精霊付き遺産相続 9
三度目に彼があらわれたのは、数日後の朝だった。わたしはちょうど出かけようとしているところだった。
「おはようございます、ミス・リディア・ダーバヴィル」
「おはようございます。ミスター・ナイトレィ。またいらしたの?」
「はい」
彼は背筋をすっと伸ばして階段下に立っていた。そしてわたしが階段をホールへと降りてくる間、わたしを待って姿勢良くたたずんでいた。
「わたしはこれから仕事に行かなくてはいけないの」
彼は怪訝そうに眉をひそめた。
「仕事をお持ちなのですか」
「ええ。電話交換局のオペレーターよ」
「屋敷を相続された時、一緒に公債か何かも受け取らなかったのですか?」
彼の顔に、そんなことはあり得ない、という驚きが浮かんでいた。彼はわたしよりもっと多くのことを知っていると言いたげだ。
「いいえ。わたしが受け取ったのは、この屋敷だけです」
公債などの現金につながる財産があれば、わたしはきっともう少し楽に生活できただろうと思う。けれども現実にはそれはなかったのだし、わたしはそのことを気にしてこなかった。考えても仕方がないことだからだ。とは言え、こうやってあらためて問われると、まるでわたしは世間から不当に扱われているような不愉快な気持ちになるし、彼が悪いのではないけれど、それを思い出させた精霊にとりあえず八つ当たりしたくもなる。わたしは少し顔を逸らしてそんな気分を心から逃がした。
「そうですか」
彼はしばらく何かを思案し、すぐさますらりと先に歩き出した。
「お送りします」
もしかしたら、彼は何かしら二人で一緒に時間を過ごす楽しい計画を持っていたのかもしれない。先日は屋敷や庭を案内してくれたような。
彼はわたしを導くように歩き、エントランスでは本物の貴族のお嬢様に仕える執事のように、慇懃に扉を開けてくれた。
悪い気はしない。かつてメイドだったのはわたしで、主人やその家族の命令に従い、かつ、主人がなんら支障なく行動できるよう振る舞わなければならなかったのはわたしだった。主人として接してもらうということが、これほど人を尊大な気分にさせてくれるのだとは思いもしなかった。けれども同時に、ここまでされるのは居心地悪くもあった。
自転車を押して 建物の正面から門へ向かいながら、わたしは彼に言った。
「あの、よければもう少し、普通に接していただけません?」
「普通といいますと?」
「もう少し、対等に、ということです」
彼の顔には、理解不能なことを言われたと言いたげな表情が浮かんだ。
「対等に。ただお屋敷を相続したというだけでわたしはお嬢様になったわけじゃないのだから」
お嬢様と呼ばれるにふさわしい最低限の教養やたしなみすらないというのに、たかが屋敷を相続したくらいで自分を勘違いした人間にはなりたくない。
彼はじっとわたしを見つめ、無言でわたしの言ったことを吟味しているようだった。彼のその逸らさない黒いまなざしは、まるでわたしが言葉にしなかったことまで読み取ろうとしているように見える。
彼は単に、時代が変わって自由奔放な人間が増えたことに慣れず、そういう種類の人間との上手な距離の取り方を計りかねているのかもしれない。それが彼をぎこちなくし、お互いが心地よく感じるところよりお互いの距離がまだ少しはぐれているのだろう。人が親しくなる過程では、よくあることなのだけれど。
ヴィクトリア女王の治世の頃は、世の中はもっとずっと厳格だったそうだ。まるでその反動のように、世紀が変わると世の中の蓋が開いたように明るい時代がやってきたのだと、知識と分析力を生かして文筆活動をしている人々は新聞や雑誌の紙面に書いているらしい。さながらこの精霊はヴィクトリア朝の紳士で、わたしは今の時代の浮かれた新労働者層、というところかしら。
わたしたちは門にたどり着いた。
「あ、ミス・リディア・ダーバヴィル!」
門の外に黒い馬なし馬車──つまり自動車が止まっていた。その陰から男が飛び出してきて、帽子を取ってわたしに頭を下げた。彼は数日前から門の前にやってきてわたしをつかまえると自己紹介をし、いつでもご用命を、と売り込んでいた。
「ジョージ・バンクスさん、おはようございます」
「おはようございます、ミス・ダーバヴィル。さ、お乗りなさいまし!」
精霊のミスター・ナイトレィが、平静な表情の下にあからさまな感情を隠しながら、いぶかしげな視線をわたしと彼と交互に向けた。
「タックスメーター・キャブ(現在のタクシー)よ。彼はそのキャビィ(馭者。ここでは運転手)」
わたしは精霊に紹介した。
一頭立て二輪の辻馬車(この頃のタクシー)も道を走っているけれど、最近はタックスメーター・キャブ(タクシー)もよく走っている。けれどもそれはロンドンのような大都会での話。帝都郊外よりさらに遠いこの町では最近ようやく見かけるようになってきたばかりだ。彼のタクシーは、この町の五番目より早いタックスメーター・キャブ(タクシー)だと思う。
「大きなお屋敷のお嬢様は、自動車に乗るもんです」
運転手のバンクスさんはわたしに乗車を迫った。彼はわたしを、自分のお得意様にしたいのだ。
「なんとかっておっしゃるマダムも、自分の運転手を雇って自家用車に乗っていなさる。昨日もなんだかの殺人事件の犯人を突き止めたって新聞をにぎやかしていなさった。自慢のロールスロイスで犯人を追跡なさったそうですよ。これが今時ってもんです。だからお嬢様も、ささ!」
わたしは小さく苦笑した。
「いいの。わたしは自転車に乗っていくから。こちらの方が健康的でしょ?」
あのマダムは内務省のコンサルタントを勤めているような人だもの。元メイドのわたしが車に乗っても、殺人事件に巻き込まれることはなさそうだし、カーチェイスを演じることもなさそうだものね。
バンクスさんはまだなんとかわたしをタクシーに乗せようと説得し続けたけれど、わたしは素早く自転車にまたがった。メイドの頃に少しずつ貯めておいた心付け(チップ)で商店街の古物屋に並んでいたのを買ったのだ。
実を言うとまだ乗り慣れていなくて、特に乗り始めは気が張る。けれども今朝はいい気分で、一日何もかもがうまくいきそうな予感がしていた。そしてその予感通り、すっと流れるように自転車も走り出してくれた。
「いってらっしゃいませ」
精霊がやはり執事のように一礼をして見送ってくれる。バンクスさんもその隣にいくらか残念そうに立っている。わたしは緊張感をなんとか操って片手をハンドルから離し、それをひらっと振ってみせるのに成功した。
お屋敷が少し遠のいた辺りまで来ると、顔中に押さえられない笑みがこぼれて仕方がなかった。わたしもどうかしているわ。自分がこういう気分に陥るなんて、驚いてしまう。召使を全員、 建物の正面前に勢揃いさせてお見送りに立たせるなんて、仰々しいだけだと思っていたのに。
前のわたしの雇い主のグレッグソン氏はこれが大好きで、わたしも召使としてすました顔でお辞儀をしたものだったけれど、今、わたしもあのグレッグソン氏が味わっていただろうものと同じ密かな満足にひたっているではないの。
つまりわたしは、大きなお屋敷に住み執事やお抱え運転手を持つ素敵なお嬢様気分を楽しんで、うきうきしているのだ。自分を勘違いしたくない、なんて格好つけたことを言っていたというのに。
「どうかしてる!」
わたしは声に出し、ペダルを踏み込みながら小さく笑った。




