落ち目貴族の令嬢、噂の怪しい伯爵と結婚してお屋敷へ ~でも伯爵いないし意外と自由なので、のんびり生活始めちゃいます~
彼女は、今急速に人生の坂を下へ転がり落ちていた。
イボンヌ・カルデル。それが彼女の名前だ。
金髪に灰色の瞳の麗しい乙女。下級貴族の娘として生まれ、贅沢な暮らしを送っていた。
しかし途中から雲行きが怪しくなり、領地がうまくいかなくなって落ち目貴族となってしまった。
焦ったイボンヌの両親は、少し上位の子爵に頼った。
しかしそれが大きな間違いで、色々ないざこざの結果、多額の借金を背負うことになったのである。
もちろんこの問題は、のほほんと生きてきたイボンヌとて無関係でいられなかった。
「イボンヌ」
「何、父様?」
まるで何も怖いことなんてないかのように微笑むイボンヌに、突然その言葉が突きつけられた。
「お前は借金返済のため、伯爵家へ嫁ぐんだ。いいな?」
イボンヌの平穏が、がたりと音を立てて崩れた。
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伯爵家といえば、悪い噂の家として有名。
噂によれば、伯爵ドルドは奴隷商人から幼い子供の奴隷を買い取り、その手足を切り刻んでいるらしい。
そんな酷い男と結婚するなんて、イボンヌは嫌で嫌で仕方なかった。
「ワタシ、絶対にお嫁へ行きたくない。なんとかならないの?」
「他の道がないんだ」と両親は首を振り、泣く泣くイボンヌを伯爵家へと向かわせた。
伯爵家は意外にひっそりとしている。中流貴族の屋敷とは思えないほど小ぢんまりしていた。
「ようこそ。我が屋敷へ」
ドルド伯爵に出迎えられ、イボンヌはドキッとする。
見た目はそう悪くない。背が高く、顔が綺麗だ。結構若い男だった。
しかし彼の噂を思えば、決していい気分ではなかった。
「今夜、結婚式です。しっかりと準備するように」
言われるがまま、使用人に結婚衣装を着させてもらった。
白いウェディングドレス。本当なら嬉しいはずのそれも、いまいち気に入らない。
まだ十七歳のイボンヌ。大人になりきれていない彼女が結婚するなど、実感が持てない話だ。いくらドレスを着せられたとしても気持ちが整っていないのでは意味がない。
しかし式はやってくる。
礼服の伯爵と一緒に軽く結婚を誓うと、その日はお開きとなった。
初夜が待っているかとドキドキしたが、そんなことはなく、ドルド伯爵の姿が見えない。
内心ホッとして、あてがわれた部屋で眠りに落ちた。
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どこへ行ったのやら、次の日も伯爵はいなかった。
代わりにノックしてイボンヌの部屋に入ってきたのは、長身の青年だ。
顔は長い前髪で隠れていてよく見えない。執事服を身に纏っていた。
「おはようございますイボンヌ様。僕は家令のマテオと申す者です」
イボンヌも「初めまして」と頭を下げる。そしてふと言葉を漏らした。
「あの、あなたとどこかでお会いした? お声に聞き覚えがあるような気がするんだけど」
「いえ、気のせいでしょう。そんなことより」
イボンヌは大きく首を傾げる。何か引っ掛かりがあるのだが、それは置いておこう。
「偽装結婚ですから、地下室にさえ行かなければ屋敷の中で自由に暮らせばいいとのお申し付けです」
「あぁ」と思わず頷くイボンヌ。
伯爵は自分の体を欲しているのではと思っていたが、違ったのだ。形だけの結婚、つまり結婚したという事実だけを残したいのだろう。
――でも落ち目の貴族令嬢と結婚したところで、周りの信頼を得られるのだろうかということは不思議だったが、あまり考えないこととする。
とりあえず自由にしていいと言われたのだから、そうさせてもらうとしよう。
「じゃあ早速朝食でも食べようかな。マテオくん、用意はできてる?」
「はい、もちろん」
彼に連れられて、イボンヌは食堂へと向かった。
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自由に暮らすといっても結構暇だ。
しばらく寝ていたイボンヌだが、やがて雑用をこなすようになった。
まるでメイドみたいだ。他の使用人たちの手伝いをしたり、楽しく過ごしていた。
しかし、一つだけ守らねばならないことがある。それは絶対に地下室へ行かないということ。
「地下室へ行ったら、何があっても知りませんよ」
冷え切った声音で、マテオにそう言われたのをよく覚えている。その時は今までになくゾッとしたものだ。
だから地下室にだけは近づけなかった。幸い、イボンヌは結構怖がりなのだ。
――でも少し思った。
もし伯爵家の噂が本当だったとしたら? だとしたら……こんなところに長居はしたくないもの。
ずっと伯爵は留守だし、ちょうどあの青年家令マテオも出かけている今、行ってみるのも手かと考えた。
「あとで怒られるかも知れないけど、別にいいか」
恐怖より好奇心が勝ったのだろう。
噂が真実だとわかったら、何かのスキにここから出てやった時、暴露することもできる。そうすればイボンヌは晴れて自由の身だ。少しくらい怖くたっていい。
他の使用人の目を掻い潜り、地下へ降りる。
部屋にはロックされていた。しかしすぐ近くに鍵が吊るされており、簡単に開けることができた。
そして地下室へ足を踏み入れたイボンヌは、唖然となった。
そこには、輪になって遊んだり、絵本を読んだりする子供たちの姿があったのだ。
「あ、おねーちゃんだ」
「もしかしてドルド様のいってたお嫁さん?」
子供たちもイボンヌに気付き、ワッと集まってくる。イボンヌは予想外のことに困ってしまった。
「ええと。あなたたち、幽霊さんじゃないよね?」
「幽霊じゃないよ」
「おねーちゃん、あたしたちね、伯爵様によくしてもらってるんだ~」
話を聞いたところ、どうやら子供たちは皆、元奴隷だったという。
しかし病気やケガで体のどこかが不自由な彼らは、伯爵に買われ、治療してもらっていたらしい。今では多くの子供がすっかり元気だ。
「おねーちゃん、びっくりした?」
「ぼくたち、お嫁さんに会えて嬉しいよ」
「ねえ、あそぼあそぼ」
「えっ、でもワタシ、何をしていいかわからないし」
「いいからいいから」と子供たちに言われるがまま、イボンヌはしばらく一緒に遊ぶことになった。
絵本を読んであげたり、かくれんぼに付き合ったり。
そうしているうちにすっかり夢中になってしまい、イボンヌは我を忘れてはしゃぎ回った。
「……イボンヌ様。マテオ様がお呼びです」
気がつくと、使用人の女性がすぐ背後に立っていた。
マテオが帰ってきたらしい。これはまずい……と慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい、ワタシ、呼ばれちゃったみたいだから行かなくちゃ」
「えー」
「もっと遊びたいよ」
駄々をこねる子供たち。イボンヌは「また遊ぼう」と約束をして、マテオの元へ向かった。
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「あれほど行くなと言ったのに。どうしてくれるんですか」
マテオはかなり怒っていた。
当然だ。たった一つの言いつけを破ってしまったのだから。しかし、
「ごめんね。でも噂通りじゃないなら、どうして隠しておく必要があるの? それなら伯爵の汚名だって」
「伯爵様は、このことが周りに知れて子供らが危険な目に遭わぬよう考えているのですよ。ともかく、あの子供らと関わるのは邪魔ですからやめてもらえませんか」
しかしイボンヌは引かない。せっかくだから子供たちの世話をしたいと言い張った。
普段ほのぼのしているのに意外と強情な彼女に押し負けたのか、結局マテオは他人に口外しないとだけ約束させ、疲れたようにため息を吐いて仕事へ戻っていった。
それからというもの、イボンヌは度々地下室へ出向くように。
子供たちはその都度喜び、すっかり世話係のイボンヌにぞっこんだ。
最初はやはり迷惑がっていたマテオも、そのうちに許してくれた。
イボンヌと彼の関係も、徐々に深まる。
一見冷静かつ周りに無関心に見えるマテオだが、イボンヌを気にかけてくれたりして案外優しいのだと知った。
彼女はそんな青年に惹かれていき、恋をしてしまった。
が、イボンヌは仮でも伯爵の妻。他人に恋するなど許されないことくらいわかっている。
もやもやした気持ちを抱えながら、だが、ずっと黙っていた。
そのまま月日が流れた。
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相変わらずの日々を過ごしていたある日のこと。
突然、マテオがこんなことを言い出したことから、またもイボンヌの平安は崩れた。
「明日、伯爵様がイボンヌ様に会いたいと。よろしいですね?」
「え……」
イボンヌは思わず声を漏らし、体を硬直させる。
ずっと別邸に滞在していたという伯爵が帰ってくるというのだ。
――これはやばい。
イボンヌはそう、直感した。
今までずっとドルド伯爵はイボンヌに関心がないのだと思い込んでいた。しかし実際は違い、やはり彼女に気があったのだ。戻ってくるということは間違いなくそういうことである。
今度こそ初夜に決まっている。そう思うと胸がバクバクした。
だってイボンヌはマテオが好きなのだ。彼には言えないがその気持ちは本当。
なのにほとんど会ったことのない伯爵と初夜を過ごすなんて……絶対に無理だった。
できることなら、マテオと一緒に逃げ出したい。
しかし彼はあくまでも伯爵の家令。そんなことはしないに決まっている。
だったらこの恋心を捨ててもいい、一人で逃げ出してやる。
イボンヌは急いで地下室へ駆け降りた。
「みんな、ちょっとお願いがあるの」
「なあに?」
「おねーちゃん、どうしたの?」
「鍵を開けるから、外に飛び出してみんなの気を引いてほしいの。いい?」
軽く打ち合わせをすると、作戦を実行に移す。時間はないのだ。
それでも心残りがあり、マテオの部屋の前に置き手紙を残しておいた。好きだったとだけ書き記して。
再び地下室に戻り、合図。
一斉に子供たちが上階へ駆け上がり、暴れ回り出した。
家具が倒れ、食器が割れる。子供たちは「大好きなおねーちゃんのために」と頑張ってくれていた。
「ひぃっ」使用人が悲鳴を上げて、他の人たちを呼びに行く。
よし、今のうちだ。
「ありがとう」
子供たちに言い、イボンヌは窓をガラリと開ける。
窓の下は花壇。ここなら落ちても死なないだろう。
しかし足がすくむ。距離はどれくらいだろうか。落ちても本当に大丈夫なのだろうか、あと一歩のところで勇気が出ない。
その時、背後から子供たちの声援がした。
「頑張れ!」「頑張れ!」
イボンヌは頷き、思い切って窓から身を乗り出す。そして手を勢いよく離した。
――落ちる、落ちる、落ちる、落ちる。
世界が反転し、青空が足の下になる。どんどん緑の植え込みが近づいてきた。近づいて、近づいて、近づいて、近づいて。
「あれ?」
頭の真下、そこに異物が待ち構えていることに気づいた。
おかしいと思って見てみれば、それは屋敷の周りに置かれた銅像の一つだった。あれにあたったら、間違いなく命はない。
しまった。そう思う暇もなく、銅像目掛けて真っ逆さま。
悲鳴にならない声を上げ、死を覚悟したその直後。
――彼女の体が柔らかい感触に受け止められていた。
「……へ?」
頼りない声を漏らし、イボンヌは慌てて首を回す。
するとすぐそこに見覚えのある顔があった。
「まったく。こんなことをしたらダメじゃないですか」
それは……ドルド伯爵。
イボンヌはドルド伯爵に抱き止められていたのだ。
「ドルドさん、どうして」
「使用人たちからあなたが抜け出そうとしていると聞いて、慌てて駆けつけてきたんです」
でも変だ。だって伯爵がこんな早くに帰ってくるはずがないのに。
予定は明日。明日のはずだった。なのに何故……。
「――ぁ」
地面に降り立ち、彼の服装を見てイボンヌは息を呑んだ。
だって彼が纏っていたのは家令のマテオが来ていた執事服と同じだったから。いいや違う、彼こそがマテオだったのだ。
「ど、どういうこと?」
わからない。
顔だけ伯爵なのに、体がマテオの青年。この状況は一体?
「お身体大丈夫そうで何よりです。……驚かせてしまい申し訳ありません。今、全てを明かすべき時でしょう。僕の話を聞いていただけますか?」
そう言って、彼は一人語りを始めたのである。
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話を簡単に要約してしまえば、ドルド伯爵とマテオは同一人物だったのだという。
マテオ・ドルド伯爵。それが彼の本当の名なのだ。
彼は挙式の日、自分を強く警戒するイボンヌを見て彼女を試すことにした。
それが、家令に化けて暮らすという突飛な作戦。前髪で顔を隠し、服を着替えれば変装の完了だ。
他の使用人たちには黙っておくように言って、まるで伯爵とは全くの別人のように振る舞いイボンヌの様子を見た。
まんまと騙されたイボンヌは、そんな作戦など知らずに過ごしていたわけだ。声も背格好も同じなのに見破られないなんて、我ながらイボンヌは呆れてしまった。
「……僕はあなたが好きなんです。あなたと結婚する前から、度々貴族の舞踏会であなたを見かけて」
言われてみれば、ドルド伯爵と会うのは初めてではなかった気がする。
まだ十代の初頭だった頃、一度だけ出席した舞踏パーティーで彼と軽く言葉を交わしたのを思い出した。
「そうか、あの時あなたはワタシに惚れたってことね」
「はい。騙すようなことをして、すみません。あなたを追い詰めたかったわけではなかったのです。一歩間違えば、あなたは命を落としていた。それを思うと本当に……」
後悔するようにかぶりを振る青年。
イボンヌは灰色の瞳で彼を射抜いた。そして、しばしの間躊躇う。
伯爵=マテオと知ってしまった。
驚きはある。少し苛立ちもある。でも、言うなら今しかないと口を開いた。
「大丈夫。飛び降りたりして、こっちこそごめん。手紙、読んでくれた?」
「いえ。手紙とは……?」
「読んでないならいいの。今、言うから。……ワタシ、実はマテオくんのことが」
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――後日。
イボンヌはことの趣旨を両親に伝え、彼らからお祝いを受け取ってパーティーが開かれた。
知らず両思いだった二人は、パーティーで盃を交わし、本当の意味で結ばれた。
落ち目貴族の令嬢イボンヌ・カルデルが、立派な伯爵夫人イボンヌ・ドルドへ。
偽りの結婚などではない、本物の夫婦となったのだ。
元奴隷の子供たちは伯爵に散々怒られたあと許され、今では地下室から出て上階で遊ぶように。イボンヌも一緒になって輪に入り、それを愛おしげにマテオが眺めている。
そんな日常が、イボンヌにはとても幸せだ。
願わくば、この平穏がいつまでも続きますように。