第8話 抱き締めて…
俺がシャワーを浴びて出てくると、部屋の中は真っ暗になっていた。
今夜の月は、薄く細長い三日月。
まるで、溶けて消えかかった氷の欠片のようだ。
それは、何かを暗示しているかのようにも思えた。
僅かな月光と星灯りに映し出され、彼女ではない裸の女の後ろ姿が見えた。
「綺麗な体だね〜。こんな体を抱けるなんて、まーちゃん嬉しいでしょう?」
「乗り移れたのか?」
「乗り移ったなんて人聞きの悪い言い方しないでよ。ちょっと体を借りてるだけなんだから。」
そう言って、笑いながら振り向いた女の目からは、涙が溢れていた。
「お前、何で泣いてるの?」
「えー、泣いてないよ〜」
そう言いながら笑っている女の目からは、次から次へと涙が溢れてきて、床にポタポタと落ちていた。
もしかして、いつもそうだったのか?
お前はいつも楽しそうに笑ってた。なのに、本当は涙を流していたのか?
俺は、彼女を抱き締めた。感触は彼女の物ではなかったが、今、目の前に居るのは、間違いなく彼女なんだ。
「愛……愛……」
俺は、初めて彼女の名前を呼び捨てにして、思いっきり抱き締めた。
「あー、まーちゃんだ。まーちゃんの感触だ。まーちゃん、あったかいね。」
「お前も温かいよ。」
「まーちゃん、キスして…」
俺は言葉が終わらないうちに、彼女の唇に俺の唇を重ねた。そして、彼女の中に俺の舌を入れ、彼女の中のに居る本物の彼女を捜した。
居た!
本物の彼女を捜し出した俺は、そのまま彼女を押し倒し、目を瞑ったまま、今度は体の中から本物の彼女を探した。指と舌を使って丁寧に……
ほら、また見つけた!
「私が分かる?」
「分かるさ!何百回って抱いてきたんだ。この三ヶ月も夢の中で毎日お前を抱いていた。」
「まーちゃん、大好き」
「俺は、それ以上だ。例え、お前がどんなに遠くに行っても、どんな姿になっても、きっと捜し出してやる。」
「まーちゃん、ありがとう。私って世界一…ううん、宇宙一の幸せ者だね。」
そう言って彼女は笑った。目を瞑っていたから、泣いているかどうかは分からないけど……
俺と彼女は、一晩中抱き合った。
何度もキスをして、何度も彼女の中に入って、本物の彼女を捜し出して抱き続けた。
強く、激しく、俺の残りの一生分の精力を使うつもりで……
抱かれながら、彼女は何度も繰り返していた。
「ありがとう」と「大好き」を……
朝になって目覚めると、彼女の気配はなく、昨夜持ち帰った女が、俺の隣でぐっすりと眠っていた。
「おい、君、起きて!」
「あら、やだ!私いつのまにか眠っちゃってたみたい。ごめんなさいね。私、昨夜シャワー浴びてからのこと全然覚えてないの。」
「いいよ、気にしないで…」
女が慌てて帰ってからも、彼女は出て来なかった。
クローゼットの中を覗いても、浴室を覗いても裸の彼女は居なかった。
仕事から帰り、アパートのドアを開けても、裸で飛んでくる人は居ない。
「うわーい」と言って、両手を挙げ、剃り残しの脇毛を見せてくれる人もいない。
帰宅の途中で弁当と一緒に買ったスイーツも、冷蔵庫で段々貯まっていき、賞味期限が過ぎていた。
冷蔵庫のスイーツを全部ゴミ箱に捨てながら、俺はブツブツと居なくなった彼女に文句を言った。
「何だよー、消えるなら消えるってちゃんと言ってから行けよ。
急に居なくなるとびっくりするじゃないか。
急に居なくなると……寂しいじゃないか……」
その晩、俺は丸く形を取り戻した月をただ眺めていた。碧白く、裏が透けて見える今日の月は、彼女の肌の色を思い出させた。
俺は、その月を眺めながら久しぶりに泣いた。