031「大人」※シュウスイ視点
「昨日は、すみませんでした。でも、なかなか寝かしつけるのが上手ですね」
「いえいえ。ジーマくんが、わりと素直に眠ってくれたので」
――結局、鬼ヶ島に行く前に疲れて寝てしまったから、読み聞かせとしては失敗なんだけど。
ディナータイムのバーでカクテルを傾けつつ、ヴィクトルとシュウスイがカウンターに肘を預けて立ったまま、周囲を憚るように声量を抑えて会話を交わしている。カウンターの上には円錐形のカクテルグラスが並んでいて、ヴィクトルの前のグラスにはマティーニが、シュウスイの前のグラスにはギムレットが注がれている。
「いやぁ、それでも大したものですよ。僕やオーニャだと、すぐには寝付いてくれなくて。君には、子供をあやす才能があります」
「そうですか? ありがとうございます」
シュウスイが礼を述べると、ヴィクトルはマティーニを一口含んでから、改まって話題を変える。
「それで、昼間の話の続きですけど、シュウスイさんのほうには、結婚願望がおありなんですね?」
「はい。二度も付き合いを申し込んだくらいだから、あわよくばとは思ってるんです。でも、一度白紙に戻した過去があるから、どうにもこうにも」
「難しいところですな。――カナッペは、お嫌いですか?」
そう言って、ヴィクトルが二人のあいだに置いてある皿を片手で押してシュウスイへと近付けると、シュウスイは、それを片手で止めながら、申し訳なさそうに言う。
「すみません。魚卵だけは、どうも苦手で」
「おや、そうでしたか。それなら、別のものを注文しましょう」
「あっ、いえ。お気遣いなく。自分が食べられないだけで、そばで誰かが食べてるのを見てるのは平気ですから」
「そうですか。では、僕だけで、いただきますね」
シュウスイが遠慮すると、ヴィクトルは、ブルーチーズの上にキャビアが盛られたカナッペを口に運んだ。
*
「十八歳差があっても、うまくいく場合があるんです。同い年なら、ジェネレーションギャップに悩ませることも無いでしょう。世間の風当たりは強いところは同じかもしれませんが、僕も協力しますから」
――入院中に、自分の半分にも満たない年齢の看護師から熱烈なアタックをされるというのも、なかなか無い特殊ケースだと思いますけどね。
「しかし、アキミの気持ちも確かめないと」
「それなら、問題ありませんよ。実は昼間に、オーニャから聞き出してもらったんです」
「えっ!」
予想外の出来事に驚いたシュウスイが、目を丸くしてヴィクトルのほうを向くと、ヴィクトルは一瞬、クシャッと恵比寿のような柔和な人懐っこい笑顔を浮かべたあと、シュウスイの背中をバシバシと力強く叩いて言う。
「タキシードなら借りられますし、それに、指輪ならお持ちでしょう?」
「なんで、それを?」
「おや、本当なのですね。当て推量だったのですが」
「ちょっと、ヴェーチャさん」
「ハハハ。からかったことは謝りますよ。でも、ときには勇気を奮わなくてはいけません」
参った様子のシュウスイに対し、ヴィクトルは心底から愉快そうに笑い、そして情けないシュウスイを鼓舞すると、ポケットから数枚の銀貨を出してカウンターに置き、シュウスイの肩に腕を回しながら連れて行く。
「とはいえ、今夜は宵を過ぎましたし、酔いも回ってることでしょうから、告白は明日の朝にしましょう。一番後ろの車両に、展望デッキがあるのはご存知ですか?」
「あっ、はい。あの、ヴェーチャさん。俺なら、一人で歩けますから」
やや苦し気に回された腕を外そうとするシュウスイの言葉を無視し、ヴィクトルは陽気にズンズンと歩いて行き、プランを話す。
「次のトンネルを抜けると、コバルトブルーの綺麗な海が見えるんです。朝日に照らされた水面を見ながら、率直な気持ちを伝えれば、きっと海の女神たちも祝福してくれるでしょう」
「ヴェーチャさん。その計画には賛成しますから、腕を離してください」
結局、そのままシュウスイは客室に帰るまで、ヴィクトルのペースに飲まれっぱなしだった。
――判事だけあって、法と良心以外には聞く耳を持ったないんだからな。参ったよ。