ウチの雛飾り 〜家族を失った男と思いの込められた雛飾り〜
「ねぇ、パパも仲間に入れてくれよぉ」
「パパはダメー!」
「そうね、パパはダメよね」
家の居間で妻の沙雪と、まだ幼い娘の千春が色とりどりのひなあられを食べている。美味しそうだし、楽しそうなんだけど、雛祭りは女の子のお祭りだからか、俺を仲間には入れてくれない。俺は居間の入口で立ち往生だ。
ふたりの側には立派な雛飾り。お内裏様とお雛様がすましたお顔でふたりを見守っていた。耳をくすぐる優しい旋律に合わせ、沙雪と千春は楽しそうに「ひなまつり」を歌い始めた。
「そんな意地悪言わないでよ。パパも仲間に……」
「ダメっていったら、ダメー!」
「パパ、言う事聞いてくださいな」
何で俺をのけ者にするんだろう。俺も仲間に入りたいのに。
先程まで耳をくすぐっていた「ひなまつり」の旋律が徐々に大きくなり、鼓膜に響くような轟音になっていく。何なんだ、これは。
でも、ふたりは楽しそうに雛飾りの前で遊んでいる。この大きな音に気付いていないのか。
「沙雪! 千春!」
俺の呼び掛けに、ふたりは優しい笑顔を向けた。
俺はふたりの下へ駆け寄ろうとするも、なぜか居間に中々入れない。足や身体も鉛のように重くてうまく動かない。
それでも俺は、ふたりの側へ行かねばと必死にもがいていた。
「今、行くからな! 待ってろ!」
しかし、娘の千春は困ったような微笑みを浮かべ、妻の沙雪は首を左右に振った。
なぜ? どうして? そんな疑問が心に渦巻く。
ふたりは俺に何かを言っているが、金属音混じりの「ひなまつり」の轟音がそれをかき消す。
「―――」
「――、―――!」
「何!? 聞こえないよ! 沙雪! 千春!」
その瞬間、周囲が暗転する。
闇の中にひとり立ち尽くす俺は、叫んだ。
「沙雪! 千春! どこだ! 返事をしてくれ! 俺も――」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――目の前には、床に転がるたくさんのチューハイの空き缶、そして埃。
酒を飲んでいて、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。ソファからずり落ちたのか、俺は居間の床に寝そべっていた。
身体を起こすと、居間の隅に置いてあるいくつもの段ボールが目に入る。
『人形の幸松』
段ボールに印刷された文字。
飾られることのない雛飾りだ。
俺はソファに座り直し、ローテーブルに置いた写真立てに目をやる。
沙雪と千春が変わらぬ笑顔を俺に見せてくれていた。
俺はうなだれ、両手で頭を抱える。
「……なんで……」
埃だらけのフローリングの床に、涙の染みが増えていく。
「……なんで、俺だけ生き残ってしまったんだ……ちくしょう……ちくしょう……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
三年前の冬、沙雪と千春は交通事故で天に召された。
あの日、俺たちは家族三人で雛飾りを買おうと車で出掛けた。そして、専門店で注文したその帰り道。車内では、三人で「うれしいひなまつり」を歌って、楽しいひとときを過ごしていた。幸せだった。
突然、側面から大きな衝撃。そして、金属が潰れるような破壊音。車は横転し、俺は気を失った。
この後はあまり記憶がない。思い出せるのは、ベッドの上で目覚めた時の病室の蛍光灯。霊安室へ続く薄暗い廊下。そして、ふたりの葬儀をしたということだけだ。
警察によると、側面から信号無視したトラックに突っ込まれたらしい。
原因は、トラック運転手による居眠り。軽傷だった運転手の男性は、過失運転致死罪で逮捕された。
さらに居眠りの原因が過重労働にあるとして、運転手の勤務先の運送会社にも捜査のメスが入り、また労働基準監督署から行政指導が入った。
ここから、俺の苦悩は深まっていくばかりだ。
妻と娘を亡くした凄まじい喪失感。
長期に渡って続く裁判の心労。
そして――
『守銭奴、乙www』
『家族を犠牲にして左うちわな生活w』
『妻と娘を死神に売り飛ばした鬼畜で草』
――事故と裁判の報道をきっかけに、ネット上に溢れた俺を蔑む心無い声。
「なんで俺はふたりに寄り添えなかったのだろう」
「どうして俺だけが生き残ってしまったのだろう」
「俺がふたりを殺してしまったのか」
そんな思いが頭の中で膨れ上がり続けた。
仕事も手につかない。
見かねた会社からは休職を勧められ、家に引きこもる生活が始まった――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――そんな生活を続けて一年半になる。
俺の心は完全に折れ、限界を迎えようとしていた。
ローテーブルに置かれた写真立ての中で笑顔を浮かべるふたりに、俺は懇願するように話し掛けた。
「もう……もう、いいだろ? パパも仲間に入れてくれよ……」
そして、心に渦巻く率直な思いを口にする。
「誰かを怒り続けるのも……誰かを恨み続けるのも……大勢から心無い言葉を浴びかけられるのも……パパ、もう疲れちゃったよ……」
涙が止まらない。
「ふたりに会いたいよ……ふたりのところに行きたいよ……もういいだろ……?」
俺の涙声を聞いても、ふたりは時が流れない写真の中で、ただ優しい笑顔を向けていた。
悲しくて、悔しくて、どうしようもない思いだけが胸に湧き上がってくる。
カタン……
そんなときだった。
居間の隅に置いてある雛飾りが入った段ボールから音が聞こえた。虫でも入ったのか、湿度の影響か、それはまったく分からないが、確かに何かの音がしたのだ。
俺は何かに呼ばれるように段ボールの下へと向かう。
「この封筒……」
いくつか重なった段ボールの一番上に置かれた白い封筒。もうすっかり埃をかぶっている。
『林 秋彦様』
俺の名前が筆で書かれている。物凄く達筆だ。
そういえば、注文した専門店が自社のトラックでこれを運んできた時に「ウチの社長からです」と言われてもらったんだっけ。雛飾りなんて今さらと思って、段ボールと一緒に放置していたんだった。
俺は積もった埃を払い、封筒を開けてみた。中には何枚かの便箋が入っている。それを取り出して、開いてみた。そこに書かれていたのは――
『この度は、ご家族の訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。
ご注文いただきました雛飾りは、一旦キャンセルさせていただいた方が良いだろうと考えたのですが、私を含めた従業員や人形職人たちで真剣に話し合い、内容を変更してお届けさせていただくことにいたしました。
この雛飾りは、林様のためだけの特別なものです。ぜひ一度、飾り付けてみてください。そして、この雛飾りに込めた弊社従業員と人形職人たちの思いや願いをどうか感じ取ってください。
なお、本品の代金は不要です。お預かりしている前受金も全額返金いたしますので、弊社までご一報いただけましたら幸いに存じます。
この雛飾りが、林様の心の慰めと支えになりますことを心よりお祈りしております。
株式会社 幸松
代表取締役社長 幸松 夏希』
――特別な雛飾り? 俺のための雛飾りということ?
明後日は三月三日。これもふたりのお導きかもしれないと、俺は涙を拭って雛飾りを飾り付け始めた。
段ボールに同封されていた説明書に沿って雛壇とぼんぼりを組み上げ、居間の壁際に設置。人形の置き場所も説明書に書かれていたので、特に困ること無く雛飾りが出来上がっていった。
あれ? お内裏様が入ってない……人形を乗せる台はあるんだけど……。
説明書を確認すると、一部手書きで修正されていた。
何だかよく分からず、とにかく説明書通りに並べることにした。
ぼんぼりにLEDの明かりを灯す。
一時間位かかっただろうか。ようやく雛飾りが完成した。
ただ、最上段にはお雛様が二体並んでいる。お内裏様の台は、余ったままだ。
お店のひとの梱包ミスだろうか。
何だかお雛様の大きさにも差が……
「……あぁっ!」
俺は、思わず大声を上げた。
俺は気付いた。
二体のお雛様、もちろん日本人形的な顔立ちなのだが、少し大きめのお雛様は妻の沙雪に、少し小さめのお雛様は娘の千春に、顔立ちが良く似ているのだ。
俺は、慌てて説明書を再度確認した。
お内裏様の台は余っていたわけではなかった。
雛壇の最上段、ふたりのお雛様の間に設置するように書かれている。
そして、そこには小さくボールペンでこう書き添えられていた。
『いつかお内裏様がお座りになる場所です。
それは何十年も先になると思います。
でも、ふたりのお雛様はきっと待っていてくれることでしょう』
この空いている台は、いつか俺が座る場所だ……。
俺は夢の中の出来事を思い出した。
あの時、ふたりが俺に言っていた言葉。
声は聞こえなかったけど、唇は確かにこう動いていた。
妻の沙雪は言っていた。
『生きて』
娘の千春は言っていた。
『パパ、またね!』
俺の脳が生み出した都合の良い夢なのかもしれない。
いや、でもそうじゃないとも思う。
俺は、雛壇に座っているふたりに目を向ける。
ふたりとも優しい微笑みを浮かべて、俺を見ていた。
「……そっか、俺はまだそっちに行っちゃいけないよな。ふたりに見られていたら、下手なことできないよ……」
ふたりのお雛様の姿が滲んでいく。
「……ごめん……今日だけ……今日で最後にするから……」
お雛様の微笑みと、記憶の中のふたりの笑顔が重なった。
胸の中の感情が爆発する。
「沙雪ーっ! 千春ーっ! うあぁぁぁ! うわああぁぁぁぁ……!」
床にうずくまって泣き叫ぶ俺を、ふたりのお雛様は優しく見守っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後、あの専門店に再度出向き、幸松社長と従業員の皆さんに心からの感謝の気持ちを伝えた。随分時間が経過してしまっていたが、従業員の皆さんは俺のことを覚えてくれていたようで、大歓迎で迎え入れてくれた。皆さんとの話の中で、幸松社長も奥様とご子息を交通事故で亡くされていることを聞いた。気持ちが分かるからこそ、間違った判断はしないでほしいという思いを込めた対応だったのだ。それと、返金の申し出があったが、それは気持ちだけいただき、お断りさせていただいた。
会社にも、来週から復職させてほしいと連絡。社長と人事からは、引き続き会社として全面的にサポートする旨の言葉をいただいた。散々迷惑をかけたのにもかかわらず、本当に感謝しかない。
家の居間に飾りつけた綺麗な雛飾り。
雛壇の左右に置かれたぼんぼりの灯りが、美しい模様を浮かび上がらせていた。
でも、ウチの雛飾りには、お内裏様がいない。
代わりにお雛様がふたり。
ふたりのお雛様の間に、お内裏様が乗る台だけが置いてある。
俺は、その台をじっと見ていた。
いつか俺が座る場所。
ふたりのお雛様が俺を待っている。
でも――
『生きて』
――座るのは今じゃない。
『パパ、またね!』
ふたりと笑顔で再会するその日まで――
――俺は、生きていく。