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第三章 新天地にて

「ここが・・・・・・水の国・・・!」

「わぁ、綺麗な海・・・・・・。」

 水の国・アクアギーダの王都は小さい島の上にあった。──というのも、アクアギーダが「水の国」と呼ばれるのは、大きな湖の上の群島に国土が散りばめられていることが所以なのである。湖の水は幾つかの崖から零れて、今度は大いなる海へと放たれる。

 小舟からは、織り成される人形の家のように繊細な、見慣れない硝子の街が見える。

「王都・ヴィノールはなんとかっていう発明家の設計のもと、すげーよく考え抜かれて造られてんだ。この街はある意味、そいつの至高の芸術作品みたいなもんさ。俺たちのいるこの河だってそう。」

「シルヴェニアの街と全然違う・・・・・・」

 水の匂いを肌で感じながら、運河に沿って船着き場へと流れていく。

 ふと、ジルが一際高い塔を指差した。

「あれはなんだろう・・・・・・?」

「時計塔かな?」

「まあ間違いじゃねーけど、ただの時計塔じゃない。あれが王宮だ。」

「え・・・・・・っ!?」

 もう一度、塔を振り返る。やはり、ただの時計塔にしか見えない。

「あれこそがその、さっき言った発明家の仕掛けの最高傑作なんだ。あの一番上のところの大時計が、王都を担う魔道具さ。」

「すごい・・・・・・。」

「詳しい仕組みは極秘事項だから、王族と作ったやつしか知らねーけどな。」

 淡い色のステンドグラスで作られた「硝子の塔」は、不思議な色彩の光を宿し、導くように凛と立っている。

「お、やっと着いたぞ。腹減ったろ?陸に上がったら、まずは腹ごしらえと行こうぜ!」

「うん。」

 ゆっくりと舟から出て、青灰色の階段を上がると、船上から見たのとはまた違う景色が広がっていた。

「玻璃の雨が降りそう・・・・・・。」

「ははっ!その例えは初めて聞いたな。」

「どこもかしこも透き通ってる・・・・・・。」

「そう言われてしまえば、プライベートもあったもんじゃねーな。」

 アーケードの店々、広場に噴き上がる水、本屋に並ぶ棚に花根付く鉢、ペン一本までどれもこれもが無機質な透明で、でも、そこになにか表情がある-。

 幻影に紛れるようにして、私たちは彼らの日常を踏み分けていく。民衆の暮らしは故郷・風の国と何ら変わりはないのに、それを明らかにして非日常を見る奇妙さを感じる。

「でも、小さなひびで壊れてしまいそうで・・・・・・。」

「確かに、建物はそうだ。だけど、その度に人は結束する。助け合う。・・・人を強くするっつーのも、もしかすると発明家の仕掛けだったのかもしれねーな。」

「人を強くする仕掛け・・・・・・。」

 なんだかそれは、名も知らぬ制作者からの祝福のように思える。ギルの言葉に、目に映る風景は少しだけ温かく変容したのだった──。


 ヴィノール名物の「マレ・フェスタム」という焼いた白身魚の料理で胃を満たして、ようやく私たちはギルの実家-旅行の最大の目的地に向かった。

「あー・・・・・・めっっちゃ緊張する・・・・・・。」

 ギルは、はああああ、っと大きな息を吐き出して、眉間を押さえた。

「うちを出てった時、親父と半分喧嘩した状態だったんだよな・・・・・・。」

「・・・・・・。」

 気の利く返事ができないまま、ギルはぐるぐるとネガティブスパイラルに嵌っていく。

「あぁ・・・・・・もー、やだぁーっ。」

「ピイィ・・・。」

 ギルが魔法で小さくしたギィが、肩掛けの鞄から顔を出して、自暴自棄気味のギルを宥める。

「ギル・・・・・・ダメだよ。ここまで来たんだから行こう。」

「ジルの言う通りだよ。行こう。」

「え・・・ええっ・・・・・・!?」

 私とジルはギルの袖の縁を引っ張った。

「ちょっ・・・待っ・・・・・・!?」

 ギルは目を丸くして引かれるがままに歩く。

「わ、わかった・・・。行くよ。行くからっ・・・・・・!」

 ギルはおそるおそる扉を開けた。

「た、ただいま・・・・・・。」

「いらっしゃいま・・・・・・ん?」

 店番の若い女性がこちらを見る。

「ギル!?あんた、帰ってきたの!?」

「ただいま、姉さん。」

「なんか、逞しくなってない!?」

「ああ、森の中で狩りして生活してたから・・・・・・。」

「もう、帰ってくるなら先に言うなりなんなりしなさいよーっ!」

「ご、ごめんって。」

 彼女は気軽にギルを小突いた。

「で、あんたたちは・・・・・・?」

「?」

「ぼくたちは、ギルさんの連れです。」

「かわいーっ!」

「わあっ!?」

 急に髪をくしゃくしゃにされて、私たちは唖然とした。

「姉さん、その辺にしとけって・・・・・・。」

 ギルは困ったように眉を下げた。

「こっちのデカイほうはエルム。ちっこいのはジル。エルムは耳が聞こえねーから、筆談で。」

「あ・・・・・・。わかった。」

 ギルの姉はハッとしたように手を離した。

「わたしはマリ。マリでもいいし、マリ姉さんでもなんでもいいから、気軽に呼んでね!」

「・・・はい。」

 その声が聞こえたのか、続いて中年の女性と老夫婦が顔を出す。

「ギル、帰ってきたの!?元気にしてたかい?」

「まあまあまあ!久しぶりじゃないの!」

「帰ってきたかの、親不孝者。」

 一気に騒がしくなって、ギルは苦笑した。

「ああ、ただいま。久しぶりだな。俺は息災だったよ。」

 老爺が一歩二歩、進み出る。

「相変わらず身体は強いの、親不孝。」

「帰ってきた孫へ、開口一番に『親不孝』はキツイぜ、じーさん。」

「ふん。」

 ギルの祖父は呆れたように目を閉じた。

「親父は工房か?」

「ああ。ヴァイオリンの弦を張ってるとこさ。」

 ギルの母はその方向を顎で示した。

「やっぱそうか。」

「挨拶してきたら?」

「飯のときでいいよ。作業中に顔見せたら、嫌な顔して追い払われそうだし。」

「そんなこと言わず、行ってきなさいよ。・・・ほら!」

「わっ!?」

 みんなに背中を押され、ギルは半ば追い出されるようにして、ぎくしゃくと工房へ向かっていった。


 ギルは、工房の引き戸の前で困惑気味に突っ立っていた。

(ど、どうしよう・・・・・・。このまま声をかけたら、親父に怒鳴られそうな気がするし、かといって何も言わずに戻っていったら、後でじーさんとおふくろに呆れられそうだし・・・・・・。)

 扉の向こう側からは、カチャカチャという音が響いてくる。重い板の窪みに手を翳したまま、迷いに眉を顰めた。

 不意に、作業音がぷつりと切れる。まだ見ぬ先からは、長い溜め息が零れた。

「はあ・・・・・・。相変わらず往生際の悪い息子だ。愚息よ、そこで何をしている。」

「・・・へ・・・・・・?俺?」

「お前の他に誰がいるか。」

「た、ただいま。」

 ギルはそうっと踏み出した。重いと思っていたけれど、久しぶりに引き開けたその扉は案外軽くて、そのあたたかみに驚かされる。

 おそるおそる見上げた父親は、仁王立ちの格好で、目の前に佇んでいた。

「なんで、俺に怒鳴られそうだと思った?」

「いや、だって・・・・・・最後にここから出た時、親父とはギクシャクしたままで、しかも親父の跡を継げなくて、親不孝をしちまったし。なにより・・・・・・中途半端だったからさ。」

「馬鹿者。」

「えっ?」

 ギルの父親は呆れた声を漏らして、ギルの額を弾いた。

「痛っ・・・!?」

「馬鹿者と言った。確かに、俺は半端なヤツは嫌いだ。お前にも、やるなら最後までやれと言った。・・・しかし、お前はそれにも勝る親の心配を、一度たりとも考えなかったのか?」

「う・・・・・・。」

 ギルは唇を噛み、恥じるように悔しげに俯いた。

「ふふ・・・お前は『成り代わる』ということを少し学んだほうが良さそうだな。俺に貶されたくなければ、多少は人を学べ。」

 最後に、ギルの父親は、くしゃくしゃとギルの髪を撫でた。

「親父・・・。」

 午後の光が絡まった絆を解いていく。

「・・・急に出てったりして、すまなかった。」

「俯くな。お前は、よくやった。・・・ただ、肌に合わなかった。それだけだ。」


「うう・・・・・・。」

 建物の奥から、二人の男が戻ってきた。

「え・・・ギル?」

 私もジルも、その場にいたみんなが唖然として息を飲んだ。

 するりと鼻水が滴って、目元は朱を帯びている。ギルは泣いていた。

「・・・っ、ひっく・・・・・・。」

 その静けさに、ごくりと冷えた唾を呑み込む。

「そろそろ泣き止め、バカ息子。」

 口こそ悪いが、労わるように、中年の楽器職人は双眸を眇めた。

「だってさ・・・っ、親父が眉を顰めないんだもん・・・・・・。」

「だからといってこの歳で泣きじゃくるヤツがあるか、バカタレ。」

 親子だけの、親子だからこその特別さに、私たちは黙らざるを得なかった。

「・・・なんだ。なにもなかったじゃない、ギル。」

 けろりと静寂を破ったのは、意外にもジルだった。

「そうだよ。あれだけうだうだしてたのに、あんた、結局は大丈夫だったじゃないか。」

 ギルの姉や母親や、みんながそれに続く。

「あはは・・・っ、騒がせてごめんな。」

 鼻水をすすり、涙を袖口で拭いながら、「らしい」彼の顔になっていった。

 私は一歩下がったところから、静かに微笑んだ。


 翌晩──。夕餉のあとに、何気なく「あの話」になった。

「ところで、愚息よ。その子たちについて、お前からの手紙にあったが・・・・・・。」

「ああ。正確には、こっちな。」

 ぽん、と私の肩に手が添えられる。

「うちの工房で働かせてもらえねえか?」

「それは構わんが、楽器を扱ったことはあるのか?」

「あるって聞いた。」

「あります!!」

「なら、大丈夫か。」

「だが、耳が聞こえねえから、職人としての仕事は・・・・・・。」

 ギルの父親は、ふう、と髭を撫でた。

「そこは気にしなくていい。“楽器職人下積み十年”、だ。まずは店番さ。」

「・・・・・・まあな。」

「それに・・・十年あれば、お前みたいに『自分の道』ができるかもしれねえし、仮に続けてたとしても、音の質は俺が聴いてやればいい。」

「・・・けどよ、生半可な道じゃねえだろ。」

「当たり前だ。・・・・・・いつか、どこかで屈折するかもしれん。どこかで砕けるかもしれん。俺は、勝手につらくなって、道半ばで諦めるような、弱い志は嫌いだ。それでも・・・許したい。もし、そのひとが自分を『いま』を真剣に見つめ、そのうえで、この道は自分が本当の道ではないと気づくのなら。・・・それは、時間の無駄ではないから。与えられた経験を無下にせずに前進していける証だと思うから。そういう奴なら、『諦める』という選択を許したい。未来を信じてやりたい。」

「・・・・・・。」

 皆が、口を閉ざして目を見開いた。

「なあ、坊っちゃん。お前にはその覚悟があると、自信を持って言えるか?お前は、何をしたいと考えている?」

「・・・・・・。」

 私はすうっと冷えた風を飲み込んで、真っ直ぐに男の瞳の奥を見据えた。見透かすような深緑の焔を閉じ込めた眼だ。

「自分だけの道を歩めると・・・、心を見極められると、自信を持って言えます。少しの向かい風になんて、屈するつもりはありません!・・・私が最後まで誇れるのは、音楽しかありませんから。ただ聞こえないくらいのことで、絶対に諦めたくなんかないんです!!」

「・・・言ったな。」

 ギルは隣で唖然としていたけれど、その父親のほうは、引き締まった口元を少しだけ緩めた。

「いいだろう。その言葉に違うことなく、信念を貫きなさい。」

「ありがとうございます。今の言葉を心に留め、精一杯頑張ります!」

「早速だが、三日後から働いてもらおうと思っている。それまではギルと一緒に、この国の見物でもしてきたらどうだ?」

「・・・・・・!」

「はい・・・!」

「細かいことは日を追って順次連絡するつもりだ。」

「わかりました。」

 ギルは兎みたいに軽やかに跳躍した。

「やったな・・・!」

「ジルも連れていきましょう!!」

「もちろんだ!」

「若いというのは、いいのう・・・。」

「わっ、じーさん!?」

 のそりとギルの祖父が扉の陰から顔を出し、ギルは驚いた拍子に尻もちをついた。

「あてててっ・・・・・・!」

「ふむ・・・。若いのはいいな。」

「親父もかよ!?」

 ギルは驚愕した顔のまま、眉間に皺を寄せた。まるで、水に落ちて飛び跳ねる子猫のような表情をしている。

「というか、じーさんは、いつからそこにいたんだよ!?」

「いつだったかのう?“楽器職人下積み十年”とか言ったあたりだったような・・・・・・。」

「・・・ほぼ全部聞いてたんじゃねえか。」

「ほほほ。」

 父子の声がぴったりと重なった。老爺のからりとした笑い声が部屋に響いていく。

「ふっ・・・あはははっ・・・・・・!」

 私も、彼らにつられて屈託なく笑った。久々に、お腹の底から笑った。目から水滴が転がるほどに。

 心がぽかぽかして、なんだかすべて吹っ飛んでしまった。こういう気持ちを、私は数年もの間、ずっと忘れていたのかもしれない。

「はははっ、エルムがそんなに笑ったところ、俺、多分はじめて見た!」

 ギルは嬉しそうに、気軽に肩を組んだ。

「改めて、俺の親父の工房にようこそ、エルム!」


 働き始めるまでの間、私とギルとジルは王都を見物し、水の国の文化などをいろいろ教えてもらった。こないだの「マレ・フェスタム」みたいなのを食べ歩いたり、硝子職人の工房を見学したり、船で違う島に遊びに行ってみたり、あの神秘的な王宮を丘の上から眺めたり・・・・・・。見たことも聞いたことも無いようなものに触れて、未知への好奇心に心が浮き立っていく。

そうしているうちに日が経って、私は店番を始め、徐々に新たな生活にも馴染んできた。

 そして二週間後、二人は風の国に帰っていった。どちらも寂しそうな顔をしていたし、私も寂しかったけれど、ジルはこう言った。「次にエルムに会う時は、ボクはもっと大きくなって、誰かの役に立てるようになっていたらいいな。また会える時まで、ボクたちのこと、忘れないでね。ずっと、ずっと、友達だよ!」

 その時にはもう、兄の陰で怯えていた幼い少年はそこにいなかった。去っていくジルの後ろ姿は、少し前には想像もつかなかったくらいに逞しかった。彼らの道の向こうに、清らかに輝く純白の流星が、見えた。

 まだ耳が聞こえて、天才と叫ばれた頃でさえも、私の周りの人たちは憧れと妬みと同調に塗れ、ただ上辺を取り繕うばかりだった。みんな、「才能」という名の断片だけを見つめて、本当の私を知ろうとしなかった。・・・でも、ジルやギルは、本質を見てくれた。

 私はきっと、彼らのことを忘れたりしないだろう。──いや、忘れるはずがない。あの二人は私にとって、短い間ではあったけれど、初めて苦楽を共にし、心を繋いだ人たちだったのだから。


 もうすっかり仕事にも慣れたある日ー。

(そろそろお客さん来ないかな・・・。)

 カウンターのところに腰掛けてぼんやりと忙しない通りを眺めていたら、ひとりの男がヴィオラを持って駆け込んできた。

「・・・っ、すまないんだが、急いで弦を張り直してもらえないか!?」

 さらさらした夕陽色の髪の青年は、荒い息を吐きながら、弦がほつれて黒ずんだヴィオラを私に手渡した。

 代わりに、「急ぎでしょうか?耳が聞こえないので、筆談でお願いしてもいいですか?」と書いたメモとペンを手渡す。

「わかった!えっと、急ぎだ。あと三十分ちょいで舞台が始まってしまう。無理言って悪いんだが、それまでに、弦を張り替えてほしいんだ。」

「分かりました!!」

 私はつやつやの楽器を抱え、工房に駆け込んだ。

「すみません。舞台で使うらしく、急ぎで弦を張り替えてほしいそうです。」

 ギルの父親ー親方はそのヴィオラを手に取った。

「どのくらいの猶予がある?」

「三十分くらいです。」

「さすがに無理だ。代わりに売り物から見繕って、ひとつ持たせてやろう。」

 親方はそのヴィオラを作業台の上に置き、私たちは店内に戻った。


「そうですか・・・。やっぱり、さすがにそうですよね・・・。」

 事情を話すと、青年は落胆して顔面蒼白になったが、親方が売り物を貸してもいいと言うと、ぱっと安堵を浮かべた。

「時間が無いから、とりあえず、どれかひとつ持ってけ。」

「ありがとうございます!恩に着ます!!」

「舞台が終わったら、すぐに必ず、ここへ来い。」

 青年はエメラルドの瞳に光を宿して、深く頷き返した。

 親方はくるっと身を翻したかと思うと、取り囲むショーケースの一角を指差した。飾られたヴィオラやヴァイオリンの木目は、優雅に踊る貴婦人のように電灯を照り返している。

 青年はそれらの正面に立つと、硝子の奥からまずひとつ取り出し、ふわりと弓で弾いた。旋律は聞こえはしないけれど、安定した響きがひりりと肌を刺す。彼は確かに、この店を震わすような調べを奏でていた。その緊張感や心の躍動は、ひと目で分かる。

(まだ魅せ方は未熟だけど・・・でも、感情が籠ってる・・・・・・。)

 ひとつひとつ、宝石商が石の真価を見極めるみたいに丁寧に、あるいは昆虫学者がルーペを翳すみたいに喜びに満ちて、繊細な弦をはじいた。

「これを使ってもいいでしょうか・・・?」

 あらかた試奏を終えて、少し味のある表板の一挺を親方に見せた。

「てっきり、もっと高いのを選ぶかと思っていた。」

「価値じゃなくて、自分に合うかどうかが肝心。・・・そう、師匠に教わったので。」

「あんたのは、良い師匠だな。」

「ええ。」

「男に二言はない。もちろん、持って行ってくれ。」

 青年は、燃えるような赤毛を靡かせる。午後の青空に溶け込んでしまいそうな入口の前で、咲く花に似た、みなぎる笑顔で、一礼をした。

 彼の姿が駆け去った後、私と親方はほんの少し口元を緩め、静かに視線を交差させた。


 しばらくして、約束通りに青年は来店した。修理完了には、まだかかりそうな予感がする。

「で、あんた、楽器職人見習いやってるんだろ?」

「まあ、まだ始めてまもないですけどね。」

「俺さ、ちっちゃい頃はよくここの工房覗いてたんだよ。多分その時のは、いまの親父さんの先代だと思うんだけど、・・・楽器ひとつできるその工程が魔法みたいで、なんだか、見てるうちに楽しくなってきちまってさ!!」

 青年──ジャン・ベネットは、最近話題になっている魔法楽団「オニーア・ホライズ」の若手楽団員なのだという。この楽団は国内の様々な劇団と提携して成り立っているため、演奏者なれど、役者として舞台に立つこともあるらしい。

 私とジャンはそりが合ったのもあり、私たちは五分と経たぬ間に親しくなった。

「俺の夢は、国一番のヴィオラ奏者になることだ。そんで、女手一つで俺を育ててくれたうちのばあさんに、たくさん楽をさせてやりたい。」

「・・・優しいんだね。」

「そうか?でも、家族ってそんなもんだろ。助けられたから、助けてやりたい。交友関係だってそうだ。付き合ってるだけでもたくさん借りがあるから、同じくらい、返してやる。そしたら向こうも喜んで貸してくれる。そういうふうに、頼り、頼られて、俺たちは生きてるんだ。だから優しいとかじゃなくて、俺にとっては当たり前さ。」

 少しだけ照れくさそうにしながら、ジャンは語った。

「・・・・・・。」

(そういうの、いいな・・・・・・。)

 私は黙って聞いていたけれど、次第に憧憬と、膿みたいな何かが込み上げてきた。なんというか、なんか、寂しく思えた。

ジャンもそれを察したようで、あまり詮索せず、ごく自然に迂回した。

「ちなみに、エルムには夢とかあるのか?」

「夢・・・・・・。」

 話題を変えてくれたのはありがたかったが、「夢」と聞かれて非常に困惑した。

 私にとっての「当然」が粉々になって、それから流れるようにここに着いたけれど、私には「夢」なんてなかった。

 だって、私の夢は、その砕け散った「当然」だったのだから。

「答えられなければ、答えなくていいんだ。あんたに無理させたくない。もちろん、全員が持ってなくちゃいけないものでもないしさ。」

「・・・・・・。」

 真剣に考えた末、慎重に口を開いた。

「夢、というわけじゃないけど、希望ならあるかな。」

「希望?」

「うん。」

 精一杯、笑顔を作ることに努めた。ちゃんと笑えていたかは分からないが。

「音楽の道に触れ続けること。耳が聞こえなくなったから、難しいかもしれないけど。・・・・・・それでも、やっぱり好きだから、どうしても続けたい。・・・それが私の願い、かな。」

「・・・・・・。」

「終わったぞ。」

 その時、親方がジャンのヴィオラを持ってきた。

「あ・・・!ありがとうございます!」

「ガタガタで三本張り替えたから、お代は40ベリルだ。」

 ジャンは小袋から星色の珠を取り出して、親方に手渡す。

「急だったのに、ありがとうございました。」

「次に来る時はその弓の毛替えかもしれないな。」

「そうですね。きっと、近いうちにまた、世話になります。」

 楽器を収めて、私を見る。

「わっ・・・・・・!」

 突然、髪をくしゃくしゃにされた。ジャンは悪戯好きの猫みたいな顔をする。

「わははっ!!」

「もう・・・っ!」

「なあ。よかったらさ、これ、もらってくれないか?」

「?」

 彩やかな、小さくて細長い、短冊みたいな紙だ。

「公演チケット!──ほら、さっき、舞台で演技することもあるって言ったろ。今度、市民劇場でデカい公演があってさ、どうも元々の担当の役者が骨折しちまったらしくて、その代役として出演するんだ!」

「どういう役回りをするの?」

「主人公の幼馴染さ。脇役なんだけどインパクトあるから、柄にもなくちょっと緊張してる。ちなみに俺がそんな役に選ばれた理由は、単純にその脇役と容姿が似てたから!」

 その場をくるくると身軽に回って、彼は右の拳を高々と突き上げた。

「『オレはお前とともに、崩れたこの世界を直したい!このまま、飢えていく周りのヤツらを見捨てるなんて、オレにはできない!!ちっこい頃に面倒見てくれたじいさんやばあさん、ときどき果物をくれた丘の上の家の姉ちゃん、一緒に遊んだガキどもーあいつらを、どうしても、見捨てたくなんかないんだ!!』」

「・・・・・・っ!」

 一瞬、何事かと思った。演技だって分かってはいたけれど。それでも、私も親方も、思わず目を見開いた。──ジャンは、泣いていた。涙が弾け飛んで、雨粒のように、頬にひたりと降りかかる。

「『なのに、なんでお前は、立ち上がるのを怖れる!?おまえは、あいつらを助けようとは思わないのか?それとも、反逆罪で首切りになるのが怖いのか?おまえは一体、何を怖れている?このクソみてえな領主から逃げようと思うなら・・・馬鹿みたいに死にたくないって思うなら、英雄になって村のヤツらを導こうって・・・革命の先駆者になってやろうって、運命に抗うのが正義だろ・・・・・・ッ!!』」

 そこにはいなかったけれど、私は確かに、幻影を見た。覆いかぶさる現実に必死に抗おうとする不屈の魂を。ー真の「指揮者」の叫び声を。

 気づけば、窓の外の通行人もジャンの声や姿に打たれて、ショーウィンドウ越しに見入っていた。途端に拍手のいかづちが響く。そのくらい、彼の心の悲痛は、私たちを揺るがした。

「・・・ほんとうに、このチケットを私がもらってよかったの?」

「もちろん!仲良くなったし、同じ音楽仲間のよしみで、ぜひあんたには来てほしかったからさ!!」

 年相応の素直であどけない笑顔に、微かに口端が上がった。同時に、眉を顰める。

「でも私は聞くことはできないし、それでもいいなら、だけど・・・。」

「だから、『演劇』に呼んだんだよ!演劇なら、見れば内容が掴めて、あんたでも楽しめるだろ?」

 その言葉を耳にして、思わず笑い声が零れた。嬉しかった。

「あはははっ!」

「おまえ、意外とタチが悪いな?いま、知ってて言わせただろ?」

「なんとなく、聞かせてほしくなってさ。」

「なんか悔しいな・・・・・・。えいっ!」

「いてっ・・・!?」

 さっき夕空に翳した拳に頭のてっぺんをぐりぐりされた。行動や言動はどことなく雑多に見えるけれど、やはりその表情は冬の朝の太陽みたいにきらきらとして無垢だった。

 痛みに懲りた頃、ジャンの優しい逆襲が止む。

 残されたのはたった一言だけだった。

「じゃあな!今度、また来る!!」

「ありがとう、ジャン!」

 ジャンは振り向きざまにひらひらと手のひらをはためかせながら、夕陽の片とともに路地へ消えていった。

 その日は閉店間際だったにもかかわらず、彼のおかげで千客万来だった。

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