第十二話
父親が出張先で事故に遭ったことを伝えると、カナは家に帰してもらえなくなった。まだ学生のカナには保護者が必要だ、母親の死を知った直後の彼女には特に。
「おじいちゃんとか、おばあちゃんとか、すぐに来れそうな親戚は居ないかな」
病院の廊下、薄明かりに照らされた緑色の椅子に座り、カナは刑事だという男と話していた。
「お母さん……親戚付き合い、悪くて」
母は倹約家でヒステリック、父は気が弱く母の言いなり。母は生前無駄な出費だと親戚付き合いを切り捨てていた。幼い頃から親戚の集まりに参加したことのないカナは電話番号どころか名前すら知らなかった。
「こっちでも調べるけどね、仕事はそればっかりじゃないし……結構かかるかもしれない。今日もう遅いし……どこか泊めてもらえそうなところはないかな、ないなら病院か警察署になるけど……」
「…………家、ダメなんですか?」
「ダメって訳じゃないけどね、出来れば後見人……分かるかな、君は未成年だし、面倒を見れる大人が必要なんだ」
両親に降り掛かった不幸に混乱した頭では何も思い付きやしないのに、カナは必死に頭を悩ませる。男がため息をついていると、ふいに携帯の着信音が鳴り響く。男はカナに軽く謝って廊下の隅で電話を取った。
「…………アイちゃん」
カナの頭に浮かぶのは両親の顔ではなく親友の顔だった。何の相談も出来ない頼りない父親、すぐに怒鳴り手を出すヒステリックな母親、大嫌いだと言った両親──本心ではないはずの叫びは、カナに自身への不信感を抱かせていた。
不安だし、心配だけれど、そこまで悲しくない。
自分を育ててくれた両親なのに、そんな両親が片方死んでもう片方も死にかけているのに、感情の揺らぎはそこまででもない。
「……えっと、釘谷さん。ちょっと聞いてもいいかな」
電話を終えて戻ってきた男に思考を中断される。だがカナは中断させてくれたことに感謝したい気分だった。
「お父さんを轢いた車は盗難車で、乗っていたのはホームレス。初めからお父さんを轢くためだけに盗んだみたいに一直線にお父さんの会社の前に向かったらしいよ、外回りの時間も知ってたか……いや、会社に恨みがあって社員なら誰でも良かったって線はあるんだけどね、何分犯人が理由を言わないからさ」
男の話は混乱しているカナにはよく理解出来ないものだった。
「……お母さんを襲った方も動機が分かってなくてね。逃げもせずその場に立ってたらしいし……それで、聞きたいことっていうのは動機に心当たりがないかってことなんだけど」
「誰かに恨まれてなかったかってやつですか……?」
カナは刑事ドラマだとかでよく聞くセリフを挙げてみた。
「…………まぁ、そういうことだね。あるかな?」
「……お母さんは性格が……ちょっと、その…………なので、嫌われるタイプかもしれません。でも、外面はとてもいいはずなので、恨まれるとかは」
男は被害者の娘からの証言に絶句する。被害者に近しい者はそうそう性格がアレだとか外面はいいだとか言わないものだ。ましてや学生の娘が。
「お父さんのことは……よく分かりません。会社とかの話は、聞きませんし」
「まぁ、犯人が両方ホームレスだからね……動機が無くてもおかしくはないっちゃないのかもしれないけど」
刑務所をホテル代わりに──だとしても殺人は珍しい。だが、無いとは言い切れない。しかし、夫婦揃ってなんて有り得るのか。男の思考は堂々巡りだ。
「………………私のせいかもしれません」
「……どういう意味かな?」
「私、最近……学校で虐められてて。人気者だったはずの彼氏まで虐められて……三階から落とされたりしたんです。クラスで女王様みたいだった親友も、虐められ始めて……机にカッター刺さってたりしたんです」
カナの認識はあくまでも「おまわりさん」ではあるが、刑事である男にはかなりの頼りがいがあり、虐めの話も初めて大人に出来た。
「三階から……まさか、その彼って文原君かな?」
「ぁ……はい、そうです」
「…………窓際で友達とふざけてて落ちた、って事故だったはずだけど」
「……そんな訳ないっ! 彼が落ちたのは先輩達の教室の前なんですよ!? 先輩達のフロアで遊んだりしません、あの時にふざけ合うような友達なんてっ……」
普段からの素行の悪さもあって転落は事故として処理された。数日前の暴行の形跡を怪しむ者は医者にも警察にも居たが、一命を取りとめた本人が「遊んでいたら落ちた」と証言したこともあって書類手続きは滞りなく進んだ。
「君の話を鵜呑みにすると、君自身に目立った傷はないのに君の周りの子は落とされたりカッターを机に刺されたりしてる訳だけど」
「……私自身には、机が無くなったりトイレに教科書とノートが捨てられたりしただけです」
「だけ、とは言い難いけど……まぁ、その二人に比べると危害を加える意思は低いね。学生のイジメは専門じゃないけど」
部署違いではあるものの人間関係が悪化しての暴力的手段という面では似通っている。学校が社会の縮図なら自分の経験と勘で十分対応できるだろうと、男は自惚れに頭を働かせる。
「ますます君を引き取り手無しに帰す訳には行かなくなった、今日は病院に泊まりなさい。我々も交代かもしれないがここに居る。何か思い出したことや不安なことがあれば相談するように。まぁ……ここに来てるのは男ばかりだから、寝る君の横に着くのは難しいけど、扉の前くらいには居るようにしよう」
「ありがとうございます……ぁ、あの……電話、してもいいですか?」
「電話? 親戚付き合いは無いんじゃなかったのか?」
「…………友達、に。その、声が聞きたくて」
「……明日にしなさい。君らの歳ならこの時間には寝てるよ」
「……そっ、そう、ですよね。ごめんなさい……」
カナは男と共に看護師に案内され、寝床を用意してもらった。夕食は終えたし風呂も入ってはいたけれど、どうにも眠れない。眠れる訳がない。
「…………お母さん、お父さん……」
大嫌いだなんて言ってごめんなさい。そう心の中で呟きつつも、どこかカナの心は冷めていた。きっと前日に顔が腫れるまで叩かれた恨みだろう。だからと言って死んでもそこまで悲しくないだなんて、なんて親不孝な娘だろう。時間が経てば、火葬後の骨を見れば、それなりに悲しくなったりもするのだろうか。
この部屋は寒い。布団は薄い。その上豆電球すら点いていなくて暗い。
カナは不安と暗闇への恐怖からいつの間にか枕を濡らしていた。肩が震えているのは決して寒いからではなかった。
こんな時に思い出す温もりは母からのものでも父からのものでもない、両親からの温もりなんて記憶に無い生まれてすぐにしか与えられなかったのではないだろうか、その時すらろくに抱かれてはないのではないか、そう疑うほどだった。
カナが思い出す温もりはアイからのものだ。抱き着かれたり、腕を組んだり、手を繋いだり……そんな過剰なスキンシップ。いくら同性とはいえ恥ずかしさが勝って照れて嫌がるような素振りを見せてしまっていたけれど、心身が温められるあの時間はとても心地好いものだった。
どこか遠くに住んでいる親戚が見つかってその人に引き取られたりしたらアイに会えなくなるのだろうか。
カナの不安からはいつの間にか両親が抜け落ちてしまっていた。
朝、カナは身嗜みを整えてから部屋を出て、扉の横の椅子に座って船を漕いでいた男の隣に座った。昨晩もずっと話を聞いてくれていた刑事だ、交代かもなんて言っておいて、一晩ここに座っていたのだ。
カナは心が温まるのを感じつつ、男を揺り起こした。
「……ぁ、おはよう……釘谷さん。今何時だ……一晩も起きていられないなんて、俺も歳だな……」
「…………おまわりさんはまだまだお若いです。お父さんよりずーっと格好いいですよ」
一晩を越したからなのか明るいところで見ているせいなのかしわくちゃなスーツも、一晩経って見え始めた昨日はなかった髭も、カナにはどこか魅力的に思えた。
「はは、おじさんに気遣いは要らないよ。そう……お父さんのことだけど……」
カナは朝食の献立よりも先に父親の死を知った。
「……昨晩の見立てでは良くなりそうだったらしいんだけどね、朝になって器具が外れていて……医者は目が覚めた患者、あぁ、お父さんが動いて抜けたんじゃないかと言っていたけれど…………ねぇ」
言葉には出さなかったものの、何者かが侵入した可能性を匂わせた。
「………………朝ごはん、用意してもらっているけど、食べれるかな?」
握った拳が勝手に震えて、自然と涙が零れる。父の死を知っても「あぁやっぱり」といった感情が邪魔をして事故を知った時よりも心は揺らがなかったはずなのに、カナは泣き崩れてしまった。
三ヶ月ぶり……です、ね。ごめんなさい……
未完結放置はしません。もう二話あるかないかで完結のはずなので書き切っちゃいます。