないんだから! ほら、行こう」
「おい、引っ張るなって」
兄の腕を引いて、ユキノとトシキ君と一緒に校門へ出ると、そこはすでに卒業生と保護者でごった返していた。なんとか空いている場所を見つけてそこに立つと、兄の鞄からカメラを取ってユキノに渡す。しかし、受け取ろうとしたユキノより先にトシキ君の手がカメラを掴んでいた。
「こいつに任せるとろくなことにならないぞ。俺が撮るよ」
「えーっトシ君ずるい!」
「お前、どうせデジカメ使ったことないだろ」
「あぅ……」
図星だったらしく妙な声を上げて黙り込むユキノに笑って、私は手を合わせる。
「じゃあ、トシキ君、お願い!」
「あぁ」
トシキ君は頷いてユキノと一緒に少し離れた場所に立って、私たちにカメラを向けた。
「なんで俺まで」
兄がぶつぶつ言いながらも私の隣に立つ。
「ほらお兄ちゃん、笑って」
無理とわかっていても言ってみるが、兄は難しい顔をしたままだ。
兄があの日から笑わなくなってしまったことには気づいていた。今日ぐらいは笑ってくれないかな、と期待を持たずにはいられない。
「じゃあ撮るぞー」
トシキ君の声に、私は兄から視線を外してカメラに向いた。二、三回シャッターを押したらしいトシキ君が駆け寄ってくる。
「こんな感じだけど」
私が手を伸ばすけど、その前に兄がカメラを受け取ってチェックし始めた。兄の手の位置は私には高くて画面を覗き込めない。
「どうっすか?」
「よく撮れてるよ、ありがとな」
「お兄ちゃん、私にも見せてよ!」
「帰ってからでも見れるだろ。せっかくの日なんだから、少しでも長く友達と遊んで来い」
言ってさっさとカメラをしまってしまった兄に、なんとなく違和感を覚えて私は首を傾げるけれど、ユキノが私の手を引いて早く行こうと急かすので、兄に荷物を預けて別れた。
ユキノと歩いてファミレスへ向かう途中一度振り返ると、兄は担任の先生に捕まってどこかへ連れて行かれるところだった。何かあったのだろうか、と気にしながらもユキノに手を引かれて、私は卒業生で賑わう学校を後にした。