マロの止まらない京都観光(十四)
氏真さんの京都観光二十六日目~。
歌聖定家の古歌を思い出して感傷に浸る氏真。
そこにあの人から吉報。
氏真の心は再びあの人に飛ぶ。
しかし、太陽は再び顔を出す。
二月二十一日、この日の氏真は特に何をしたいとも言い出さなかった。
「嵯峨の千部経が続いておりまするが、お出かけになられまするか?」
「いや、今日は宿で過ごそう。皆の者も休ませるがよい」
「御意」
弥三郎は気を利かせて聞いてみたが今日の氏真はそう静かに答えたばかりだった。
嵯峨清凉寺の千部経聴聞は二月の初めに軍勢を率いて上洛した明智光秀の勧めである。
信長から丹波攻略を命じられた光秀は亀山城に入り、足利義昭に与して信長に反旗を翻す国人たちを攻めるなど多忙に過ごしていたが、京都所司代としての勤めも果たすべく一旦京に戻ってきたと聞いた。それで二月十四日にその宿所を訪ねたのであった。
「近々嵯峨清凉寺にて千部経の読誦がござりまする。諸国より数多の人が集まる催しにて、昨日それがしと村井の両人にて喧嘩や押買などの狼藉を禁ずる禁制を出し申した。それがしもお供仕りたき所なれど丹波攻めのため都合がつき申さぬ」
「お心遣いありがたく存ずる。一度聴聞に参る事にいたす。ところで信長公はいつ頃ご上洛なされようか?」
「その儀については申し訳なき事ではござりまするが今しばらくお待ちいただきたく。東の境目の事もあり領内の仕置きもござりましてな。今年こそ武田と無二の合戦をいたすため、上洛の折には三好や公方の残党を片付けねばなりませぬ。かなりの大軍を集める手はずを整えてからになり申そう」
「では三月に入ってからでござろうか」
「おそらく」
それからまた京見物に数日を過ごしてみたが、初めて訪れた春の都も一月近く経つとさすがに最初に新鮮な感動も薄れてきて、上洛の本来の目的が一層気にかかる。駿河を取り戻すため信長に会って支援の約束を取り付けたいと心は焦るが肝心の信長は上洛してこない。そのもどかしさと、昨日涅槃図を見てから再び心中で頭をもたげてきた無常観が氏真を引きこもらせたのだった。
宿の二階から見る往来も、嵯峨で千部経の法会があっても特に変わりがあるようには見えなかった。千部経は十日ほどかかるので、今日行かなくてもよかろう。そう思うと氏真は昨日竜安寺境内の鏡容池のほとりで思い出してから心に取り付いて離れない古歌に再び思いを巡らせた。
春をへてみゆきになるる花の陰ふり行く身をもあはれとや思ふ
この歌は定家が左近衛少将あるいは中将として二十年もの間南殿の左近の桜の下に立ち続けた自身を憐れんだ述懐の歌だという。いくつもの春を経て、雪のように降り年ふる事に馴れるように、行幸に馴れてゆく宮中の花に対し、左近衛府の役人として花の陰に立ち続けて年老いてゆく我が身を憐れんでくれるか、と問うのである。
この歌を思うと、春たけなわの京の都にいても己が身が空しく老いて行くのを不甲斐なく悲しく思う気持ちに囚われて気が沈んでしまうのだった。
氏真はその想いを込めた一首を密かに書き留めた後は終日無為に過ごした。
夜から雨が降り始めた。漂泊流転の人生を自ら憐れんで夜な夜な旅の枕を濡らすのに慣れているが、今宵はさらに雨音まで聞こえて一層物悲しく感じながら夜を過ごした氏真であった。
嵯峨の千部も今とて往来障なし
そことなく花の陰行心こそ都の春の景色成けれ(1‐167)"
翌日も昨夜から降り始めた雨が降り続いている。昨夜から気分が優れずよく眠れなかった氏真は
「雨が降っておる故今日も宿で鋭気を養うとしよう」
とだけ言って自室に籠った。そう申し渡された弥三郎は弥太郎と顔を見合わせたが、何も言う事ができなかった。
氏真は未だに定家の歌を忘れられず、雨の中感傷的な気分に浸って日中を過ごしていたが、昼を過ぎると眠気に誘われて一時の間まどろんだ。
氏真の爛れるような午睡を覚ましたのは一通の書状だった。
「井伊谷の佑圓尼様より言付けられたと旅の僧がこれをもって参りました」
「おお、そうか、ご苦労であった」
氏真は弥三郎から差し出された書状を受け取ると自室にこもってそれを読み始めた。
待ち望んでいた次郎法師からの返書にはまず氏真からの消息への礼があり、奥山左近将監の無事を喜ぶ言葉が綴られ、そして、井伊家の側でも吉報があると書かれていた。
去る二月十五日、養子虎松が家康にお目見えして小姓として召し抱えられたというのだ。次郎法師は井伊家再興のため虎松の母の再婚相手松下源太郎清景と虎松を家康に出仕させる方策を探っていたが、この度家康の信任厚い清景の兄常慶のはからいで清景と共に虎松を連れて三方ヶ原の鷹野で放鷹する家康を待ち受け、目通りがかなったのだという。
家康はその場で虎松を小姓として三百石で召し抱えると約束し、自らの幼名竹千代にちなんで虎松に万千代という名を与えた。一緒にお目見えした小野但馬守の甥にも万福という名を与えて小姓に召し抱えた。そう記す次郎法師の文字は喜びに踊っているように思われた。
氏真も家康に虎松を取り立てるよう口添えしていたので喜びに胸が暖かくなったが、続く一文を読んだ瞬間氏真はその喜びを忘れた。家康は瀬名に面影が似ている虎松を一目見て気に入ったのだろうと意味ありげな言葉がその後に書き添えてあった。氏真の心は瀬名との間の数奇な宿命へと飛んだ。
今では知る者も少ないが、井伊家は瀬名と血のつながりがある。今川義元の妹として関口氏広に嫁いだ瀬名の母井伊御前は、実は次郎法師の曽祖父にして虎松の高祖父である直平の娘であった。しかも、井伊御前は義元の秘かな想い人なのであった。
氏輝急死の後花倉の乱に打ち勝った義元が家督を継承した直後、今川と井伊の融和を望んだ直平は井伊御前を側室として差し出した。義元と井伊御前は出会ってすぐに強く惹かれあい愛しあったという。しかし、義元に武田信虎の娘を娶らせようと考えた執政雪斎の意向で二人は生木を裂くように別れさせられ、井伊御前は実家に返されたのだった。
義元に嫁いだ武田の娘は氏真を産み、その後井伊御前は今川一門の関口氏広に見初められて嫁ぎ、瀬名を産んだのである。
義元は氏真に政略結婚を命じ、瀬名との仲を許さなかった。それは瀬名の母井伊御前が義元の想い人だったためなのか。氏真は井伊御前の事を思い出す度その事を考える。自分と瀬名は実は兄と妹なのか?
いや、それはありえない。氏輝の不慮の死で家督を継ぐ事になるまでは禅僧として真剣に修行を積んでいた義元がそのような不貞を働くとは思えなかった。
義元も井伊御前もこの世を去って久しい今、もはや考えても答えは出ない問いであった。若い頃はこの事で深く思い悩んだが、今の氏真は終わった事なのだと思う事で、心の中で始末をつける事ができるようになっている。
氏真も次郎法師や井伊家のように前を向いて進むべきであった。次郎法師は父直盛も許嫁の直親も曽祖父直平も失い、女の幸せを知る事もなくただ一人養子虎松と井伊家を守ろうとしている。それに比べれば、春の献身的な愛に救われ、暖かい家庭がある自分はずっと恵まれた明るい場所にいる。
気分を変えたくなった氏真は立ち上がって締め切っていた障子を明け、外の空気を部屋に入れた。昨夜からの雨はとうに上がっていた。空を見ると日は既に傾いていたが、まだ陽気を投げかけてきていた。しかも春風が心地よく吹いて上気した氏真の身体と心を冷ました。遠くに見える夕陽が山の端に近く、夕焼けの色合いが美しい。
感傷的な気分が晴れると、定家の歌は違った意味をもつように思えてきた。あの歌聖定家でさえ花の陰に立ち左近衛府に勤めて二十年もの間皇室を護持し続けたのだ。ならば自分も旧敵ながら朝廷をいただく信長に力を貸して武田を討って駿河を取り戻し、陰ながら天下静謐の実現に務めるべきなのだ。
再び立ち直る事ができた氏真はそのきっかけをくれた次郎法師の書状をおしいただいて感謝した後弥三郎と弥太郎を呼んだ。
「明日は千部経聴聞に参るからそのつもりでいるように。それから明日より奥山左近将監にもできる限りでよいから供するように伝えよ」
「御意」
曇り空から太陽がひょっこり顔を出した塩梅だったので、二人ともおやっ、と思ったが、間をおかず返事をした。退出してから互いに顔を見合わせた。
その夜の氏真は思い悩む事なく快く眠りに就いた。
夜より雨降てはるゝほとこもりゐる
夜な夜なの露に馴たる旅枕猶催せる雨の音かな(1‐168)
庭の面に雨降晴てみこしなる端山も近き夕暮の色(1‐169)
『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第17話、いかがでしたか?
本作の中心部分となる、
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氏真さんの京都観光二十六日目~二十七日目です。
弥三郎は氏真を風流人気取りだと疑いましたが、どうやら氏真さん、本当に旅枕を涙で濡らしたようです。
しかしその後夕方には天気と共に心も晴れたようです。
この頃浜松では井伊直政が徳川家康に出仕しています。
井伊家と今川家と家康の間には複雑な因縁があったようで、来年の大河ドラマはそこをうまく描いてくれたらなあ、と思います。
氏真さんは、自分が負け犬だという意識を持っていました。
本作では人生初の上洛で「ひゃっはーーーーーーーーーーーーーーーー!」状態の氏真さんですが、その後は今回のような人生の挫折を知る者が哀しくなるような歌をしばしば詠んでいます。
でも負けるな氏真さん! 二十一世紀のみんなが付いてるぞ! 多分……
こんなブログもやってますので見てくださいね!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。