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マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐  作者: 嵯峨良蒼樹
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マロの止まらない京都観光(四)

氏真さんの京都観光四日目~。


宿がえ。

止まらない雨。

あんな所に入っちゃいました。

本能寺の変ゆかりのあそこへも。

橋の下で……寒そう!




 一月二十八日、氏真一行は弥三郎にせきたてられて朝から宿替えを始めた。


「紹巴殿ご紹介の宿は信長様ご宿所の相国寺と目と鼻の先、村井様や織田方とのやりとりにも好都合にござりまする」


 と弥三郎は強調したが、つい笑みがこぼれる。この宿の案内者と別れられるからだとは言わない。あやつは氏真に問われるままに余計な事を答えてただでさえ長々しい氏真の京見物を長たらしくしてくれたが、これでお別れだ。


 宿替えは昼過ぎには終わったが、その頃から冷たい雨が降り出した。


「この雨ではしばらく京見物は控えた方がよろしゅうござりましょう。ざーんねん」


 弥三郎はこれはますます好都合、と書いてある顔に一層の笑みを浮かべるが、氏真はそれに気付かずに浮かぬ顔でいた。数え切れないほどある京の名所旧跡歌枕を早く見て回りたい気持ちでいっぱいなのだろう。


 降り出した雨は翌日も止まず、氏真はもう一日宿に足止めされて過ごした。宿の二階にある部屋から周辺の山々を見て、


「あれは比叡山、あれは志賀の山越えをした白川山、あれなるは如意ヶ岳か? 見た山もまだ見ておらぬ山もあわれに霞んでおるわ……。うむう、一首浮かんだ……」


 と一人呟いていた。


 そんな中、珍客が氏真を訪れた。従兄弟今川氏秋とその一子孫三郎である。氏秋の父である叔父氏豊は尾張那古野城主であったが信長の父織田信秀の奸計によって城を奪われ、駿河国藤枝でひっそりと亡くなった。その子氏秋も藤枝に住んでいたが、信玄の駿河侵攻の後京に上ったという便りだけで細かい事は分からなくなっていた。


「今はどのようにして過ごしておられるのかな?」


「はあ、町衆に歌など教えて過ごしております……」


「苦労をかけておるようで済まぬな。しかしもうしばらくの辛抱じゃ」


武田を討って駿河を取り戻せれば、氏秋父子にも多少の扶持を与えられるであろう。


「実はその事でご相談がござりまして……。今日は御屋形様のお力をもってこれなる我が子孫三郎に仕官の口をお世話いただきたくお願いに罷り越しました次第」


「むう、済まぬが我らには未だそこまでの余力はない。武田を討って駿河を回復するまでの辛抱じゃ」


「いえ、駿河ではなく京あたりにて仕官させられればと思いましてな……」


 氏秋はそう遠慮がちに言ってからおずおずと氏真を見上げた。


 氏真はまじまじと氏秋の顔を見つめた。氏秋は孫三郎を織田に仕官させたいと言っているのだ。己が父氏豊から城を騙し取り、義元を討った織田に……。


「よかろう、村井あたりに話してみよう。今川一門を臣下に加えたとなれば織田家の勢威も高まるであろうからな」


「おお、ありがたき仕合せにござりまする」


 最後の一言は皮肉を込めて言ったつもりだったが氏秋は頼みを聞き入れられた喜びばかりでそこまで気が回らなかったようだった。



 上京木の下に宿をかへし折節雨一二日降


 見し山もまた見ぬ方もかきこめて哀霞める雨の中哉(1‐65)



 一月三十日、夜も続く雨音を聞き天気を心配ながら眠りに就いた氏真だったが、朝起きて雨が雪に変わっているのを見てにっこりした。山が雪をかぶっているのが見える。


「今日は雪か。これなら見物に行けるのう。しかし寒い。昨日の夜聞いた雨は軒端で凍っておるわ……。うむっ! 一首浮かんだ」



 雨はれて見れば山は雪白し


 聞えつる雨は軒端に氷ゐて暁早き四方の雪かな(1‐66)



「よし、今日はまず賀茂神社に参詣いたそう」


「御屋形様、今日の朝はゆっくりと支度した方がようござりませぬか?」


 と弥太郎が心配げに聞く。


「なに、気にする事はない。行くぞ」


 朝一番氏真の一声で参詣が決まり、朝餉を終えると間もなく出発したが、雪は風を伴って吹雪のようになり、寒い事この上ない。


「おおー、さぶっ、さぶっ!」


 弥三郎は駿河奪還の役に立つとは思えない物見遊山ばかりに時を費やすのが不満で風が吹く度に誰かに呼び掛けるように声を上げたが、氏真はどこ吹く風であった。


 木下から下鴨神社までは二里ほどなのですぐに着いた。


「おお、ここがあの有名な御手洗の川か。木々に降り積もった雪が落ちて川を流れてゆくぞ。うむっ、うむっ!」


「お見事にござりまする」


 そう言いつつ弥太郎はいつになくそわそわしていた。


 なぜか落ち着かないのは弥三郎も同じで、氏真がしばらく神社を見物していると、


「そろそろ頃合いかと」


 と声を掛けた。


「そうか、では参ろう」


 降りしきる雪の中氏真が向かった先は宮中であった。山科言継(ときつぐ)権大納言・言経(ときつね)参議父子のはからいで御所に立ち入る事が許されたのである。


 御所の全ての門は今では織田家の者が警護を固めている。


「これなるは我が主従四位下治部大輔今川氏真にござる。お通し願いたい」


 弥三郎がそう告げると、警護の侍たちは氏真の顔をしげしげと見た後、氏真一行を通した。氏真は供の者たちを待たせて、諸大夫の間へと向かった。


「氏真殿、ようこそ参られた。こちらへござれ」


 言継・言経父子に出迎えられて、氏真は虎の間へ通されたが、氏真は入るのをためらった。諸大夫の間は虎の間、鶴の間、桜の間に分かれており、虎の間は参議以上の公卿が入る事が許される場所で、殿上人でない氏真の身分では桜の間以外入る事が許されない。


「なに、遠慮されるには及ばぬ。皆旧知の者故」


 言継は気さくに手を引くようにして氏真を招じ入れてくれた。中には今川家ゆかりの公卿たちが氏真を待っていた。


 権中納言冷泉為益(ためます)は父冷泉為和と共に駿河に下向し、今川家の歌道師範を務めた。子の為満も側に控えている。


 正親町(おおぎまち)三条公兄(きんえ)は父実望の代からしばしば駿河に下向しながら内大臣まで昇進した。


 権大納言三条西実枝(さねき)は代々和漢の学に造詣が深い三条西家当主であり、長年駿府で暮らし、信玄の駿河進攻の時には懸川開城まで氏真と行動を共にした。


 権中納言飛鳥井雅教は氏真に蹴鞠を教えた飛鳥井流宗家飛鳥井雅綱の子である。


 公卿たちは氏真を見るとこぞって再会を喜んでくれた。


「お互い生きて御所で会えるとは、望外の喜びであるよ」


と三条西実枝が涙をこぼし、皆が頷いた。


 氏真は公卿たちの厚意に謝した後、駿河を失った後家康と和解して駿河奪還支援の約束を取り付け、信長からも支援を得るために今回上洛した事を話した。公卿たちは身を乗り出すようにその話を聞いていた。


「そのこと、我らも信長とは誼を深めてゆかねばならぬと考えておる所でな。そなたの力も借りるやも知れぬ」


 山科言継が皆を代表するように口を開いた。


 天正元年(一五七三)七月、信長に反旗を翻した足利将軍義昭が追放されて室町幕府は滅んだ。朝廷は信長との関係を強めて行く必要を感じていたが、義昭との戦いの中で上京を焼き討ちした信長にそれとない不安を感じていた。信長の側からは村井貞勝を「天下所司代」に任命した後は天正二年三月に大和国東大寺秘蔵の名香蘭奢待を切り取る許可を求められた以外にこれといった動きがなく、信長が朝廷とどのような関係を望んでいるのかはっきりしないという。


「信長は武田と無二の一戦を行うためにそれがしまでも使おうとしていると聞いておりまする。武田との戦いの大義名分の為朝廷のご威光を頼るのではございますまいか」


「そうか、武田との無二の一戦か。よい事を教えてくれた。武家には武家の考えがあるのだな。向後とも知恵を貸してくりゃれ」


「御意」


 それからしばらく歓談した後氏真は辞去した。


「お公家方へのお目通りはいかがでござりましたか」


 待ち構えていた弥三郎が氏真に尋ねた。


「うむ」


 氏真は頷いただけで何も言わなかったが紅潮した頬は上首尾であると答えているように弥三郎には思われた。


 氏真はその後何事もなかったようにやや大回りして千本通りを通って上鴨神社に参詣し、さらに松ヶ崎まで足を伸ばした。


「おお、比叡山に降り積もった雪が松の間に降る雪かと思ったわ……。うむっ、一首浮かんだ」


 氏真ははしゃいだ。どうやら時代の節目に立ち会っているらしいという高揚感が氏真を饒舌にしていた。


 

 加茂越参詣道より雪ふゝきにて宮中にし 

 はしやすらふ千本を右にみて行叡山麓 

 迄見わたすこゝかしこ見物申暮て帰宿


 神杉の影うつろひて下枝なる雪もみなきる御手洗の浪(1‐67)


 山風のはるる霞にうちなひき一むら雪の流てそ行(1‐68)


 さえかへり降かとそ思松か崎葉分に見ゆる大比えの雪(1‐69)



 とうとう二月になった。しかし未だ信長上洛の知らせはない。


「我らはいつまで御屋形様の物見遊山に付き合わされるのかのう」


「さあ、見当もつきませぬ……」


 氏真に早朝に叩き起こされた弥三郎と弥太郎はそんな事をこそこそと話し合ったが、氏真は信長の上洛など気にせぬといった様子で、


「さあ、これから愛宕に参詣するぞ」


 と言い出した。


「愛宕でござりまするか……」


 弥三郎は宿から愛宕山まで四里ほどだと知っていたので、今日は難儀な事になるな、と心中嘆息した。


「うむ、道中嵯峨野や広沢の池なども見て行きたい」


「御意……」


 ますます難儀な事になると弥三郎は心中再びため息をついたが、家臣としては文句は言えない。


 一行は朝暗いうちに出立した。途中氏真が紙屋川付近で立ち止まった。


「紙屋川は貫之が『うばたまの、わがくろかみやかわるらん、鏡の影にふれる白雪』と詠んでおられる歌枕なのじゃ。ここが紙屋川ならこのあたりに鳴滝という滝があるはずじゃ」


 言われるままに滝を探して見たが、見つからない。


「うむう、滝の音が聞こえるが……。姿が見えぬとはな……。うむっ、うむっ!」


 弥三郎には滝の音など聞こえない。名所を求める余り、氏真は幻聴まで聞こえるようになったのか……。


 それから霞に覆われた嵯峨野に着くと氏真は立ち止まってうれしそうに周囲を眺め回している。


「何かお目に留まりましたか」


 本当はさっさと愛宕神社に参詣して早く帰りたい弥三郎だが、そうとも言えないので氏真に尋ねてみた。


「そなたは知るまいがの、この嵯峨野はあの小督局(こごうのつぼね)が隠れ住んだ所なのじゃ。小督局は時のみかど高倉帝の寵愛を一身に集めたが、中宮は平清盛の娘建礼門院であった故、清盛の怒りをおそれてこのあたりに隠れ住んだのじゃ。しかし小督局を忘れられないみかどは弾正大弼源仲国に命じて探させた。仲国は方々探し回った挙句このあたりに来て、秋の霧の中で琴の音を聞いてな、小督局が琴の名手であった事を思い出して居所を見つけ出したというのじゃ。嵯峨野を覆うこの春霞を見てそんな話を思い出した」


「おっ、もう一つ思いだした。昔の御所には清涼殿というみかどのお住まいになる御殿があってな、そこにあったという昆明池障子(こんめいちのしょうじ)の裏には嵯峨野の小鷹狩が描いてあったという。そこには『嵯峨の野や、花の千種の色鳥に、心をうつす、秋のかりびと』という和歌が記してあったとか……。霞の陰には萌え出ずる春の草花、障子の裏には花の千種……。うむっ! 一首浮かんだ。あきぎりとお、ききしさがののあさがすみい、かげにちくさもお、あるここちしてえ……」


「お見事でござりまする! 嵯峨野を見てこれほどに風流な事を思いつくお方は御屋形様の他はおられますまい!」


「そうか、はっはっはっはっ……」


 最近は聞こうとせず聞こえもしなかった氏真の歌と弥太郎のお世辞だが、目の前で露骨にやられてつい聞いてしまった。しかし、ただの野原を見て大昔になくなった御殿の、しかも衝立障子の裏の話を使ってまで歌を作るのかあ……。正に霞をつかむような話だ。


 知るはずもない言葉だが、「雑学」という言葉を聞いたら弥三郎は


「これぞ正に雑学!」


 と手を打って叫んだに違いない。


 弥三郎はこのまま愛宕山まで一目散に進みたいと思ったが、今度は氏真は池に引っ掛かってしまった。広沢池という。


「この広沢池は月の名所と聞いたぞ。西行法師も三位頼政も歌を残しておるのじゃ。あれ見よ、水鳥が行儀よくつらつらと並んでおるわ……。うむっ、一首浮かんだ」


 その後も嵯峨野の道を名所旧跡を探しながら歩いたが、氏真が見たいものは見つからず、弥三郎は氏真を愛宕山へとせきたてた。


「うむう……。昔のままなれば(いにしえ)を忍ぶ事ができたものを、時が変わって今の世ではその跡を思うばかりだのう……。うむっ、一首浮かんだ」



 愛宕参詣嵯峨広沢次第に名所也京の出 

 口かみや川なる滝なと滝は見えす


 水の音はいつこ成らんかみや川流も見えす氷わたりて(1‐70)


 幽なる滝つ流もひびく也たたむ石間に水むせふらし(1‐71)


 秋霧と聞しさか野の朝霞かけに千種も有心ちして(1‐72)


 水鳥のおのかつらつらうかみゐて日影煙れる広沢の池(1‐73)


 其のまゝの昔なりせは忍はめや跡そ恋しき千代の古道(1‐74)



 嵯峨野には一日や二日では見切れないほど名所旧跡があると聞いていたので弥三郎はできる限り氏真の目を引きそうな所を避けて西へ進んだ。大覚寺や特に藤原定家が住んだという小倉山を見たいと言い出されぬように、と思いながら愛宕参詣道の山麓まで来る事ができたが、清滝川でまた氏真にやられてしまった。


「ここがあの清滝川か。愛宕参詣の前にここで皆垢離(こり)を掻かねばならぬぞ」


 垢離を掻くとは神仏に参詣する前に身を清めるために水を浴びるという事だ。このくそ寒い中よりによってこんな滝川の水を浴びねばならぬとは、とほほ……。


 氏真の厳命で皆服を脱ぎ、清滝川の橋の下で水を浴びねばならなくなった。


「ひええーっ!」


 弥三郎は冬の清滝川の冷水を浴びて悲鳴を上げたが、氏真は声を上げない。伝統に従う事に強い喜びを感じているのだろうか。


 一方弥太郎はキリリと引き締まった顔で歯を食いしばって冷たさをこらえている。


 他の者たちは悲鳴さえ上げる分際ではないと思っているのか、震えながらも黙って耐えていた。


 清滝川の冷水にこらえて付き従う一行であったが、例によって氏真はまっすぐ愛宕山に行ってくれない。北に向かって高雄や栂尾(とがのお)を眺めて悦に入っている。


「このあたりは秋には紅葉が美しいというぞ」


 当然二月には紅葉はない。見えるのは青葉ばかりだ。


 そう弥三郎が思っていると、


「おお、あの雲を見よ、まるで天の川のようではないか。未だ碧のもみじを渡る架け橋のようじゃ……。うむっ、一首浮かんだ。あまのがわあ、おもいやられてみどりなるう、もみじをわたるう、くものかけはしい……」


「古歌に詠われた紅葉を思いやりながら春の雲を詠まれるとは、お見事にござりまする」


 さっきは霞をつかむような話、今度は雲をつかむような話か、と弥三郎は思った。


 それからようやく愛宕神社に着いた時は日は中天を通り過ぎていた。


「心憂き人々に愛宕のお恵みがあるように祈りたいぞ……。うむっ、一首浮かんだ」


 氏真はしばらく境内をうろうろしていたが、弥三郎が促して帰途に着き、何とか日のあるうちに木下の宿まで帰り着いた。八里九里を歩かされた一行は高いびきをかいて寝た。



 山をこえ又くだりて清滝川橋の下にて 

 皆こりをかきのぼる十町余行て高尾栂 

 見ゆるね篠の処々には雪もあり


 うき人に愛宕の山のかけ高き世々の恵やかけて頼まむ(1‐75)


 天河思ひやられて碧なる紅葉をわたる雲のかけはし(1‐77)



『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第7話、いかがでしたか?


本作の中心部分となる、

本作の中心部分となる、

本作の中心部分となる、

氏真さんの京都観光四日目~七日目です。


雨が降るとさすがに氏真さんも外には出ないようです。


またまた上洛中の意外な行動がありました。

詞書にはさらりと書かれていますが、どうやら氏真は御所に入れてもらっちゃったようです。

戦国時代とはいえ流石に御所に勝手に立ち入って休憩はできません。

駿河時代から懇意にしていた公家に入れてもらったはずです。


本能寺の変直前に連歌会で光秀が「時は今あめが下知る五月かな」と詠んだ愛宕山へ行きました。

しかし、参詣前に橋の下でみそぎをしたようです。氏真さん、根性ありますね!


そういえば、こんなブログもやってますので見てくださいね!

大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ

http://ameblo.jp/sagarasouju/


本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。


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