破戒言語直進空間
セリヌンティウスは目覚めとともに大気を満たす硫化水素と塩素の混合気を猛然と吸入し、乾燥昆布のカーテンを開いて北から昇る三角形の太陽を敢然と迎え、窓から棒高跳びで屋上のリビングへと移動する。そして妻の用意した鉄板のトーストとたっぷりの重曹を溶かした南極産のコーヒーの朝食を摂りながら三年と三日前の新聞を開いて、渇水したダムの底で干からびた河童の死亡記事を知る。
「大変な時代になったものだ」
セリヌンティウスの慨嘆に逆立ちをする妻は八年と七ヶ月と十四日前のチラシに感涙しながら頷くと、
「それよりあなた。そろそろ会社に行く時間でなくて?」
と、答えた。砂時計はすでに午前一時を指している。しかしセリヌンティウスは狂奔するネズミ花火を踏み付ける水牛のように落ち着き払った態度で、眼下の庭に縦列する三万七千五百八十二台の白黒テレビを睥睨した。
「まあ待て妻よ。天気予報を観てから動いても遅くはあるまい」
テレビにはロープで逆さ吊りにされたお天気お姉さんが凄絶な作り笑いで今日の天気を告げている。
「晴れのち曇り。ところによりガチャピンが降るでしょう」
天気予報が終わるとロープが切れて鈍い音が鳴った。そのままCMが流れ出す。今流行りの正十八面体蒸気式冷蔵庫のCMだ。
「ガチャピンか。降られると困るから傘を用意しよう。妻よ。折り畳み傘を」
「はい、あなた」
妻が足で差し出した首のへし折られたフラミンゴを受け取り、セリヌンティウスはスルメイカのスーツを羽織って、オガサワラオオコウモリのネクタイを締め、鮫肌の靴を履く。
「いかんな。少しゆっくりし過ぎたか。バスに遅れてしまう」
腕日時計を見ながらセリヌンティウスは唐草模様の風呂敷包みを背中に担ぎ、百体の地蔵の頭の上に立つ自宅を飛び出した。走れセリヌンティウスよ。おまえの轟然たる妄動を道々の人々が祝福する。おまえは通りすがる人々の顔面をフラミンゴで横打して、血溜まりくれる坂道を悠然と駆け下りる。左右に並ぶアシカの鼻の先で回転する家々はおまえの正義をスタンディングオべーションで称賛し、ICBMを起動して高らかに祝砲を打ち上げる。
「間に合った」
そして地平線にキノコ雲が上がったのが見えたとき、セリヌンティウスは黒板を斜めに突き刺したバス停に並ぶ、甲冑やバニー服を着た人々の列を認めた。どうやらまだバスは着いていないようだった。安堵したセリヌンティウスは包みからゴルフクラブを取り出すと、おもむろに一本足打法の練習を始める。
「バスが来たぞ!」
前に並ぶセーラー服を着た男子高校生が叫んだ。見るとワックスに輝くフローリングの道路の先に大きな箱を引くたくさんの人影がある。
「有権者の皆さん! あけましておめでとうございます!」
百匹のアウストラロピテクスに曳かせた月の輪熊の浸かった漆塗りの真っ黒いバスタブの上に開く曼珠沙華の上にそびえ立つ十字架に張り付けられた千手観音菩薩の上に立つカラシニコフ銃を抱えた政治家が、バス停に並ぶ下々に銃口を向けてにこやかに挨拶する。
「有権者諸君! その蒙昧たる脳みそで我々の死命を決し我々を翻弄し続ける有権者諸君! 混迷は終わりを告げる! 私は必ずや頑迷なる諸君を約束の地へと導こう! そこはカナンの地。マジノ線の向こう。スターリングラードを経由して、南京へと至る道。百万体の血塗りの球体関節人形に飾られた地上の楽園。そこでは三角関係に悩むアイアンメイデンの憂鬱もギロチンの滑落に救済の音を聞き、四角関係に悔やむサイコロの懊悩もジュークボックスの爆発に革命の閃光を見ることだろう。自戒せよ。大音量で軍艦マーチを鳴らす救急車の説教は、分裂病の躁鬱患者の遺体を運びながら道々のゴミ集積場に美麗なる火を放つ。そしてタウリンを増進するのだ。アナフィラキシーの虜となった英雄は敢然としてミジンコの群れへと立ち向かう。そして破談したおしどりが生み出す亀裂が、ここに改悛の銃声を鳴らすのだ。諸君! 狂騒に狂奔する教授たちを教戒せよ! 獰猛なる羊の顎は憐憫を求めて泣き縋る狼のはらわたを一寸の逡巡もなく食いちぎる。愚昧なる有権者諸君! その薄汚れた手で清き一票を投票するのだ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ!」
カラシニコフが火を噴いて、バス停に並ぶ人々が次々と倒れる。そしてアウストラロピテクスは前進を続け、それは八列縦隊で行進する軍隊蟻を踏み潰す戦車の如く、前途を塞ぐなにものをも踏み潰して邁進する。セリヌンティウス等はカラシニコフの銃撃をかい潜ってバスタブに取り付きお湯の中へと浸かる。すると先客の頭にタオルを載せた月の輪熊からおちょこ一杯のメチルアルコールを奨められた。
「支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ! 支持せよ!」
絶え間無い銃声は力強い響きで道々の人々を薙ぎ倒す。やがてマジノ線の塹壕陣地を突破して、スターリングラードに降り注ぐ迫撃砲の雨をくぐり抜けると、バスタブは血糊塗れの球体関節人形がうずたかく積み上げられた南京にあるセリヌンティウスの会社へとたどり着く。バナナボートが突き刺さった会社近くのバス停で降りたセリヌンティウスは、高さ千スタディオン程の大きさの鏡餅の頂きにある、導火線を垂らした鉛色の蜜柑の中にある会社にUFOキャッチャーのクレーンを使用して入る。すると頭頂に点滴を注している金満に憔悴した顔の受付嬢が優しい嘲りを浮かべてセリヌンティウスを出迎えた。
「あけましておめでとうございます」
「よいお年を」
挨拶を交わしセリヌンティウスは梯子を昇って職場であるオフィスに向かう。
「やあセリヌンティウス。今日は遅かったな」
鍵穴のない南京錠で閉じられた鉄格子を跨いでオフィスに入ると、セリヌンティウスの同僚であるセリヌンティウスが声を掛けてきた。
「バスが遅れたんだよ」
セリヌンティウスはスチームアイロンの並ぶオフィスの中の自分のアイロン台の上に正座しながらセリヌンティウスに答えた。
「あのバスは混むからな」
セリヌンティウスが頷く。するとセリヌンティウスの左隣のアイロン台に座り天井に貼り付けられたフードプロセッサーでオケラを切り刻む作業をしていたセリヌンティウスが会話に割り込んだ。
「あのバスはおかしいよ」
「何がおかしいんだい?」
フードプロセッサーからこぼれるオケラのカスを頭に被りながら、セリヌンティウスは忿懣やる方ない様子で言った。
「考えてもみなさい。あれだけのバスを引くというのに、あのバスは旧型のアウストラロピテクスを、しかも百匹しか使っていないのだよ? アウストラロピテクスではなく新型のピテカントロプスを使えば同じ百匹でももっと速く走るというのに、まったく馬鹿げたことだ」
セリヌンティウスは確かにそうだと納得する。しかし同僚のセリヌンティウスが反論した。
「君は費用というものを考えていないなセリヌンティウス。ピテカントロプスは確かに百原人力あるから、大体アウストラロピテクス三匹分の力がある。しかし値段は三万ペソもする。これは八兆六千九百二十億五千七百八十四万九千五百六十五ジンバブエドルのアウストラロピテクスの五倍もする。それにピテカントロプスは故障が多いと聞く。それなら安定性に定評のある旧型のアウストラロピテクスを使い続けるバス会社の意向も理解できるというものだ」
これにもセリヌンティウスは納得する。しかしセリヌンティウスも負けずに反論する。
「いやいや、値段は確かだが故障についてはアウストラロピテクス愛好ユーザーが撒いた風評だ。彼らは外資の原人メーカー製品であるピテカントロプスを毛嫌いしているからな」
ほうほうと頷くセリヌンティウスの肩越しにセリヌンティウスがセリヌンティウスを睨んだ。
「それこそピテカントロプスを生産しているネアンデルタール社の陰謀だ。そのうちピテカントロプスは大リコールさ」
セリヌンティウスもやはりセリヌンティウス越しにセリヌンティウスを睨み返す。
「北京原人社の時代の遅れが君にはわからないのか? 去年の原人ショーの周口店モデルの尻のラインを見ろ。酷いラインをしていたぞ。あれではまるで猿のケツだ」
セリヌンティウスとセリヌンティウスの一触即発の雰囲気にセリヌンティウスが汗をかく。セリヌンティウスもセリヌンティウスもこと原人の話となると熱くなってしまうのだ。セリヌンティウスがどうしたものかと考えている間にセリヌンティウスの頭の上でセリヌンティウスとセリヌンティウスが取っ組み合いを始めてしまった。
「ああ、やめてくれ!」
セリヌンティウスが止めに入る。するとこれを見ていた他のセリヌンティウスたちもこの喧嘩を止めようと集まって来た。セリヌンティウスがセリヌンティウスを殴るのをセリヌンティウスが腕を押さえて止めようとすると、セリヌンティウスが足でセリヌンティウスを蹴り飛ばした。怒ったセリヌンティウスはセリヌンティウスにスチームアイロンを叩き付けるとセリヌンティウスの額から血がほとばしる。セリヌンティウスは憤激してデンプシーロールでセリヌンティウスを殴打すると、セリヌンティウスが卍固めでセリヌンティウスの関節を破壊する。セリヌンティウスはセリヌンティウスを止めるどころかセリヌンティウスと一緒になってセリヌンティウスを殴り始めた。セリヌンティウスはあまりにセリヌンティウスが集まってしまって誰がセリヌンティウスだかわからなくなってしまったので、セリヌンティウスはセリヌンティウスたちに向かい叫んだ。
「どのセリヌンティウスが私なんだ!」
するとセリヌンティウスたちは一斉にセリヌンティウスに振り向いてセリヌンティウスにこう言った。
「私がセリヌンティウスだ」
セリヌンティウスは脳内の螺旋階段を駆け登るミトコンドリアたちが、その頂きに梔子の花を咲かすのを確信した。
「そうか。セリヌンティウスは私であり、私はセリヌンティウスだったのか。つまり君達は私であり、私は君達であるということか!」
セリヌンティウスの確信をセリヌンティウスたちが拍手する。
「おめでとう、セリヌンティウス」
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
セリヌンティウスたちの祝福にセリヌンティウスは千万のバルバロイを殺戮した凱旋将軍の如くに右手を挙げて鷹揚に応える。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
そのとき始業ベルがけたたましく鳴り響いた。セリヌンティウスたちは一斉にアイロン台の前に立ち、力強い足取りで一糸乱れぬ見事な踏み台昇降運動を始める。踏み台昇降のエネルギーは波動となって徳之島北西の海底に沈む戦艦大和の波動エンジンを駆動してコスモクリーナーを起動させ、今日も日本を浄化するのだ。
「進歩ナキモノハ必ズヤ敗北スル ソレハ天上ノ定メタ至上ノ命令デアル 日本ハ進歩ヲ忘レ安逸ヲ貪ッテイル タダ進ムモノノ足ヲ引ツパリ、堕落ヘト引キズリコンデ安心ヲ得テイルダケナノダ モハヤ日本ノ道ニハ敗北シテ目覚メル、ソレ以外ノ道ガドコニアルトイウノカ ソレ以外ノ道デドウシテ日本ガ救ワレルトイウノカ 今日コノ日ニ目覚メズシテ、イツ日本ガ救ワレルトイウノカ 俺タチハソノサキガケトナルノダ 踏ミ台ヲ踏ンデ踏ミ台ニナル マサニ本望ジャナイカ 踏ンデ、踏ンデ、踏ミ斃レルマデ踏ンデ、コノ国ノ礎トナルノダ!」
呪詛の如く繰り返すセリヌンティウスたちの叫びの声は次第に悲愴の度を深め、やがて一人一人とセリヌンティウスたちは斃れていく。そしてついに一人となったセリヌンティウスは最後の一踏みにガラス張りの床を踏み抜いて落下する背黄青鸚哥の悲鳴のような絹の裂く音を聞いたのだった。
「さて、お昼にしよう」
それは昼休みのベルだった。窓の外では平行四辺形の満月が燦々と輝いている。起き上がったセリヌンティウスたちは昼食を求め、一斉にオフィスを後にする。
「今日はなにを食べようか」
鏡餅の下に広がる飲食店街へと落下傘降下するセリヌンティウスたちは思案する。
「よし、この店にしよう」
そしてセリヌンティウスたちは決断し、全員で幸楽の暖簾提げたカレー屋に入り、ジンギスカンを注文する。
「ジンギスカン入りました!」
店員の呼び声に厨房から牛刀と鉄板を持った子羊たちが次々と現れた。子羊たちは各テーブルに鉄板を敷いてその上に立ち、断腸の思いで泣く親羊たちの叫喚の中で、一斉に自らの喉笛を掻き切った。見事なまでの鮮血の連鎖。悲鳴の連続。ツタンカーメンの祝福にも似たその光景は、喝采とともにセリヌンティウスたちの空腹を刺激する。
「うむ、おいしい」
鉄板の上で炎上する子羊の死骸を貪り、セリヌンティウスたちは舌鼓を打つ。
「さて、また仕事だ」
こうしてセリヌンティウスたちは再びコスモクリーナーを稼動させ午後も日本を浄化すると、終業時間きっかりにタイムカードを押して一斉に帰宅した。
「む、あれは」
帰路についたセリヌンティウスは怪しい雲を見つけた。それは赤い毛むくじゃらの物体で、目らしき球体を二つ突き出し、頭頂にあたる部分にプロペラを挿している。
「いかんな。ガチャピンか」
それは巨大なガチャピンだった。ガチャピンは四角く大きい口を開け、何かを求めるようにさまよい歩く。そしてその口から炎を噴いて、眼下の街を焼き始めた。
「仕方ない。傘を差すか」
ガチャピンの吐く百万デシベルの青い炎は、遠赤外線効果で百万市民の健康を増進していく。セリヌンティウスが開いた折り畳み傘も、炎を浴びると瞬く間にへし折られたフラミンゴの首が直立し、西の空に向けて悠然と飛び去っていった。そして健康になった市民たちはその全力の健康をたちまちに持て余し、それを運動会によって解消する。焼け野原はすぐさま万国旗はためく校庭に整地され、百万市民は一斉に徒競走を始めた。百万の足音は地鳴りとなって大地を揺るがし、マグニチュードは地震計を振り切って地下のマグマを噴出させる。一万フィートを噴き上げたマグマの飛沫は、火雨となって百万市民に降り注ぎ、バンザイの声が阿鼻叫喚にこだまする。マグマは波となって百万市民を押し流し、人々は神の施す臨終の秘蹟に歓喜する。完全なる喜びは来たった。約束の時。祝福の時。天上は大地に繋がり、世界は輪環を為して生起した。無情なる無常は無上なる完結の内に破綻して、デマゴーグの封印はパンドラの箱とともに開封された。イスカンダルは間近に迫る。百万市民よ昇天せよ。偉大なる天竺に至った玄奘三蔵は崇高なるフォルトナの女体により征服される。因業を極めたまえ極めたまえ。サイレンは鳴り続く。白濁たる交わりは大海に月下美人の花を咲かすのだ。見よ、マグマの海に溺れる人を。見よ、炎上するガチャピンの人柱を。大山椒魚の背中に乗ってわずかに助かる人々は遠海に浮かぶ方舟へと向かい、波間に浮かぶ炭人形を嘲りに愚弄する。その中でセリヌンティウスはバス停のバナナボートを引き抜いて乗船し、マグマの波を掻き分けてゆるりと自宅へと帰着した。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた」
かくしてセリヌンティウスの平穏なる一日は幕を閉じ、再び明日への準備を始める。
あくまでも作者はしらふです。
シンナーとかメチルとかヒロポンとかそういものを服用してる訳ではありません。