出立(二)
「戦国最大のおのぼりさん」あるいは
「動いたっきり風流人」またの名を
「『風流仕様』のタフガイ」
氏真さん、上洛八十三日目!
富士見の酒としゃれ込むか?
いやいや、そのお言葉、うなずけませぬ!
怒る(?)あの人。
今回は最終回なので、まとめとして長大な後書きを書きました。
重大発表もあり!! ぜひご覧ください!!!
出立の日
明けていよいよ四月二十三日、出立の日が来た。山科、飛鳥井、冷泉、三条西などの公家衆と里村紹巴らが見送りに来てくれた。口々に別れと激励の言葉をくれる人々に囲まれて、感極まった氏真の目に涙が浮かんだ。弥三郎もつられてつい涙ぐんで赤面した。
「皆様方、お見送りかたじけのう存じまする。ご厚情をいただいて拙いながら一首思い浮かびました故、笑って聞いてやって下され。たちふれてえ、ただおおかたにい、おもいしもお、かえりみやこのそらぞすぎうきい……」
「氏真殿のお心、しかと伝わりましたぞ」
冷泉為益がそう言うと、他の者たちも頷いた。三条西実枝は袖で涙を拭っている。しかい皆が同じ思いなのだと思いかけた瞬間、
「いや、それがしはこのお歌、頷けませぬ!」
怒声が響き、皆は声の主の方を驚いて振り返った。
それは里村紹巴であった。
「今川様はまだまだ歌を詠み足りぬと存じまする故、一刻も早く京にお戻りあって我らと共に歌会や連歌の会に出ていただかねばなりませぬ」
紹巴は何を口にしても怒声に聞こえるが、紹巴なりの心を尽くした別れの挨拶なのだと受け取って一同はほっとして口々に同意を表した。
「そうじゃ、そうじゃな。氏真殿にはまた京に来ていただかねば」
「逆に我らが駿府に氏真殿をお訪ねするのも一興かもしれぬ」
「おお、それもよい。皆で富士見の歌会を致しまするか」
「いや、マロは富士見の酒でよい」
山科言継がそう言うと、一座はどっと沸いた。
氏真はそんな一同をしみじみとした表情で眺めていたが、やがて、
「誠にお名残り惜しゅう存じまするが、これにて出立いたしまする」
と告げた。
しかし、言継はなおも名残りを惜しんで、
「では都の東まで供をいたそう」
と言い、他の者たちもついてきた。
氏真は目頭を再び熱くして礼を述べ、共に歩いた。
鴨川のほとりまで来ると、氏真は改めて見送りの衆に礼を述べた。
「ここまでお見送りいただき、感謝の言葉もござりませぬ。思えばそれがし正月に初めて志賀の山越えをした時、馬を馳せてこの鴨川を渡り京へ入り申した。これより急ぎ下向して武田との戦を片付け、再びこの京に馳せ帰りたく存じまする。またお目にかかりまする故、それまでご健勝で。では」
氏真はここまで述べて一礼して馬上の人となり、再び一礼して馬を歩ませた。弥三郎らを従えて鴨川を越え、東へと進んでゆきながら振り返ると、見送りの衆が小さくなって見える。氏真は
「うむっ!」
と言うと、馬を止めて振り返った。
「いかがなされました?」
弥三郎は思わず聞いたが、返事の代わりに歌が返って来た。
「はらえどもお、かみはうけずやかもがわをお、こえゆくあとのお、おもかげににたつう」
殿は本当に歌と京が好きなんだなあ、と思うばかりである。
振り返ると、弥太郎も氏真と同じように惜別の想いがこみ上げているらしく、今日ばかりは言葉もないようだ。
「まこと名残りが尽きぬが、行かねばならぬ。弥太郎、弥三郎、急ぐぞ。ついて参れ!」
「御意!」
氏真はそう言うと馬にピシリと一鞭くれた。馬は高くいなないて走り出し、弥太郎と弥三郎も遅れずに馬に鞭を当て走り始めた。
卯月廿三日帰路此程知人道迄送る
立ふれて只大方に思ひしもかへりみやこの空そ過うき(1‐290)
はらへとも神はうけすや鴨川をこえ行跡の面影にたつ(1‐291)
かくして今川氏真は京を去り、武田との戦いへと向かった。その後早々に戦国の表舞台から姿を消したと見なされているが、氏真は謎めいた歌と詞書をさりげなく詠草に書き残しつつ、その後三十九年に及ぶ激動の後半生を生き抜くのである。
マロの戦国 今川氏真上洛記 完
附記 今川氏真詠草について
本文中番号を付して記載した和歌とその前後の詞書は全て観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、一九七四)の「附 今川氏真全歌集」から引用した。各歌の番号は以下の史料番号とその中で付された番号の組み合わせである。例えば1‐23は今川氏真詠草(天正三年)にて23番の番号を付された和歌である事を意味する。
1 今川氏真詠草(天正三年) 自筆本の他に「北条氏政自筆之本」があったとされる。
2 百首(自筆) 観泉寺蔵。
3 法楽百首 宮城県図書館伊達文庫蔵。
4 百首 玄旨紹巴の百首の題によって詠んだ百首の一。
5 百首 玄旨紹巴の百首の題によって詠んだ百首の一。
6 詠草中 詠草卅八年中抄出。
7 詠十五首和歌 実澄氏康氏真点取和歌。
遺 作品拾遺 「作品解題と拾遺」掲載。
『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第35話、いかがでしたか?
氏真さんの上洛も八十三日目でとうとう終わりを迎え、武田への戦いへと旅立ちました!
見送りの人もいたようです。
その中には有望なパトロンである氏真の再起に期待する里村紹巴や懇意にしていた公家衆がいたと思われます。
天正三年今川氏真詠草をベースとした氏真上洛経路と日程の検討から、以下のような色々なことが見えてきましたね。
氏真は深い教養の持ち主だった。
氏真は堂々の上洛を果たした。
氏真は堂々と遊びまくりながら、信長への出仕を果たした。
氏真は対武田戦と公家とのつなぎ役として、自分を売り込んだ要領のよい人だった。
氏真は京都では既に有名人だった。
氏真の蹴鞠披露は信長「上様化」のデモンストレーションの一環だった。
氏真は上洛時の心境を和歌に詠んでいた。
氏真は三好征伐を終えて帰京した信長の意向を受けて下京し、武田との戦いへと向かった。
【氏真は深い教養の持ち主だった。】
氏真さんが主要な歌集や、源氏物語、さらには大昔に焼け落ちた内裏の障子の裏に書いてあった絵まで、様々な知識を駆使して歌を詠んだことがわかりました。
氏真さんは書物を通じて京都の名所旧跡のいわば「耳年増」になっていて、名所旧跡が荒廃したり消滅したりしていた事を嘆く歌をずいぶん詠んでいましたね。
そこから氏真の王朝華やかなりし頃への深い思慕と、朝廷への憧れも分かりました。
氏真さんはまた父義元やその師(法兄)雪斎和尚の薫陶によるのか、仏教への関心も深いことが分かりました。
氏真さんが折に触れて朝廷や神仏の恩恵が民衆に届くことを願う歌を詠んでいたことも見落としてはいけません。
氏真さんは現代風な単に享楽的でわがままなお坊ちゃんではなく、高い知性と教養の持ち主だったことが分かりました。
氏真さんへの過小評価は見直さねばなりませんね。
【氏真は堂々の上洛を果たした】
氏真さん上洛の詳細が詠草に記された、道中立ち寄った場所や、志摩半島漂着からうかがえます。
徳川領内で吉田、岡崎での逗留は酒井忠次や徳川信康、築山殿に会った可能性があり、近江坂本では明智光秀にあった可能性があります。
海路志摩国大野に漂着した際には氏真のために早急に船を仕立てた人物がいたようです。
氏真さんの上洛は、負け犬が英雄信長に媚を売ったというようなものではなく、少なくとも代わりの船をチャーターしてもらえるほどには、それなりに堂々たる上洛だったようですね。
【氏真は堂々と遊びまくりながら、信長への出仕を果たした】
本作の中心といえる怒涛の京都観光!
氏真さん、週休六日くらいのペースで遊びまくりでした!
お勤めの皆さん、想像してみて下さい。
あなたは週六日遊びながら出張して経費を会社に請求できますか? できませんよね?
氏真さんは、負け犬としてしおらしく信長の前に現れたのではないようです。
【氏真は対武田戦と公家とのつなぎ役として、自分を売り込んだ要領のよい人だった】
氏真さんはこんな風に遊びまくりながら、文字通り24時間戦っていた戦国時代人の中でも超働き者だった信長や家康の支援を受けたのです。
氏真さんのスケジュールは信長や家康に筒抜けだったはずです。
それでも問題にならなかったのは、氏真さんの今川旧臣や有力な公家への影響力が武田との戦いや、朝廷工作で有益と信長や家康が評価したためなのでしょう。
氏真さんもそれを確信していたので、遊びまくっても信長も家康も文句は言うまい、と思っていたのではないでしょうか。
随分度胸もあり、要領のよい人だったようです。
【氏真は京都では既に有名人だった】
徳川家康や織田信長、武田信玄を顕彰したい後世の思惑で氏真さんや父義元は敵役として随分おとしめられてきましたが、同時代人にとっては今川家は東のユートピアの主のような存在だったようです。
信玄と家康の今川領同時侵攻の前年永禄十年(一五六七)に成立した里村紹巴の『富士見道記』は、連歌の宗匠による二十年ぶりの駿河下向の記録でした。その前は谷宗牧の『東国紀行』です。
『富士見道記』における氏真さんは、紹巴を繰り返し招いて連歌の会を開かせました。一方信長や家康は登場しません。
里村紹巴は宗長の知己や今川家の世話になっている公家衆と交流し、帰りには土豪の山村修理亮にせがまれて仕方なく逗留して連歌会を開くなど、今川家の領国は連歌と公家のユートピアのようです。
そんな今川家が氏真さんのおじさん信玄と、旧臣家康に攻められて領土を失ったのですから、その事を知った京都の公家や連歌師たちは「益々世知辛い世の中になった」と嘆いたことでしょう。
里村紹巴も道中信長の軍勢による伊勢での放火を遠望したりした後京都に戻って、「行く末いかならん」と『富士見道記』を締めくくっています。
氏真さんが信長に献上した茶道具は、里村紹巴の『富士見道記』で駿府で氏真さんに見せられたと紹介されて有名になっていたものです。
氏真さんの上洛は、失われたユートピアの主が上洛し、信長とまさかの和解をしてユートピアを取り戻す、という出来事だったわけですから、ちょっとしたセンセーションを巻き起こしたかもしれません。
【氏真の蹴鞠披露は信長「上様化」のデモンストレーションの一環だった】
氏真さんの上洛と信長への出仕は、公家や連歌師にとっては朗報だったでしょう。
公家衆や連歌師は足利将軍を追放した信長の朝廷政策に不安を抱いていたでしょうから、信長の朝廷への接近と旧秩序回復の希望を感じたのではないでしょうか。
詠草を読むと、氏真も信長の武威を利用しただけではなく、朝廷を奉じて天下静謐をもたらそうとする信長に協力する気があったようです。
信長も期待に答え、氏真さん在京の間に公家や寺社への徳政を行う一方、氏真さんを相国寺で接見して出仕を認め、蹴鞠披露をさせるわけです。
そして、『宣教卿記』と氏真詠草をつき合わせた結果、信長と氏真さんの蹴鞠は『信長公記』にある三月二十日の相国寺での一回だけではなく、四月三日と四日の三回である事が確実になりました。
しかも、四月四日にはなんと信長自身が蹴鞠に参加していたのですね。
今まで相国寺での蹴鞠は「革命児」信長が公家や氏真さんの蹴鞠を傲然と見下ろしていた印象で語られていたように思われますが、信長は自ら鞠庭に下りて、一緒に鞠を蹴ってみた訳です。
信長は内心では「上様」として見下ろしたかったと思われますが、公家衆や氏真さんにかなりすり寄っているのですね。公家衆との関係強化のネタとして蹴鞠を使い、氏真さんも使ったようです。
大田牛一が記憶違いをしていた場合、蹴鞠が四月三日と四日の二回である可能性もないわけではありませんが、たぶん三回でしょう。最初は接見の時に信長が所望し、四月になって信長が急遽思い立ったので夕方開催となったのではないでしょうか。
ちなみに、四月二十二日にも公家衆は蹴鞠を催した事が『宣教卿記』や島津家久の記録からも分かりましたが、氏真さん参加の記録はありません。参加しなかったのか、無視されたのか、謎です。
【氏真は上洛時の心境を和歌に詠んでいた】
「相国寺で信長に蹴鞠を披露した時、氏真はどんな気持ちだったのだろうか?」
氏真さんの信長への出仕や蹴鞠披露でよくこんな疑問を見かけましたが、『マロの戦国』読者の皆さんは、もう答えを持っていますね。
氏真さんは、詠草にその答えを遺していました。
あたり立まはれは終夜人の絶間なし
ことはりの花のなかめに暮はてゝ思へは月の都成けり(1‐223)
この一首が『信長公記』で三月十七日とされる相国寺での信長との会見の後に詠んだものでしょう。
俗事に「立ち回った」という感覚、立ち回っているうちに悠久の月が見下ろしていた、という自分を突き放した感覚が分かります。
そしてこの歌には屈辱感はない。『信長公記』で「氏真殿」と公家並みに敬称を付けられているように、信長からもそれなりの敬意を持って処遇されたのでしょう。
その後に続く数首の和歌でも、鞍馬、大原、八幡の花を贈られて歌を詠んでいます。歌に詠んでいない進物も想定すると、信長に出仕した後の氏真さんは「笑っていいとも」に出演した芸能人のようにお花や贈り物をもらったようです。
『信長公記』で三月二十日とされる蹴鞠の後の心境を詠んだのが、この一首でしょう。
かたはらに人のあつまるをみれは花一本あり
深山木も浮世の花にふれてより今更人にしられぬる哉(1‐232)
氏真さんが詠草に訪れた場所を記録しつつ、三月二十三日にホトトギスの初音を聞いたと書き遺してくれたおかげで、この比定はほぼ確実になりました。
四月に信長がもう一度見たがり、自分も参加したがったのですから、出仕に引き続き、こちらも成功裏に終わったのでしょう。しかし、仏教への関心が深い氏真さん、プライドもあるし、「今更人にしられぬる哉」と思ったんですね。
そして、四月三日、うれしいサプライズとうれしくないサプライズがありました。
三条西殿実澄めされて参す二十当座人数十七人
聞時鳥 寄世祝
稀に聞雲井の声を時鳥面影残せ行末の空(1‐253)
うつし見よ四方の境もわたつみの波風たゝぬ御代の鏡を(1‐254)
同日晩は於飛鳥井殿鞠見物
『宣教卿記』に四月三日とあり、詠草で氏真さんが「衣かへの日」と書いてから間もないのでこれで確定でしょう。
おそらく故足利義輝を追悼し、君が代の平和を願う歌を詠んだ後に、信長に呼びつけられて蹴鞠をしたはずなのに、「見物」と書いたようです。
大好きな朝廷のために信長に手を貸しているんだ、と自分を納得させようとしているのに、信長に振り回されて面白くなかったんでしょう。
歴史の当事者が嘘、と言わないまでも、都合のよいことを書くという面白い瞬間です。
こっちの「見物」が怪しいとなると、こちらの「見物」はもっと怪しい。
信長和泉筋出陣八幡にて見物
みかりせし跡や鳥羽田の面影に賤か車そ行廻りける(1‐257)
信長勢の出陣と八幡到着は『信長公記』 によると、四月六日です。
それに対して氏真さんは前日にはるばる南の中野や綴喜を歩き回った後八幡まで来て「見物」。
信長と無関係に「見物」だけするなら相国寺でいいはず。
いつものような物見遊山なら色々歌も詠めたろうに、信長嫌いを思わせる「見物」の歌の後は夕方の歌を詠んでいる。翌日からまた盛大に観光し歌を詠む。
信長に八幡に呼び出されて付近で前泊しにいく途中、朝廷盛んなりし継体天皇や桓武天皇ゆかりの旧跡を探したのでは?
信長に呼びつけられて面白くなかったのでしょうね。
次の一首はおそらく四月十六日、賀茂神社の葵祭りに託して家康への微妙な心境を詠んだかと。
かもの祭ありしとて葵を人の送る
契ありて今日のみあれにあふひよりそのかみ山の末や憑まん(1‐280)
「今日のみあれ」=成り上がりの徳川より、「かみ山の末」=古から続く神々の末裔=朝廷を頼みたい、と言うことではないでしょうか。
おそらく氏真さんだけでなく、様々な人が和歌や連歌の形式でこうした心境を書き、日常の記録を残しているはずです。そこから様々な探求が可能になることでしょう。
今川氏真詠草を省みなかった戦国史研究の勝者中心、政治史偏重を克服する必要があるのではないでしょうか。
【氏真は三好征伐を終えて帰京した信長の意向を受けて下京し、武田との戦いへと向かった】
今回ご紹介したように、氏真さん離京は四月二十三日。その理由は下記の通り。
三州境さはかしきと云人あるを聞てい
そき下るへきとて
忘れぬを家つとにせむ帰るさの花の都の面影の空(1‐288)
思ひ置友の有せはいかならむ留ぬ都もはなれ難さを(1‐289)
「三州境さはかしきと云人」=家康がいるのを聞いた誰か=信長が「急ぎ下るべき」と(言うので)。
『信長公記』や島津家久日記によると、三好征伐を終えた信長は四月二十一日に帰京。氏真さんはその直後信長に呼ばれて話し合いの場を持ち、武田との決戦への参陣に同意したのでしょう。
歌の内容が特に信長への反感を示していないのは、おそらく信長から駿河回復を約束してもらい、氏真さん自身も納得したからでしょう。
後世の人からは、領国を失った後の氏真さんは家康から捨扶持をもらっていたと侮蔑的に評価されますが、どうやら違うようです。家康の客分として扱われ、今回の上洛で朝廷の権威を借りつつ「上様」となりつつある信長の傘下に、形式上は家康と対等の立場で組み込まれたのでしょう。
上杉謙信と同盟関係にあり、北条家の姻戚であった氏真さんは外交上も使い道があったでしょうから、それなりの地位を与えたと思われます。
【まとめ】
以上見てきたように、氏真さんの上洛は期待を裏切らない「戦国最大のおのぼりさん」の大観光旅行でしたが、その一方で戦国時代の激動の重要な一こまでした。信長や家康は、氏真さんを自らの戦略の重要な戦力と見ていたようです。氏真さんも遊びまくりながらもそれをよく理解し、要領よく自らの役割をこなしつつ、駿河回復に向けて動いたものと思われます。
今川氏真詠草は、それを解明する重要資料であり、今後このような一見政治性のない、敗者による文芸資料も戦国史の一層の解明のために注目されるべきだと思われます。
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「マロロス」?の皆様に重大発表!
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かくして「戦国最大のおのぼりさん」氏真さんの京都大観光は終わりを告げ、氏真さんご一行は武田との戦いへと旅立ちました。
『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』、これにて完結でございます。
いやあ長かった。
最初は敗者としてさんざんにけなさればかにされている今川義元と氏真父子について、
「本当のところ、どうなんだろう?」
という疑問から今川研究に入り込みました。
そして十年ほど前、『今川氏と観泉寺』を手に取った時、和歌なんて別に興味のなかった僕は、末尾にある今川氏真詠草を見つけても特別な感慨はなく、
「まあ、最後まで読むか」
くらいの気持ちしかありませんでした。
しかし詠み進めていくうちに、一見花鳥風月中心に見える詠草の中に氏真さんの生の気持ちを読み込んだ「述懐」の歌があり、
「これは!?」
と思う発見もあり、今川氏真という人の真実の姿に迫れそうだ、という手ごたえを感じたのです。
その日から、古文なんて高校以来ろくに勉強しなかった僕が、歌枕だ、本歌取りだ、と和歌なんて面倒くさいものを相手に格闘する日々が始まりました。
しかし、おかげさまで、回りからはばかにされがちだけど、実は奥深く、深く苦悩している、でもやっぱりユーモラスなところもある、氏真さんというよき友にめぐり会うことができました。
苦節十年、氏真さんとその周辺の人々を研究した成果を世に問いたい、形に残したいという気持ちも生まれました。
今川氏真の伝記や評伝にするか、とも思いましたが、この人と父義元も含めた人生のドラマを描きたい、と思うようになりました。
禅僧として教育を受けながら兄の急死によって今川家を継いだ義元が何を思い、何を目指したか描きたい。その周辺にいる雪斎や家康、大原資良や岡部元信らがその思いにどうこたえたか、強大な今川と戦わねばならなかった信長がどう苦悩し戦いを挑んだか。桶狭間の戦いの後だけではなく、その前から、おそらく妹と母の病死以来、心に鬱屈を抱えていた氏真の苦悩と女性たちとの愛、氏真の家族のドラマを描きたい。
しかし、それは余りにも大きすぎる。
そこで、まず一冊の本にできそうなところから始めよう。一般に思われているよりも悲しいことが多かった氏真さんが一番幸せだった時期を書こう、と思い立ち、この作品にとりかかりました。
幸い天正三年今川氏真詠草は日付が特定できる部分も多く、氏真さんが立ち回った場所も詳細に記録されている。史実だけでも面白いし、読み物としても面白そうだ。
しかし、また場所と行程と日時の特定とそれを踏まえた歌と詞書の解釈が思ったより面倒でした。
それでも、
「お、オレがやらなきゃ誰がやるんだ!?」
という想いで何とか特定。
登場人物も色々考えて、朝比奈弥太郎さんと海老江弥三郎さんにご登場願いました。
実際の氏真さんが、
「うむっ!」
と言ったかは怪しいですが、詠草中で一番明るい上洛時の文体から考えるに、にぎやかな旅だったであろうと思われます。
しかし、長いと思っていた上洛も終わっちゃいました。
ぼくの中にちょっとした「マロロス」状態があります。
しかし、
「まだだ、まだ終わらんよ」
まだ解かれていない謎があることに読者の皆さんもお気づきのことと思います。
あれだけ要領のよかった氏真さんが牧野城城主になって一年ほどで解任とはどういうこと???その後もその気があれば色々と火事場泥棒のチャンスもあったのに、ひっそりと消えたかのよう。
牧野城主解任後、氏真さんは「世捨て人」になったのか?
違います。
実は、天正三年上洛以後、氏真さんの人生の奇跡を変えた四つの大きな出来事があるのです。
某少年漫画誌だったら、今回の最終回は
「おれたちの戦いは始まったばかりだ!!」
と叫ばなきゃいけないところなんです。
ということで、
2017年1月1日より、
『マロの戦国II 今川氏真合戦記』 投稿開始!
名残惜しい京を離れた氏真さんご一行、いよいよ武田との決戦に突入!
といいつつ、そもそも氏真さん、何かしたんだろうか???
氏真さんの詠草くらいしか史料がないですが、面白い発見もありますので、妄想力を膨らませつつ、第II部突入です!
あの人やあの人やあの人も登場!
『マロの戦国II 今川氏真合戦記』、ご期待ください!
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「マロロス」?の皆様に重大発表その2!
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『今川氏真伝 和歌に隠された秘密(仮題)』執筆中!
今川氏真の人生の真実の奇跡をあぶりだします!
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重大じゃない発表w
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2ちゃんにて『夢想転職 拳法やめたら無職だよ』投稿中!!!
某一子相伝の暗殺拳マンガのパロディです!
パクリではありません、パロディです。
パロディは世界で認められている権利です。
生活力皆無の伝承者とその兄たち四兄弟が理想の転職を求めて奮闘中!
ということで、これからもよろしくお願いいたします!!!
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お知らせ1。
世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!
http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html
『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!
詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。
この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。
これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。
この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。
しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。
現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。
お知らせ2。(再掲)
大河ドラマ「おんな城主直虎」追加キャストについて、NHKのHPの「役柄」や出演者コメントに色々面白い突込みどころがありますので、「直虎」ブログに書いていきます。
こちらも是非ご覧ください!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。
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