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マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐  作者: 嵯峨良蒼樹
30/35

マロの面接(九) 信長の鞠は軍陣の鞠

「戦国最大のおのぼりさん」あるいは

「動いたっきり風流人」またの名を

「『風流仕様』のタフガイ」


氏真さん、上洛六十六日目~。


軍陣の蹴鞠とは?


でたーっ! 圧迫面接再び!


また「見物」!

「見物」!

「見物」!


氏真さんの新事実とその胸中がまた明らかになりました!



 四月四日、信長の意向通り、氏真は公家衆と共に飛鳥井邸に集まり、鞠会に参加した。今日は信長が自ら鞠を蹴るので、これを取り仕切る雅教も他の鞠足たちも尋常ならざる緊張ぶりだった。


 しかしその様子を見た氏真は、信長何するものぞ、マロも武家ぞ、と反発を感じたせいか、かえって落ち着いた。


 光秀は朝のうちに出陣したと左馬助がやってきて知らせてくれた。


「信長様との蹴鞠の件、よろしくお引き回しのほどを、とも申しておりました」


 主を持つ身の細やかな気遣いは光秀らしかった。


 今日の鞠会は信長の意向で軍陣の鞠として行われるので、解鞠の式で使う枝鞠は太刀に燻鞠を付けたものが使われた。解役の栄誉は再び氏真に与えられた。


 今日も軒の鞠足が宗匠飛鳥井雅教、二の鞠足が氏真とされた。信長は初心者と思われたので、雅教の配慮で信長の了承を受けて雅教の隣の五の鞠足とされた。


五の鞠足であれば、雑用のような事もなく、上位の鞠足から始まる事も他の者を見て真似しやすい。信長は官位も低いため、他の公家との身分での釣り合いも取れた位置でもある。


 後足を踏まずに蹴らねばならない事もあり、信長と共に行う軍陣の鞠の緊張も手伝って皆動きがぎこちない。


しかも誰も信長に鞠を送ろうとしない。雅教はすぐ隣にいる信長に鞠を送るのは不自然であり、他の鞠足たちはよい鞠を送る自信がないと見えた。


ならば。


「やあ」


 雅教が蹴り送ってきた鞠を氏真は難なく受けて、蹴り上げた。しかし鞠が行く方向に気付いた人々の間には緊張が走った。鞠は高く緩やかな放物線を描いて信長の所へ落ちて行った。


名足である氏真の配慮が分かる優しい鞠送りに人々は少し安心したが、依然身を硬くして鞠と信長を見つめていた。


信長が蹴り返せるかはまだ分からない。


(さて、どうなるか)


 氏真は好奇心と共に信長を見やった。


「おう」


 しかし信長はいとも簡単に鞠を蹴り上げ、しかも正確に氏真の方へ蹴り返した。


 ほおっ、と人々の間から安堵と感嘆の混じった微かな溜息が洩れた。


(お見事)


 と氏真は微笑みを信長に向けた。信長も得意の笑みを氏真に返した。


 信長も父信秀の代から蹴鞠の嗜みはあったらしい。これで公家の間では信長は武辺一途の猪子武者ではなく、(みやび)も解する文武両道の武将という評判が広まるだろう。


 鞠会はまずまずの出来で終わり、快い汗をかいた信長は満足そうであった。前と同じように鞠足には豪華な引出物が信長から与えられ、贅をつくした酒肴が持ち込まれた。信長は雅教ら鞠足や他の見物の公家衆と歓談した。


 宴会も終わり、公家衆も辞去し始めたので氏真もそれに混じって退出しようと思っていると信長に呼び止められた。


「氏真殿、今日も見事であった」


「度々おほめに預かり恐悦至極に存じまする」


「甥御殿の仕官の願いは村井から聞いた。我ら明後日には三好を討つべき出陣し、八幡やわたに陣を取る故、陣中見舞いがてら連れて来られよ。余自ら対面してしかるべき役目を用意しよう」


「御意」


 氏真は否応なく従う他なかった。



 翌四月五日、氏真は鞠会の疲れを癒すのかと弥三郎は思ったが、氏真は


「今日は南に下って都跡を見る事にする」


 と言ってきた。氏真はおおよその場所を聞き知っているらしく、弥三郎らは氏真に言われるままに京の都を出て南に二里半歩いて中野という所に着いた。


「このあたりは長岡京じゃ。桓武の帝が今の都に移る前に都を移された所なのじゃ」


「はあ……」


 都跡といっても夏草が茂るばかりで、どこに何があったかも分からない。


その付近でまた、


「これが桓武帝の御陵(みささぎ)であろう」


 と氏真は得意げに言うのだが、夏草が茂る小山にしか見えない。しかもさらに南に四里あまりも歩かされた。


「ここはかつて断絶しそうになった皇統を継がれた継体の帝が都を置かれた所なのじゃ」


「はあ…」


 別の古い都があったはずの綴喜(つづき)という所も草深い野原があるばかり。同じ事の繰り返しである。氏真も弥三郎の反応を見て同じ事を思ったらしく、


「都跡といっても夏草ばかりよのう……ふむふむ……」


 筆と紙を取り出して歌を書き付けているようだが、いつもと違って詠み上げたいとは思わなかったらしかった。


 夕方になって月が見えたので一行は北に向かい、八幡のあたりで宿を取った。夕食を終えて今日詠んだ歌をまとめつつ、今日の見どころのない散策を思い返した。


 昨日の信長は相変わらず予想以上に好意的だったが、信長にあれこれ指図されたのは面白くなかった。


都跡を探訪してみたのはかつて朝威盛んなりし頃に想いを馳せて、自分は信長の力に屈したのではなく、朝廷のために働いているのだ、と思いたかったからだった。


しかし、夏草の他何も遺されていない都跡にはかえって朝廷の衰微を思い知らされた。


明日は信長の陣中見舞いをして、孫二郎の仕官を嘆願せねばならない。氏真は独り密かに深く嘆息した事だった。



 中野つゝき見めくりて夕にいたる

 何となく虫そ鳴なる夕ま暮草場涼しき野へのけしきに(1‐255)

 夏深き軒はの梢暮初て月影早き山もとの里(1‐256)



 四月六日、信長の万余の軍勢は河内高屋城に籠る三好康長を攻めるべく京を出発した。


氏真一行は八幡で待ち受けて信長に陣中見舞いしてもよかったが、その前に京から下って来る孫二郎と合流したい事もあって、北上した。孫二郎とは鳥羽田で落ち合えた。


 道中信長の軍勢でごった返す中、氏真は馬をとめて何か書付け始めた。いつものように和歌が思い浮かんだのだろうが、信長の軍勢が道を狭しと行軍している脇で馬の歩みを止めては咎められるかも知れない。


氏真は何を書いているのか。


弥三郎は冷や冷やしながら、馬を寄せて覗き込んだ。


「あっ!」



 信長和泉筋出陣八幡にて見物

 みかりせし跡や鳥羽田の面影に賤か車そ行廻りける(1‐257)


 

 この歌は朝廷の威光が失われた事を嘆いた歌だが、「(しず)が車」はまずい。信長の軍勢を見て詠んだ歌と知れれば、信長への逆心を疑われかねない。


弥三郎は氏真に耳打ちした。

「御屋形様、これはまずいでしょう」


 氏真は平然たるものであった。


「誰にも見せはせぬ。案ずるな。見られなければどうという事はない」


 ああ、やっぱり殿は信長の下に付くのが嫌なんだ……。


しかし、主を持つという事は忍従する事なのですぞ。


弥三郎は主持ちの先輩として氏真に仕官の心得を教えてやりたい気がしたが、どうせ聞いてはくれないと諦めた。


 氏真一行は結局また先回りして信長の本陣を八幡で待つ形になった。


弥太郎を使いに出して信長に孫二郎と共に目通りしたい旨を伝えると、しばらく待たされてから信長の陣中に招じ入れられた。


「今川氏真様、孫二郎様、参られました」


 信長は鎧兜に身を包み、小姓を左右に侍立させて床机に腰かけていた。氏真は信長の前に左右に並んだ床机の一つを与えられて腰かけ、孫二郎は信長の正面に置かれた円座を与えられて座り、初対面の挨拶をした。


「今川孫二郎にござりまする……」


 信長はその人物を見極めようとする様子で眼光鋭く孫二郎を見据えた。


孫二郎は元服前で幾分華奢だが、これからの鍛え方次第で何にでも育つだろうと氏真は見ていた。


武芸は未熟だが、氏秋は文芸は教えているはずなので、少なくとも文官としての使い道はあるはずである。


「我が家中に仕官を望むか」


 陣中多忙故、信長は単刀直入に尋ねたのであろう。


「……御意」


 氏秋と孫二郎の親子は元々幕府の吏僚や朝廷の武官のような仕官を望んでいたので、孫二郎は織田家臣としての仕官を内心ためらっている。


一瞬の沈黙でそれが氏真には分かった。


信長も気づいたのではないか、と危惧していると、信長がその場を凍り付かせるような言葉を浴びせた。


「そなたの祖父は我が父信秀に那古野(なごや)の城を奪われたはずだが、なおも織田に仕官を望むか?そなた、我が家中に入って余を討ってその恨みを果たそうとは思っていまいな?」


「いえ! そのような事は決して!」


 慌てて否定する孫二郎に信長は笑みを浮かべたが、さらに鋭い言葉を浴びせた。


「よいのだ、余に油断あらばいつでもかかってくればよいのだ……」


「そのような事は決して……」


 孫二郎の言葉を遮って信長は決定を伝えた。


「その方の願い、相分かった。では我が近臣として召し抱えよう。先ほども申した通り、余に油断あらばいつでも寝首を掻くがよい。我が家臣どももいつ何時誰が敵になろうとも容赦せぬよう覚悟を持たせてある。そなたも油断なく務めよ。後の事は村井に聞け」


「ありがたき仕合せにござりまする……」


 信長の言葉を目を見開き冷や汗を流して聞いていた孫二郎は、ようやく礼の言葉を返した。元服前の少年としてはよくやった方だろう。


 孫二郎の仕官を決めた信長は氏真に向き直った。


「三好を討った後すぐさま東に転じて武田を討つ所存。氏真殿にも後詰として加わっていただきたい。そのつもりでな」


「御意」


「詳細は帰京して後再び談合いたそう」


「承知仕りました」


 氏真たちが退出すると、陣の外には数人の武士たちがそれぞれ信長に用事がある様子で控えていた。信長はさっきのような調子で単刀直入に手際よく物事を決めて進めていくのであろう。


 今日の用事はこれで済んだので、氏真一行は信長の軍勢から離れ、信長の軍兵のいない所にある茶屋でようやく一服できた。


「孫二郎、仕官がかなってよかったな」


「お力添え誠にありがとうござりました」


「信長はあの通り油断ならぬ主故気を抜かずに務めるがよい」


「はい、先ほどは生きた心地もしませなんだが、戦国の世に泣き言は言っていられませぬ。後れを取らぬよう努めまする……」


「うむ。信長は気が短い故一両日中に出仕するつもりで支度するがよい。これより戻って村井には今日中に会っておくのだぞ」


「御意」


 そう答えると、孫二郎は供の者を連れて早速京に戻っていった。


「これからいかがいたしましょうか?」


 弥三郎が氏真に聞くと、予想通りの答えが返ってきた。


「我らはこのあたりを散策して参ろう」


 もう日が傾いていた。氏真一行は再び木津川を渡って南に下り、石清水八幡宮の近くで宿を取る事にした。一仕事終えた気分の氏真はくつろいだ様子で歌をひねり出した。


「夕方の木津川の渡しは心地よいな。舟が竹林の下の水を通ると葉陰になって涼しいぞ、うむっ! ……男山を仰ぎ見るのも久しぶりじゃのう。木立が少し紅葉しているようじゃな。月の光を浴びてこれも涼しげじゃ、うむっ! 巣をかけている鳥たちの鳴き声も神さびた松風も相変わらずよいのう、うむっ!」


 氏真一行は月の光を浴びて宿に入った。石清水八幡宮に初めて参詣した時に泊まった放生川のほとりの宿である。


氏真は宿で今日詠んだ歌を書き写しつつ、一日を振り返った。


この前八幡宮に詣でた時、マロは君が代の栄えを祈り、民草への神の恵みを称え、男山の坂を登りながら栄えゆく事を夢見ていたな。


 しかし、信長との蹴鞠といい、今日の孫二郎の出仕といい、気の重いこと。人に仕えるとはこういうものなのか……。


 氏真はそんなことを考えながらため息をついたが、乱世にあって武将として身命を賭して戦っているわけでもなく、国主として内政外征に奔走しているわけでもない。


 公家衆と信長の仲立ちをする以外これといった働きをするわけでもなく、憧れの京の都で貴顕紳士に交わって歌を詠み、蹴鞠を楽しむことができている。


 今が人生で最良の日々なのだ。


 信長が三好との戦いを終えれば、いよいよ武田との決戦が始まる。それまでの間、二度とないかもしれない京での日々を大いに楽しむしかあるまい。


 氏真はそう思いながら歌を書き写すと、眠気を感じて寝床に入った。昨日からの遠出の疲れが氏真を穏やかな眠りに誘った。



 夕かけて里の汀を行舟に葉陰涼しき竹の下水(1‐258)

 男山あふく尾上の月影の薄紅葉する夏木立かな(1‐259)

 巣をかくる鳥の声声茂山の神さひそふる枩の風かな(1‐260)



『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第30話、いかがでしたか?


本作の中心部分となる、

本作の中心部分となる、

本作の中心部分となる、

氏真さんの京都観光が一段落して面接編!


上洛六十六~六十八日目、氏真さん、信長と色々絡んでいます。


中御門宣教によると、天正三年(一五七五)四月四日、氏真さんとお公家さんたちは信長と蹴鞠をしました。


今までの『信長公記』の三月二十日の蹴鞠の記事だけだと、信長は氏真さんたちの蹴鞠を見下ろすように見物したイメージでしたが、信長も庭に下りて一緒に蹴鞠をしたんですね。


信長の父信秀は連歌や蹴鞠のたしなみがあり、本作に登場する蹴鞠宗家飛鳥井雅教のお父さん飛鳥井雅綱を勝幡城に招いて蹴鞠を習っています。天文二年(一五三三)ですから、信長が生まれる前年の事です。


この時山科言継も雅綱に同行して『言継卿記』に記録しており、その後言継は信長とも親交を結ぶことになります。


信長の蹴鞠の「足前(?)」がどれほどのものだったか、分かりません。


『宣教卿記』には四月三日晩に信長に蹴鞠を見せた人たちが蹴鞠をし、信長も蹴ったそうだ、という記事があるのみです。


その翌々日、四月六日には信長は三好征伐に出陣していますので、戦勝祈願の「軍陣の鞠」として執り行ったかも知れません。


軍陣の鞠ではいつもは鞠を木の枝に結び付けるところを太刀に結び付けるとか、鞠を蹴るのに後退してはいけない、とかいった特別ルールがあったようです。


この後信長は武田との戦いを控えて、朝廷から「瓜実の太刀」の下賜を受けたり、出陣前に里村紹巴を招いて連歌興行をしたりしています。


戦勝祈願に連歌興行が行われることがしばしばありました。


信長は「上様」=武家の棟梁としての立ち位置を模索する中で、氏真さんやお公家さんとの蹴鞠に加わって見せたようです。


さて、おそらく信長との蹴鞠の翌日にあたる四月五日、氏真さんは京都南方の中野(向日市)や綴喜(京田辺市)まで遠出しています。


グーグルマップの「天正三年氏真上洛経路」にものせましたが、木下の宿から中野まで十一キロ、中野から綴喜まで十七八キロ、合計三十キロほどに及ぶ遠出です。


そんなに遠出をして野山だけを歌に詠んでいるところを見ると、氏真さん、例によって名所旧跡を訪ねて何も見つけられなかったようです。


名所旧跡と言えば中野は桓武天皇の長岡京跡、綴喜は継体天皇の筒城宮跡、くらいしかなさそうです。


ということで、王朝趣味の氏真さんは、信長に振り回されたのが面白くなくて、都跡を訪れて帝威盛んなりし頃を偲ぼうと思ったらしいと推測されます。


おそらく信長は武家の棟梁として公家に認められるために氏真と共に蹴鞠に加わったので、非礼はなかったと思いますが、歌会の余韻を楽しんでいた所夕方から蹴鞠させられ、翌日もつき合わされたのが面白くなかった。


あるいは三好攻めとその後の武田との決戦など今後の事で細々言われて面白くなかった。


氏真さんもプライドが高かったようです。


それで、


「マロは信長の力に屈しているのではない、みかどのために働いているのじゃ!」


という想いで都跡巡り。そして、山野の外は何もなし。という事でしょう。


詠んだ歌にもあまり精彩が感じられないと思いませんか?


しかしなぜそんな遠出を今頃したのか?


その手掛かりが翌四月六日と推定される詞書と和歌です。


 信長和泉筋出陣八幡にて見物

 みかりせし跡や鳥羽田の面影に賤か車そ行廻りける(1‐257)


 氏真は四月六日と書いていませんが、『信長公記』が四月六日の信長出陣と八幡着陣の記事があります。


 氏真さんはまたしても「見物」と書いています。


ええーっ、見物ぅ?

見物ぅ?

見物ぅ?


しつこくて済みませんが、信長率いる軍勢の野営地までついて行って「見物」というのも不自然です。


見物したいだけなら、木下のお宿と目と鼻の先の相国寺あたりに行って出陣見物すればいい。


しかし氏真さん、前日に中野経由綴喜までがーっと三十キロ南下してどこかに泊まり、翌六日にはがーっと約二十キロ北上して鳥羽田付近で歌を詠み、さらに約十キロ南方、信長勢野営地の「八幡」で「見物」しているのです。


これはやはり信長に八幡に呼び出されたか、京都からの従軍を命じられたと考えるべきでしょう。


四月四日の信長との蹴鞠はその前後の礼問や饗応も含めて夕方までかかりそうなので、綴喜までの南下は四月五日と考えるほかありません。


四月六日に木下の宿から相国寺の信長勢に合流して従軍するには、五日の内に綴喜から約三十キロ北上してトンボ返りで戻らねばなりませんが、難しいでしょう。戻るだけではなく、八幡までまた二十キロ行軍もしなければいけません。


おそらく騎馬の氏真さんは大丈夫でも、徒歩で荷物を運ぶお供の人たちはかわいそうです。タフガイの氏真さんならやりかねないですが。


おそらく氏真さんは六日に八幡の野営地で信長に会う必要があったのでしょう。目的は武田との戦いの打ち合わせでしょう。「上様」信長を駿河国主として飾るための従軍も理由だったかもしれません。


それでその時氏真さんはどう思ったか?


三月二十日の時の氏真さんは「今さら人に知られぬるかな」と詠んでました。

多分蹴鞠そのものでは面目を施したが、もう世捨て人になろうかと思うようになってから有名になっちゃったな、という感じでした。


が、今回の和歌はストレートに信長への反感を示しています。


「昔はみかどややんごとなき方々が狩りをされた鳥羽田を、今はそんなことなどつゆ知らぬ賤しい者の車が走り回っておる」


くらいの意味です。


正月十三日の浜松出立以来、氏真さんの詠草には信長に出仕する屈辱や反感は見られません。元々信長は父信秀以来の因縁の対立を引き継いだだけで、攻め込んだ義元を信長が討ったのも武士の世の習いと達観していたと思われます。


さらには、信長が朝廷を奉じて天下静謐を目指す事も王朝大好きな氏真さんにとっては肯定できる事だったのでしょう。武田から駿河を取り戻す上で最大の味方である事は言うまでもありません。


とはいえ、御狩野を踏みにじっているとまでは言いませんが、信長の武威を見て、抑えていた反感がつい出てしまったようです。


氏真さん、信長に何か言われたのか? 今となっては知る術はありません。


しかし、氏真さんは随分厚遇されていたと考えてよいでしょう。


ここまでご覧の通り、信長や家康は多忙を極めているのに、現代風に言えば週休六日くらいのペースで遊びまくり。詠草には書かれていない仕事もしたでしょうが、それにしても見物しまくり歌詠みまくり。


上洛途中「ならはの渡し」で志摩半島に漂着すると、誰かは不明だが「人」がすぐに氏真さん専用の船を一艘仕立ててくれる。


同時代人は氏真さんに敬語を使う。『信長公記』では公家並みに「今川殿」、家康の天正九年朝比奈泰勝宛書状では「氏真御約束」、天正十年三月五日酒井忠次書状では「欠字(一時空白)+氏真様」と表記されている。


そして四月六日、八幡で信長と会う前日の遠出と観光が許されているらしい。


この頃の氏真さんは現代の我々が思う以上のVIPのようです。


繰り返しになりますが、対武田戦での重要な役者であり、信長にとっては対朝廷工作でも有用だったのでしょう。


信長や家康は氏真を無能とか暗愚とは考えていなかったという事ですね。


ところで本作では今回信長への仕官がかなった氏真さんの甥孫二郎さんですが、今川一門が当主氏真さんの斡旋で仕官するとなると、この時が絶好の機会だったと思われます。


おそらく氏真さんが信長にあったのは天正三年だけで、その後は色々あって会えない、会わない状態だったかと思われます。


ちなみに、本作で信長が言及しているように、孫二郎の祖父氏豊は、信長の父信秀によってだまし討ちで那古野城を奪われました。しかし、その手口も巧妙で、執念深いと言いたくなるほど時間をかけて行われたものでした。


『言継卿記』によると、先ほど書いた天文二年の飛鳥井雅綱の勝幡城での蹴鞠指導に参加し、雅綱の門弟になったという当時十二歳の「今川竹王丸」が氏豊なんです。


信秀はまだ小学校五六年生の年頃の氏豊を自分の居城での蹴鞠や連歌の催しに招いて、お互いの城を頻繁に行き来して、風流の友としてすっかり信頼させました。


その上で那古野城滞在中に重病と偽って家臣を集め、城の内外から夜討ちにして氏豊を追い出したのです。天文七年(一五三八)ごろの事のようです。氏豊は十七歳ということになります。


信長は傾奇者であった上に、この一件があるので蹴鞠や連歌にいい感情を持たなかったのではないか、と思われます。


こうした文芸に耽溺することを戒めた、また、芸事の決まりに縛られることを嫌った面もあるでしょう。


が、連歌や蹴鞠を使って人をたばかったあの信秀の息子、とみられる事に後ろめたいものもあったのではないでしょうか。


それもあるので、信長は蹴鞠も連歌も進んでやったのではなく、お公家さんや連歌師ら京都の有力者たちとのおつきあいでやったように思われるのです。


信長の蹴鞠や連歌への関与は天正三年をピークとして、弱まっていくように思われます。


自分の権力が安定して朝廷の利用価値を感じなくなったので、蹴鞠や連歌には冷淡になったのではないでしょうか。


武田を破った後勢力を確立するにつれて、元から好きだった相撲や茶の湯好きが目立つようです。


以上閑話休題。


さて、ともかくも信長は三好との戦いのため京都を留守にしました。


氏真さん、鬼ならぬ信長のいぬ間にどうするでしょう?


それは次回のお楽しみ!


『マロの戦国』次回もお楽しみに!


お知らせ1。

世界初!天正三年氏真上洛経路地図公開!

http://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12189682350.html

『マロの戦国』執筆にあたって天正三年(一五七五)の今川氏真上洛経路をグーグルマップで公開しています! 参考に是非ご覧ください!


詠草に残されただけで約160か所を訪れた氏真さんの行動力には驚かされます。

この地図は三月十六日信長との対面及び四月三日~四日飛鳥井邸蹴鞠以外は詠草の和歌と詞書から割り出したものです。

これ以外にも実務的な外出もこなしているはずですが、そちらは知るすべがありません。

この後長篠の戦いに参加し家康から遠江の牧野城を任されたことはご存知の方も多いでしょう。

しかし牧野城主を辞任してからの足取りはほとんど記録に残っていません。

現在苦闘中の今川氏真伝では天正四年以降天正年間の居所推定にも挑戦して、注目に値する事実を発見しましたので、公表する予定です。



お知らせ2。(再掲)


大河ドラマ「おんな城主直虎」追加キャストについて、NHKのHPの「役柄」や出演者コメントに色々面白い突込みどころがありますので、「直虎」ブログに書いていきます。


こちらも是非ご覧ください!


大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ

http://ameblo.jp/sagarasouju/


本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。



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