マロの止まらない京都観光(三)
今川氏真の京都観光三日目。
意外な人との再会。
今話題のあの人との一場面の回想。
一月二十七日の朝は晴れた。今日も氏真は夜明け前に目覚めたらしく朝から元気がいい。宿を出ると四条大路をまっすぐ西へ二里ほど歩いて行き、やがて突き当たる大井川を四条渡しの舟で渡れば松尾神社に着ける。四条大路には織物、武具、小物などの様々な座が集まり、人通りも多い。行く途中氏真はきょろきょろと見回して、案内の者に色々名所を聞き出したようである。
「松尾神社に参詣したら帰りに西院と壬生寺に寄って行こう」
と言い出した。行く場所が増えるのは面倒だが、昨日までのように右往左往するよりはよほどよいと弥三郎は思った。
松尾神社に着くと、境内に入る前に氏真はいきなり
「うむっ! 一首浮かんだ。ちよをふるう、なもまつのおのお、かみやしろお、めぐみのすえもときわならなんん……」
と一首詠み上げる。弥太郎がすかさずお世辞を入れる。
「着くなり歌を思い付かれるとは、さすがは御屋形様にござりまする」
「そうか、うむうむ……」
何も見ないで名前にある松の一字をねたに歌をひねり出してるだけじゃないか、と弥三郎は言ってみたくなったが我慢する。
松尾神社には今日の手能を見ようと既に人だかりができていた。手能というのは玄人の猿楽師ではなく数寄者が演じる能の事である。さすがは京の都、身分を問わず能を嗜む者は多いと見えて、公家も武士も町人も老若男女が能舞台の前に集まっている。氏真も参詣もそこそこに能舞台へと向かった。
間もなく興行が始まり、巧拙様々な能を見る事ができたが、氏真はその中に意外な旧知の者を見つけた。
「あ、あれなる太鼓は奥山左近将監ではないか?」
弥太郎も驚きの声を上げた。
「……! 仰せの通り左近将監と思われまする」
演目が終わってから氏真は弥太郎に命じて太鼓を叩いていた弥太郎と同じ年頃の若侍を連れて来させた。弥太郎に連れられた若侍は氏真の前まで俯いて近づき、地面に平伏したまま頭を上げようとしない。
「苦しゅうない。面を上げるがよい」
氏真が優しく声をかけると、若侍はなおしばらくためらった後おずおずと顔を上げた。既に頬には涙がつたっていた。
「奥山、左近将監にござりまする……」
それだけ言うと左近将監は言葉を継ぐ事ができず、また顔を伏せた。
「生きておったか。よかった……」
「面目、次第も、ござりませぬ……」
左近将監は顔を上げて目を瞠って氏真の言葉を聞くと再び顔を伏せて涙にむせんだ。
「気にするな。勝敗は時の運じゃ……。それで武田に降参した後いかが相成った?」
今川旧臣奥山左近将監友久は代々奥之山郷を領する奥山氏の一族だったが、家康の遠江侵攻の際氏真の懸川開城と前後して家康に降り、所領を安堵された。その後元亀三年(一五七二)信玄が上洛を目指して遠江に攻め込んできた時に徳川方の要衝二俣城が開城すると、左近将監は奥山の一族や近隣の地侍と共に武田方に降った。しかし、その後一族の者に攻められて行方が分からなくなっていたのである。
家族を引き連れて逃れた後父左近丞は帰農し、自身は武士としての立身をあきらめ京に上って太鼓役者として身を立てようと修業しているのだと左近将監は言うのだった。
涙を押さえながら武士としての不義理を繰り返し詫びる左近将監を氏真は宥めた。
「よいよい、よいのだ。勝敗は武門の常。お互い生き延びるために節を曲げねばならぬ事もある。それより次郎法師や虎松はそなたの消息を知っておるのか」
「い、いえ……」
井伊家の遺児虎松の実母は奥山親朝の娘で左近将監にとっては遠縁に当たる。井伊家は家康による遠江侵攻前後に重臣に実権を奪われて以来逼塞を余儀なくされている。元服前の虎松も、今は出家して佑圓尼と名乗っている養母の次郎法師も、行方知れずとなった左近将監が息災だと知れば喜ぶだろう。
「そうか……。まあよい。勝手の分からぬ都で旧知の者に会えてうれしいぞ。我らは駿河回復のため信長に会うまでは京におる故その間京見物に付き合ってくれぬか。なに、そなたの修業の閑々でよいから」
「勿体ないお言葉。出来る限りお供仕りまする」
左近将監は再び涙を流しながら平伏した。
他の演目にも出ると言う左近将監と別れて氏真一行は中食を取った。懲りない性質の氏真もさすがに色々思う所があったと見えて、物思いにふけりながら箸を動かす手もしばしば止まっていた。
その後氏真は気を取り直したようで松尾神社周辺を見て回ると言い出した。
「ここから四半里ほど南にある西芳寺には夢窓疎石禅師が作られたお庭がございます」
「なに、夢窓疎石禅師の庭? それは見ねばなるまい」
西方寺は元々は法相宗の寺であったが度々荒廃し、法然上人により浄土宗の寺となり、さらに夢窓疎石禅師により臨済宗に変わって西芳寺と改名して現在に至るという。西芳寺には枯山水と苔の庭があり、戦国の世とて思うように手入れできずいささか荒れていたが、それでもなお、えも言われぬ風情をそれぞれに見せていた。
特に苔の庭は圧巻で、供の者も呼吸を忘れるようにしてその美観を見つめていた。いつもは騒がしい氏真も言葉を忘れて見とれている。その美しさは平素風流を解しない弥三郎にもよく分かった。本当に美しいものを見た時には人は言葉を失うものではないのか。言葉で飾る余裕のある美しさも、飾る言葉も真の美しさとは異なる虚飾ではな……
「うむっ!」
いのか、と弥三郎が感慨に浸っているそばからまた氏真お得意の吟詠が始まった。
「一首浮かんだ。あれわたるう、むかしのにわにい、すむみずのお、いわきもさすがあわれしるらんん……」
「お見事!」
弥太郎も相変わらずキリリと引き締まった顔をほころばせて氏真をほめる。何でもかんでも歌にしなければ気が済まないのか。何でもかんでもほめればいいのか。この騒ぎに破られた美しい静寂を返してくれ、と弥三郎は思った。
西芳寺の庭を見た後一行は案内の者に従って再び大井川を渡って梅宮大社と梅津寺を訪れた。満開の梅を堪能しようとしたが、折悪しく雨に降られて梅津寺では雨宿りした。しかも夕方の風に吹かれて寒い。
しかし、
「夕風の中の春雨とは厳しいのう、しかし我が袂に梅の香を吹き送る風と思えば……。うむっ!」
氏真はまた一首ひねり出した。よいものを見た時よりもむしろ何も見られない時ほど変に前向きになって歌が出て来るように思える。弥三郎は氏真という人を不可解に感じた。
暦の上では春雨だが、風に吹かれる中降る雨は冷たい。氏真も帰る気になったようだったが、先ほど渡った四条渡しの舟を眺めてはしゃぎ出した。
「見よあの渡し舟を。霞に乗って行くようではないか……。うむっ!」
一首詠じた後はまたお得意の蘊蓄を語って雨の中一行を足止めした。
「そなたら、三舟の才の故事を知っておるか。」
「もちろんでござりまする」
と弥太郎はキリリと引き締まった顔で答えるが、知らない弥三郎は怪訝に思った。
「三舟の才とはな、漢詩、管絃、和歌のいずれにも秀でた藤原公任卿をほめた言葉じゃ。藤原道長公がここ大井川で舟遊びをされた折に名人を選んで漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出された時、公任卿はいずれの舟にも乗れる才があったというのじゃ……」
氏真はおそらく知識をひけらかしたい事もあって親切に解説してくれた。だが、弥三郎としては雨の中に立ち止まらずに歩きながら話をしてくれればもっとうれしかった。
大井川を渡った後は四条大路を東に向かっていく。途中雨が晴れたのはよかった。
「西院はどこじゃ? 本当の名は淳和院といってな、我ら源氏の長者は奨学院と共にそこの別当を兼ねるしきたりなのじゃ……」
「……西院はこのあたりにございます」
「なに、ここが西院? ……何もないではないか」
驚いた氏真はしばし絶句した。
「戦乱で焼けてしまったものと思われます」
西院の跡地という場所に折しも夕陽が射して来ていた。氏真はそれをまぶしく振り返った。遠くから鶴と思われる鳥の鳴き声が聞こえた。
「昔を顧みんとすれど西院は既になし、日暮れて道遠し。聞こえるは鶴の声ばかり……。うむっ! 一首浮かんだ。かえりみるう、ひかげもにしのお、おかのべにい、とおねさびしきい、ゆうまづるかなあ……」
「御屋形様の寂しさが夕鶴の声と共に伝わってくるような、よい歌にござりまする……」
「うむうむ、よう言うてくれた」
氏真と弥太郎がいつものやり取りをするのを弥三郎は黙って、枯れ木か石になったような気分で見ていた。段々何も感じなくなって来ている。
氏真が見たがっていた壬生寺はそのさらに東にある。こちらは今も盛況のようで、夕方にも人がちらほらといた。
「ここの壬生狂言というは台詞がないと聞いたがそうなのか?」
「御意にございます。念仏宗の円覚上人様が人だかりで騒がしい中でもみ仏の教えが伝わるようにそうされたと聞いております。近々節分会に興行がございます」
「そうかそうか」
氏真は満足したようであった。今日会った左近将監も節分の時にはここに来るのだろうか、と弥三郎はふと思った。
松尾参詣今日手能あり西方寺梅津寺大
井桂なと行すからさい井壬生見物
千世をふる名も松のおの神社めくみの末も常盤ならなん(1‐60)
陰たのむ袂も匂へ春雨の過る梅津の里の夕かせ(1‐61)
あれわたる昔の庭にすむ水の岩木もさすか哀知らん(1‐62)
雨にさす大井の川のわたし舟霞に乗て行かとそ見る(1‐63)
かへり見る日影も西の岡のへに遠音さひしき夕?(まづる)哉(1‐64)
氏真は宿に帰って夕餉を終えた後、久しぶりに次郎法師に書状をしたためる事にした。
次郎法師と氏真は因縁浅からぬ仲であった。
遠江の井伊谷を治めていた井伊家は南北両朝が争った時には南朝方として北朝方の今川と戦い、それ以来次郎法師の曽祖父直平と氏真の祖父氏親の代まで井伊と今川はしばしば干戈を交えた。
直平は氏親が遠江の支配を巡って斯波氏と戦った時に斯波方に付いたが、破れて臣従した後は今川に接近を図った。今川家先々代氏輝が急死して花倉の乱で義元が庶兄玄広恵探と当主の座を争った時には義元側に付いた。
次郎法師は直平の隠居後家督を継いだ直平の孫直盛の娘である。なかなか子供に恵まれなかった直盛は正室の懐妊を知ると男子の誕生を切望したが女の子が生まれたため無念に思い、井伊家総領の名前を元にその子を次郎法師と名付け、男装させて育てた。その後次郎法師は駿府に移り住んで瀬名やお田鶴と出会い、氏真の屋敷をしばしば訪れるようになった。
その後も直盛が男子に恵まれないためその叔父直満の子直親が次郎法師の許嫁となって跡を継ぐ事になったが、次郎法師と直親が結ばれる事はなかった。直満とその弟直義が今川から離反しようとした事を知った義元に呼び寄せられて討たれたためである。幼少の直親は信濃に逃され、赦免されるまでの間に奥山氏の娘を娶ってしまっていた。
その後も次郎法師は井伊と今川の間の因縁に翻弄された。桶狭間の戦いでは今川への忠節を認められて先陣を任された当主直盛は、義元が討たれた後も信長に一矢報いようとして戦場を逃れずに戦い続け、力尽きると切腹して死んだ。その跡を継いだ直親は家康と内通した事が発覚して、氏真に釈明すべく駿府に向かう途中で次郎法師とも旧知の仲の懸川城主朝比奈泰朝に討たれた。
若い男児がいなくなった井伊家を守るため、隠居していた直平が老身に鞭打つようにして当主に返り咲いて再び今川に仕えたが、氏真の命を受けて天野氏の犬居城を攻めようとして出陣した時急死してしまった。飯尾連竜の引間城に立ち寄ってその正室となっていたお田鶴の入れた茶を喫した後の事だったので毒殺の疑惑が広まった。
その跡を継いだのが井伊直虎だった。
氏真は直虎が井伊家当主として初出仕した日の事を忘れる事はないだろう。
男児が絶えたはずの井伊家の新しい当主と聞いて氏真は誰の事かと不審に思った。しかし会えば分かるから何も聞かずに会ってほしい、との直虎のたっての願いと聞いてそれ以上穿鑿せずに会って見た。遠州?劇、遠州錯乱などと呼んでいた遠江の不穏な情勢が氏真を消耗させ、考える余力を奪っていたのだった。
氏真が部屋に入ると直虎は既に一人で平伏していた。なぜかその艶やかな髪が疲れた氏真の目を引いた。
「井伊直虎にござりまする……」
鈴の音のような麗しい声と共に顔を上げた直虎を見て氏真は一瞬驚いたが、次の瞬間には自分の顔に微笑みが広がるのを感じた。
「そなたが井伊直虎か……」
「御意……」
井伊直虎とは次郎法師の事だった。直虎も微笑んでいた。井伊家当主としての凛々しいいでたちであったが、直虎の澄んだ瞳は今も変わらぬ清らかな処女の光を湛えていた。氏真の胸中に痛ましさとけなげさと少しのおかしみが混じり合ったものが広がった。
氏真は直虎の井伊家相続を許した。女地頭井伊直虎は百姓を困窮から救いたい氏真の意向を汲んで井伊谷への徳政令を受け入れてくれた。しかし、氏真の方針はここでも民百姓の心を掴む一方で侍には背を向けられる結果に終わった。その後井伊家の実権は小野但馬守に奪われ、さらにその後家康の遠江侵攻を手引きした井伊谷三人衆が但馬を滅ぼして事実上井伊谷を分け合った。直虎は出家して佑圓尼と名乗って数年が過ぎ、今に至っている。
つまり氏真にとって次郎法師とは旧敵の子孫であり、幼なじみであり、忠臣の娘であり、自分が滅ぼした逆臣の元許嫁であり、家臣井伊直虎なのであった。
(いや、こんな事を考えるのはよそう)
駿河を逐われて以来浜松に移り住むまで、氏真は愛憎と恩讐の入り混じった過去に心を囚われていた。過去の不条理に対する憤懣と悲哀に疲れ果てるまで日々苛まれ続けていたが、浜松で落ち着いてから、そこからは何も生まれないと悟るようになった。
過去の怨憎で世の中を見れば生きてゆけない。家康も信長も北条も、次郎法師も瀬名でさえも敵になる。怨憎は仏の道では乗り越えるべき煩悩であり、何よりも歌の道を志す者にとって醜悪であった。マロは世の無常を感じ、もののあわれを解する風流人でありたい。
氏真は過去の因縁を頭から振り払って、今日あったうれしい出来事を書いた。奥山左近将監に会った事、左近将監が息災である事、京に上って太鼓役者として修業している事、氏真の京見物の供に加える事を知らせ、京の様子や詠んだ歌などを書き添えた。
手紙を書き終えると眠気が押し寄せて来た。今日も方々を歩き回った上に、左近将監との再会から色々考えてしまってさすがに疲れたようだ。氏真はすぐに眠りに就いた。
『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第6話、いかがでしたか?
本作の中心部分となる、
本作の中心部分となる、
本作の中心部分となる、
氏真さんの京都観光三日目です。
奥山左近将監は実在の人物ですが、氏真さんとの接点の有無は分かりません。大名時代には氏真が知行宛がいの書状を出しているようです。
史実の奥山左近将監は島津家の人々と交流があり、関ヶ原の戦いの後京都付近まで逃れて来た島津兵たちが鹿児島に戻るのを「義のために」手助けしたそうです。
その縁で鹿児島に渡って能の太鼓役者として活躍する場ができたとか。
この論文に出てました。
宮本圭造「武家手猿楽の系譜」
この奥山さんは来年の大河ドラマ主人公直虎の縁戚で、家臣筋の人でしたので、ここで直虎さんとのエピソードをつなげました。
井伊家との関係には氏真さんも色々と思い悩んだことでしょう。
氏真さんは桶狭間で父義元が戦死してから突如として今川家の苦労を背負いこんでさぞかし苦悶したことと思われますが、それを吹き飛ばすように京都観光を楽しんでいるわけですね。
氏真と直虎の関係や、井伊家相続時の挨拶は大河ドラマ直虎では欠かせないエピソードとなるでしょう。
そういえば、こんなブログもやってますので見てくださいね!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
元々今川家の栄華と没落を大河ドラマにしようと思ってこの小説を書き始めた時に、「来年は直虎だ!」というニュースを知って衝撃を受けたものです。
「先を越された!」という想いと、 「直虎が主人公でストーリーができるのか?」という疑問が同時に浮かんだものです。
正直今でも直虎が主人公ではきついと思いますが、今川家の栄光と没落にはまだ知られていない沢山の魅力的なエピソードがあります。
今川家の女性たちの悲劇や、桶狭間の戦いという大事件によって翻弄される男たちの群像劇になれば面白いと思います。
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。