第一章 絶望の記憶
空を見上げると、燦然と星が散りばめられている。
(星は、空は、どこに行っても変わらないんだな・・・・・・。)
どこまでも、ひたすら同じように広がっている空。その様相が、愛しくも、憎くもなる。
(あれからもう、6年・・・・・・。)
そんなことをふと思い出しては、脳裏に刻み込まれたものが蘇ってくる。
髪をさらさらと撫でつける疾風が仕舞い込んだ想いを煽り、消え去った音の面影がかつての情熱を浮かび上がらせる・・・・・・。
忘れたくても、忘れることができない。
「心の底に付いた傷」というのは、こういうのを指すのかもしれない。
風の国・ソヴェクティート。樹々の葉陰の間、水面の輝き、街の中を、澄んだ音色や風の調べが響き渡る。そんな国に、私は生まれ育った。
石造りの肌寒い広間に、生き生きとしてしなやかな、森のざわめきのような音が紡がれていく。暖かな陽の色に、潤った苔の匂い、凛とした小鳥の声・・・・・・、水と土と光の呼吸が心の中に聴こえてくる。
宮廷楽師は、ピアノからそっと指を離した。辺りには、その余韻が残り香のように漂っている。
「エルムも弾いてみるか?」
私はどぎまぎしつつ、小さく頷いた。父の真似をして、拙く同じ旋律を奏でていく。
「!」
弾き終えて、萎れたみたいに首をすくめていると、父はこう言った。
「お前には天賦の才がある。」
「ほんとう・・・・・・?」
「自信を持ちなさい。明日からは私がお前に音楽を教えよう。きっと、磨けばお前はすぐに一流の楽師になれる。」
「・・・・・・うん。」
これが、私が初めて音に触れた日の記憶。
それからは、狂ったように音楽の美しさに魅せられて、私は五線譜に虹色の幻想を乗せていった。
「まあ・・・!まだ幼いのに、こんな演奏ができるなんて!」
「ご子息の弾くピアノは素晴らしい・・・・・・!!」
「エルムは私たちの幸運だよ!!」
(父さんのような宮廷楽師になって、たくさんの人に幸せを届けるんだ・・・・・・!)
でも、7歳のあの日──。私は、全てを奪われたんだ。
「う・・・・・・あ、ああああああああ・・・っ!!!」
(聞こえない、きこえない・・・・・・!なんで?どうして・・・・・・?)
絶望の涙が頬を転がり落ちる。僕に残された視界が、黒く染まっていく。
(・・・・・・っ、悲しいよ、淋しいよ、・・・・・・怖いよ・・・!なんで、なんで何も聞こえないの・・・・・・!?)
音は、私のすべてだった。私は音に愛され、音を愛していた。人が息をするのと同じように、当たり前に、美しき想像と創造の世界で生きていた。
そこかしこの風の中に、硝子の欠片が散るような、輝きの花が咲くような、色とりどりに澄んだ波の調べが聴こえる。
私にとって、音楽は妄想で現実だった。
でも、そんなのがずっと続くわけない。
幸せな夢は、あの日を境に粉々に砕けたんだ。
「エルム、この方が明日からお前の親となってくれる。よく言うことを聞きなさい。」
「はい・・・・・・。」
父さんは、ノートにそう書き込んだ。
私はぎょっとしたけれど、何も言い返せなかった。私たちの「形」は、もうすでに壊れてしまっていたから。
「お前がエルムか。ほうほう。」
その貴族は、ケバケバしい香水をぷんぷんさせながら、値踏みするような目で私を観察した。
「いいだろう。養子にしてやる。」
「ああ、よかった・・・・・・。ありがとうございます・・・・・・!」
父さんはその言葉に安堵した様子だった。貴族は、どさりと傲慢に長椅子に腰掛けると、ひと通りの書類に印を押した。
(私は・・・・・・この家から消えたほうがいいのかもしれない。・・・父さん、母さん、兄さんの幸せのために。)
追いやられるのが悲しくて、彼らのために消えなくちゃいけないというのが苦しかった。
でも私には、家を出てこのふてぶてしい貴族に養われる以外に、選択肢なんてなかったんだ・・・・・・。
こうして、追い出されるように家を去って、私は上流階級の所有物へと変容した。
「今日からお前は、この場所で、わたしの言うことを聞いて生きるのだ。くれぐれも、養子だからとつけ上がったりするんじゃない。」
鮮やかな世界が無機質な灰色に染まっていくのに、そう時間はかからなかった。
365日──。どんな時もずっと、私は感情を殺し、だだっ広い邸内で死人のように息をひそめていた。
生きていたかつての私が閉じ込められて、心という柱が抜けた新しい「私」が、罵詈雑言やら怒声の雨影に立ち尽くす間に、「ホンモノ」になっていく。真の私が贋者に塗り替えられていく。たとえ聞こえなくとも、私は全部知っていた。
そうして、2年が経った頃だっただろうか。邸に一人の来客が訪れたのは。
あの年は私がよちよち歩きだった頃に時の国・ネアムセルナに向かった使節団が帰還した年で、巷はメカニカルブームに湧いていた。しかしその反面、機械の原動力になる魔力の消費量が増えて魔獣の密猟が深刻化したうえ、魔法使いたちは奴隷の如き過重労働を強いられたのだった・・・・・・。
そんなある日のこと。侍従長に怒られて廊下を掃除していたら、振り向きざまに誰かとぶつかった。
「!?」
「わ、すまんね。」
そう言うように、男は手を差し伸べた。
ぺこぺことお辞儀をして謝ると、彼は目を丸くして首を傾げた。しばらくはぴんと来ない様子だったけれど、やがて懐から折り畳まれたメモを広げ、その裏にさらさらと文字を綴っていく。
「筆談はできるかい?」
大きく頷いてみせると、一本の万年筆を手渡された。
「ぶつかってしまってごめんなさい・・・・・・!」
「大丈夫だよ。きみはこの屋敷の子かな?」
「・・・・・・。」
「俺は伯爵と取引をするために来たんだけど、応接間はどっちかな?」
「この廊下の突き当たりを右に曲がってすぐの左側にある部屋ですよ。」
「ありがとう、助かったよ。実はここに来るまで、何人かに声を掛けたんだけど、なぜだかみんなに無視されてしまってね・・・・・・。」
私の頭をわさわさと撫でて、貼り付けたような隙の無い笑みを浮かべながら、その客は屋敷の奥へと消えていった。
(・・・・・・なんだったんだ、今の・・・?)
私は呆然として、ふと、男の万年筆を握りしめたままであることに気が付いた。
「!」
(あ・・・返さなくちゃ・・・・・・!)
男の影を追って、急いで応接間の方向に走る。
(え・・・・・・?)
半分開かれた扉の先に、我が目を疑った。男は養父の貴族ー伯爵に金塊を渡していた。
(何がどうなってるの・・・・・・?)
聞こえないから分からない。でも、今見たものが「クロ」だってことくらいは分かる。
伯爵は何をしようとしているのか?
考えていると、不意に先程の男と目が合った。どきりとして、咄嗟にその場から逃げる。
「・・・・・・。」
それから5日後の深夜、形は「養父」で中身は「クソったれ」の伯爵様は、いつにも増して不機嫌に酔いながら、屋敷に戻ってきた。
「投資は大失敗するわ、賭博は負けるわ・・・・・・まったく、踏んだり蹴ったりだ!」
察するに、今日も賭博で大枚をはたいてきたのだろう。艶の良い雪狐のファーも、大きなアレキサンドライトのブローチも、東方からもたらされたであろう極彩色のシルクのショールやその他諸々も、みんなすっからかんになってしまって、悲しくなるほどに薄っぺらくなった身なりがそこにあるだけである。
「クソッ・・・・・・!!」
手に持ったワインボトルを床に打ち砕き、淀んだ硝子片と共に赤ワインの雨が散乱する。使用人たちは何事かとぎょっとして、癇癪を起こして暴れ狂う伯爵をわらわらとあやす。一応、私も何か手伝わないとと思い、歩み寄る。
すると、伯爵は頭に血を上らせて、大声で喚いた。
「今、わたしのことを嘲笑っただろう!?役立たずで穢れた聾者め・・・・・・!」
「・・・・・・。」
私はそのあまりにも醜い態度に目を丸くした。
「今晩にでも、きっとお前を売りさばいてやる・・・・・・!その金で、惨敗したルーレットの再戦だ!!」
「・・・・・・。」
下卑た表情から、ありとあらゆる下衆な思惑を察する。
伯爵と私は本当の親子ではない。つまり、私を売れば私の家と伯爵家との間にひずみが生じる。だから彼は私を売れない。
私は伯爵に背を向け、立ち去った。
──でも、まさか本当にあんなことになるとは。
翌日、目覚めて侍女長に押し付けられた洗濯をこなしていると──。
「やあ、きみがエルム君かい?」
「・・・・・・。」
私は突然現れたその人影を睨みつけた。
「おっと、そうだそうだ。筆談、だったよね?」
懐からメモを取り出す。万年筆を手渡される。
「!」
「ほら、僕だよ、ぼく。」
「・・・・・・。」
「やだなあ。忘れちゃった?」
あの男だ。先日、伯爵に賄賂を渡したあの男だ。
(何をしに来た・・・・・・?)
「悪いけど、一緒に来てくれる?手荒な真似はしないから。」
「・・・・・・。」
口をきゅっと結び、さらに男を睨み上げた。
「ふうん・・・・・・。」
男は凍てついた色の炎みたいな瞳で、私の胸ぐらを掴んだ。
「伯爵サマがお呼びだ。」
「・・・・・・。」
男に連れられて書斎に進むと、伯爵がどすりと腰掛けていた。
「フン・・・・・・。」
いかにもつまらない顔をしている。
「やれ。」
頬杖をついて弛んだ顎の脂を押し上げながら、伯爵は言った。
同時に私は捕縛される。
「アンセル、金だ。」
「これでよろしいか?」
男は袋いっぱいの金塊を差し出した。
「へへへ・・・・・・。これでまたルーレットに、ポーカーに、バカラ・・・・・・。へへへへ・・・アハハハッ・・・!!」
伯爵の眼は濁水のようだった。男も笑みを浮かべた。
「へへへへへ・・・・・・!」
「ふふふ・・・・・・。」
そうして笑い声が高まったその時。
「ぐあっ・・・・・・!?」
伯爵が仰け反るように倒れた。男が暗器で咽喉を刺したのだ。
赤黒くぬらりと光る刃が引き抜かれる。唖然としている間に刀身が拭かれ、短剣は素早く鞘に収められた。
(何が起きたの・・・・・・?)
男は生臭い血の色の瞳をこちらに向ける。
「ボクの名はアンセル・シャドウ。得意なことは暗殺と拉致、それから強盗、かな?」
「・・・・・・。」
私は顔面蒼白になりつつ、眉を顰めた。得体の知れない殺人犯・アンセルは、ゆらりと近づく。
反対に、私はドアの方へとあとずさった。
なおも彼は近づき続ける。
把手を握りしめ、部屋から駆け出すと-。
「ぐっ・・・・・・!?」
首裏に手刀を叩き込まれて、視界がぐにゃりと淀む。
倒れ込む私の身体を拾い上げて、アンセルはべたつくように微笑した。
「・・・・・・残念だけど、きみを捕らえないとボクの生業が成り立たなくてね。」
気がつくと、ガタゴトと揺れ動く暗闇に放り込まれていた。
(・・・・・・ここは?)
粗末な木材の匂いと、鬱蒼とした風の触感を覚える。
(馬車の中か・・・・・・?)
棺の中のような無機質な空間をぐるりと見渡し、ふたつの人影を見つける。
(子ども、かな?同年代くらいに見える・・・・・・。)
彼らはその髪も肌も、ぼろぼろになって、身体中が痣と傷だらけだった。右腕には黒い花の刻印がある。
「!」
(奴隷・・・・・・!)
アンセルなんとかとやらに放り込まれたのだと気づいた。
昼か夜か、街か森かも分からないまま、馬車はずんずんと進んで行く。
(逃げなくちゃ・・・・・・。)
歪みや隙間を探したけれど、どこにも見つからない。
壁、もしくは天井をかち割るか、後ろにある出入口のようなところから出るしかなさそうだ。
私は2人の少年の肩をとんとたたいた。手のひらに字を書く。
「ねえ、この馬車が止まったら、ここから逃げよう。」
「・・・・・・。」
彼らは虚ろに目を見合わせた。
「そう思っていろいろ試したんだけど、全然ダメで・・・・・・。」
「でも、もしかすると、商人が奴隷を捕まえる時か、僕たちに食事を持ってくる時なら、どうにかなるかも。」
「・・・・・・。」
「あとは、魔獣でも出ればなあ・・・・・・。」
「僕たちは、おそらくもう3日もここにいるんだ。」
「君は今朝来たばかりだから、新入りだね。」
髪の長いほうの兄らしい少年は、力無く苦笑した。
「僕たち兄弟は、北辺にある貧乏な農村の生まれで、生活費の糧に、親に売られたんだ。」
「そんな、ひどい・・・・・・。」
「僕たちだけじゃなくて、友達も、みんな次々に売られた。うちの村で残ってる子どもは、村長の家のお嬢様方と、村長の親戚の豪農の跡取り息子だけ。」
「・・・・・・。」
「君は街で捕まったっぽいけど、街の子?」
「街っていうか、まあ、宮廷楽師の次男坊で、酷い貴族の養子として追い出されて、下働きみたいな扱いを受けてた。」
「そっか・・・・・・。街でも村でも、要らなくなった子とかは売られちゃうんだなぁ・・・・・・。」
その時、馬車が止まった。2人は怯えるように固まった。
「ど、どうしたの?」
「前のほうから、だ、断末魔が・・・・・・。」
「え!?」
私たちは混乱しながら荷台の隅で縮こまっていた。がたん、と何度か横に揺れる。
「な、何か落ちたみたい・・・・・・。」
「鍵が壊れた・・・・・・?」
それからしばらくの間、私たちは身を潜めていたけれど、その後は何も起こらなかった。
「・・・・・・外に出てみよう。」
そっと扉を開けてみると、辺りは血の海だった。薔薇の花弁が散ったみたいに、本当に赤で覆われている。所々には、奴隷商人一行の無惨な死体が転がっていた。
兄と思しき少年がぽつりと呟く。
「魔獣が出たんだ・・・・・・。」
弟と思しき少年は、兄の袖を引いた。
「兄さま、・・・逃げよう。」
「ダメだ。武器もないのに無闇に歩けば魔獣に喰われるだけだ。それに金も無い。それなら、もう、売られたり、野垂れ死ぬほうがマシなのかも・・・・・・。」
「でも、そこで生き延びられるとも限らないじゃないか。鞭で打たれて食事や水さえも貰えないかもしれない。それに・・・どこかで静かに骸になって、誰にも手を合わせてもらえないなんて・・・・・・そんなの、悲しいじゃん。」
「・・・・・・。」
「みんなはそれでもいいの?」
しばらくの沈黙の後、弟の少年は重い口を開いた。
「・・・・・・・・・・・・ぼく、そんなのやだよ。」
「僕もやだ。」
「それなら、逃げようよ。」
俯く暗い瞳を見つめる。
兄の少年は光を宿して言った。
「そう、だね・・・・・・。確かに君の言う通りだ。うん。・・・僕は逃げる。」
「ぼくも兄さまと一緒に行く・・・!」
「うん。逃げよう。」
私たちは奴隷商人一行の屍から僅かな財物と食糧と武器とを剥ぎ取り、寒々とした暗がりの広がる森へ入っていった──。