悪夢なるもの
前話:エリアスの得意先になりました。
エリアスの後に続き、アレスも部屋に戻って仮眠を取りたかったが、パーティーで借り受けた部屋の現状を知らぬままに行くのは躊躇われた。
仮に部屋に行って、今朝まで自分の寝台だったところが、ネロの寝台に代わっていたら……。とてもじゃないが居た堪れない雰囲気に包まれる。
とはいえ、このまま村に居ながらに野宿という訳にはいかない。雨風のない天気とはいえ、夜の寒に身を任せていたら体調を崩すのは目に見えていた。
渋々だが、宿屋に入る以外に選択肢はなかった。
ただし、部屋には戻らない。一階の待合所に身を預けるに留まる。
不法滞在に近い気もするが、自分はちゃんと部屋を借り受けている利用者だ。待合所は全宿泊者の共同スペースであり、それを利用するための対価は払っている。
「大丈夫大丈夫、不当じゃない正当だ……」と、自分に言い聞かせながら、宿に入る。
他人から見れば怪しい人物だが、自身の行いを正当化するために必死な男にはそんなことを考える余裕はなかった。
宿に入ると、受付の燭台に火は灯されているものの店主の姿は見当たらなかった。
不用心だと思ったが、受付に立たせておくだけの人員を雇う余裕はないのだろう。
一応、各部屋施錠付きのため、なにかあっても「自己責任ですよ」と謳うのかもしれない。
そんなことを思う反面、アレスは安堵もしていた。
もし店主が居れば、四苦八苦しながらも事情を説明しなければならなかったからだ。
まさか「部屋は借りてるんですけど、今日は待合所で寝泊まりしてもいいですか」なんて、台詞を言いかける日がこようとは夢にも思わなかった。それもいか様にして納得のいく説明を付け加えたものか……いまこの時でも思いつきはしない。
結局はその心配も杞憂に終わったが、この村に来てからというもの何かと他人に言い訳する機会が多い気がする……。
辟易としながらアレスは、今日の寝所となる待合所へ向かう。
待合所には、木製の机や椅子が並べられている。文字通り、宿泊者同士のための待合所であり、雑談などが行える程度の場だ。
当たり前だが、寝泊まりできるような環境は整っていない、が……寒さをしのぐには十分すぎる。椅子に座り、机に突っ伏することができるなど野宿では考えられない。
椅子に腰を掛け、机に頬を押し当てるように倒れ込む。机から発せられる微かな木の香りに鼻孔をくすぐられながら、腕を地面に落とすようにだらりと下げる。全身を脱力させたその姿は、酩酊状態か亡者の風貌を思わせた。
……何気ない依頼、変わらぬ面子、いつも通りの探索、問題なく受け取る報酬。
そうなる予定の一日だった……漫然と過ごしていたつもりはないが、思いがけず濃密な一日に変わってしまった。そしてたった一日で俺の立場も変わってしまった。
幼馴染との別れ、戦友らとの別れ、自分の代わり……先行き不透明な身の上……頭が重い、脳が泥になったようだ、思考がまとまらない。
瞼の作り出す暗闇が意識を切り離そうとする……心底疲れ……た……。
―――――――――――
「ほんとに付いてきてくれるの?」
城下街の門の前で金髪の小柄な女が訪ねてくる。
「おいおい、ここまで準備しといて行かないわけないだろ」
「でも……お母さんとか……」
女は眉尻を下げて心配そうな表情を浮かべる。
本当に今更なことを言う奴だ。
母を説得するために、ひと月以上かけたというのに、当の本人が納得できていないというのはどういう事だろう。
「問題ないさ、王都に戻ってきたら顔を出すし」
「死んじゃったら顔も出せないよ」
この問答も何度目だろうか。冒険者ギルドで供に冒険者登録をする際にも同じことを言っていた気がする。
事ここに居たって尻込みするぐらいなら、登録の時点で取り止めていた。
「それはトリスにだって当てはまるだろ。それに女一人で街を出るなんて自殺行為も甚だしいぞ」
街の外、つまるところ人類域の外である野や森、山や洞穴、海などには魔物が至る所に身を潜めている。それに脅威は魔物だけではない。人間もまた詐欺師や野盗といった類に身を変えて、旅人や行商人を欺き、襲うのだ。
そんな人外魔境に女1人で出れば、結果は火を見るより明らかだ。
たとえ勇者の子孫であり、武術の心得があるとは言っても、1人で行えることには限度がある。下手を打てば惨たらしい死に様を迎えるか、嬲られて慰み者にされるか、将又身売りにかけられるか……。
幼馴染の……トリスのそんな末路を想像するだけで、眩暈を起こしそうになる。
故に、自分が一緒に行かなければ、と決然たる思いで同行するに至ったのだ、
「そもそも父や母は俺の心配じゃなくて、お前の心配をしてたんだぞ。それらを納得させるために俺が居るっていうのに、その安心材料を切り離したら外に出られねぇぞ」
事実、父母はアレスの身を案じはしたが、外に出ることを引き留めることはしなかった。というのも、アレスには歳の離れた兄が居る。その存在のおかげで父母は家督の心配をする必要がなく、アレスが街を出る事には肯定的だった。
ただし、アレスの幼馴染である女の子、つまりトリスが街を出る事には否定的な様子を見せた。それも特に母が。
母にとってトリスは、実の子と変わらぬほどに愛情を注ぎ溺愛していた存在であった。我が家は父・兄・俺と男ばかりだったために、よく遊びに来る女児が可愛くて仕方なかったのだろう。
トリスに実母が居ないという背景も強い愛情に関係しているのだと思われる。
ただ、その愛情がここに至るまでのトリスの足を引き留めていた。
「そうだね……そうだよね。お母さんが安心できるぐらい力をつけなきゃ……!」
どうも変な納得の仕方をしたようだが、ここで延々と駄々をこねられるよりは余程いいか。
早いとこ出立しなければ、母が現れてしまいそうな気がする。
「見送ると必ず引き留めてしまうから」と自制してこの場に父母は来なかったのだが、何事も気が変わるということは十分に考えられる。
アレスとしても出来ることなら、父母の自制心を無下にすることなく出立したく思う。
いまのトリスの変な納得を契機として、半ば強引にでも一歩前へ進まねば事は始まらない。
「よし、気を取り直して、行くぞ!」
門を出て、街道を歩き始める。王都周辺の治安は良いので、とりあえずは無防備に歩いたところで問題はないだろう。いまは歩を進めて王都から物理的に遠ざかることが先決だ。
と思っていたのも束の間、トリスの追従してくる足音が聞こえない。何事かと後ろを振り向けば、トリスは立ち止まったままでいた。
「やっぱり母に挨拶をする」とか言い出すのでは、と嫌な予感がした。
「でもさ……」
そんな心配を他所に、トリスが呟く。
「ん?」
「アレスのできることは誰でもできるから……やっぱり帰ってよ」
―――――――――――
「ッ‼」
不意に目が覚めた。
跳ねるように上半身を起こし、辺りを見渡す。
誰もいない受付、火の灯った燭台、眠りに落ちる前と変わらない光景が目に映る。
ただし、窓から覗く空は仄暗く、日が昇ろうとしている兆候が見て取れた。そう短くない時間寝てしまっていたようだ。
「痛ッつ」
首に痛みが走る。机に突っ伏して寝てしまっていたせいか寝違えたのだろう。首元を擦ると同時に頬に手を触れると机の木目らしき凹凸も出来ていた。
「……最悪な朝だな」
自身の不格好さに悪態を吐く。寝違え云々は自業自得だが、悪夢に近いものを見たことも相まって、心身ともに不調が過ぎていた。
気落ちするままに視線を下に落とす。
ふと、そこには昨夜までは無かったはずの物が置かれていた。一瞬なにかと思ったが、すぐにその正体に気づいた。
借り受けた部屋の鍵だ。
まさか……。
鍵と察するや否や、アレスは自身の寝惚け眼を見開き、思考を覚醒させた。
次の瞬間には鍵を握りしめ、足をバタつかせて階段を駆け上がる。
勢いそのままに借り受けていた宿部屋の前まで走り、無造作に部屋の扉を開こうとしたが鍵がかかっていて開かない。
自身の愚行にもどかしさを覚えつつ、握りしめていた鍵を鍵穴に押し込み、ドアを乱暴に開け放つ。
……鍵が置いてある時点でわかっていたことではあった。
部屋には、備え付けの家具以外になにも残されていなかった。
元パーティーメンバーらは、一言もなく、宿を、村を立ち去っていた。
本当に……「最悪な朝だ」




