3. 明けない夜
「また来ちゃったのね……」
降り続く雨が洗い流したのか、霧は晴れて村の様子はくっきりと映っていた。
三階の窓から見える景色は、まるで世界の果てまで見届けられるように気分になれる。
今はまだ、雨が降ってぼくの村までしか見れないけど。
「なにが目的なんだか……」
後ろから聞こえるお姉さんの声は呆れているようで、実際、やれやれって言いながらぼくの後ろに立っている。
「お姉さんに会いに来ただけだよ」
「あーはいはいありがとねーうれしいわー」
今言った通り、ぼくはただお姉さんに会いに来ただけ。初めてこの塔に来た日から、お姉さんに会いたくて仕方がない。ぼくの服を乾かす魔法を使ってくれたお姉さんはすごくかっこよかったから。
昨日来る時もずぶ濡れになってみたらすごく怒られたから、今日は普通に来たけど、何か魔法は見せてくれないかな。
「なるほど、魔法が見たいわけ」
慌てて両手で口を塞ぐ。ぼく今、喋ってた? いや、絶対喋ってない。だって声聞こえなかったもん。
「図星か。お前はわかりやすいわね」
両手で口を押さえたまま振り向くと、黒いマントで体を覆ったお姉さんが、いひひと笑って口を押さえぼくを見つめていた。
「……ウソ?」
「はったりといってほしいわ」
「うー……」
いひひひといつもより長く笑い出すお姉さんは、かっこいいとは程遠い。でもお姉さんと話しているだけで、ぼくは楽しい気持ちになれる。それだけは変わらなかった。
「わたしの首より魔法がほしいなんて変わってるわよ、お前」
「首なんか欲しくないよ……」
「そう簡単にはあげないわよ」
いひひと笑うお姉さん。よくわからないけど、お姉さんが楽しそうならそれでよかった。
「何か見せてよ」
バレちゃったものは仕方がないからおねだりしてみる。他にもすごい魔法をいっぱい使えそうだなって思ったから。でも、お姉さんはいひひとは笑わなかった。眉を落としたお姉さんは首を斜めに傾ける。
「ファイア!」
どうしたんだろうって思っていると、突然マントを翻したお姉さんが声とともに左手をぼくに向けてきた。
二の腕まで見える細い腕からぼくに向けられた左の手のひらはキラキラと輝きを放つ。
それはやっぱり綺麗で、かっこよくて……ぽすっ、って音と一緒に消え去ってしまった。
「ざ~んねん、燃料切れ~」
いひひと笑うお姉さんは、左手をマントの中に引っ込めてしまった。
「燃料があるの?」
「そうだよ。出なかったじゃない。わたしは今持ち合わせてないの」
「ぼくがとってきてあげようか?」
それはすごく綺麗でかっこよくなりそうだったから、もしその燃料をぼくが持ってこれそうなら、この残念な気持ちが少し収まるかもしれない。取りに行かないの? ってことは、全然思わなかった。
「お前には無理よ」
「ならお父さんに頼んでみるよ」
「誰でも無理だって。魔力なんて持ってこれるわけないじゃない」
……魔力?
「お父さんも魔力ってあるのかな?」
「そりゃね。お前の父親は死んでないでしょ?」
「ぼくは持ってないの?」
初めて聞いた言葉に、気になったことがひとつあった。お姉さんが持ってるらしい魔力は、他の人は持ってないのかな?
お父さんは持ってるらしい。なら、ぼくは? 聞いた瞬間に、お姉さんはつり上がった目を細めてぼくを睨みつけたように見えた。
「お前はないわよ」
「……え?」
「今ここで死ぬから」
目の前が暗くなった。首と胸に手が回されて、柔らかい何かに体を縛り付けられた。でも、抵抗する気になれなかった。温かかったから。
お姉さんのマントで覆われたぼくの周りがキラキラと輝き出す。とても綺麗で温かい輝きは、何も起こらないまま消え去ってしまった。
「やっぱ無理か」
「ぼくは死なないの?」
「当たり前じゃない。決まってるのよ。勇者様は死なないってね」
締めつけから開放されてマントから追い出される。倒れそうにはなったけど、なんとか踏ん張った。
勇者様とかわたしの首とか、まるでぼくをお姉さんを倒しに来た人みたいに言ってくるね。冗談のつもりなんだろうけど。ぼくは勇者様なんかじゃないのに。
「あるわよ、お前にも」
「え?」
「魔力の話でしょ」
「……ほんと!?」
聞きたかった言葉は向こうからやってきた。勢いよく振り向くと、お姉さんはいひひとは言わずに困ったように笑っていた。
「なら」
「でもね、魔法を使うにはひとつだけ必要なものがあるのよ」
ぼくの言葉を遮って続けたお姉さんは自分の顔の前で、マントから出した左手の人差し指を立てる。
「そうなの?」
「うん。そうなの」
「ぼく、持ってるかなぁ」
「さーどうかなー? 持ってたらいいわねー」
いひひと笑うお姉さんだけど、あんまり楽しそうじゃない。そう見えるだけかな。それとも、魔法っていうのはキラキラと輝いて見えるだけで……。
「お前はどうして魔法を使いたいの?」
背筋が凍る。いつの間にかうつむいていた顔を上げて見たお姉さんの顔は、もう困ったような笑みじゃなくて、いひひと笑うお姉さんの笑み。
「んー……」
「ん? ん?」
「……ひーみーつー!」
だからぼくも笑顔で返す。今まで以上の笑顔で。きっと気のせいだから。今感じた不安なんか、きっと気のせいだよ。
「いひひ。まぁいいか」
そう言ったお姉さんはぼくに手招きをする。行かない理由はないから近づいたぼくの頭に手を乗せると、そのまま鷲掴みにされた。
「必要なのは頑張るっていう才能」
その手の感触はちょっとだけ痛かったけど、嫌だと思わないのは楽しみの方が大きいからだと思う。
「お前はどんなことがあっても頑張れる才能をもっているかな?」
「……もちろん」
この先待っているかもしれない道を明確に楽しくできるのなら、ぼくは何にでも頑張れると思うから、お姉さんの問いに笑顔で頷いた。
龕灯によって照らされる道は、月明かりさえも通さずただ一点だけが照らし出されている。どれだけ歩いたのかもわからない。どれだけ経ったのかも判断できない。
「おっさん」
「なんだ」
「あとどれくらいもつ?」
おれたちは暗闇の中をさまよっていた。初老が持つ龕灯だけが頼りな現状、ろうそくが切れた時のことを考えておかないといけない。
「四半刻もないだろうな」
「ほらおにーさん、目から光出してよ。もしくは火を吐き続けてよ」
「できるわけねーだろうが!!」
夜は明けなかった。 明日になれば元通り。そう信じて眠ったあの日から、何日経ったかもわからない。世界に明日は訪れなかった。
「きゃっ」
「姉御?」
「っ、葉っぱでしたわ。暗くてもう、なにがなんだか……」
なにがなんだかわからない。それはおれも姉御も初老も口に出したこと。きっと赤毛もそう思っているに違いない。何日も降り続く雨とは違い、ありえないことだから。
「みんなびっくりしてたよね。たたりじゃーとか言って」
おれたちが異界に迷い込んだ。最初はそう考えたが、どうも違うらしい。
少し歩いた先に村があり、そこで人々は異常事態に慌てふためいていた。赤毛の言う通り迷信までにすがって。
「あなた、龕灯のあとはなにか持ってますの?」
「え、何で?」
「しきりに気にしているじゃない。わかっているとは思いますけれど、わたくしは銭しかもっていませんわよ」
「……おれは」
明かりが突然消えて混乱することのないように。そう思って、おれは確かに執拗に確認していた。まさか、そういう風に受け取られるなんて考えもしていなかった。正直に話すべきか。答えが出ないまま喋り始めてしまったおれの言葉は遮られてしまう。
「終わりだ」
「うわー。やばいねー。ぜーんぜん見えないや」
龕灯が消え、辺りは闇に染まってしまった。しばらくすると多少は慣れてくると思うが、暗闇の中で森の中に取り残されるのはできれば避けたい。
別に今死んでもいいとは思うが、野犬のエサになって死ぬのは嫌だからな。
「しゃあなしだ」
使うのはあの時以来か。少しだけイラッとしたが、すぐに意識を集中する。片手間にできるほどおれは優秀じゃない。
燦々と輝く太陽を思い浮かべる。今は暗くて最初に浮かんだイメージは黒く染まっているが、ゆっくりとイメージを塗りつけていく。夕陽のような橙ではなく、頭の真上で眩しく輝くイメージを。
「……お前さんは」
そのイメージが具現化されていく。おれの両腕はキラキラと輝き小さな太陽が現れる。龕灯よりは大きく、提灯よりは小さいほどの。
「ないよりはマシだろ? これなら一月はもつからさ。せめて森は抜けようや」
「あなた、人じゃなかったの?」
「誰でも使えんだよ。おれは人間だけどな」
息を飲む初老と明らかに二歩ほど離れた姉御はきっと、魔法を見たことがない人なんだ。
今まで何人も見てきた反応だ。魔法を使うには必要なものがある。初老と姉御はきっと持ち合わせていない。
「……何やってんだ?」
おれは初めて見た時、すごくかっこいいと思ったのに。そう思いながら進もうとしたが、赤毛の反応がないことに気づいた。見渡してみると、訝しげな視線を向ける初老と姉御に混じって、目を丸くしながらおれを見つめていた。お前、目から光を出せとか、口から火を吹けとか、めちゃくちゃ言ってたじゃないか。
「……いや、思ったほどじゃないなーってさ」
「まぁおれは化け物じゃないからな。大目に見てくれよ」
「えー。やだー」
「誰でも使えるって言ってんだろ!」
すごいやばい気持ち悪い、奇人変人狂人と様々な反応が来ると思ってた赤毛が無反応だったのは、おれを化け物だと思っていたらしく、要するに期待外れだったから。迷惑な話だ。おれはただ資格を持っていただけなのに。
「どれだけもつと言った?」
「これくらいならつけっぱでも一月はいくだろ。多分な」
「あなたやっぱり寝なくても大丈夫ですの?」
「寝るよ! 寝させろよ!」
「龕灯の種はもうないのではなくて?」
「……いやいやいや、だからって、ほら。おれが寝る時は三人で起きてるとか……」
「お前さんが寝たら明かりはどうするつもりだ?」
……え、おれ寝られなくなったの!? 待て待て、無理だって!! 言ったじゃん姉御、寝ないなんて無理だって!
「ほれ進まんか。お前さんが誘導しないで誰が先導するんだ」
「いや知らねーよ! どこに行くかも知らねーし責任の所在なんかもっと知らねーよ!!」
いつの間にか背後に回っていた初老に対して、全力で抵抗する。手や足を動かすだけじゃなく、首や腰も動かして暴れ回る。
「まったく仕方ない……。姉御、身は守れるか?」
駄々をこねた。おそらくその表現が一番正しいと思う。子供の真似事は思った以上の効果があったようで、とりあえず手足をばたつかせながら様子を見守る。
「護身術程度ですし、あなた方の身は保証できませんわよ」
「山賊相手なら十分さ」
そこで話はまとまったらしく、二人は仲良く腕を組んでおれを見下ろしてくる。起きろとも諦めろとも言わずにおれを見下ろしてくる。
「……言っとくけど燃費は悪すぎるから、守ってくれよ?」
「振っても消えない龕灯とは大きく違いますのね」
「悪かったな役立たずで……」
何度も言うが、おれは資格を持っていただけ。それ以外は初老や姉御と変わらない、むしろ劣る程度の一般人だ。これが限界なんだから無理を言わないでほしい。あんたも自分を守るので精一杯だって言ってたじゃないか。
「どこだ?」
「わからん。適当に照らせばいい」
「お前も知らねーのかよ!」
立ち上がって行き先を尋ねると予想外の答えが返ってきた。よく人のことをボロクソに言えたなお前ら! 破れた地図と消えやすい龕灯に、一人分の盾と矛。そしてそれを扱う……。
「眠いなら寝ろよ」
「んー? 眠くないよー?」
頼りないただの人間は、明かりが消える前と後で別人になっていた。暗いのか怖いのか、体調が悪いのかわからない。どっちでもいい。少し離れてしまっていた赤毛は小走りで近づいてきた。
「無理すんなよ甘えろよ。負ぶってくれるぞ。姉御が」
「えっ、ほんとー? ならあたし眠たいかなー甘えたいかなー。キスしてもらえないと目覚めないかなー。姉御に」
「……」
「……」
「……無視じゃん! あたしですら無視じゃん! 守ってもらえなくなったじゃん!」
近づいてきただけならよかったが、赤毛はそのままおれにつかみかかってきた。胸ぐらを、腕を掴まれる。痛くもかゆくもないただのじゃれあいは、やっぱり初老と姉御に見向きもされなかった。
「そんだけ元気なのになんで落ち込んでんだよ」
ただのじゃれあいは簡単に引き剥がして、早足で二人の元に向かう。明かりが初老の周りを照らしているから見失うことはないが、おれの周りが何も見えなくなるからな。
「いやー、ねぇー。あたしなんで頑張らなかったのかなーってさ」
「はぁ?」
「ごめんねぇー、変わってあげられなくて」
待ってよーと言って駆け出す赤毛に続いておれも小走りになる。……何言ってんだこいつ。相変わらずよくわからん。そんなことよりも不安なことがひとつだけある。……このまま寝たことがないからどうなるかわからない。なんて、もう絶対に言えないな。