また会える日まで
───嗚呼、何故。
どうしてこんなことになってしまったの。
あんなにも優しかった兄さまが。
どうして。
悲しい?
……いや、違う。これは。
───「怒り」だ。
***
「もも、見てごらん。向こうのお山の山桜が咲いているよ」
「わぁ、本当!きれいねぇ、兄さま」
「そうだね…あぁ、足下に気をつけて」
「ねぇねぇ兄さま!今度お花見に、っきゃあ!!」
「ほら言ったろう…手につかまって」
足を滑らせた私に心配そうに兄さまが手を伸ばす。
幸い着物が汚れただけで怪我はなかった。
私は子どもでもないのにすっ転んだ恥ずかしさで顔を赤くしながら、兄さまの手をとった。
──私の5つ年上の兄さまは、とてもお優しいひとだった。
とても、とても優しいひとだった。
「もも、街のお土産だよ」
「もう兄さま!私へのお土産はいいとあれ程言ってるのに!今日は兄さまのお着物の布を買いに行ったのでしょう!?」
「ごめんね、忘れてた」
「もう!」
「兄さま、傘を私の方へ傾けなくていいですから…兄さまが濡れてます」
「うーんでも、ももが濡れてしまうからね」
「兄さまが風邪引きます!」
「まあ大丈夫だよ」
「兄さま、街でご飯を食べて帰るんじゃなかったんですか。先程ご友人の方に声をかけられてましたよね」
「僕も帰るよ。あいつとはまた会えるし」
「……私だって」
「今日はももと帰りたい気分なんだ。一緒に帰ろう?」
「…………はい。ありがとうございます、兄さま」
───兄さまはとても美しいひとだった。
「千歳さん、今度は隣町の屋敷の娘に声かけられたらしいわよ」
「まあ、見目麗しいから」
「あの黒檀のような瞳!雪のような肌!目元も優しげなの」
「あらあなたもお熱なの?男衆も女子と間違えて声をかけたこともあるらしいし」
「あなたも会えば惚れちまうわよ。見目が良いだけでなく、とてもお優しいのだから」
「そうなの?」
「そうよ!それだけでなく、妹さんをおひとりで養う甲斐性もあるのだから」
「まあ、妹?」
「ええ。でもなんだか千歳さんには似てないのよ」
「それはまあ、お気の毒にねぇ」
「ももの髪は美しいねぇ」
「そんなこと、初めて言われました。……私は兄さまみたいなのが良かった」
「そう?僕の髪は何の面白みもないと思うけれど」
「……」
「ももの髪はまるで百合のようでとても綺麗だと思うよ」
「………でも白髪だから」
「とっても綺麗だよ」
「でも、目立つし、兄さまにも似てないって…
私の髪も、目の色も変だから」
「………もも。
他の人が何と言おうと、僕はももの百合みたいな髪も、紅葉みたいな瞳も綺麗でとても好きだよ。
もものこと、捨てたりしないよ」
私は兄さまが大好きだった。
優しくて、美しくて、どこか抜けていて、こんな変な私のことを大切にしてくれる兄さま。
気づいた時には親はいなくて、私たちは2人で暮らしていた。
だからこの「好き」が普通の家族の「好き」と違うのだと気づくのが遅れた。
「もも、僕たちは血が繋がってないと言ったらどうする?」
「…………え?」
私が13になった時だった。
兄さまは突然そんなことを言った。
いや、突然では無かったのだろう。私は愚かにも気づかない振りをしていただけだった。
兄さまだって18だ。
もう所帯をもってもおかしくはない。だが兄さまはそんな話を全くしなかった。
だから愚かな私はずっとこの暮らしが続くと信じていたのだ。
「ももに縁談が来ている。ももは受けたい?」
「嫌です………ごめんなさい、兄さま」
先程の言葉の衝撃から立ち直れず、私は心ここに非ずのまま断っていた。
それよりも兄さまはさっき、なんて。
「そう、じゃあ断るね。
でもね、もも。よく考えて」
───僕たちは兄弟ではない。ここで一緒に暮らすのは本当はおかしな事なんだ。
そう言って兄さまは席を立った。
そして家を出ていってしまった。
私は混乱した。
物心ついたときには既に傍に兄さまがいた。
髪色のせいで石を投げられたときは兄さまが庇ってくれた。瞳の色が気持ち悪いと物を売ってもらえなかったとき、兄さまはお金を叩きつけてこちらから願い下げだと言ってくれた。桜が綺麗だというとお花見に連れて行ってくれたし、雷で眠れないというと傍で手を握ってくれた。雨の日は私ばかり濡れないよう気をつけて、兄さまが濡れ鼠になっていたし、目の悪い私を気遣って山道では手を引いてくれた。
いつだって兄さまがいた。
いや、兄さまだけが気持ち悪い私の傍にいてくれた。
黒檀のような瞳を持つ、優しい笑みを浮かべる美しいひと。
兄さまの視線はいつも慈しみと愛情に溢れていて、こんな化け物みたいな私でも愛されていると思えた。
───そんな安寧の日々が、終わってしまう?
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
私は気づいたら家を飛び出し兄さまを追いかけていた。
月が小道を照らす。
この家は少し街から離れていて山の中腹にある。
目の悪い私に夜道は危険だと兄さまに小さい頃から言い含められていたから、今まで夜にこの道を歩いたことはない。
足下は思ったよりも見えなくて怖い。
でも。
「兄さまぁっ!行かないで!!置いていかないで!!いや!!!!」
泣き叫びながら走った。
嫌だった。兄さまと離れたくなかった。
例えばけものと謗られようとも、石を投げられようとも、血が繋がってなくても。
「兄さま!兄さま!!
私を置いていかないで!お願いです!!私、何でもします!!我儘も言わないから!!
お願い、兄さま
っきゃあああああ」
痛い。
夜道で足下も見えなかったせいで思いっきり道を踏み外して山道を転がった。
崖を滑り落ちて枝をばきばきと幾つか折ってようやく止まった。
「にい、っ兄さまぁ…っく…うぇ…」
私は泣いていた。
痛みではない。兄さまともう会えないかもしれないということがとてもとても悲しかった。
兄さま。
身体中が痛いけれど、でももう兄さまと過ごせないのならここで終わりでもいい気がした。
「っもも!!」
「!!」
幻聴かと思った。
月明かりに照らされて誰かの影がぼんやりと見えた。
「にい、さま…??」
「もも!今行くからそこにいて!!」
「にいさま!」
兄さまはするすると崖を降りると、私の所までやってきた。
そして軽々と私を背負い崖を登って元の山道に戻り、私を背負ったまま家への道を歩きだす。
「兄さま、私歩けます」
「駄目。動かないで」
「兄さま…」
返答はない。
いつもの優しい瞳で見てくれる兄さまではなかった。
兄さまはとても怒っていた。
それもしょうがない。
夜道を歩くなと言われていたのに言いつけを破った挙句、崖を転がり落ちて怪我をし、背負って家まで送らせているのだ。
いくら優しい兄さまでもこれは怒るだろう。
ましてや私たちは。
「兄弟じゃないから…」
びくっと兄さまの背が揺れた気がした。
家はもうすぐそこだ。
「申し訳、ありません…でした……
こんな化け物の面倒を見させて、養ってもらって……我儘だって沢山言って、困らせて……。
兄さまにも縁談だって、本当はいっぱいきてるでしょう?でも私のせいで、にい、いや兄さまってもう呼んだら変ですよね…ごめんなさい」
兄さまが家の戸をくぐる。
無言で私を背から下ろすと壁に押さえつけた。
今までの兄さまからは考えられないほど、乱暴な手付きだった。
怒られると思った。
詰られると思った。
「僕は…!」
「ごめんなさい!!でも、でも……!!
私を置いていかないでください………!!」
「…」
「ごめんなさい、化け物なのに、兄さまの兄弟じゃないのに、でも、私、」
「もも」
顔を覆う。
泣き顔を兄さまに見せたくなかった。
違う、こんな我儘を言う醜い顔を見られたくなかった。
「兄さま、やだよ…置いてかないで…」
そう言った私の身体を暖かな何かが包んだ。
「え…」
「ごめん、謝るのは僕だ。
ももと一緒にいたのは僕の我儘だし、兄弟じゃないと隠してたのも僕が悪い」
「…兄さま?」
「ももと離れたくなかったのは僕だよ。離す気だって本当は無かった。
ももをこんな山奥に閉じ込めたのも僕。全部僕が悪い」
「兄さま?」
「もも、僕はね………僕は、百歳のことが大好きなんだ」
「?」
「兄弟だからじゃない。寧ろ兄弟なんかじゃない。
僕はもものことを女として見てる。
今だってももに口付けたいし、白い肌を暴きたいし、身体の隅々まで見てみたいと思ってるよ」
「…」
「だからももとは兄弟でいられない。……ごめん」
そう言った兄さまは私に口付けを落した。
呆然としながらも私は兄さまの着物の裾を離さなかった。否、離そうとは思わなかった。
「わた…わたし、」
「ごめん、ごめんね…百歳。僕は出てくよ」
「違う、違うの…!」
優しい手つきで私の手を外そうとする兄さま。
私の手は震えていた。何故かは分からない。でもひとつだけ。これだけは言える。
「私は、兄さまが一等大事。兄さまが一番大切なの……!!」
「…っ」
「だから、だからね、例え兄さまの兄弟じゃなくても、一緒にいたい……」
兄さまに女として見られてると聞いて驚いた。
でも嫌悪感はない。
私だって13だ。男と女の交わりが何だかくらい知っている。美しい兄さまと醜い化け物の私がそれをするというのは今すぐは想像できないけど、全く嫌ではない。
寧ろ私は想像してしまった。
──兄さまと知らない女がそれをする方が万倍嫌だ。
「っもも!!」
兄さまは私をぎゅうと痛いほどに抱きしめると、それまで見た事もない瞳をした。
優しくない、慈しみに溢れた訳でもないそれは、燃えるような熱さを秘めていた。
そして私と兄さまはそれまでと変わらない暮らしを過ごしていた。
同棲はしているが、身体の交わりはない。
兄さまは私が15になるまで待つと言った。
余り早くにそれをするのは体の強くない私の負担になるだろうから、と。
でも時々あの晩見た瞳で口づけしてくる。
その時、私は今まで見たこともない兄さまのその様子に身体が熱くなってしまうのだ。
「兄、にいさま…!ここ、外ですから……」
「大丈夫、もも。腰が抜けても僕が背負うよ」
「ちがっ…!んっ」
「ももは綺麗だなぁ」
髪を手で梳かしながら私に口づけを落とす兄さま。
はらはらと桜の花びらが辺りを舞う。
1年前のお花見ではこんなことになるなんて思ってもいなかったなぁ、と私はぼんやりした頭で思うのだ。
それから夏が過ぎ、秋が来て、兄さまとは珍しく一度喧嘩して仲直りをして、やがて冬が来て…
──その日が来た。
兄さまは街へ出ていた。
春の初めとはいえまだ肌寒さの残る中、火を炊いて私は夕餉の準備をしていた。
肩にかけられた羽織は兄さまの物。寒そうだという理由で出かけに私にかけて行った。
その時のことをつい思い出してしまい、私は顔を赤くする。…時折見せる兄さまの男の顔には、未だに慣れない。
「ごめんください」
「は、はい!」
引き戸から声をかけられた。
珍しいこともあるものだ、と戸を引くと出会い頭に衝撃が襲い、私は呆気なく意識を飛ばした。
そして次に気づいたとき、私は水の中にいた。
──寒い、冷たい。
手足を動かそうにも動かない。
苦しい、苦しい、苦しい。
水が口からどんどん入ってくる。
ああ、死んでしまう。
「……………ちとせ、にいさま」
───そうして私は呆気なく死んだ。
次に気づいたとき、私は宙を飛んでいた。
眼下には水でずぶ濡れの兄さま。
その前には粗末な木の箱に入った私の骸があった。
そこで漸く私は自分が木箱に詰められて川に沈められたことを知った。
兄さまはぴくりとも動かない。
私の骸に手を伸ばすこともしない。
「にいさま」
私の声も届かない。当たり前だ。私は確かに死んだのだから。
兄さまから目を離せないでいると、やがて女一人と男数人が森の中からやって来た。
知った顔だった。確か、そう兄さまに求婚したと噂の隣町の貴族の娘さんだ。
兄さまは振り向きもしない。
その背に向かって女は何かを呼びかけている。
何を言っているかは残念ながら聞こえなかった。
女のことを無視する兄さまを、男達が囲む。
私の入った木の箱に誰かの足が当たった時、兄さまが動いた。
「っ!」
一瞬だった。
兄さまの護身用の小さな刃物が男たちの首を割いた。
辺りは血溜りとなり、女が腰を抜かす。
声は聞こえないが悲鳴をあげていることは分かった。
兄さまは後ずさる女に躊躇いもなく小刀を振るい、女の骸を放り投げた。
「にいさま?」
血を滴らせなから兄さま、いや兄さまだった人が森を降りる。
「にいさま…」
もうその人は私の骸を見向きもしない。
「にいさま…!」
ただ感情のままに森を降りたその人は、街を襲って人を殺した。
その人の額にはいつの間にか2本角が生え、その人の髪は私のように白く染まり、その人の瞳は血のように燃える赤になっていた。
まるで私のような姿。
私みたいな化け物の姿。
「兄さま、兄さま……!!」
───嗚呼、何故。
どうしてこんなことになってしまったの。
あんなにも優しかった兄さまが。
どうして。
悲しい?
……いや、違う。これは。
───「怒り」だ。
なぜお優しい兄さまがこんな目に合わなければならないのか?
天命を司る神や仏に対する怒りだ。
鬼という生き物がいる。
兄さまだった人はそう呼ばれた。
聞いたことがあった。
強い感情の余り人の身では耐えられなくなった哀れな生きもの。
私のことも忘れてしまったのだろう。
誰にも埋葬されなかった私の骸は朽ちて腐って、蛆が湧いて土くれになった。
「兄さま、置いていかないで」
──貴方が私を置いていくのなら。
私が貴方を追いかけましょう。
──貴方が私を忘れるのなら。
私は貴方のことなど絶対に忘れてやらない。
そして長い年月をかけて私は鬼になった。
ずっとずっと空から兄さまを見ていた。
会いたくて会いたくて。
あの優しい兄さまに会いたくて、狂ってしまうかと思うような長い年月を過ごして。
兄さまが好きだと言ってくれた大嫌いな髪と目の色は、兄さまのような黒檀色に染まってしまったけれど。
兄さまのことを忘れたくなくて、我を忘れる程の狂気に身を任せていないせいか、鬼としては呆れるほど弱くて、実体を保てないけれど。
美しくて優しかった兄さま。
貴方に会うにはこの方法しかない。
「これは鬼切、百合紅葉。鬼の宿った世にも珍しい、鬼を切る専用の刀さ」
暫しさよなら、兄さま。
また会える日まで。