第十話
平和です
試着を終えたカナは鏡を見てほうっとため息をつく。
触れたこともないような滑らかな生地、細やかなレース、きちんとした下着を付けられて前よりずっと大きく見える胸。そのどれもが自分ではないようで、夢を見ているのかもとさえ思った。
「似合うわ、想像以上よ」
「そ、そうかな…………なんかごめんね? 優利谷さんの服を見に来たのに……私ばっかり……」
「いいのよ、可愛い釘谷さんが見られれば。私はそれで満足よ」
そもそもの目的はそれだ。アイは服なんて特段欲しくはない。
自分が選んだ服を着ている、それは自分のものであるという証明だ。アイはもじもじと手や足を擦り合わせるカナをまた抱き締めた。
「きゃっ…………優利谷さん? ど、どうしたの? また虫……?」
カナはアイの背を撫でて宥めながら、首を回して虫を探す。
「……いいえ。あなたを抱きしめたくなったの」
「へっ……?」
「ありがとう、釘谷さん。今日、来てくれて。私と仲良くしてくれて。とても感謝しているわ」
カナはその言葉を聞いて、アイのことを疑っていた過去の自分を恥じた。カナの中でアイは絶対的な親友となる。
「う、うぅん、私の方こそ。優利谷さんは私にはもったいないくらいの、最高の親友だよ」
「……親友、そう、そうね」
恋人と呼んで欲しい。ここで口付けてしまいたい。
アイはそんな激情を押し殺し、そっとカナから離れた。
「えっと……じゃあ、これもう脱ぐね」
「どうして?」
「え? だ、だって、優利谷さんの服探さないとだし、私こんなの買えないし……」
「じゃあ私が払っておくわ」
「え!? ダ、ダメだよそんなの! そんな事してもらえないよ!」
「……でも、この服もうタグ切っちゃったのよね。下着も買ったんだし、ついでよついで。今日来てくれたお礼とでも思って」
アイは優雅な笑みを残して試着室を後にする。支払いを命じておく為だ。
カナはしばらくぽかんと口を開けていたが、せめて自分の役目を果たさなければと使命感に駆られ、慌てて制服を片付ける。
鞄には入りそうにないから、畳んで腕にかける事にした。そしてカナはようやく、先程まで付けていた下着が無い事に気が付く。
試着室を出て、靴を履き、アイを探した。
「優利谷さん? あの……私の下着、知らない?」
アイは少し離れたところで店員らしき人と話していた。
「前に付けていたもののことなら、もう処分させたわよ」
嘘だ。アイのポケットには真空パックに入ったカナの下着がある。
アイはそれを悟られないように、ポケットの口に手を添える。
「そ、そんな……」
「三つ買ったんだし、別にいいじゃない。古いものだし、サイズも合ってなかったわ」
アイは「私のカナにはそんなもの相応しくない」という本音を上手く塗り替えた。
カナはアイの勝手さに戸惑いつつも、アイの言い分に納得して口を閉じる。
「……さ、私の服も探しましょ?」
「う、うん」
アイはカナが抱えていた制服と買い与えた下着を奪い取り、背後に立っていたスーツ姿の男に渡した。
「車に運んでおいて」
男は深く礼をして、カナの制服を持って去っていく。
カナは今の今まで着ていた制服やこれから着るであろう下着を男性に持たれた事に羞恥心を覚え、顔を真っ赤に染める。
アイは使用人の性別どころか人格すらもあまり認識していないので、カナの表情変化の理由が分からなかった。
「……行きましょ?」
「うん……」
アイはカナの腕に腕を絡め、先程から目を付けていた棚に足を運ぶ。アイは適当に服を取って、体に当ててカナに尋ねた。
「どう?」
「似合うよ! イメージぴったり!」
そのワンピースの上品な色合いやレースはカナにとってのアイ像に合致していた。
「そう。なら、買うわ」
アイは少しも悩むことなく、店員に服渡した。
カナはそれに戸惑いつつも、次にアイが持った服も「似合う」と世辞を交えて褒めた。
「分かった」
アイはその服も店員に渡す。
「これは?」
「……似合う」
「買うわ。これは?」
カナは確信する。自分が「似合う」と言ったものは全て買うのだろうと。そして、自分の責任重大さを思い知る。
カナは服選びというものにはもっと時間がかかると思っていた。友人と服を買いに来た経験はないが、聞く話ではそうだった。
これがいい? でもこっちもいい。でもでもやっぱりこれ……うぅん、でも…………そんな悩みがあると思っていた。けれど、アイはそれには当てはまらなかった。
「これはどうかしら」
カナは今まで以上にじっと服とアイを見つめ、真剣に考える。
「デザインは……いいと思うけど、色が、優利谷さんと合わないかも」
肌や髪の色と、服を見比べそう判断する。
「あら、じゃあ色違い…………これは?」
カナは熟考するが、その服はアイによく似合っていて、ダメ出しすべきところが見つけられなかった。
「似合う……」
「買うわ。これは?」
「丈が短いから……ちょっと、優利谷さんにしては下品かも」
「これは?」
「…………子供っぽい、かな? 優利谷さんすごく大人っぽいから……あんまり」
カナはひたすらに粗探しをした。アイ自身が気に入っているのなら反論してくるだろうと思いつつ、ダメ出しをし続けた。
けれど、アイは今日、カナ好みの服装を揃えておこうと服を買いに来ているので、アイが反論することはない。
「これは?」
「ぅ…………似合う」
「買うわ。こっちは?」
「ちょっと、大人しすぎる……かな?」
「あら。ならこれは?」
「はしゃぎすぎ……」
カナの厳しい審査を抜けた服が十着を越えたところで、アイは服選びを切り上げる。
「こんなところでいいわね。服、送っておいて」
アイはカナの腕を組んで、店を出てまっすぐに車に向かった。カナは扉を開けた女に頭を下げてから車に乗る。
「釘谷さん、どこか行きたいところはある? 食べたいものとか」
「な、無いよ? 特には……」
カナは奢られるのだろうと予想し、遠慮した。
せっかく友人と休日に遊んでいるのだから、カフェにでも入りたかったが、カナにはその経験も金もない。
「あら……そう? じゃあ、お開きにしましょうか」
「…………うん」
「……嫌?」
「うぅん。もういい時間だし……でも、私、こんなふうに日曜を過ごしたの初めてだから、ちょっと、終わりは寂しいなって」
アイはカナの表情を見て、紡いだ言葉を反芻して、なんて可愛らしい子だろうと心の中で叫んだ。
寂しい、名残惜しい、それはアイも同じだった。出来ることならこのまま自宅に連れて行って、もう一生帰したくはない。
「……ドライブしましょうか。ねぇ、良い景色の場所を知っているんでしょう?」
アイはカナに視線を向けたまま、運転手の女に答えが一つの問を投げる。
「ええ。この時間帯なら海に溶ける夕日が見られます」
「ならそこに行って」
「はい」
カナは運転手に感謝を述べ、それからアイに向き直ってこちらにも感謝した。
二人は目的地に着くまで、手を繋いで、他愛のないお喋りをした。カナは窓の外の景色を楽しみながら時折にアイを見て。アイはカナから片時も目を離さず。
車は小高い丘を上り、その頂上で止まる。運転手は後部座席の扉を開き、カナとアイを降ろした。
「その柵のところです」
「あなたも恋人と来たりしたのかしら」
「…………ええ、何度か」
アイはカナの手を引いて柵の前に立つ。
煌めく海に溶けていく太陽と、鮮やかな赤と暗い青が混じる空。
「……綺麗」
思わずため息を零し呟いたカナを見ながら、アイも同じ言葉を発する。夕焼けを反射するカナの瞳はとても美しいものだったから。
「…………ねぇ、釘谷さん。カナって呼んでもいいかしら」
「えっ? ぁ、うん! もちろん! あ、私も、私も……アイって、呼んでいいかな」
「ええ、もちろん」
カナもアイの瞳の中の夕焼けに気が付き、それを見つめる。
「……ずっと、仲良くしてね。アイちゃん」
「…………ええ、もちろんよ、カナ」
ずっと友達でいて、なんて言葉だったらアイは首を縦に振れなかった。
アイは「好き」も「一生傍に」も飲み込んで、頷く。
「な、なんか、照れちゃうね……」
「……そうね」
「…………照れたついでにもう一言!」
カナはアイの両手を握り、顔を近づけて満面の笑みを見せた。
「仲良くしてくれて、味方でいてくれて、私とっても嬉しいの! 私、アイちゃん大好き!」
「…………ぇ」
全く予想していなかった言葉に、アイは硬直してしまう。何と返すべきかの思考すらも出来ず、ただ立ちすくむ。
「…………ぁ、あのっ、へ、変な意味じゃないからね!? そ、その……」
「……ええ、分かってるわ。分かってる、分かってた……」
すぐに「私もあなたが好きよ」と返そうと思いついたのに、思っていたのに、アイは同じ言葉を繰り返してしまう。
「……ア、アイちゃん!? どうしたの? 急に……」
「え……?」
「どうして、泣いてるの?」
「あ……」
カナの言葉でアイはようやく自分が涙を流していたことに気が付く。そう分かると、途端に溢れ出してくる。
「アイちゃん? どうしたの? どこか痛いの?」
カナは自分の発言で気を悪くしたのではないかと思いつつも、それを声に出せずにいた。
「いいえ、なんでもないわ。夕日が……眩しかったのよ」
きっと、そうだ。
アイは自分に言い聞かせる。
何も不安に思っていない、カナは自分を別の意味で好きになる。カナとは結ばれる運命だ。最高の恋人同士になれる。ひたすらに自分を鼓舞する。
「……そう? もう、沈んじゃったし…………帰ろうか」
「…………ええ」
今度はカナがアイの手を引いて車に戻る。
丘からカナの家まで、二人は何も話さず、手を繋いだままだった。
あけましておめでとうございます、毎度毎度更新が遅くて申し訳ない。
さて、今回は割と恋愛っぽさ出てたんじゃないでしょうか。今後の展開は平和さが欠片もありませんけどね。
二人の苗字打つの結構な手間なので、名前呼びになってくれて良かったです。