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 送別会では、終始からかわれて終了した。


 望は知らなかったが、望の私生活については社内でも様々な推測が飛び交っていたらしい。

 実はすでに奥さんがいるとか、彼女がいるとか、彼氏がいるとか、何とかかんとか。


 そんななかで唐突に起こった望の異性関係イベントに、会場に集まった社員たちは沸きに沸いた。


 中には尋常ではないペースで酒を喰らう女性社員もあって、望は慌てて止めに入った。

 そんな望に、女性社員は泣きながら祝福の言葉を贈ってくれた。


 別に祝福されるようなことは何もないのだが、望は黙って受け取った。


 そして迎えた、約束の日。


 夜食処まで続く道を、望はいつもより遅い歩調で進んでいた。


 早くあの店に行きたい気持ちと、何となく行きづらい気持ち。

 ふたつが、先ほどから望の心中をぎゅうぎゅうとせめぎ合っている。


 こんなに緊張することは、仕事上でも経験のないことだった。


「ご馳走さん。また来るよ」


 ようやく夜食処が見える辺りまで差し掛かったとき、中から男性客らしき人物が出てきたのがわかった。


 恰幅のいい中年の男性だ。

 あとに続くようにして、見慣れた小柄の女性も笑顔で姿を見せる。


「いつもありがとうございます、大塚さん。またどうぞお越しくださいね」

「ああ! サトちゃんの作ってくれるごはんは母ちゃんの次に美味いからな!」

「ふふ。それは嬉しいです……、あっ」

「んん?」


 通りの向こうに立つ望に気づいたらしい。

 沙都が視線を向ける方へ、男性客もゆっくりと視線を合わせた。


 眉をしばらく寄せたあと、男性客は何かを呑み込んだように「はあ」と笑みを浮かべる。


「なあるほどねえ。今日のサトちゃん、何だかそわそわ扉を見つめていたなあなんて思っていたが、おっさんの気のせいじゃなかったってわけだ」

「お、大塚さんっ」

「へいへい。野暮なことは言いっこなしってな。そこの兄ちゃん! 突っ立てないで入ってきな」

「は、はあ」


 沙都と親しげに会話を交わしたあと、何故か男性客は望を中へ促した。


 去り際に何やらじいいいっと品定めに近い視線を向けられた気もするが、ひとまず笑顔で会釈したのち夜食処へと入っていく。


「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席にお座りくださいね」

「はい。ありがとうございます」


 いつも通りの笑顔で迎えてくれた沙都に、望はひとまず安堵する。


 昨日の街での出来事で何か不快な思いをさせたかもしれないと思っていたが、杞憂で済んだのなら何よりだ。


 先ほどの男性客は、扉近くのカウンター席に着いていたらしい。

 望はいつも座っている奥のカウンター席に着き、ほっと息を吐いた。


 瞬間、ふと覚えのある匂いが鼻腔をくすぐる。


「どうぞ、おしぼりです。今日も一日お疲れさまでした」

「はい。ありがとうございます」


 差し出されたおしぼりを、有り難く受け取る。

 その間も、心臓が妙な高鳴りをしていることに気づいていた。


「あの」


 口元が緩まないように注意を払いながら、望はそっと口を開いた。


「この香り……もしかするとすでに、ロールキャベツの準備をしていただいて……?」

「あっ」


 カウンター越しに見つめる沙都の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。


 どうやら望の想像は、ただの都合のいい妄想ではなかったらしい。


「すみません。今晩お越しになると伺ったものですから、その、おだしのご用意をと思いまして……っ」


 恥ずかしさのせいか、沙都は傍らに置かれていたキャベツで顔を隠した。


 まるでキャベツのお面を被ったような姿に、望はとうとうぷっと吹き出してしまう。


「昨日、俺が絶対に行くと言ったからですよね。わざわざ下準備を整えてくださって、ありがとうございます」

「いいえ。気が早くてすみません。お恥ずかしいです……」

「そんなことありませんよ。嬉しいです。とても」

「その。ご注文は、ロールキャベツでよろしかったですか?」

「もちろんです。ぜひお願いします」

「はい! 承知いたしました!」


 いつものように柔らかな笑みを浮かべた沙都が、ようしと気合いを込めて腕まくりをする。


 手にしていたキャベツは恐らく昨日街中で自分が拾ったものなのだろう。

 わざわざ望の交わした一方的な約束を守ってくれた。


 律儀で優しい──素敵な人だ。


「昨日は、街中でお会いして驚きましたね」

「本当に。まさかお店(ここ)以外でお客さまにお会いするなんて思いませんでした。しかも、あんな姿を見られるなんて」

「あんな姿、ですか?」


 首を傾げた望に、沙都が眉を下げながら苦笑を零す。


「あの洗練された街並みに、私のような土まみれの格好はやっぱり悪目立ちしてしまいますから。農家さんからの最短距離で夜だから問題ないだろうと考えたのですが、少々浅はかでした」

「そんなことはありません。それに、あの道を通ってくださらなければ、今夜の約束も取り付けられませんでした」

「ありがとうございます。でも、お約束がなくともお料理ならしっかりお出しできますから、安心してくださいね」

「……それはまあ、確かに」


 それでも、今夜の来店は望にとって少し意味合いが違った。


 自分が来店する前の、ほんの僅かな時間でも、彼女が自分のことを考えてくれている。

 そのことにこそ意味があったように思う。


 まるで子どもみたいな考えだ。


「そういえば、先ほどの男性客の方はこちらの常連さんなんですか」


 自分の拙さに何となく居たたまれなくなった望は、それとなく話題を変える。


「大塚さんですか? あの方はこのお店のすぐ近くに住んでいらっしゃって、開店当初からよく足を運んでくださるんです」

「そうなんですか」


 先ほど親しげに交わされていた会話を思い返す。


 あの男性客──大塚が口にしていた「かあちゃん」は、恐らく自身の妻のことを指しているのだろう。

 既婚者であるということに、望は密かに安堵の息を吐いた。


「女性お一人でお店を営まれることは、やはり大変な部分もあるのでは?」


 急な指摘に、沙都は鍋で回していたおたまを止め、望を見つめる。


 まずい。

 いくらなんでも踏み込みすぎたか。


「不躾にすみません。ただ、重いものを運ぶようなこともそうですが、無礼な輩があなたを困らせるような事態になった場合、対処が難しい部分もあるのではと……」


 実際今まで携わってきたイベントでも、若い女性スタッフが来客から迷惑行為を受けることも珍しくはなかった。

 そのたびに表立って対処するのは現場を統括する望の役割でもあった。


 しかし、ここでの自分は、そんな踏み込んだ事情を任される立場にはない。


「すみません。つい、立ち入ったことを」

「いいえ。心配してくださっているんですね。ありがとうございます」


 落としていた視線をぱっと上げる。

 幸いなことに、沙都の顔に不快な色は浮かんでいないようだった。


「先ほどの大塚さんにも、開店当初はよく心配されていたんです。若い女の子が一人でお店を出すなんて大丈夫なのか、近くに頼れる男手はあるのか、無礼な輩に言い寄られたり、何かあったときの対処法は考えているのかと」

「あの人が」


 どうやら大塚は、自分よりもよほど踏み入った質問をしていたらしい。


 ともすると、先ほど望が受けた無遠慮なまでの視線の意味も理解ができた。


 要は望自身が、この女店主に言い寄る『無礼な輩』になりはしないかという警戒の視線だったのだろう。


 自分にそのような心配は必要ない。

 必要ない。はずだ。


「そのご指摘もあって、店内には防犯カメラを付けさせていただいているんです。防犯ベルも複数箇所と、私自身にもひとつ。何かあれば飛んでくるといってくださる大塚さんのご厚意にも甘えて、連絡先も頂きました」

「……ああ。それなら安心ですね」


 沙都にはもう、日頃頼りにできる存在がいるのだ。

 それはとても望ましいことであるはずなのに、何故だか複雑な想いが胸に小さく顔を出す。


「誰かに言い寄られるなんて心配はないにせよ、頼りない私を見て強盗に入られる可能性は十分ありますからね。幸いお客さまは皆さんいい方ばかりですが、用心を重ねるに越したことはありませんから」

「? どうしてですか」

「え?」

「誰かに言い寄られる心配だって、十分あると思いますよ。こんなに可愛らしい人が、こんなに美味しいお料理を出してくださるんですから」

「……」

「……あ」


 半ば諭すように口にしていた言葉を振り返り、望は口を噤む。が、もう遅い。


「……余計なことでしたね。すみません」

「……お客さま、本当にご親切な方ですね」


 薄い湯気が立ち込める先の沙都は、望の言葉に動揺する素振りはない様子だった。


 客人から「可愛い」なんて言われることも、沙都にとっては珍しいことではないのかもしれない。


 女店主に言い寄る『無礼な輩』。


 その線引きはいったいどこになるのだろう。

 沙都の迷惑になるのは、いったいどこまで踏み込んだらなのだろうか──。


 そんな考えを過らせている時点で似たようなものか、と望は内心独り言ちる。


「お待たせいたしました。ロールキャベツのお夜食でございます」


 そうこうしている間に、トレーに収められたお夜食が届けられた。


 今日のロールキャベツも、立ち込めるだしの香りが早くも望の食欲をそそる。


 ふわふわに巻かれたキャベツを箸でそっと裂いてみると、詰められた彩り豊かなタネが顔を出した。


 キャベツの優しい食感のなかで、タネに込められた野菜たちの歯ごたえが時折口内で弾ける。美味しいアクセントだ。


 惰性で口の中に放り込んでいた食事とは、明らかに違う。

 身体のどこか足りない場所にじわりと染み入るように行き渡り、温まり、幸福感に包まれていく。


 ──お客さまの身体の一部となって、頼もしい応援団になってくれると思います。


 本当に、その通りだな。


 沙都に出逢った日にかけられた言葉が去来し、望は一人微笑んだ。




「ご馳走さまでした。とても美味しかったです」

「はい。お粗末さまでした」


 ロールキャベツのだし汁まできれいに飲み干して、望は胸の前に手を合わせた。


 名残惜しさを引きずりながらも、食事を終えた自分の時間はここまでだ。

 身なりを整え鞄を手にし、席を立つ。


 お会計の金額も、三度目となればもう覚えてしまっていた。

 関西に行くまでの残り日数、この店に来ることはあと何度出来るだろうか。


「転勤前にお越しいただけるのは……これが最後、なんでしょうか……?」

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