君の色に染めた菊を
そこは黄色い菊が埋め尽くす鬼の住処でした。
その菊園にはのほほんとした顔の二本角の赤鬼と、冷たい目をした一本角の青鬼がいました。この二人に親はいません。彼らは不思議の菊園で自然発生した鬼でした。
彼らは人間と自分たちはさして違いはないと思っていました。顔があって、髪があって、目と耳は二つ、鼻と口は一つ。首は長すぎず短すぎず、四肢も揃った五体満足の身です。角の一本や二本なんて、さしたる違いではないでしょう。
しかし、二人がそう思っていても、人間はそうはいきません。人間の間には「鬼」という生き物の伝承が溢れていて、そのほとんどが「恐ろしい」「怖い」という印象を抱かせるものなのです。
赤鬼はとても気性が穏やかで、青鬼は鋭く冷たい目をしていますが、他者を害することはありません。けれど二人は「鬼」というだけで、生まれ育った菊園に閉じ籠って生活することを余儀なくされました。
「人間というのは身勝手だ」
幼い姿でありながら、青鬼は達観したように言いました。
「あんな生き物とそもそも関わらなければ、面倒なことにはならない。一生ここで生きよう」
しかし、赤鬼は年相応の声色で反論します。
「そんなの、寂しいじゃないか! ぼくたちは二人しかいないんだよ? 人間と違っておとうさんもおかあさんもいない。兄弟もいない。友達もいないんだ。それって悲しくないかい?」
赤鬼の言葉に、青鬼は顔をしかめました。
「親はともかく、おれたちは兄弟みたいなもんで、同じ鬼だから友達になれるんじゃないか? おれはそれで充分だ」
青鬼の言葉に、赤鬼はきょとんとします。けれどすぐにぱあっと笑みを浮かべました。
「それもそうだね」
でも、人間ともやっぱり仲良くなりたい、と赤鬼は思うのでした。
時が経ち、二人が十つ半ばほどに成長すると、黄色かった菊園は白くなっていきました。
「なんで色が変わったんだろうな」
青鬼が適当に摘んだ草を煎って淹れた茶を飲みながら、呟きます。特に大した疑問でもないので、独り言のようなものなのですが、赤鬼がここぞとばかりに反応します。
「不思議だねえ。人間なら何か知っているかな?」
赤鬼の発言に、青鬼がむっとしました。
「何かにつけて、人間に会いに行こうとするのはやめろ」
「でも、僕たちは何も知らなすぎる。誰かに教えを請うべきだよ」
「まあ、それもそうだな」
確かに、青鬼と赤鬼はずっと二人で過ごしてきたので、互いのことは知っていますが、他のことは知りません。せいぜい、鬼は人間に嫌われている、といったところでしょう。
他にどこかに鬼がいるという話も聞きません。となると、やはり、人間に聞きに行くしかないでしょう。
あまりいい予感はしませんが、青鬼は赤鬼と一緒に人間のところへ行くことにしました。理由もわからないまま、一方的に嫌われているのもなんだか癪だったので。
それに、呑気な赤鬼が人間に悪さをされたときのために、ついて行った方がいいと思ったのです。
赤鬼は仲良くしたいようですが、鬼が人間に嫌われていることには変わりませんから。
人間の世界に来るのは久しぶりでした。赤鬼と青鬼のいる菊園もこの世界の一部ではあるのでしょうが、人間の暮らす世界は人間が植えた作物や菊以外の草花も生えており、雨風を凌ぐ建物があります。人間は村やら町やらを作り、群れて行動しているので「たくさんいる」というのが二人にとっても新鮮でした。
畑仕事をする人間に、赤鬼が声をかけます。
「どうも旦那さん、お聞きしたいことがあるのですが、ちょいと時間をいただけませんかね」
畑仕事を熱心にしていた青年が顔を上げ、赤鬼と青鬼の姿を見て驚きます。
それもそうでしょう。角の生えた人の形をする生き物など、鬼以外に考えようがありません。
「鬼が、鬼が出たぞ!!」
青年が村中に響く声で叫びます。村の人々がわらわらと動く気配がありました。
赤鬼は疑問符を頭に浮かべていましたが、青鬼はすぐに人間の悪意に気づきました。雰囲気もそうですが、青年が畑を耕すのに使っていた鍬を振り上げて、こちらに襲いかかってきたからです。
呆然とする赤鬼をその猛威から庇って、青鬼が飛び出しました。頭を鍬でがっと殴られます。赤い血がだあだあと流れました。
赤鬼は混乱してしまい、何もできなくなります。青鬼はそれを察して、赤鬼を捕まえて、そこから去ろうとしました。けれど、村の人間たちに取り囲まれ、農具で殴られたり、箸で目を刺されたりしました。
菊園に着く頃には、全身傷だらけになった青鬼は赤鬼といっても遜色ないほどに全身が真っ赤になっておりました。赤鬼はぼろぼろぼろぼろと涙を流します。
青鬼の方が女の子なのに、庇われて、こんなにぼろぼろになるまで。赤鬼は何もできなかった自分が嫌になりました。
けれど、自分を嫌うより、青鬼の手当てを優先しました。青鬼がもしものときのために教えてくれていた薬草の調合をして、傷に塗ったり、飲ませたりしました。青鬼がよくなるまで、三日だろうが七日だろうが、寝ずの番をしたのです。
しばらく経った頃、青鬼が目を覚ましました。赤鬼は泣いて喜びました。
青鬼が苦笑します。
「鬼が泣くな」
けれど、その視界は前より幾分か隔たれておりました。左目に布が当ててあります。
「ごめん、ごめんよ。目だけはどうにもならなかったんだ。どんな飲み薬も効かなかった」
赤鬼の窶れた顔に青鬼が微笑みます。
「お前がそんな顔でどうする? 二人無事だっただけよかろう」
「それはそうだけど、もし君が死んでしまったら僕は……」
涙ぐむ赤鬼の頭をぽんぽんと撫でて青鬼は諭しました。
「それは俺も同じだ。お前が傷つけられただけで、生きた心地がしなくなる。だから庇ったんだが……」
青鬼は赤鬼のこけた頬にそっと唇を落としました。
「お前がそんな顔になるくらいだったら、二人で逝った方が楽だったかもしれないな」
「死ぬのは怖いよ」
「そうだな」
青鬼は赤鬼をぎゅっと抱きしめました。
そこに体温がある、それだけで二人は安心できました。
赤鬼がぽつりと呟きます。
「人間とは、仲良くなれなくてもいいや」
青鬼がきょとんとしました。赤鬼は人間と仲良くなることに躍起になっていたように思えたからです。
赤鬼の顔は晴天のようにからっとしていました。色々と吹っ切れたように。
「君がいれば、僕はそれだけでかまわない。君も同じじゃないかい?」
「はは、まあ、菊園をお前と眺めて過ごすのも悪くない。お前はお喋りで時折鬱陶しいが、嫌いではないからな」
「ひどーい! そんなこと思ってたの?」
「はは、冗談だ」
そんなやりとりをして、二人はどちらからともなく、菊園に向かいました。
「!」
そこに広がる色に青鬼は目を細めます。
「そうそう、君を看病する間に、菊が白から赤へとだんだん変わっていったんだ。血の色みたいで不吉に思えたけど、君と見られたなら、とても美しい」
「……そうだな」
そこには鮮烈な赤がゆらゆらと揺れていました。また菊の色が変わったのです。
けれど、今度は赤鬼もこの不思議を解き明かそうとは言いませんでした。青鬼を失いかけたのが、とても怖かったのです。
人間と仲良くなりたい気持ちは赤鬼の中から消えたわけではありません。それよりも二人でいられる時間の尊さが勝ったのです。
そういう時間を大切にしよう、僕らは二人で生まれたのだから、と赤鬼は胸の中に思いを大事に抱えていました。
青鬼はふと、隅の方が別の花になっているのを見つけました。花と茎だけで葉の見当たらない、赤い花でした。
青鬼はその花を全て抜き、球根まで綺麗に除きます。赤鬼は不思議そうにそれを見ていました。
「なんだい、それは」
「ハミズハナミズと言ってな。菊とは違う花だ。煎じてみよう」
「薬なの?」
「……まあな」
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ……と数えて、赤鬼は途中で数えるのをやめました。
「これだけたくさん別の花が生えてたのに、このたくさんの菊園を埋め尽くす菊は一体いくつあるんだろうね」
「さてな。数える気にもならん」
確かに、途方もない数ですから、数えるのは骨が入りそうです。
ハミズハナミズを煎じた薬を飲んで、赤鬼は不味い、と一口でやめました。ただ、薬というだけあってか、病み上がりの青鬼の体とは相性がいいのか、ぐびぐび飲んでいました。
元気そうな青鬼の様子に、変わらず明日を迎えられると、赤鬼は笑いました。それはとても幸せなことですから。
──そんな、浅はかな幸せで、赤鬼は充分だったのです。
赤鬼が起きると、青鬼が既に起きており、儚げな笑みを浮かべていました。気のせいでしょうか。今にも消えてしまいそうな気がして、手を掴むと、青鬼の手に体温はなく、赤鬼は顔からさっと血の気が引いていくのを感じました。
「君……」
「お前が無知なやつでよかったよ」
「どういうこと?」
青鬼は浅く息を吐いて告げます。
「ハミズハナミズは彼岸花、曼珠沙華と呼ばれるあの世に通じる花だ。呼び名はともかく、実際に花、葉、茎、球根、全てに毒が含まれている。少量なら摂取しても死なないが、大量に取り込めばどうなるかわかったものじゃない。それと……菊は人間の間では仏花として扱われるんだ。俺たちはもしかしたら、鬼でも人でもなく、ただの幽霊なのかもしれない」
「それが、それが何だっていうのさ」
戸惑う赤鬼に、青鬼はにこりと笑った。
「俺は、この世ならざる者だ。本当は最初から死んでいた。お前と同じで一人が怖くて、お前を巻き込んだ、愚かでどうしようもない鬼だ。本当の死までの余暇を誰かと過ごしたかっただけ。だから死ぬのも怖くなかった。これからその余暇も終わって、お前を置いてきぼりにする」
「そんな」
それはあまりにも身勝手で意地悪でした。非難轟々となることを予想したのでしょう。青鬼は一つ、付け足しました。
「ただ、やはりお前を一人にするのは嫌でな」
続いた言葉は突拍子もない言葉でした。
「これから俺は、この菊園と一体になる。そうしたらまた、菊の色が変わるだろう。青鬼と呼ばれる俺の色に。だから、傍で見ていると思ってくれ」
「菊園になるって?」
「ここの菊の色は、俺に呼応して変わるんだ。幼い頃は黄色、真実を知ってからは白、血塗れの愛には赤に染まる」
心当たりは赤鬼にもあります。きっと、白くなった辺りで、青鬼は自分の正体に気づいたのでしょう。
「藍よりも清らかな青い菊になる。そうしたら人間に見せてやれ」
「えっ」
「青い花は珍しいからな。喜ぶと思うぞ」
「そんな適当な」
「それに、俺が消えればお前の角もなくなるだろう。人間と仲良くなれるぞ。……生きてくれ」
「ちょっと待って、僕は君なしじゃ」
青鬼は柔らかく微笑みます。
「だから、俺はここにいる。寂しくなったらいつでもおいで」
そう残して、彼女は、菊園に溶け込むように消えていってしまいました。
また、目を覚まし、なんだか長い夢を見ていた気がする、と少年が起き上がります。誰かの気配がして振り向くと、そこには。
見たこともないような、真っ青な菊園が広がっていました。
「きれい……でも」
かなしい。
少年はその菊を手折り、抱きしめて、自分の村に戻りました。
村でそれを見た大人たちは、奇跡の花だと崇め、少年を称えました。
そこで少年は初めて、本当の幸せを知ったのです。本当に幸せだと、人は泣くものなのですね。
きっと、誰かもわからない鬼も、死して尚、幸せを感じることができたでしょう。彼が幸せになったのなら。
青い菊園から、きっと……